第二百十二話 心の支え
「うう……」
レティシアが目を覚ましたのは薄暗い牢の中だった。
両手を天井からつるされた鎖でつながれ、身動きは取れない。
靄のかかった頭で攫われたのだと自覚し、深い絶望が心を覆う。
「私は……攫われたのですね……」
攫われたことに絶望したわけではない。帝国内で攫われたことに絶望したのだ。
迷惑はかけないつもりだった。そのために準備もしてきた。
帝国と友好な関係を築き、その後王国内で死ぬはずだった。しかし結果は最悪のものとなってしまった。
これでは帝国と王国が戦争になってしまう。
愛した国と自分を愛しているといった少年が戦う。
心にズキリと鋭い痛みが走る。
そんなレティシアに声をかける者がいた。
「お目覚めかい?」
「うっ……」
声の主がやってきたことで牢に明かりが灯る。
突然の明かりに目をそらしたレティシアだが、目が明るさに慣れたところで声の主を見る。そしてその姿を見て険しい表情を浮かべた。
妖艶な女だった。露出度の高い服を着て、薄く笑っている。
黒い肌に紫がかった銀の髪。それはダークエルフの特徴だった。
「ダークエルフがなぜ……?」
「そう嫌そうな顔をしないでほしいね。数日間はあんたと一緒にいたんだから」
「数日間……? まさかカトリーヌを!?」
「殺したよ。記憶を抜き取ってね。手間だったけど、おかげ様で気づかれずにあんたの傍にいられた」
「くっ……」
「まぁ自分を責めなさんな。帝国にいるときは接待役の皇族がずっと傍にいる。護衛隊長といっても傍で立っているか、部屋の外にいるか。大して会話もないのに気付くのは無理さ。とくにあたしの幻術が相手じゃね」
そう言ってダークエルフは指を弾く。するとその姿が変化して、レオの姿へと変わった。
偽物のレオはレオが浮かべるはずのない軽薄な笑みを浮かべる。
「触れた相手の姿をあたしは幻術でコピーできるのさ。ここまで完璧に真似できるのはエルフの中でもあたしだけだろうね」
「その顔と声で喋るのはやめなさい……!」
「おっと、怖い怖い。自分を好いた男の姿は嫌かね?」
そう言ってダークエルフは姿を元の形に戻す。
そんなダークエルフを鋭く睨みつけたレティシアだったが、その女の肩に紋章があることに気づいた。
羽の生えた本の紋章。
それがなにかレティシアは知っていた。
「魔奥公団……!?」
「ご名答。あたしは魔奥公団の幹部、バベット。ダークエルフの族長さ」
「なんて愚かなことを……魔奥公団を使ってまで私を排除しようとするなんて……!」
「さすがは聖女様、察しが良いね。主導したのは王国さ。だから言ったろ? あんたは何も悪くない。悪いのは王国さ」
「魔法を研究するためならいくらでも人を犠牲にする狂信者が我が国を侮辱することは許しません!」
「この状況でも祖国の肩を持つのかい? あんたを研究材料にしていいって言うからあたしらは協力したんだよ? つまりあんたは売られたのさ」
「それでも……私が愛した国であることには変わりありません」
バベットはそんなレティシアの言葉を鼻で笑う。
だが、そんなバベットの後ろから乾いた拍手が聞こえてきた。
現れたのはしわがれた小柄な老人だった。ローブを羽織った姿は見る者を陰鬱にさせる何かがあった。
「さすがは聖女じゃな。清廉潔白な精神。まるで白いキャンバスのようじゃな」
「遅かったね? オーギュスト」
「ちょいと準備に時間が掛かっての」
「じゃあ聖女様もお目覚めだし、さっさと始めてくれね。帝国の中にも切れ者はいるだろうからね。足止めは長くはもたないよ」
「わかっておるわい」
そう言ってオーギュストと呼ばれた老人は瓶を取り出す。
そして何事かを呟き、その瓶をレティシアに向けた。
すると無数の黒い煙の塊がレティシアの周りを回り始めた。
「これは……死霊!?」
「さっき取ってきた新鮮な死霊じゃよ。聖女を黒く染めるワシの手駒たちさ」
「一体、何をしようというのです……?」
「あんたを依り代に悪魔を召喚しようと思ってね。しかもとびっきり上級な奴さ。普通ならそんな大物を召喚したら依り代が持たないけど、聖杖の使い手にもなったあんたなら耐えられる」
「正気ですか? 悪魔が私と共存できると考えているなら勉強しなおすことをおすすめします」
「わかってるさ。悪魔の依り代は新鮮な死体か精神的に悪魔に近い奴が選ばれる。そうじゃないと拒絶反応で悪魔のほうが肉体を追われちまうからね。悪魔に近い精神ってのはようは悪人だわね。そしてあんたはその対極にいる。けど、それならあんたを悪人にしちまえばいい」
「なにを……」
「ワシの死霊たちがこれからお前さんに自分の凄惨な死に際や理不尽な人生を見せていく。耐え切れず、この世に絶望すればお前さんの体は悪魔の依り代にぴったりというわけじゃ。しかも聖杖も使える。なかなかユニークな実験じゃ」
「……私は負けません」
「せいぜい頑張りな」
そう言ってバベットとオーギュストは牢を出ていく。
そしてレティシアの周囲をぐるぐると回っていた死霊の一つがレティシアの中に飛び込む。
気づけばレティシアは村の真ん中に立っていた。
目の前にはオーギュストと子供を抱えた女。
オーギュストは笑いながら女が抱える子供を魔法で絞め殺す。それを見て、女は絶望の叫びをあげた。
その叫びを一通り堪能したあと、オーギュストはつぶやく。
「これも聖女を黒く染めるための一環じゃ。恨むなら聖女を恨むのじゃな」
「待って!」
レティシアが制止しようとするが、これは幻覚に近い。すでに起こった過去のことを見ているに過ぎない。傍観者であるレティシアには止めることはできなかった。
更にオーギュストは女も絞め殺す。
そしてレティシアの目の前からオーギュストが消え去り、骸となった女と子供だけが残った。
悲痛な表情を浮かべるレティシアだったが、そんなレティシアに向かって声が掛けられた。
『あなたのせいよ……』
「これは……死霊の声……?」
『聖女だなんて偽りだわ! 聖女なら私の子供を生き返らせて! なぜ子供が死ななければいけないの!?』
「……申し訳ありません……」
『謝罪なんていらないわ! なぜ捕まったの!? あなたのせいよ! 返して! 私と子供のささやかな生活を! あの子さえ生きていればそれでよかった!』
言葉の一つ一つがレティシアの心に突き刺さる。
抗弁するのは簡単だった。
自分とて被害者なのだというのは簡単で、それは事実でもあった。しかしそれをレティシアは選択しなかった。
この後に及んで自分の身を守ろうとは思えなかったからだ。
だから永遠と聞かされる怨嗟の声をレティシアはすべて受け止め続けた。
『あなたも死んで償いなさい! あなただけが生きているなんて許さないわ!』
「そうですね……私の命が欲しいなら差し出しましょう。ですが……今は待っていただけませんか?」
『やっぱり命が惜しいのね! この偽善者!』
「はい。私は偽善者です。聖杖を使うから聖女と呼ばれていますが、聖女らしいことなど一度もしたことはありません。私がしたことは祖国のために他国の兵士を殺したことだけ。殺人者と大差はありません。それでも……これ以上の犠牲者を出したくはありません。私の命が欲しいなら差し上げます。しかし、今、私が自我を失えばきっと多くの人の命が危険にさらされます。子を失う母がまた出てきます」
『だ、駄目よ! そんなこと駄目よ!』
「はい。私はそのために耐えねばなりません。そのために猶予を頂けませんか? あなたのように無念を抱いた人をもう生み出さないために……どうか私に力を」
そう言ってレティシアは目の前に浮かんだ黒い煙を優しく抱きしめる。
すると黒い煙はたちまちのうちに白く輝いていく。
「どうか安らかな眠りを……この難局を乗り越えたら……私もそちらに向かいます」
『……駄目よ……命を拾えたなら生きなさい……そして子供を産むの。私の代わりに命を繋ぎなさい……それがあなたの償いよ』
「難しいですね……」
『……あなたは聖女なのね。とても暖かいわ』
そう言って煙は散っていく。レティシアが対話によって浄化し、成仏させたのだ。
レティシアは死霊と戦うことはしなかった。自らの身を守ることも。
ただするのは対話。しかしそのためには地獄のような怨嗟を受け入れなければいけない。
常人ならすぐに心が折れかねない。なにせ精神の中でのこと。時間などないに等しい。
それでもレティシアは死霊と向き合うことをやめなかった。
レティシアの高潔な精神が死霊たちを彷徨わせることを良しとはしなかったのだ。
しかしそれは自らの心を削ることにもつながっていた。耐えられるからといって傷つかないわけではない。
抵抗し、戦うよりはマシというだけで、少しずつレティシアの心は疲弊していくのだった。
それでもレティシアはどんな悪夢のような死に際を見せられようと、どんな怨嗟の声を浴びようと諦めなかった。
それを支えるのは祖国への愛ではなかった。
レティシアは祖国を愛していた。今でも愛している。その国に住まうすべての人を救いたいと願い、聖杖を手にした。
だが今は祖国は関係なかった。
だから今のレティシアを支えているのは別の物だった。生涯の大部分を支えてきた愛ではなく、ただ帝国に被害を出したくないという一心がレティシアを支えていた。
そしてその心の根底にいたのは自らを愛しているといった少年だった。
プロポーズの返事もしないまま、悪魔に成り下がり、あの少年の祖国を蹂躙するのは耐え切れなかった。
ここで悪魔の依り代となれば彼の一生を縛り付ける呪いになってしまう。そんなものを与えたくはない。
だからレティシアは耐え続けた。
どれだけ辛くても彼の顔を思い浮かべれば耐えられた。
彼に泣かれるほうがよほど辛いと思えた。
そして最後の死霊を成仏させ終えたレティシアは牢に戻ってきた。
体中で嫌な汗が出ていた。喉が渇き、頭が痛い。
朦朧とする意識の中でレティシアはただ一言つぶやく。
「……レオ……」
聖女ではない自分を必要と言ってくれた。そんなことはいつぶりだっただろうか。
五年前、出会ったときは他国の皇子としてしか見ていなかった。
しかし今は違う。
笑顔が、言葉が、数日の思い出がレティシアを強く支えていた。
ここで終わるわけにはいかない。
この地を――レオを守らなければいけない。
そう決意を新たにしてレティシアは視線を上げる。
ちょうどバベットとオーギュストが戻ってきたところだった。
「どうだい? 調子は?」
「む? 死霊が消えている……!?」
「どういうことだい?」
「信じられん……死したばかりで怨嗟の塊の死霊を……成仏させたじゃと……!?」
「私は……負けません……」
「はっはっは!! これはいいね。想像以上だ。オーギュスト、本腰をいれな。これなら本当に魔王クラスの悪魔を呼び出せるかもしれないよ」
「わかっておるわい。まったく……ワシの秘蔵の死霊たちを解き放つとするかのぉ」
そう言ってオーギュストはいくつかの瓶を取り出す。
その禍禍しさはさきほどの比でなかった。
「さて、あたしは別動隊のところに行く。あとは任せたよ?」
「慌ただしいのぉ。聖女が黒くなる瞬間を見たくないのかのぉ?」
「興味はあるんだがね。万が一にでも帝国に邪魔はされたくはないのさ。どんだけ急いだって、すぐには来たりはしないだろうけどね。それでも備えは必要さ」
そう言ってバベットは牢を出ていく。
そしてオーギュストは愉快そうに死霊をレティシアに差し向けていく。
「ぐっ……! くぅぅ!!」
それはさきほどの光景が甘いとすら思える光景だった。
できるだけこの世に未練が残るように、この世に憎悪を抱くようにして殺された死霊たち。
オーギュストが秘蔵というだけあり、その怨嗟は対話だけで成仏させることができるモノではなかった。
レティシアはただ耐えることしかできず、そしてどれほどの時間が経っただろうか。
自分がどこにいるのかすら曖昧になり、死霊の声に耳をふさいでしまいたいほどレティシアの心は弱っていた。
それでもレティシアは必死に自分を保ち続けた。
ただただレオのことを想い、自分は一人ではないと言い聞かせる。そうやってレティシアが最後の一線で耐えている中、オーギュストはさらに死霊を追加しようとする。
だが、その瞬間。
牢の上で大きな物音がした。
「ん? 何事じゃ?」
「しゅ、襲撃です!」
「襲撃じゃと!? 馬鹿を言うな! ここは帝国の村を改造した隠れ家じゃぞ! 見つかるはずがあるまい!」
オーギュストはそう言って部下を怒鳴りつける。
目立つような場所を隠れ家にすれば帝国の目につく。
それゆえ、オーギュストたちは村を一つ改造して隠れ家としていた。最初にレティシアに差し向けられた死霊たちはその村の住人だったのだ。
バレるはずのないカモフラージュ。
それに自信があったからこそ、オーギュストはありえないと否定した。
だが、次の瞬間。
転がるようにしてこの場に乗り込んできた人物を見て、認めざるをえなかった。
「レオナルト皇子じゃと!?」
「レティシアは返してもらう!」
そう言ってレオは躊躇わずオーギュストの部下を斬り伏せ、オーギュストへと向かっていったのだった。