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なんでお前だけ生きてるんだ

毎週火曜日更新予定です。

(※状況により変更となる場合があります)

家を出て二十年。


未成年の頃は、苦労を重ねた。

若いからと、軽んじられる日々。

歯を食いしばって生きてきた。


あの家より地獄はない。

そう知っていたから、頑張れた。


三十五歳になった今。

小さな会社で、それなりの立場を得た。


毎年入社する新人。

寿退社を見送る側の立場になっていた。


花が綻んだような笑顔を見せ、去っていく女子社員たち。


その時だけは、

胸の奥からせり上がるものを飲み下し、無心で仕事に没頭した。


そんな私に、年下の後輩が告げた。


「全部知っても、先輩がいいです」


来月、入籍する。


ようやく、家族が持てる。


「お先に失礼します」


仕事終わりとは思えないほど弾んだ足取りで、エレベーターへ向かった。


降下音と共に減っていく数字。

到着の鐘が鳴り、ゆっくりと扉が開く。

本当は飛び出すように、早く会いに行きたい。


いくら若作りしても、十も年下の婚約者に恥ずかしいところは見せられない。


はやる気持ちを堪え、

エレベーターの向こう側へと一歩を踏み出す。


視界の先には、

ロングコートを着た黒髪の男性が立っている。


目が合った瞬間、

婚約者は頬を緩ませ、とろけた笑顔で大きく手を振ってきた。


「せんぱーい!……あ、すみません」


周囲の視線に気づき、

目を泳がせ、慌てて口を押さえる。


「お待たせ。行こっか」


退社ラッシュの人波の中、

腕は組めないまま、

視線だけを絡めた。


同棲しているマンションに着くと、

尻尾を振るワンコのように、彼はキッチンの奥へと走っていく。


「しょうこさーん、新作スイーツ買ってきたよ」


ニコニコしながら持ってきたのは、有名なケーキ店の小箱。


「お風呂上がりにいただくね」


どんな時も大切にしてくれる。

お姫様になったと錯覚するほど、満たされていた。


「ご馳走様でした」


食後は二人掛のソファーに座り、

背後から聞こえる洗い物の音を、

BGM代わりにくつろいでいた。


「しょうこさん」


背後から伸びる二本の手に、

優しく抱きしめられていた。


肩が跳ね上がり、とっさに振り返ろうとする。

しかし首元に顔を埋められ、あれよあれよと封じられてしまった。


「しょうこさん」


熱を帯びた声が、耳から全身を駆け抜ける。

一気に顔が熱くなる。


心臓が、軋む。


この高鳴りを吐き出そうにも、

言葉が喉を通らない。

俯いてしまう。


まだ、

キスさえしていないのに。


彼の体温が、

じんわりと心に沁み込んでいく。


心地良さに揺られながら、

落ちてくる瞼を受け入れて、そっと目を閉じた。


意識が闇に溶けていく。

ふと、脳裏に中年夫婦の姿が過ぎった。


嬉しそうに紹介する彼と、

怪訝な顔のご両親。


黙って話を聞いてくれてはいたが、

きし、と鳴った椅子の足が、空気の重さを物語っていた。


目には、怒りにも似た鋭さ。


結婚を歓迎する色は、

どこにもなかった。


だからと言って、諦める訳にはいかない。

意を決して、挨拶しようと口を開く。


「あの──」


反応した彼父が、目だけをこちらに投げかける。

刺すような視線が、私だけを捉え、

同時に、喉の奥がギュッと締め付けられた。


忘れていた過去が、目の前にある。


別人なのに。

なのに、体が覚えている。


指先が冷え、膝が笑う。

震えが、止まらない。


その場に崩れ落ち、

無意識のまま、首元を掻きむしっていた。


口から漏れたのは、

言葉にならない、

悲鳴にも似た呻き声だけだった。


遠のいていく意識の中で、

何度も名前を呼ばれていた。


気がつけば、肩を支えられ、介抱されていた。

けれど、体調は戻らないまま。

その日は、そこで終わった。


また近いうちに顔を合わせると思うと、

胸が重くなったが、そこに彼が一言。


「結婚認めてくれたよ」


いつもの表情で、告げられた。


見慣れたはずの微笑み。

それなのに、胸の奥がザラついた。


それ以来、

二度と、あの家の玄関を跨ぐことはなかった。


鮮明に蘇った記憶に、

ツキンと小さな不安がよぎる。


でも、今は考えたくない。

”それ”を理解してしまえば、もう戻れなくなる気がしたから。


温もりを、必死に握りしめる。

目を固く閉じ、何も感じないように、無心で縋った。



どれくらい眠っていただろう。

寝落ちした私は、寝室まで運ばれていた。


彼は満足気な笑みを浮かべ、

耳元に、そっと顔を寄せる。

そして、囁くように息を漏らした。


「しょうこさん、お休みなさい」


熟睡してる寝顔を見つめたあと、

部屋を出るため、ドアノブに手をかける。

その時、背後から声が聞こえてきた。


「みんなぁ、ありがとぉー」


そう呟いた私は、

むにゃむにゃと口を動かし、

何事も無かったかのように、穏やかな寝息を立てた。


未だにドアの前で立ち止まってた彼は、

ゆっくりと上半身を捻り、後ろを振り返った。


その顔から、

すべての温度が消えていた。



雲ひとつない晴天。

空の番人が、一日の始まりを告げ、

頬を撫でる風は、秋の心地良さを身にまとっていた。


いつもと変わらない朝。


今の私は知る由もなかった。

進む先の未来に、過去が追いかけてきたなんて──


今日は出勤の日。

休日の彼は、力ない顔で玄関に立ち尽くしていた。


後ろ髪を引かれるが、時間は待ってくれない。

迫る出社時間に背中を押され、家を後にする。


会社に一歩足を踏み入れれば、

馴染みの香りが、鼻をくすぐる。


絶え間なく聞こえる業務音は、

子守歌と錯覚するほど、耳に馴染んでいた。


「おはようございます……?」


部署の扉を開けると、

同僚の視線が、一斉に降り注いだ。


音が消え、静まり返るフロア。

ほとんどの人間が、怪訝な表情を浮かべている。


その内の一人が、

挨拶を返さずに目を逸らすと、

続くように、皆業務に戻っていく。


ゴクリ、と喉が鳴った。

嫌な汗が、背中を流れる。

足は、縫いつけられたように動かない。


──何が、起きているの?


呆然と立ち尽くしていたら、

一人の女子社員が、こちらに駆け寄ってきた。


「……しょうこさん。その、お知り合いの方が、いらしてます」


言い淀んだ彼女の視線は、応接間に向いていた。


「分かった、ありがとう」


蝕むような空気に限界を感じ、

深く考えず、来客の待つ扉に手をかけた。


スローモーションのように、広がっていく光景。

この扉を、決して開けるべきではなかった。


抱えていた荷物が、手からすり抜ける。


指先に、力が入らない。

鈍い音だけが、耳に残った。


まるで、答えを知っているかのように。


空気が抜ける。

視界が、ゆっくり遠のく。


膝から崩れそうになった時、

鼻を刺す臭いが、嫌でも現実に引き戻した。


ツンとした酸っぱい臭い。

その奥に、悪臭と酒の匂いが混じっている。


全力で胃を締めつけられる感覚に、

思わず嘔吐いてしまう。


口元を覆って、必死に堪えた。

それでも、おぞましい言葉が、

手からすり抜けていった。


「お、とう、さん」


そう最後に呼んだのは、いつだっただろうか。


目の前の男は、

ニタリと口角を上げ、

満足そうに微笑んだ。


白髪だらけの頭髪。

鳥の巣のように散らばった髪は、

自前の脂で、不快な光を帯びていた。

肌は日に焼けたと錯覚するほど、汚れている。


「久しぶりだな、翔子」


名前を呼ばれ、胸の奥がぎゅっと潰れた。

背中を、冷たいものが這い上がる。


「とりあえず座れよ」


顎で椅子を示す。


怒鳴られたわけではない。

けれど、昔を思い出した体は、

拒絶するように、固く身を縮めてしまう。


父は不快そうに顔を歪めて、舌打ちする。

そして、ドスの効いた声を、室内に響かせた。


「座れ」


その瞬間、

胸の奥で、何かが決壊した。


抵抗したいのに、

体が言うことを効かない。


警戒しながら対面に座る。

舐め回すような視線に、思わず目を伏せた。


「チャラチャラ着飾って、いいご身分だなあ。俺はこんなにも苦労してるのに」


理不尽だと、分かっている。

唇をグッと噛み締め、押し黙った。


社会人としての身だしなみだけで、

化粧どころか、髪すら染めたことはない。


若い頃の”お洒落”という青春を、

”托卵”に塗り潰されてしまった今、

女の子らしさは、吐き気を催す存在だった。


左手に輝くシルバーの婚約指輪。

隠すように、そっと右手で触れる。


『たすけて』なんて言葉、

とっくに枯れ果てたと思っていた。


ただ彼の存在だけが、

ぼんやりと浮かんでいた。


「俺なんて、お母さんが死んでからツイてなくてな。会社はクビ、今ではホームレスだ」


伏せていた目に、

力が籠るのを感じた。


聞き間違いだと思いたくて、

ゆっくりと顔を上げた。


「今、なんて……?」


父は鼻を鳴らし、悠々と続けた。


「お母さんはなぁ、癌で死んだんだよ。

最期まで、しょうこー、しょうこーって呼んでたんだぞ」


視界が、滲んで溶けていく。

奥歯を、固く噛み締めた。


「お前が消えてから、幸せだったよ。

本当の家族が持てると思ったのに、呆気なく死んじまった。」


父は、寂しげに遠くを眺めていた。


その目にあるのは、

親子三人だった頃の眼差しだった。


「おと──」


”お父さん”

そう言いかけた時、

焦点の定まらなかった目が、ギロリと私を睨んだ。


「なんでお前だけ生きてるんだ」

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