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生まれて初めて自分のことを殴りつけたのは師匠だった。
父親でもなく、兄でもなく、友だちでも先生でもなく、ましてや母親でもなかった。
師匠だった。
出会って3ヶ月ばかりの格闘ゲーマーだった。
殴られた、という言葉が示すのはビンタなどという生易しいものではない。
固く握り込まれた、正真正銘の拳だった。
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藤堂東にとって、師匠の教えこそが全てだった。
全て師匠から教えて貰った。
コマンドの刻み方、試合の組み立て方、相手の読み方、土壇場を乗り切る鋼の精神力。
およそ格闘ゲームで強者の階段を駆け上がっていくために必要なノウハウは全て師匠に叩き込まれた。
師匠は格闘ゲームのプロだった。
プロではなかったが、プロとも呼ぶべき腕を持っていた。
当時藤堂の通っていたゲーセンのトッププレイヤーたちが、師匠の前にはまるで歯が立たず、いつまで続くとも知れないコンボの渦に飲み込まれてあっという間に負けた。
格闘ゲームの腕は悪魔のようだったが、教えるときは懇切丁寧にわかりやすく、藤堂が出来るようになるまで尽きっきりで教えてくれた。時には所持金を使い果たした藤堂のプレイ代を持ってくれたこともあった。
師匠としても、1人のプレイヤーとしても尊敬していたその人が、1回だけ本気で怒ったことがあった。
普段の優しい師匠からは想像も出来ない、怒りの表情を露わにして、当時13歳だった藤堂を一切の遠慮無く殴りつけた。
藤堂はわけもわからず床に転がり、滝のように流れ出てくる鼻血を止めようと顔を押さえて泣いた。子猫が鳴くような情けなく細い声で泣いた。
師匠はそんな藤堂の顎を掴み上げ、言った。
ーー現実でも強くなきゃダメだ。
鼻血が顎を垂れた。
ーーお前のそれは甘ったれだ。ゲームを逃げ場にするな。ゲームの中に入り込んだら負けだぞ。現実を忘れるな。
涙も垂れた。
ーー帰る場所がない? 俺にはゲームしかない? ふざけるなよ。帰る場所ならある。だけどお前に帰る力がないだけだ。いいか、帰る力をつけろ。
自覚していた自分の弱さを、しかし隠して誤魔化して誰にも見せないようにしていた弱さを師匠はほじくり返し、藤堂に突き付けた。
鼻血は止まったが、涙はまるで止まる気配がなかった。
憤怒の表情を綻ばせ、最後に師匠は言った。
ーー強くなれ
いつものように優しい表情で言った。
剥き出しになった弱さを隠す術はもうどこにもなかった。
だから藤堂は強くなると決めた。
格ゲーだけでなく、自分自身も強くなると。
腕立て伏せ1000回。
腹筋1000回。
スクワット1000回。
ランニング10キロ。
食事は1日5回。
藤堂はこれを毎日欠かさずこなした。
雨が降ろうが雪が降ろうが、テストで0点を取ろうが、女の子に振られようが、不良に絡まれようが、友だちに無視されようが、家族に無視されようがお構いなしに。ただひたすら毎日無我夢中で自分を鍛えた。
初めのうちはトレーニングには半日近くかかり、その後の食事は一食すら喉を通らなかった。
自分のやろうとしていることがあまりにも無謀で、果てしなく高い絶壁のように思えて、断念しそうになったことは数え切れない。
しかし辛いからと全てを丸めて放り投げてしまえば、またいつかのゲーセンの時みたいに鬼の形相の師匠が飛んできて喋れなくなるまで殴られる気がして、結局は続けた。
膨れあがって熱を持った筋肉に鞭を打ち、喉を通らない食事を無理矢理箸で押し込んだ。
そうして1日1日が過ぎていく毎に苦が苦でなくなり、剥き出しになった弱い部分が一枚一枚剥がれていくように、自分が新しく、強くなっていくように感じた。
テストで0点を取ることはなくなった。女の子に振られてもめげなくなった。友だちも増えた。不良に絡まれることは増えたが、負けることはなくなった。そして、家族はまた元通り仲良くなった。
師匠の教え通り自分を鍛え始めて、もう5年が経とうとしている。
一八歳になった藤堂東は、身長192cm、体重90kg、体脂肪率14パーセントの強い身体を手に入れ、
そして。