第百八十話 トラウ兄さん
「というわけです」
トラウ兄さんの下へ行き、俺は事情を説明する。
激怒して父上のところに乗り込むところくらいまでは想定していたのだが、トラウ兄さんはいたって冷静だ。
話が藩国の事でも俺のほうを見ず、いつもどおり机に向かっている。
「うーむ、なかなか秀逸な文が思いつかないでありますよ」
「トラウ兄さん……話聞いてました?」
「聞いていたでありますよ。ただ自分に聞いてくる理由がわからなかっただけで」
「……怒らないんですか?」
不思議に思って聞き返す。
どうもトラウ兄さんからは怒りの感情が見えなかったからだ。
実際、トラウ兄さんは頷いた。
「怒るような時期はもう過ぎた。そういうことでありますよ」
「過去には拘らないと?」
「拘りますぞ」
どっちだ……。
やっぱりトラウ兄さんは変人だ。何を考えているのか理解できん。
そんな風に思っているとトラウ兄さんが俺のほうに向き直る。
「アルノルト。君は藩国が我が兄、ヴィルヘルムを殺したと考えているかな?」
「……要因の一つだとは思っています」
「同意でありますよ。しかし彼らは利用された程度でしょう。北部の視察に向かった長兄の傍には限られた側近しかいなかった。最も守備の薄いときに戦いが起き、長兄は流れ矢によって命を落とした……あのヴィルヘルムが流れ矢程度でやられると? よほど調子が悪かったか……薬でも盛られなければありえない話でしょう」
ふざけているだけで馬鹿ではない。
それがトラウ兄さんへの評価であるわけだが、今日ほどそれを実感したことはない。
真っすぐにこちらを見つめる瞳には凄みすら感じられる。
やはりこの人は皇太子ヴィルヘルムの弟だ。あの人の背中を子供のときから見て育ったこの人の目には多くのことが映っているんだろう。
「暗殺だったと? あれほど捜査したのにそれらしき形跡は見つかりませんでしたよ?」
「見つかるようなヘマはしないでしょう。皇太子の暗殺を試みて、成功させるような者です。こちらの捜査方法もしっかり把握しているはずでしょうからな」
「……長兄を殺したのは長兄はもちろん、帝国をよく知る人物と言いたいんですか?」
「関わっていることは間違いないでしょうな。しかし、それを見つけるのは自分の仕事ではないでありますよ」
そう言ってトラウ兄さんは窓から外を見る。
そこから見えるのは活気ある城下町の様子だ。
「皇族は帝国を支え、繁栄させるためにある。長兄はそういう考えの下に生きてきた。ならば結果的に帝国が繁栄したならば、長兄の死も無駄ではなかったと言えるでありますよ」
「……それでいいんですか?」
「……弟として兄を失ったのは辛いであります。良き皇帝になると信じて疑わなかった。けれど……息子を失ったわれらが父上のほうが辛いでしょう。その父上が帝国のために藩国を招くというなら受け入れるのも親孝行というもの」
「……わかりました。では藩国の接待役は」
俺が引き受けます。
そう俺が言おうとしたとき、トラウ兄さんが手で俺の言葉を遮った。
そして。
「自分が引き受けるでありますよ。それが一番でしょう」
「本気ですか!?」
「本気も本気、大真面目でありますよ。向こうが友好を結びたいというなら、はねのけるのは無礼にあたる。最上級の歓迎をしなければ過去は乗り越えられない。皇太子と同じ母から生まれた自分が接待役になるのが誠意を示す方法でしょう。それに嫌なことを弟に押し付けるのはあまり良いことではないでありますし」
「わりと押し付けられている気が……それに向こうはむしろやりにくいかと」
「承知の上でありますよ。しかし、関係改善を本気で望んでいるならそれくらいは乗り越えてもらわないと」
そう言ってトラウ兄さんは皇族一の巨体を揺らしながら椅子から立ち上がる。
子供の頃、大きな熊みたいだと思ったもんだが、その印象は間違っていない。
この人は熊だ。
なにせ今も目の奥には強い光が宿っている。
「もしも関係改善が嘘だと言うなら……自分が代価を払わせてみせるでありますよ」
「トラウ兄さん……」
「でも……ロリ可愛い子が来たら信念を曲げてしまうかもしれないであります……」
「そこはブレないんですね……」
どうでもいいことで苦悩して見せるトラウ兄さんに呆れつつ、俺は部屋の扉を開ける。
トラウ兄さんが藩国の接待役を引き受けるというなら、それを父上に報告しなければいけない。
父上としてもトラウ兄さんが引き受けてくれるなら任せるだろう。
こう見えて美少女以外に弱点はないからな。
「アルノルト」
部屋を出て廊下を並んで歩いているとトラウ兄さんが唐突に俺の名前を呼んだ。
隣のトラウ兄さんを見るといつになく真剣な顔をしていた。
「なんでしょうか?」
「レオナルトに警戒するように言っておくでありますよ。この式典は無事には終わらないはず」
「どういう意味です?」
「帝国にやってくるのは親帝国の要人ばかりであります。他国が何かを仕掛けるならばこの時がねらい目でありましょう」
「攻め込んでくると? 帝国に?」
「ないとは言えないということですよ。それを危惧してか、リーゼロッテ女史は父上の要請を拒絶して国境に張り付いている。最前線にいる彼女には何か感じるものがあるのでしょう」
「……レオにも伝えておきます」
「……とはいえ外ばかり警戒していていいものか。まぁこればかりは自分にはどうしようもないことですが」
意味深な言葉をつぶやいたあとにトラウ兄さんは歩く足を速める。
その歩く速さに合わせつつ、俺はずっと疑問だったことを聞いてみた。
「トラウ兄さんは……どうして皇帝の座を狙わないんです?」
「……我が兄ヴィルヘルムは理想の皇太子だった。だから自分は自分が好きなことをやっていたでありますよ。そして……なんの助けもしてあげられなかった。どれほど悔やんでも悔やみきれないでありますよ。どれほど無念だったことか。だから後を継ぐことも考えたことも……一瞬くらいはあったのでありますよ」
「一瞬ですか……」
「すぐに立ち消えた思いであります。自分はヴィルヘルム以上の皇帝にはなれない。ヴィルヘルムが命を落として帝位争いが始まった以上、次の皇帝はヴィルヘルム以上でなければならない。自分は兄を超えられないであります」
だからと呟き、トラウ兄さんは玉座の間の近くで足を止めた。
そして深呼吸をして俺のことを、いや俺の後ろにいる人物を見ながら告げた。
「アルノルトとレオナルトには期待しているでありますよ。二人でならきっとヴィルヘルム以上の皇帝になれるはず。ほかの三人とは違う」
「……それはレオナルトの側につくという宣言でいいか? トラウゴット」
振り返るとそこにはエリクが立っていた。
トラウ兄さんとエリクの視線が交差する。
「受け取り方は任せるでありますよ。エリク」
「私ではヴィルヘルムを超えられないとそう言うか?」
「以前なら違ったでしょうが、今は無理だと思っているでありますよ。ヴィルヘルムと切磋琢磨していたエリクならば帝位争いを激化させないように振る舞ったはず。他の二人のようにエリク、あなたも変わったでありますよ」
「私が動けば帝位争いはより混迷を極める。それは帝国の弱体化につながる。なぜそれがわからん?」
「それが変わったと言っているでありますよ。帝国を弱体化させず、かつ家族で無駄な血を流さないようにする。それくらいはやってのけて当然のはず。我が兄ヴィルヘルムを超えるというなら。それだけの力があなたにはあった」
「非現実的だな。私のやり方が一番被害を抑えるやり方だ」
「理想にしがみつけと言っているわけではないのですよ。ただ理想を追おうともしない者は認めないと言っているだけであります。よりよいものを求めない者には明日はない」
トラウ兄さんはそういうと踵を返す。それと同時にエリクも踵を返した。
大きな背中を見せながらトラウ兄さんはそのまま俺に告げる。
「アルノルト……一人ではエリクには勝てないでありますよ。だからレオナルトと協力するのであります。自分のように優秀な兄弟にすべてを押し付けてはいけない」
「……はい。肝に銘じておきます」
「では行ってくるでありますよ」
「え? ちょっ!」
そう言ってトラウ兄さんはいきなり走り出した。
呼び止めようとしたが、その前にトラウ兄さんは玉座の間の扉を勢いよく開いてしまっていた。
「父上! 藩国の接待役ですが! このトラウゴットが!」
「やかましいわ!! 会議中に入ってくるでない!!」
「ひぃぃぃぃ!!?? 申し訳ありません!!」
言わんこっちゃないと思いつつ、俺は頭を押さえて半泣きで玉座の間から逃走してきたトラウ兄さんの下へ向かったのだった。