第二百二十五話 正午の鐘
正午に近づくにつれて、闘技場は人で満たされていった。
その様子を最も高いところにある特別席で見ていた皇帝ヨハネスは、要人たちがなかなか集まらないことにため息を吐いた。
「来賓で来ているのは誰だ?」
「アルバトロ、ロンディネの両公国の来賓とソーカル皇国の来賓です」
「連合王国と藩国は欠席か……」
「はい。どちらもレティシア様が拉致された際に重要参考人としてお部屋に留まっていただきましたが、その対応が不服だそうです。まぁ犯人として疑われたのが気に入らないということですね」
「ふん、王国との関係を考えれば疑われて当然だろうに……」
ヨハネスはそう言って残る来賓のことに触れた。
「ウェンディ殿と聖女殿は仕方ないにしろ、仙姫殿はどうした?」
エルフの里からの来賓であるウェンディは城の部屋にいる。
行動制限され、軟禁に近い状態だが、関わった事案の大きさを考えれば寛大な処置といえた。
そして聖女レティシアは拉致されているため、現在帝都にはいない。
この二人がこの場にいないのは仕方ないことだった。
しかし、仙姫オリヒメは違う。
「まだ報告はありませんが、玉座の間の結界を復旧させるのに無理をしていただいたので……」
「あんなもの後回しでいいと言ったではないか」
「そういうわけには参りません」
「疲れて来ないと仙姫殿が言ったらどうする? 聖女レティシアがいないだけでも不審がられるだろうに、仙姫殿までいないとわかれば民は不安がるぞ?」
「それでも結界の復旧は最優先だったのです。それに武闘大会が開かれれば民の不安は最小限に抑えられます」
問題が立て続けに起きたにもかかわらず、中止という手段を取らなかったのは民に不安を与えないためだった。
それは重臣たちで協議した結果だった。
また、外務大臣であるエリクが皇国の来賓より、皇国が帝国に侵攻することはないと言質を取っていたことも大きかった。
皇国が今回の一件に関わりないならば、王国、連合王国、藩国の三国が相手ということになる。
それならば想定していた事態なため、慌てるほどではないという判断だった。
それだけヨハネスは帝国国境守備軍に自信を持っていたし、それだけの実力を兼ね備えた精鋭たちが国境守備軍にはいた。
「それはそうだろうが……」
フランツの言い分にヨハネスはため息を吐く。
ヨハネスにとってこの武闘大会は自身の即位二十五周年を締めくくる一大イベントだった。
そして最近、帝国に起こったいくつもの問題を民に忘れさせるイベントという側面も持っていた。
そのために諸外国から知名度のある来賓を呼んだのだ。
ここで顔を見せてくれないならば、何のために呼んだのかという話になってしまう。
そんな風にヨハネスが考えていると、民がわーっと湧いた。
「何事だ?」
「仙姫様が来られたようです」
見ればオリヒメが民に見えるように目立ちながら闘技場に入って来ていた。
民たちに手を振りながら、オリヒメは笑顔でヨハネスの下までやってくる。
「よくぞ来られた、仙姫殿」
「うむ、なかなか疲れたぞ。皇帝陛下。徹夜ゆえな」
「ご迷惑をおかけした。感謝申し上げる」
「感謝はすべて終わったあとにたっぷりといただく。今は妾を特別扱いせよ。それで聖女がいないことも少しは誤魔化せよう」
そう言ってオリヒメは皇帝の隣の席を指さした。
通常、今いる部屋は皇帝と皇后が座る椅子しか用意されていない。
そこに入れろとオリヒメは言ったのだ。
狙いは仙姫が皇帝と親しいというところを民に見せること。目に見える話題があれば、だれもいない者を気にしない。
「なるほど。重ねて感謝申し上げる。フランツ、椅子を用意せよ」
「はっ。かしこまりました」
そう言ってヨハネスの隣に豪華な椅子が用意され、オリヒメはそこに座って座り心地を確かめる。
「うむ、フカフカだな! それによく見える。特等席だ!」
そう言ってオリヒメは周囲を見渡す。
そしてあることに気づいた。
「むむ? いつも皇帝陛下の傍にいる近衛騎士団長がおらんようだが?」
「アリーダには城を任せておる。フランツがそういう配置にしたのだ。此度の采配はフランツに一任しておるのでな」
「ふむ、妾に結界を急ぎで直させたことに関係あるのか?」
「申し訳ありませんが、警備の問題に関わるので詳細は伏せさせていただきます」
「なるほど。ではあの近衛騎士団長がいなくて、皇帝陛下の護衛は手薄にならんのか? というのも聞かせてもらえんのだろうな」
「申し訳ありません」
「すまんな、仙姫殿。宰相は融通が利かんのだ」
「気にするでない。宰相は秘密主義のようだ。帝国宰相はそれくらいでないと務まらんと見える」
「ご理解いただき、ありがとうございます。ところで話は変わりますが、仙姫様。アルノルト殿下はどちらに?」
オリヒメの接待役であるアルの姿はどこにも見えなかった。
他の来賓がいる場所にいるのかと、フランツは目を走らせたがそこにいる様子もない。
「アルノルトか。城に置いてきたぞ」
「置いてきた? あの馬鹿息子が何かやらかしましたかな?」
「アルノルトはよくやっておる。とても楽しませてもらっている。それゆえに置いてきた。妾は最初から皇帝陛下の隣に座る気だったのでな。そうなるとアルノルトの居場所がなくなってしまう。可哀想かと思ってのぉ」
「なるほど。ご配慮いただき感謝する」
「感謝するのはこちらのほうだ。アルノルトは妾によく配慮してくれた。他の皇子ではこうはいかなかっただろう。妾はアルノルトを気に入ったぞ。良き皇子を接待役にしてくれた」
そう言ってオリヒメは満面の笑みを浮かべる。
その評価にヨハネスは少し驚いた表情を見せるが、すぐにフッと笑う。
「そうでしょうとも。あれはワシに似ておりますのでな」
「まったくです。気まぐれなところはそっくりかと」
フランツの言葉を聞き、ヨハネスはジロリと睨むが、フランツはどこ吹く風で受け流す。
そんな会話をしていると来賓たちに挨拶していた皇后、ブリュンヒルトが部屋に戻ってきた。
「これは仙姫様」
「お邪魔している。皇后陛下。邪魔をして心苦しいのだが、妾の我儘ゆえ許してほしい」
「何をおっしゃいます。仙姫様なら大歓迎です」
そう言ってブリュンヒルトはオリヒメを歓迎するが、それが本心かどうかは定かではなかった。
しかし、この場にそれを気にする者はいない。
ヨハネスはブリュンヒルトの機嫌よりもオリヒメの提案を優先させるし、フランツもそうだ。そしてオリヒメもそれがわかっているため、ブリュンヒルトにそこまで配慮したりはしない。
さらには当のブリュンヒルトですら、この場では自分の感情が二の次だと理解していた。
本来、皇后はそういう存在であり、そういう風に振る舞わなければヨハネスは容赦なくブリュンヒルトをさらに遠ざけるだろう。
二人の溝はラウレンツの一件でさらに広がっているからだ。
少しだけ張り詰めた部屋の中で、オリヒメは鐘の音を聞いた。
正午を告げる鐘だ。
「時間か。では始めるとしよう」
ヨハネスは椅子に座ったまま片手をあげる。
それが合図となり、ずらりと並んだ角笛を持った騎士たちがその角笛を吹く。
笛の音は帝都中に響き渡る。
それが終わるとヨハネスは立ち上がって、大声で宣言した。
「これより! 武闘大会を開催する!!」
その言葉の後には大歓声が響き渡る。
それを聞きながらオリヒメは小さくつぶやいた。
「そなたの武運を祈るぞ……アルノルト」
その呟きの後、オリヒメはゆっくりと神経を研ぎ澄ます。
嫌な臭いはこれまでにないほど濃くなっていた。