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僕らは日々、死んでいく

若干のうろ知識で書いている。お察し




こういう言い方は好きじゃないのだが、死なない人間なんていない。生き物は生きている以上、必ず死ぬ。死なないものは生きていない。生きていなければ生き物じゃない。

そして、人間は毎日、生まれては死んでいる。マクロ視点で、今日生まれる人がいて、死ぬ人がいる、とかってそういう話じゃない。寧ろ、ミクロ視点での話だ。僕たちは日々死んで、同じだけ生まれて、今此処に存在し続けている。

直接的な話であり、観念的な話でもある。死ぬ僕と、生まれる僕は、限りなく同一に近いが、完全に同一ではない僕だ。だから僕たちは生死の中で同一性を保持し続けることができる。同一性を保ちつつも少しずつ変化していく。そして時が経って、いつの間にか昔の自分と今の自分が異なっていることに気付く。それを、成長といったり老化といったりする。

眠りは極限定的な死であるという話がある。実際、神話において死の神と眠りの神が兄弟だったりする。さて。僕は、眠る前の自分と眠りから覚めた自分が本当に同一であるとどうして言い切れるのだろう。これは沼男スワンプマンの話にも通じる疑問だ。眠りによって自己の連続性は一度断ち切られているのだから、主観的には、前後が異なっていてもわからないかもしれない。そう、それこそ沼男の例えだ。眠っている間に死んで、ほぼ同一の存在が生まれていたとして、僕はそれを知覚できない。記憶の連続性は証拠にはならない。ただ、そういう記憶を持った存在、として生まれただけなのかもしれないのだから。

直接的な話とは勿論、代謝の話だ。人間の細胞がすっかり入れ替わるのに必要な時間は、確か、部位によって三か月とか一年とかいったか。代謝の行われない部位はない。脳細胞でさえ代謝を行っている。同一性の保持率が堅固というだけの話である。細胞単位でいえば、僕たちは確かに、毎日生まれ死んでいる。

生まれたからには、死ななければならない。それがこの世の理だ。人であれ、それ以外であれ。生まれたものは必ず死ぬ。ただ、如何生きるかは個々の自由だ。善く生きろと人は説くが、別にそうせねばならない理由はない。しいて言えば、善く生きる方が大半の人にとって都合が良いのだ。それも善く生きる本人よりも、その周りの人々にとっての話である。でなければ、わざわざ善く生きろと説く必要はないのだ。善く生きるのが本人にとって本当に一番都合の良いことであるのなら、説くまでもなく皆そうするだろう。余程のへそ曲がりのひねくれ者なら、あえて己の不都合を選ぶかもしれないが。

わざわざああしろこうしろと言うのは、それが当然の、誰でも当たり前に自然にとる行動ではないからである。成して褒められるのも叱られるのも、当然のことではないからである。当然と思ったことを当然でなかったと示されると、人は失望し怒る。それを正しく自覚している人間は少ないかもしれない。だから、当然のことだからやれと命令したり、当然でないことを成したものに感謝や誉を与えなかったりするのだろう。命令しなければやらないのであれば、それは当然のことではないし、当然でないことをわざわざ成した者は褒められてしかるべきだ。都合が良いと当然は違うのだから。己にとって都合が良い、ということを当然のこと、と言い換えてはならない。それは、重なる場合はあれど、元来別のものである。

大多数にとって都合の良い、心地よい、理を倫理と呼ぶ。だから当然、倫理に外れた理を愛すものもいる。それは、個々の自由だ。己の心を曲げるのも曲げないのも自由だ。どちらにも相応の結果がついてくる。

死ぬことは結果であり、目的ではない。だから何故最後には死んでしまうのに生きるのか、という問いはナンセンスである。結果は理由ではない。結果を理由にするのは保身の言い訳である。別に死ぬために生きるわけではない。生きた結果死ぬだけだ。

大体、死んだ後のことなど生きている本人には関係ないのである。そういう意味では、死とはタイムリミットやゴール、世界の果てのようなものであって論じる意味はない。問題は走っている今であり、走り終わった後ではない。関係はないのだ。走っている間は走ることに集中した方が良い。走りぬいた後のことなど、そこに辿り着いてからでいい。どうせ、辿りつくまでどうなっているのかわからないのだし。

どう生きるのが良いのかなんて、そんなものは本人の価値観によるだろう。けれど、仮に一般化して語るとするのなら、己のどうしても譲れない一つを守り、あるいは成すために生きるというのはどうだろう。他の何を犠牲にしても、譲れない一つだけは守り切る。とはいえ、大半の人間はそこまできっぱり思いきれないものだ。思いきれず、どちらにも手を伸ばして、どちらにも傷を残してしまう。





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