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フィジカル殺人事件 後編

 「どうだった?」

 脊髄反射の速度で草薙さんが言ったために、決壊寸前だった僕の言葉は行き場を失い、渦に消えた。

 「落ち着いてくれました」螺旋階段を下りて、言う。「少ししたら、刑事さんに部屋まで来てほしいと言っていました。話したいことがあるから、と」

 安堵のはっきりと映る真威人君の顔は美しく、けれどもどこか、くすんでいて、霧深い暁を思わせた。

 少しして、義博さんもロビーに戻った。

 「仕掛けの形跡は見つかった?」

 「見つからなかった」バスタオルを受け取りながら問いに答え、それから、真威人君を見やる。「あいつはどうだった?」

 真威人君は先程と同じことを口にした。義博さんは、不満が明らかな顔をバスタオルで覆った。

 「聞きたいことがあります」草薙さんが発した出し抜けの声は、矢吹さんに向けられていた。「自古さんが言っていた、山本さん、について」

 月だってもう少し慎ましく陰るだろうと思わずにはいられない、矢吹さんの表情だった。首を絞められていた時よりも苦しげな呻きが上がった。

 「矢吹さん、知っていることを話すんだ」

 苦しくなってからが本番だぞ、というSM染みた無慈悲で責めつつも、草薙さんの目は真威人君を捉えていた。

 真威人君は、何の色もない、それこそ黄昏の彼方に心を置き忘れてきたかのような顔で、唯々、虚空を見詰めていた。

 「山本さんは、山本陽菜ひなさんは、前年度まで文学評論サークルに在籍していた女性です」

 それだけ絞り出して、また呻いてしまう哀れな羊を、もっと絞ってやれと、義博さんが急かした。

 あんまりだとは思いつつも、男が男を絞る享楽、なにより核心に迫れるという直感的な確信が、僕を傍観者たらしめた。

 助け船がないことを悟ったのだろう、芝居の気の差してきた呻きは潰えて、言葉がぽつぽつと紡がれた。

 「山本さんは、自古の奴にしつこく言い寄られていて、許可なく撮られた画像や動画なんかをSNSにアップされたりもして、辛い思いをさせられていた。宮沢賢治のことが大好きで、快活な、いい娘だったのに」

 「山本さんは亡くなったと、自古さんは言っていた」草薙さんは真威人君を見詰めたままだった。「話の流れからして、自殺ですか?」

 「いい娘だったのに」繰り返して、眼鏡を外す。「自殺する六日前に、彼女は、強姦された。犯人はすぐに逮捕されたけれど、それで何もなかったことになるわけじゃない」

 嗚咽の混じった言葉尻に、破裂音に似た振動が重なった。その一瞬の衝撃が、見知らぬ女性への同情を断ち切って、加子さんの惨状を思い起こさせる。音は、二階から聞こえてきたものだった。

 「また爆発!?」美桜さんが両耳を塞ぎ、叫んだ。「もう嫌!」

 「自古さんの部屋だ」

 そう言い終わる前から、草薙さんは螺旋階段を駆け上がっていた。義博さんが続き、真威人君も続いて、もはや理性の欠片すらない反射で僕は彼の後を追った。

 権示さんの部屋のドアは閉じられていた。草薙さんがノックする。返事はない。声を掛ける。返事はない。ドアノブを引こうとして、デッドボルトが開を拒んだ。

 マスターキーで鍵を開け、ゆっくりとドアを開いて、顔を歪めた草薙さんは、そのまま部屋に入った。

 部屋を覗き、義博さんは嘆息を漏らして、頭を抱えた。真威人君も似た反応を示して、廊下に佇んだ。

 肩でデカい前腕に振れながら、僕も部屋を覗いて、すぐに、絶叫する寸前で停止したかのような権示さんの横顔を見つけた。下手な彫刻と同じで生気を微塵も感じない顔。彼は肘掛椅子に座って、右手でナイフを握り、その刃はみぞおちに深くうずもれていた。

 「あの破裂音に似た音は何だったのか?」

 セリフの練習みたいに繰り返しながら、恐ろしく淡白な所作で脈を測り、草薙さんの視線はベッドの上に流れた。整ったシーツの上に鍵が無造作に置かれている。その鍵を取り、草薙さんは廊下に出て、ドアを閉め、取った鍵を鍵穴にさし、回した。デッドボルトの飛び出す音が聞こえた。

 「部屋のスペアキーはありますか?」

 「ありません」草薙さんの問いに、義博さんは消え入りそうな声で答えた。「その鍵と、マスターキーでなければ施錠できない」

 「密室だったというわけだ」

 鍵を開け、再び部屋に入って、超回復ばりの熱量で行われた草薙さんの探偵アクションは、徒労に終わった。彼が求めているであろう、密室を作り出すための仕掛けは室内のどこにも見つからなかった。

 室内は、チェックイン直後のように整然としていて、権示さんの遺体さえ、備え付けの悪趣味な人形に見えた。

 「腹にナイフを突き刺して自殺するなんて荒行、素人にはできない」草薙さんは遺体に目を向けた。「生粋の侍でさえ、介錯がなければ腹を切れないんだから」

 そうは言っても、密室なのだった。前立腺のGスポットの有無を問うくらい不毛な弁だった。

 虚無に不毛がとけて、刹那に、草薙さんは超弩級のオーラを発した。美輪明宏さんが言うところのオーラではなく、ドラゴンボール的なオーラでもなく、戸愚呂弟に近い不自然な事象によるパンプアップ、そういう類のオーラだ。

 戦闘態勢が露わな筋肉に乗っかった端正な顔、そこに輝く擦れてなお清潔な瞳が、真威人君の憂い顔を射抜いた。

 「君は、生前の自古さんを目にした最後の人間だ。この部屋で、二人きりで」

 「俺も、信じられません」真威人君の口振りは、イケメン俳優にありがちな芝居を連想させた。「どうして、自古は自殺なんか・・・・・・」

 「そんな訳あるかい!」

 怒号と同時に組み付いていく。柔道の動きだと理解できた。襟の代わりに鎖骨を掴んでいる。なにせデカい鎖骨だ、しっかり掴めている。

 デカから浴びせられた突然の暴力に対して、真威人君はガリガリのボディを有しているかのような無抵抗に徹した。必然、僕は彼を守りたい一心で、デカい筋肉に割って入った。

 「乱暴は止めてください!」

 二つの見事なシックスパックを両の掌に感じて、シックスパックの2乗はサーティーシックスパックかしら、などと湧いて出た不純を振り払い、ここぞとばかりに涙を流して、これもまた不純ではないかしらと軽い自己嫌悪を抱きつつも、結局のところ、男の興奮を冷ます特効薬はかわいい子の涙だという観点から、幼少のころに飼っていたサモエドのドラゴの死に目を思い出して、僕は増々、涙腺の堰を切った。

 腹直筋のどよめきから、激しい動揺を悟った。それは草薙さんのシックスパックだった。真威人君のシックスパックはというと、山のフドウよりもよっぽど不動で、その無感情な筋肉が、僕を苛んだ。

 「すまない」

 誰に対して何に対して謝罪したのか分からぬまま、掴んでいた鎖骨を放して、しわの目立ち始めた顔は喧嘩で停学になった男子高校生みたいに、沈んだ。

 「ありがとう・・・・・・ごめん」

 呟いて、真威人君は身を引いた。シックスパックの余韻が消えいく早さにたじろぐ僕を置いて、彼は一階へ降りて行った。

 義博さんも一階へ降りて行った。

 ナマケモノみたいにゆっくりとした動作で、草薙さんが権示さんの部屋の施錠を済ませた。そうして、僕は見た。権示さんの部屋のドア、そのドアノブの歪みを。ドアノブは握り玉タイプで、材質は真鍮。それが、歪んでいる、もっと正確に言うならば、凹んでいる。まるでアイアンクローを決められた直後の頭部だ。

 草薙さんも気が付いたのだろう、屈んで、ドアノブに顔を近づける。

 「握った、手の跡だ」そう言ってから、手袋をはめ、凹みに沿ってドアノブを握る。「俺よりも少しだけ小さい手だ」

 尋常ではない握力が発揮されたのだと、理解した。しかし、何故に発揮されたのかは、理解できなかった。草薙さんも同じようで、振った頭には疲弊だけが露わだった。

 「食堂へ行こう」

 促されて、僕は草薙さんの後を歩いた。

 食堂に入ってすぐ、「自古さんが亡くなりました。密室であった点から、自殺だと考えられます」と草薙さんが言って、しかし誰も大きな反応は示さなかった。上の空の幸子さん。頭を抱えている義博さん。そんな義博さんに寄り添う美桜さん。頬杖をつきながら貧乏ゆすりをしている頂さん。目を落としている矢吹さん。濡れぼそった窓ガラスに顔を向けている、真威人君。草薙さんがウォーターサーバーで水を注いだ。それを、ウォッカをかっ食らうロシア人みたいにして、飲み干す。飲み干して、また注いだ。

 僕は、真威人君の手前に座った。彼の横顔は、そり立つ壁よりも完璧な造形美を湛え、そり立つ壁よりも残酷な哀愁を漂わせていた。彼の瞳は、水鏡の隙間にある暗闇だけを映し続けた。

 「私は、受付におります。御用の方は、そちらへ御越しください」

 唐突にそれだけを言って、幸子さんは食堂から出て行った。

 「もう、安全なんですよね?」美桜さんが草薙さんに向かって言った。「堀杉さんと尾容さんを殺したのは自古さん、その自古さんが自殺したのだから、全て終わったのですよね?」

 「おそらくは」

 「はっきりしてください!」椅子を倒して、美桜さんは立ち上がった。「偉そうに仕切っていたくせに! 事件は終わったって、明言してよ! 警察でしょ!」

 「デカだから明言できねぇんだ!」

 デカの一喝には芯から震えるものがある。それはヤクザの一喝とはまた異なる恐怖。美桜さんの目に涙が溜まった。

 「申し訳ない・・・・・・俺は、ロビーにいる」

 草薙さんが食堂を出て、すぐ、「俺は、自室にいます」と言って、矢吹さんも食堂を出た。

 頂さんが、冷蔵庫から瓶ビールを出し、料金箱に硬貨を入れて、席に戻った。

 炭酸ガスの吹き出る音が、やけに強く聞こえた。僕は、逃げていた目を真威人君に向け直した。

 近い距離で、手を伸ばせば大胸筋に触れられるほど近い距離で、けれども二人は互いに宇宙を彷徨うかのように、視線すら交わらず、泣きたくなるくらい、彼方だった。それほどまでに隔たっていて、けれども真威人君の心は明らかで、僕の存在はスターダストも同然、どうしたって彼の核には食い込めず、浅ましく流した涙は当然、注意すら引かなかった。

 内に向かい続ける思考は、恋愛というある種のファンタジーを滅ぼして、後に残る世俗の苦悩は平常通り、何一つ煌めかない灰色。明後日からはバイトのシフトが四日連続で入っている。書きかけの小説は半月近く触れていない。親しい友人も、家族もいない、東京。そんな場所にしがみ付く、しがみ付いた先すら見えないまま、しがみ付く。激しい人の流れに紛れてさえ、激しい情報の流れに紛れてさえ、ごまかし切れなくなった寂しさを、人肌の温もりを知らない僕は、もう、耐えられる訳がない。

 清涼な柚子の風味を、恋しく思う。それは純度100パーセントの恋の味だった。まだほんの数時間前、真威人君との距離すら把握していなかった頃の愚かしくも幸福なスゥイートラブ。戻りたいと思う。純愛が終わる前に戻りたいと思う。そうしてその時間を、永遠に閉じ込めてしまいたい・・・・・・もちろん、叶わぬ望み。だから僕は、席を立ち、思い出だけを求めて、冷蔵庫を開けたのだった。

 冷たい微風を感じながら、淡白な明かりに照らされるボトルやら缶やらを順々に見る。柚子味の飲み物は、見つからない。

 「すみません」僕は美桜さんに声をかけた。「柚子味の飲み物、ありませんか?」

 「柚子味の飲み物・・・・・・ごっくん馬路村ですね」ほっとしたような顔を見せて、美桜さんは冷蔵庫の中を覗き、すぐにまた僕に顔を向け直した。「受付のほうに予備があるので、取ってきますね」

 「構わなければ、僕が取ってきてもいいですか?」

 躊躇を見せて、けれども美桜さんは、「はい」とだけ答えた。僕は頭を下げて、そそくさと、情けなくなるくらいそそくさと、食堂を出た。

 ロビーのソファで前かがみに座る草薙さんと目が合って、これ以上浅ましくなりたくない一心で僕は目をそらし、歩を速めた。

 受付のドアをノックすると、「お待ちください」という声があって、ドアが開かれた。

 「ごっくん馬路村の予備がこちらにあると聞いて、買いに来ました」

 言いながら、財布を出す。

 「今、お出ししますね」

 そう言って、幸子さんはキッチンに向かった。

 くるみ割り人形と目が合った。前に見たときよりも愛らしく思え、目が釘付けになる。

 「違うんですよ」ジュースの入った瓶を持ってきた幸子さんが、上擦った声で言った。「亡くなった夫の趣味なんです。捨てるに捨てられなくて。こんなに沢山ですから」

 妙な言い分だと思い、視線を下げて本棚を見てみた。グラップラー刃牙から刃牙らへんまで、刃牙シリーズの慣行されている単行本が全て揃っている。

 「刃牙、のことですか?」

 「そうです。亡くなった夫の趣味なんです。私はシコルとか全く興味ないんです」

 腐女子の気を感じ取った。白々しい嘘だと悟って、しかし当然そんな事は追及したりせず、僕はごっくん馬路村の料金を払い、冷えた瓶を受け取った。

 ありがとうございます、と幸子さんが言って、僕も、ありがとうございます、と言った。そうして、立ち去ろうとしたけれど、足が動かない・・・・・・僕は、恐れていた。ロビーで草薙さんと一緒になることも、食堂で真威人君と一緒になることも、自室で一人になることも。

 「こちらで飲んでいかれますか」

 幸子さんが言ってくれて、その言葉以上にニッコリと笑った顔が、沁みた。僕は再び、ありがとうございます、と言って、部屋に入った。

 幸子さんの勧めで、テレビの真ん前にあるソファに腰かけた。そばのローテーブルにはスーパーファミコンが置かれていた。カセットが刺さっている。スーパーストリートファイター2だ。ゲームは起動中で、テレビにポーズ画面が映し出されている。

 「ストレス解消に持って来いでして」僕の隣に座って、幸子さんは言った。「思い出のゲームでもありますし」

 僕はごっくん馬路村に口を付けてから、「旦那さんが制作に関わっていたのですか?」と尋ねた。

 「そういう口説き文句でしたけれど・・・・・・」遠い眼差しが、回想の始まりを告げる。「私、お恥ずかしい話ですが、大学生のころは大阪市のゲームセンターに通っておりまして。米兵回しのサチ、という通り名がつくくらい、ストリートファイターシリーズをやり込んでおりまして。そんな時に出会ったのが、夫でした。今でも鮮明に覚えています。イキったサガット使いを血祭りにあげた私の使う筐体に、ナタデココ入りのドリンクをそっと置いて、「奢りだよ」と言った夫の緊張した面持ち。私が邪険にしたら、あの人、「ストリートファイター作ったの、俺」って口走って。思えば、最初から嘘つきだったのですよね、夫は。だってあの人、事務方で、ゲームの製作には一切関わっていなかったんですから。それを知ったのは、結婚した後でしたけれど」

 それでも玉の輿は玉の輿じゃないか、そんな風に思えば老の見え始めた女性に対してさえ嫉妬が芽生えた。令和の時代、すなわちリアリストしか存在し得ない時代だ。石油王の玉の輿に乗ることなんて夢にすら見れない時代だ。上場企業勤務の玉の輿に乗ることこそが、現代人のマックス。嘘つきだって構わない、等身大の玉の輿であるならば。救われたい、と切に願う。上場企業勤務の王子様がシェアカーに乗って迎えに来てくれることを切に願う。そうして、金銭的な苦境と肉体的な孤独を脱することが出来たならば、そこには一定の幸せがあるだろう。きっとそうだ、そうに違いない。そうに違いはないが、上場企業勤務の王子様と接点を持つことさえ叶わないリアルが、そのままワールド。だから現代人は、ルサンチマンを持て余し、その発露もないまま、根本にある絶望だけを強めるのだ。

 幸子さんが、コントローラーを手に取って、すぐに放し、また間を置かずして手に取って、再び放した。

 「ゲーム、プレイなさってください」とげのある声が出ないよう努めながら、僕は言った。

 「そうですか」幸子さんはコントローラーを握った。「ごめんなさい。夫のことを思い出したらイライラしちゃって」

 ポーズが解除され、途端に躍動するドット絵の筋肉。米兵回しのサチ、その看板は下ろしていないらしく、幸子さんが操作するのはガイルだ。CPUはブランカ。ヒッティングマッスルとナチュラルマッスルのガチンコだ。

 画面中央で、ガイルがしゃがんだ。言うまでもなく待ちガイルだ。ブランカがローリングアタックを放つ。ガードして、間髪入れずガイルがソニックブームを放った、刹那、正しく刹那に、僕のシナプスは大樹が如く根を伸ばし、有らぬ接続、VGA端子にHDMIケーブルが突き刺さるも同然のアンビリーバブルを果たした。

 ソニックブーム・・・・・・そう、ソニックブームなのだ。ソニックブームであれば、尾容さんを・・・・・・。

 ゾッとする思考、にも関わらず、僕の心中に満ちたのは悲しみだけだった。この直感、否、既に推理と化したこの思考は、あんまりだ。だって、犯人は・・・・・・しかし、まだ分からないことが幾つもある。ソニックブームだけで彼を犯人と断定することは出来ない。というよりも、断定したくない。深夜にトイレで電話をしていたからって浮気と断定することは出来ない、なんて現実逃避をしている彼女みたいな心持ちだという自覚は、ある。けれども、断定したくない。だって、僕は彼を・・・・・・。

 悶々としている間にもファイトは進んでいた。さすがは米兵回しのサチ、既にブランカは虫の息だ。切羽詰まったのであろう、ブランカがソニックブームの間合いでエレクトリックサンダーを放った、刹那、正しく刹那に、僕のシナプスは再び異次元レベルで活動した。

 エレクトリックサンダー・・・・・・そう、人力発電なのだ。人力発電であれば、停電を・・・・・・。

 必死に発電しているブランカに、無慈悲なソニックブームがヒットした。これでガイルの勝利が確定し、次なる相手は、キャミィ。ロードなんてない、スーパーファミコンならではのストレスフリーですぐさまファイト開始。開始早々ガイルが放ったソニックブーム、それを、キャミィがアクセルスピンナックルですり抜けた、刹那、正しく刹那に、言わずもがな、僕のシナプスは猛り狂った。

 アクセルスピンナックル・・・・・・そう、すり抜けなのだ。すり抜けであれば、密室を・・・・・・。

 不意に、物音がして、僕は振り向いた。紐を引っ掛けるタイプのカレンダーが床に落ちていた。

 幸子さんがカレンダーのそばまで行って、フック付きの吸盤を拾い、それを壁に付け直した、刹那、正しく刹那に、僕の目は本棚に収まっている刃牙シリーズへと引き寄せられ、その内容、マッスルフェチの嗜みとして脳内HDに記憶している刃牙シリーズ全ての内容を呼び起こし、シナプスはとうとう確信に達した。

 真空で壁に張り付く・・・・・・そう、空掌なのだ。空掌であれば、螺旋階段を使わずに・・・・・・そうして、空掌が可能であるならば、握力でダイヤモンドを作ることも・・・・・・。

 「なんてこったい」自ずと、僕は呟いていた。「脳のフィジカルが謎をブレイク」

 「何か、おっしゃいました?」

 幸子さんの声が、金星で発せられたかのように感じられた。僕は、ごっくん馬路村の残りを一息に飲み干して、しばらく、それこそ瓶が気の抜ける音を奏でるまで、飲み口から唇を放せなかった。

 「瓶は、置いていって構いませんよ」

 言われるまま、瓶をローテーブルに置いて、礼を言い、覚束ない足取りで、廊下に出た。ふらふら、ふらふら、ロビーまで行って、草薙さんと目が合って、今度はすぐに目をそらせなかった。

 「どうした?」

 彼氏染みた声だった。デカい大胸筋に飛び込みたい衝動に駆られる。しかし、そんな筋肉への衝動よりも、真威人君の尊顔を拝みたい、その願望のほうが、強かった。

 「何でもありません」

 それだけ言って、食堂に入った。そうして拝んだイケメンの、憂いは哀れなほど透けて、溢れた庇護欲は、僕のリアルな呼吸さえ苦しめた。

 マッチョの生殺与奪の権を握る、冨岡さんもびっくりなシチュエーション。絶対のパワーは背徳に似て、言うなれば核兵器、使えば自らも滅びるウェポン。そんなの、撃てない、撃ちたくない。少年の面影が残るあの顔を、絶望に染めることなんて、したくない。はち切れんばかりのあの筋肉を、法の壁に押し込めることなんて、したくない。真実なんて飲み込んで、心の赴くままに、抱きしめたい。好きです、真威人君・・・・・・。

 「おい、女! イケメンばっかり見てるんじゃねぇよ!」

 唐突な怒声が、乙女チックをぶち壊した。防衛本能で、僕の目は真威人君から怒声の主に向いた。信じられない速度で酔いが回ったのであろう、頂さんの顔は真っ赤だった。

 「結局のところ、女は男に顔と若さを求めるんだ!」ビール瓶のネックを掴みながら、頂さんは立ち上がった。「知っているんだ! 俺は知っているんだ! 俺が2000万円も貢いだ彼女が、ホストに貢いでいることくらい、知っているんだ! 貯金の全てを貢いで、借金までして貢いで、ようやく、一緒に旅行する約束までこぎ着けたのに、それすらドタキャンされて、今日、俺は初めて、彼女とキスするつもりだったのに! 地獄に落ちろ! 女なんて、地獄に落ちろ!」

 振り下ろされたビール瓶がテーブルの角に当たった。飛び散ったガラス片が光の筋を幾つも作る。美桜さんの悲鳴が響いた。

 「やめろ!」

 その義博さんの声が聞こえた時にはもう、頂さんは僕に向かって走り出していた。

 恐怖は筋肉を硬直させる、それが真実であることを思い知った。逃げ出すだけの猶予があったにもかかわらず、僕の体は1ミリメートルも動かなかったのだから。悲鳴を発することすら出来ず、表情筋さえ動かせないままに、ビール瓶の割れた切っ先が迫ってくるのを、僕は見詰めた。

 死、までは覚悟しなかった。所詮は不規則な切っ先、ドスなんかとは訳が違う、酔っぱらいの玩具であればタマまでは取られないだろう、という甘い算段。それにしたって、痛い思いをする覚悟くらいは出来ている。傷口が滅茶苦茶になるだろう、場合によっては痕が残るかもしれない、そういう予測だって立っている。最低限の覚悟は、ある。しかし恐怖は恐怖のままで、視界は自ずと滲んだ。その陰惨な絵面が、濁で歪んだ中年男性の像が、デカい広背筋に隠れて、それはあっという間の出来事だったから、雨濡れの富士山がカットインしたかのような幻想を、僕は抱いた。

 切ない音が、した。無垢な子羊の体に刃が入るような音だった。僕をかばった真威人君の前腕にビール瓶の切っ先が刺さったのだと、理解するまでに少し時間がかかった。

 ハッサンよりも堂々とした仁王立ちで、真威人君は僕と頂さんの間に立ち続けた。罵詈雑言にすらならない獣の雄叫びを頂さんが上げた。それよりももっと大きな声で、僕は真威人君の名を呼んだ。

 食堂に、草薙さんが入ってきた。彼は素早く頂さんとの距離を詰め、襟を掴み、そのまま一本背負いを決めた。オリンピックレベルではまずお目にかかれない、デカと酔っぱらいだからこそ成立する完璧な一本背負いだった。

 受け身をとれなかったことは明白で、必然、頂さんは失神していた。

 「殺人未遂の現行犯だ」

 言ってから、草薙さんは頂さんの右手に手錠をかけ、そうして、もう片方の輪を床固定テーブルの脚にはめた。

 「怪我はない?」

 振り向いた真威人君の、眼は優し過ぎて直視できなかった。視線を落とし、血の滴る右前腕が目に染みて、逃げ場のないことを悟り、「大丈夫だよ」と絞り出すこと以外、僕には出来なかった。

 「よかった」

 マシュマロの弾力を含んでいるかのような声だった。この世界で最も尊い響きに思われた。大粒の涙が、零れた。

 これが真威人君の本質なのだと理解して、僕はいよいよ袋小路に差し当たった。

 「腕を見せてみろ」

 言うより先に、草薙さんは真威人君の右手首を掴んでいた。そうして、血まみれの傷口に熱視線を送る。

 「破片は入っていないな」草薙さんは美桜さんに目を向けた。「消毒液とデカいキズパワーパッド、あと包帯も持ってきてくれ」

 「キズパワーパッドは、置いてないです」美桜さんはしおらしく言った。「キズパワーパッドは、置いてないです」

 「それならガーゼで構わない。軟膏もだ」

 美緒さんは駆け足で食堂を出た。

 事ここに至ってようやく、僕は、「ありがとう」と口に出来た。それに対するリアクションが神々しいまでの微笑みで、僕の良心は茨で縛り付けられたかのように悶えた。

 美緒さんが草薙さんに言われた物を持って戻り、真威人君の治療を買って出た。草薙さんは失神したままの頂さんを注視した後、食堂を出て行った。

 不意に、慎ましい喘ぎが聞こえて、僕の目は音速で真威人君を捉えた。エロい消毒液が染みたのだろう、全身の筋肉が妖しく震えている。美桜さん代わってください! という声が喉まで出る。僕が真威人君のナイチンゲールになる! という声も喉まで出る。実に抗い難い、マッチョに対して合法で医療行為を行えるというラッキースケベ。ましてや対象が愛する男とあっては魅力倍増というもの。ぶっかけてやりたい・・・・・・消毒液を。そうして、もっと喘ぎを引き出したい。生粋のマゾでさえサドに裏返すほどの、ラブレボリューション。けれど、それは正しい行いが永久に禁じ手となる悪魔の道。消毒液をぶっかけて、軟膏を塗って、ガーゼを当てて、包帯を巻いて、そこまでしたらもう僕は真威人君なしでは生きていけなくなる。お世話をしては、いけない。愛する男に生のアクションを起こしては、いけない。執着してしまうから。それじゃあ、黙っているしかないじゃないか。僕は、華奢な声筋を酷使して、魂の叫びを飲み込んだ。

 消毒が終わって、軟膏が塗られる。腕橈骨筋が艶めかしくテカった。ローションに濡れているかのようだ。これを傍観し続けることは、生殺しである。それに耐えられるだけの胆力がなかったから、僕は逃げ出す形で食堂を出た。

 見上げたルネサンス様式の天井と淡いシャンデリアの煌めきが、神々の愛を錯覚させた。瞬いて、それだけで消える儚さだった。

 ソファに座る草薙さんの、目がこちらに向けられることはなくて、その体のわりに小さな後頭部は、月見草の趣を湛えていた。

 「草薙さん」

 意図せず漏れ出た声だった。草薙さんが、振り向く。彼の瞳は清潔で、そこに映る僕の姿だけが穢れだった。

 向かいのソファに座る僕を、草薙さんは瞳の中心に据え続けた。

 ほんの数秒の沈黙が数年間に感じられた。懺悔室だってもう少しカジュアルだろうと思われる厳かさ。

 心が沈痛に屈して、無作為に口が動く。

 「草薙さんには、愛する人がいますか」

 「いる」即答だった。「倅だ」

 下ネタではないことが直ぐに理解できる、マジなトーンだった。その真剣が、僕を一層、うかつにした。

 「もしも、もしも愛する人が罪を犯したら、草薙さんはどうしますか」

 「罪滅ぼしをさせる」即答だった。「他人は騙せても自分自身は騙せない。罪を抱えて生き続けることは、それがそのまま地獄だ。愛する人に、地獄は味わわせたくない」

 「ああ!」

 叫びのなりそこないが出て、僕はそれを抑えるように顔を両手で覆った。後は涙が溢れてきて、泣き虫な自分に辟易しながら、声だけは押し殺し、塩っぽいパトスが枯れるのを唯、待った。

 愛とは救済である、救済とは罰である・・・・・・イタリアの哲学者マゾッリ・スッコンチ・ハンスケカミナンデス(1488~1588)の言葉だ。キリスト教圏の人間ながら赦しを良しとしない異端スタイル、その逆境に裏付けされた強い言葉は、神の教えよりも深く刺さった。愛とは、罰・・・・・・ラブとは、パニッシュメント。

 「草薙さん」自分のものと分からないくらい、透明な声だった。「皆さんをロビーに集めてください」

 「それはつまり、金田一少年的な、あれか?」

 ひょうきんな事を言って、しかしトーンはマジな草薙さんだった。だから、彼の伸ばした手が僕の手を包んでも、嫌な気はしなかった。

 「震えているじゃないか」

 草薙さんの言う通り、僕は震えていた。

 「大丈夫です」手を引いて、包まれる安心感を自ら放棄する。「皆さんが集まるまでに、覚悟を決めます」

 その決意をくんでくれるだけの器が、草薙さんにはあった。彼は、「分かった」と言って、僕の願い通りに動いてくれた。

 数分のうちに、ロビーに人が集まった。真威人君、義弘さん、美桜さん、幸子さん。未だ失神中の頂さんは食堂の床固定テーブルに繋がれたままだ。

 二階から草薙さんと矢吹さんが降りてきた。

 僕は、両手を握りしめ、大きな鼓動に負けないよう、力強く声帯を震わせた。

 「堀杉さん、尾容さん、自古さん、三人を殺害した人物が分かりました」

 どよめきが、あった。スポーツバーで、大谷選手のホームランを目にしたサッカーファンのグループが上げる類のどよめきだった。

 「犯人は、自古様なのでしょう?」幸子さんが言った。「自古様が堀杉様と尾容様を殺害して、自殺したのでしょう?」

 「その考えに誘導することが、真犯人の狙いだったのです」

 「誰なんです、筋肉さん?」義博さんが言った。「真犯人は、誰なんです?」

 問われて、僕の目は純白を映した。僕をかばったが為に巻かれた包帯。視線を上げる。彼の顔には、白色すらなかった。

 己の声帯を握りつぶしてしまいたかった。覚悟を決めると言っておきながら、心はブレたままだった。罰するよりも罰せられたいマジで。所詮、マゾはマゾ。初めて、知る。マゾよりサドのほうが苦しいのだと、初めて知る。ましてや、これはSMではない。一人の人間に罪人の刻印を焼き付ける、取り返しのつかない事象なのだ。苦しい、苦しい、苦しい。逃げ出したい。逃げ出して、彼が赦されることを祈りたい。けれど、そこに愛はあるんか? 命を奪われた人たちへの配慮はあるんか? おそらく、あるのは僕の感情だけ。彼のことが好きだという、僕の感情だけ。口をつぐむのは、結局のところ、自分のためでしかない。その利己に巻き込むことは、彼を穢すことと同義ではないだろうか? そこに、罪があった。だから、罰がある。ありのまま、全て、ありのままに。僕も彼も、そのありのままの中でこそ、ありのまま、美しくあれるのではないだろうか? 僕にできることは、僕がすべきことは、罪が償われるときまで、彼を待つこと。ありのまま、全て、ありのままに・・・・・・。

 「真威人君です」

 後には静寂があった。真っ新な雪原に全裸で横たえるのと同じ孤独感が僕を苛んだ。

 誰か反応してください・・・・・・SNSなんかにある無数の叫びを、僕は心中で唱えた。その願いが叶うまでには、少しの時間を要した。

 「真威人君が犯人のわけがない」反応してくれたのは、矢吹さんだった。「堀杉殺害のアリバイが、彼にはあるじゃないか」

 「真威人君は螺旋階段を使わずに二階へ上がったのです」僕はふんどしを締めなおした。

 「梯子でも使ったと言うんですか?」嘲笑するような口ぶりの矢吹さん。「それで人目につかないのは不可能だ」

 「道具を使わずに、道具を使うよりもずっと速く、二階へ上がる方法があるのです。その方法を、これからお見せします」僕は草薙さんに視線を向けた。「草薙さん、協力してください。真威人君が二階に上がった方法を再現してほしいのです」

 「構わないが、俺に出来ることなのか?」

 「マッチョにしか出来ない」

 ごくり、という音がはっきりと聞こえた。

 「何を、すればいい?」

 「草薙さんは、空掌をご存じですよね」

 「いや、知らない」

 僕は今世紀最大の衝撃を受けた。

 「失礼ですが、刃牙をご存じない?」

 「読んだことはない」

 世も末だ、と僕は嘆いた。

 「ビッグコミックしか読まないんだ、漫画は」

 「空掌とは、掌に真空を作り出す技法です」僕は道理を説いた。「これで壁などにくっつくことが出来ます。吸盤みたいに」

 「まさか、それで壁にくっつきながら二階へ上がったと、そんなふざけたことを言うつもりではないですよね?」

 「僕は真剣です、矢吹さん。真威人君は空掌を用い、壁にくっつきながら二階へ上がったのです。そう、クライミングのようにして」

 矢吹さんは首を大きく横に振った。

 「それでは草薙さん、お願いします」

 「お願いします、って、空掌ってやつをやれっていうのか?」

 「はい」

 「出来るわけがないだろう!」怒鳴る草薙さん。「漫画じゃねぇ!」

 「そう、漫画じゃない、フィジカルです」僕は動じなかった。「フィジカルがあれば何でもできる」

 真理は真理らしく響いた。草薙さんのブレが手に取るように分かった。

 「お願いします、草薙さん」自ずと、上目遣いになる。「お願い」

 「かわいい顔しやがって・・・・・・」赤くなった顔を、草薙さんは隠した。「チャレンジしてみるだけだぞ。できなくても泣くんじゃないぞ」

 ツンデレなマッチョを地で行って、ロビーの壁に当てた右手の平はぴったりと垂直だった。

 「技巧のなさは筋力でカバーです。はい、右手に力を込めて!」

 草薙さんの右腕の血管が浮かび上がって、僕のレクチャーに素直に従ったことが分かった。

 「OKです。それでは、右手の平を壁につけたまま両足を地面から離してください。壁にくっついていることが、はっきりします」

 「そんなわけがないだろう・・・・・・」擦れた中学生みたいな声を出して、草薙さんは両足を地面から離し、後はもう、お約束だった。「ホンマやっ!」

 ホンマやった。両足が空中にとどまり、草薙さんの全体重は壁につけた右手の平だけで支えられていた。正しく空掌であった。

 幸子さんと美桜さんの、悲鳴にも似た感嘆が響き渡った。

 「今度は左手の平を右手よりも高い位置に当てて、右手と同じように力を込めてください」

 犬のように従順な草薙さんだった。

 「これで、左手も空掌が発動している状態です。右手を壁から離してください」

 犬のように従順な草薙さんだった。左手の平だけで全体重が支えられた。

 「その要領で二階まで登ってください」

 「いや、怖い、怖い! 命綱のないクライミングじゃないか、丸っきり! 怖い、怖い!」

 怖い怖いと言いつつも、少しずつ登っていく草薙さんだった。初めてのアナルみたいだと、僕は思った。

 空掌の扱いに慣れたのか、地上3メートルを越えたあたりからは登る速度が速まった。初めてのアナルみたいだと、僕は思った。

 二分ほどで、草薙さんは二階に上がった。

 「このようにして、真威人君は二階に上がったのです」

 「目立つ、目立つ!」矢吹さんの唾が飛んだ。「梯子より目立つ!」

 「目立つは目立つが、スピーディーだ」螺旋階段を下りながら、草薙さんが言った。「俺は初体験だから時間がかかっただけだ。しっかりと経験を積めば十秒足らずで二階に上がることが可能だろう」

 「それだけ短い時間であれば、人の目を盗んで二階に上がることは容易です」

 「仮に、仮に十秒足らずで二階に上がれるとして、真威人君が草薙さんのように空掌を扱えるという証拠はないじゃないか!」

 「体はフィジカルを表す。真威人君の素晴らしい体がそのまま、空掌を扱えるという証拠です」

 ぐうの音すら出ない矢吹さんを直視するのが辛くって、僕は彼から目をそらした。

 「一つだけ、疑問があります」躊躇を露わにしつつも、幸子さんは続けた。「壁を登って二階に上がるのであれば、シコルのやり方で良かったのではありませんか?」

 「辛いことを言いますが、幸子さん、シコルはファンタジーです」自分でもぞっとするくらい非情な声が出た。「彼の脱獄は刃牙シリーズにおける唯一の嘘です」

 死刑宣告を受けたみたいに、幸子さんはよろめいた。

 「二階に上がった真威人君は、何食わぬ顔で堀杉さんの部屋のドアをノックした」非情を継続して、言う。「交際関係にあったのだから、すんなりと部屋に通されたことでしょう。後は性交渉を持ち掛ければ、準備万端、真威人君がタチであるならば容易に堀杉さんの背後を取れる」

 「堀杉さんの遺体は下半身が露出していた。辻褄が合う」草薙さんは自身の顎をなでた。「そうして、あらかじめ自古さんから盗んでおいた本物のダイヤモンドの自撮り棒で後頭部を殴ったわけだ」

 「いいえ、凶器はダイヤモンドの自撮り棒ではありません。自古さんの私物を持ち歩くようなリスクを真威人君は犯さなかった」

 「それなら、素手で殺害したあと自古さんの犯行に見せかけるためダイヤモンドの破片を遺体のそばにまいた?」

 「マッチョの域には達していませんが、堀杉さんも体格に恵まれています。彼を素手で殺害するのは容易ではない」僕は美桜さんの推理を否定した。「凶器は存在しました。それも、消滅させることが可能な凶器です」

 「それは、何です?」義博さんが言った。

 「石炭で作ったダイヤモンドです。堀杉さんのバックに立った真威人君は、隠し持っていた石炭に握力で圧をくわえダイヤモンドを作ったのです。そう、刃牙に記されてあるように」

 「また刃牙か」草薙さんが吐き捨てた。「また漫画か」

 「刃牙は科学の教科書です」ムカッとして、僕は言った。「地球上で起こりうるほぼ全ての事象は刃牙に記されている」

 「筋肉様に3000点」

 口走って、幸子さんは頬を赤らめた。

 「義博さん。石炭はありますか?」

 「物置にあります」

 「掌に収まる程度で構いませんので、ここに持ってきてください」

 義弘さんは早足で物置に向かった。

 僕は、真威人君の顔を盗み見た。薄い唇も、高い鼻筋も青みがかって、唯、大きな瞳だけが曙を望むみたいに熱を帯びていた。

 義弘さんが、石炭の入ったタッパーを持って戻ってきた。

 「これくらいの量で足りますか?」

 「ありがとうございます。十分です」僕はタッパーの蓋を開け、草薙さんに手招きをした。「それでは、お願いします」

 「お願いします、って、まさか、俺にやれと? 石炭をダイヤモンドに変えろと?」

 「マッチョの使命です」

 「俺の筋力を過大評価するな! 空掌とやらはまぐれで出来たが、さすがに石炭をダイヤモンドに変えるのは無理だ!」

 「お願いします、草薙さん」自ずと、上目遣いになる。「お願い」

 「かわいい顔をしたって、無理なものは無理だ!」

 「お願い」自ずと、タンクトップのたるみを引っ張る。「お願い」

 「やめないか、乳が見えるぞ!」赤くなった顔を、草薙さんは隠した。「チャレンジしてあげるから、はしたない真似はやめなさい!」

 「天然の小悪魔」美桜さんの呟きが聞こえた。「女の敵」

 僕は草薙さんのシックスパックにタッパーを突き付けた。

 「石炭を掌に収まる限界の量とって・・・・・・そう、後は握力全開で握りしめるだけです」

 表向き、草薙さんは僕の言う通りにした。しかし、それが中学生の準備体操ていどの低燃費であることは隠し切れていなかった。

 「馬鹿らしくてやってられねぇや、って言いたげですね。草薙さん」

 「そんな、そんなことはない!」

 「握力を込めて、握力を!」生まれて初めて、僕は怒鳴った。「恋敵の睾丸を握りつぶす心持ちで!」

 「恋敵の・・・・・・」

 不意に、草薙さんは僕を見詰めた。ドキッとしてしまうくらい、少女漫画の眼差しだった。

 草薙さんの、石炭を握る右手が岩石の様相を呈した。凄まじいギャップだった。眼差しはマーガレット、握りこぶしはチャンピオン。

 盛り上がる、右の前腕。手首までデカくなる。

 石炭の悲鳴が聞こえた気がした。僕は、「十分です!」と叫んだ。

 ゆっくりと、草薙さんは右手を開いた。降り注ぐシャンデリアの光が草薙さんの手中でプリズムと化す。そう、石炭はダイヤモンドと化していたのだ。

 「紛うことなき輝きだ!」義博さんは頭を抱えた。「信じられない! 模造品なんて売っていた自分が嫌になる!」

 「この方法で作り出したダイヤモンドで、真威人君は堀杉さんの後頭部を強打した。衝撃には弱いダイヤモンドです。強打によって砕ければ、自然と破片が散らばる。ダイヤモンドの自撮り棒を用いた自古さんの犯行であるかのように」

 「証拠がない! 真威人君がやったという証拠が!」矢吹さんが叫んだ。

 「証拠なら、あります。草薙さん、右手を見せてください」

 何の恥じらいもないノーサービスで、草薙さんは右手を晒した。

 「まっくろくろすけ!」

 言い得て妙な、美桜さんのメイちゃんボイスだった。手の平から指先まで、草薙さんの手は真っ黒だった。

 「イカ墨の調理を誤ったみたいな手だ」義博さんが言う。「あれじゃあ洗ってもなかなか落ちない。特に爪の間なんかは」

 「真威人君。右手を、見せてもらえますか?」

 真威人君は、無反応だった。僕は、彼の右手にそっと触れた。握りこぶしでありながらも、彼の手には全く力が込められていなかった。だから、僕の力でも簡単に開くことが出来た。指が絡んでは解れていく、指が絡んでは解れていく・・・・・・それは愛する男のネクタイを結んであげるかのような、幸福な体験だった。この期に及んで躊躇がうずくほどに。

 露わになった真威人君の指先は、黒ずんでいた。その黒は、草薙さんのものと同種だった。矢吹さんの嘆息が悲しみを強めた。

 「堀杉さんの殺害に関しては、分かった」右手をティッシュで拭きながら、草薙さんが言った。「それで、他の二人の殺害に関してはどの様に証明する?」

 「尾容さんの殺害方法からお話しします」深呼吸をして、続ける。「ソニックブームです」

 「ガイルですか?」幸子さんが食い気味で言った。「ソニックブームって、ガイルですか?」

 「違いますよ、お義母さん。ソニックブームとは、音速によって発生する衝撃波の音のことです」

 「半分正解、半分間違いです、義弘さん」

 僕が言って、義弘さんはマスオさんみたいなリアクションを見せた。

 「どういうことだ、筋肉さん」草薙さんが言った。

 「正確に言うと、ソニックブームとは、巨大な両腕を音速でクロスさせることにより発生する衝撃波のことなのです」

 「ガイルですね、やっぱり!」

 「少し違います。ソニックブームはバナナみたいなブーメランではありませんから」

 恥じ入ったのか、幸子さんは身を小さくした。

 「君が言いたいことは、こうか」草薙さんだ。「その衝撃波で剛力さんは尾容さんを殺害した、と言いたい訳か?」

 「その通りです」

 「デカをからかうのも大概にしろ!」極太の喉仏が荒ぶった。「そんな無茶な話があるか!?」

 「無茶かどうか、これから実証するのです」僕は幸子さんに目を向けた。「実証のために一部屋、尾容さんの部屋と同じようにしてしまって構いませんか?」

 「そんな、勘弁してください!」答えたのは美桜さんだった。「殺人事件が起きて経営が悪化することが分かり切っているのに、その上もう一部屋めちゃくちゃにされるなんて、あんまり過ぎる!」

 「美桜、よしなさい」幸子さんは背後から美桜さんの両肩に手を置いた。「今は私たちの損得勘定を優先する時ではないでしょう。殺人事件を解決することが何より優先されることでしょう」

 「そんなこと言って、お母さんは生のソニックブームを見たいだけじゃない!」

 図星だったのだろう、幸子さんの化粧が冷や汗で流れた。

 「嫌いだった! 外面ばっかり整えて内心は薄汚いお母さんが、私、子供のときから大嫌いだった!」

 「美桜、今はそんなことを言っている場合じゃあ・・・・・・」

 「義博は黙ってて!」

 義弘さんは素直に黙った。

 「覚えてる、お母さん、中学二年生の時、私の描いた絵が箕面まつりポスター原画で受賞して展示されるってなった事。あの時、お母さん、恥ずかしいからって言って、勝手に受賞辞退を主催者に伝えたよね」

 「あれは、あなたが烈と克己の絡みなんて応募するから!」

 「それが私だようゥッッ!」美桜さんは、泣いていた。「お母さんが恥ずかしいって言って隠した、それが私だようゥッッ!」

 「美桜・・・・・・」義博さんも、泣いていた。「美桜・・・・・・」

 「覚えてる、お母さん、高校三年生の時、私がeスポーツの専門学校に願書を出した事。あの時、お母さん、恥ずかしいからって言って、勝手に願書を取り下げたよね」

 「あれは、あなたが毎シーズン最強キャラばかり使うから!」

 「ガイル使いのくせに、私を否定しないでよ!」

 「勘違いしないで、美桜! ガイルが最強だったのは無印のスト2! 私がやり込んだのはスパ2とスパ2X! 恥ずべきことは何一つないわ!」

 「そういうところよ、お母さん! そういうところが外面ばっかりだっていうのよ、お母さん! 最強キャラを使ったっていいじゃない! 烈と克己の絡みを描いてもいいじゃない! 体裁よりも大事なものが、ある!」

 「体裁よりも大事なものが、ある、って・・・・・・」幸子さんの温厚だった顔が、見る見るうちに凶暴な顔に変わった。「このトンチキがぁ! 寝言を言ってるんじゃねぇ! 体裁がなくちゃあBLだって唯の男狂いだ!」

 米兵回しのサチ、その通り名が場末のゲーセンだけではなく梅田でも通るのだと、うかがい知れる迫力だった。

 「私の受賞した絵が唯の男狂いだったって言うわけ!?」中年の貧乏ゆすりよりも遥かに激しい声の震えは、美桜さんが圧倒されていることを物語っていた。「酷い! 酷すぎる!」

 「酷くねぇ、事実だ! 一般人も集う祭りに、BLを投下するのは唯の男狂いだ!」

 「お義母さん、言い過ぎでは・・・・・・」

 「おめぇは黙ってろ!」

 義弘さんは素直に黙った。

 「eスポーツの専門学校についてもだ! 俺はお前が中坊のころから言っていたよな! 国立の大学に行くなら学費を全額出してやる、それ以外の進路なら自分で金を用意しろ、って言っていたよな! それなのに、お前、黙って願書を出しやがって!」

 「お金、自分で用意するつもりだったもん!」

 「嘘つけ! バイトなんか一度もしたことなかったくせに!」

 「バイトするつもりだったもん!」

 「願書を出す前にしとけ!」

 「美桜・・・・・・」義博さんはハンカチを握りしめていた。「美桜・・・・・・」

 「俺が本当に恥ずかしかったのはなぁ、親にすら体裁を取り繕えないお前の根性だったんだよぉ! 約束を反故にしながらも俺の金を当てにする卑しい根性が、恥ずかしかったんだよぉ!」

 「俺の金って、お父さんの金じゃん! お父さんが一生懸命働いて稼いだ金じゃん! お父さんは、私がeスポーツの専門学校に行くこと、賛成してくれたじゃん!」

 「俺の金は俺の金、あいつの金も俺の金だ! あいつには何の決定権もなかった! 俺が出さねぇと決めたらびた一文出ねぇ!」

 「毒親! お母さんは毒親よ!」

 「血の轍を読め! あれだ、毒親は! 俺なんざ生ぬるいぜ!」

 「義博ぉ!」美桜さんは義博さんの胸に飛び込んだ。「義博ぉ! お母さんに言ってやってよぉ!」

 「美桜・・・・・・」義博さんは、唯、美桜さんを抱きしめた。「美桜・・・・・・」

 「このペンションも俺の資産だ! 全ての決定権は俺にある! 分かったな、美桜!」そう言って、幸子さんの凶暴だった顔は見る見るうちに温厚な顔に変わった。「見苦しいところをお見せしました。先ほどの件、了解いたします。どうぞ、一部屋お使いください」

 「ごめんなさい」礼を言うつもりだったけど、謝罪しか出てこなかった。「ごめんなさい」

 「どうやって実証するんだ、尾容さん殺害の方法を?」

 酷い喧嘩なんて散々見てきたのだろう、さすがはデカ、草薙さんの声は平然としていた。そうして出来た、何事もなかったかのような流れに、僕は身をゆだねた。

 「草薙さん、あなたの部屋を実証に使わせてください」

 「幸子さんが構わないと言ったのだから、構わんさ」

 「幸子さん。これから外に出ます。六人分の雨具を用意してください」

 「合羽で構いませんか?」

 「構いません。それと、六人分の長靴もお願いします」

 「待ってください、筋肉さん。七人分ではないのですか?」矢吹さんが言った。

 「六人分で構いません。実証のため、草薙さんには雨具なしで外に出てもらいますから」

 「ちょっと待て、この嵐だぞ!」雨の音も風の音も、一向に弱まっていなかった。「びしょ濡れになっちまう! 俺に恨みでもあるのか!?」

 「恨みなんてありません。実証のために必要だから、そうするだけです」

 「マッチョは寒いのが苦手だ!」

 「知っています」

 「俺はマッチョだ!」

 「知っています」

 「それなら、合羽ぐらい着させて!」

 マジだと分かるトーンだった。同時に、マゾだと分かるトーンだった。かわいい、と思う。唇が、渇いた。

 「駄目です」

 「酷い!」

 いい声だ。怯えの透ける顔もいい。僕は、それを貪った。

 「デカい体で、ごちゃごちゃ言ってるんじゃねぇ!」痺れを切らしたのであろう、米兵回しのサチと化した幸子さんが、怒鳴った。「濡れるのが嫌だなんて、どこのお坊ちゃんだ、おめぇはよぉ!? 寒さなんざ根性で耐えろ! 男だろ!」

 昭和のロジックが飛び出して、しかしそこは昭和生まれであろう草薙さん、不条理を受けて奮い立つ梶原メンタル。男ならやるしかねぇか、という呟きは、平成生まれの僕の耳に虚しく届いた。

 幸子さん、美桜さん、義博さんがロビーを離れた。二分ほどで、三人は六人分の合羽と長靴を持って戻った。

 「外へ出る前に、詳しく話しておきます」雨具を身に付けて、僕は言った。「尾容さんを殺害したとき、真威人君は外に居ました。トイレに行くと言って全員の目から離れ、洋館裏の出入り口から外に出ていたのです。そうして、彼は尾容さんの部屋に向かってソニックブームを放った。尾容さんの部屋のドアがロビーに落ちる直前に聞こえた轟音は、ソニックブームの音だったのです。ソニックブームの凄まじい衝撃波は、尾容さんの体を激しく傷付け、その命を奪った」

 「部屋の中に割れた窓ガラスが散乱していたのは、その為か」義博さんが唸った。

 「ちょ待てよ!」草薙さんが言った。「ソニックブームを放った、っていうところをスルーするな! 滅茶苦茶なことを言っているだろう!」

 「滅茶苦茶かどうか、それを実証するのです。草薙さんが、ソニックブームを撃って」

 「俺が、ソニックブームを、撃つ?」文字通り、鳩が豆鉄砲を食ったような顔。「撃つ、ソニックブームを、俺が?」

 「草薙さんが撃つのです。外から、二階の自分の部屋に向かって」

 「ちょ待てよ!」今度のキムタクは似ていなかった。「俺は日本のデカだ、米兵じゃない!」

 「日本のデカも米兵も、優れた筋肉を有しているならば等しくガイルです」

 論破もくそもない、端から論を終わらせている、真のパワーワードであった。そんなものが自分の口から飛び出したことに、畏怖を覚える。草薙さんも畏怖を覚えたのだろう、おもちゃ売り場の前で二時間ねばった幼児のような面持ちを、彼は見せた。

 「胸の高さで両腕を素早くクロスさせるのです。それでソニックブームが出ます」

 僕の説明に、草薙さんは黙って頷いた。

 僕たちは洋館裏の出入り口まで歩いた。鍵を開け、ドアを開こうとしたけれど、僕の非力では外開きのドアは開かなかった。見かねた草薙さんがドアを開いて、吹き込んだ風雨に美桜さんの悪態が重なった。

 建物の南側に向かう。雨粒は礫のようで、風は骨にまで響き、泥と化した地面は脛まで飲み込む。短い道程ながら、男塾張りの行軍であった。

 見上げれば、暗がりに草薙さんの部屋の窓を見つけられる所まで来た。

 「草薙さん、ソニックブームをお願いします!」

 口内に飛び込んでくる風雨にむせながらも、僕は言うべきことを言った。

 「あんだって!?」草薙さんは耳に手を当てた。「あんだって!?」

 「ソニックブームを、撃ってください!」

 「あんだって!?」

 丸っきり、志村けんさんのコントだった。それを数十秒続けて、僕は声によるコミュニケーションを諦め、ジェスチャーでソニックブーム発射OKを伝えた。

 草薙さんが、体の正面を二階の自室に向けた。そうして見せる、無気力なソニックブームのモーション。この期に及んで! と僕は心中で叫んだ。この期に及んで中学生の準備体操!

 ドタマに、来た。自分で言うのも厚かましいが、温厚な僕である。そんな僕がドタマに来たのだ。俺をキレさせたら大したもんだよ、なんて次元の話じゃない。膝に矢文を射ち込まれたかのような、やるせない程の憤り。

 怒りに対する免疫を持たない僕は、感情の赴くまま、草薙さんに掴みかかった。

 「真面目にソニックブームを撃ってください!」掴む胸ぐらがないから、ブーメランパンツのサイドを掴む。「真面目に撃ってくれなければ、僕は一生、あなたを許さない!」

 四国の片隅で憤怒を叫ぶ。叶うなら愛を叫びたかった、そんな無念が、増々怒りを強めた。

 「八つ裂きにしてやるから! 今度真面目にやらなかったら、このブーメランパンツを八つ裂きにしてやるから!」

 「勘弁してくれ! フルチンになっちまう!」

 酷い言葉のチョイスながらも、言葉のアクセントに反省の念が垣間見えた。だから僕は、ブーメランパンツのサイドをそっと放した。

 「ポパイを意識するのです。上腕と前腕にポパイを意識するのです。それがソニックブームを撃つコツです」

 草薙さんが何度も頷いて、僕は彼から離れた。

 仕切り直し。二階の自室に向けられた眼光が闇に映える。今度は大丈夫だ、という確信が、あった。

 両腕を大きく引く草薙さん。大胸筋がパンパンに張っている。

 「いいタメだ!」僕が思ったことを幸子さんが叫んだ。「筋繊維にファンタジーを感じる!」

 それなら大丈夫だ、という訳で、両腕が音速でクロスした刹那に、ブラックバードが通過したかのような衝撃波が発生して、風雨が吹き飛んだけれど、驚いたりはしなかった。轟音が遅れて聞こえてきて、風雨が正常な嵐の様相を取り戻して、その時にはもう、草薙さんの部屋の窓は割れていた。紛れもなく、ソニックブームであった。

 「出たのか?」

 「出ました」僕は草薙さんの問いに答えた。「威力を確認するため、草薙さんの部屋に向かいましょう」

 そうして、男塾張りの行軍で、洋館裏の出入り口に戻った。

 屋内に入ってすぐ、合羽を脱いだ。長靴も脱ぐ。脱いだ物は、幸子さんに言われるがまま、洋館裏の出入り口のそばに置いた。

 草薙さんはというと、例によって例のごとく、筋繊維が擦れ合って生じる摩擦熱によって雨水を蒸発させた。

 「尾容さんを殺害した後、草薙さんと同じ方法で、真威人君は体を乾かしました」そう言って、僕は草薙さんの汚れた素足を指差した。「しかし、水気は払えても汚れまでは払えない。乾いた泥は土くれになってしまう。汚れたままでは外へ出たことを疑われる、そう考えた真威人君は、浴室で足の汚れを洗い流した。その際、廊下や更衣室に落ちた土くれは、僕と草薙さんで確認済みです」

 真綿で首を締める、とはよく言ったものだ。真威人君の、首のデカさを両手に感じる。ファントムペイン、心にくる、ハートオブファントムペイン。真威人君の顔を見れるわけがなくて、僕は逃げるように歩き出した。

 二階へ上がり、草薙さんの部屋のそばまで来た。内側から吹き飛んだドアは、向かいの壁に大きな傷を作り、床に倒れていた。室内を見てみる。割れた窓ガラスが室内に散乱している、姿見も割れている、家具がひっくり返っている。尾容さんの部屋とほぼ同じ様相。

 「我ながら、とんでもない威力だ」言いながら、室内の壁のそばに落ちているバッグを拾う。「コーデュラのバッグがズタズタだ。人体が耐えられる威力ではない」

 「実証、されましたね」義博さんが呟いた。「尾容さんはソニックブームで殺害された」

 ごくり、という誰のものかもしれない音が強く響いた。この場に居る全員が、誰が犯人であるかを共通認識としたのだと、空気を読まずとも分かった。

 「次は、停電について話します」真綿による首絞めを一刻も早く終わらせたい一心で、言った。「停電が起きた時、真威人君は自室にいました。彼は自室のコンセントに電撃を流し、ブレーカーを落としたのです」

 「無茶ですよ、それは」義博さんが言った。「あの停電では配電室のブレーカーが落ちていました。雷レベルによるショートでなければ起きないことです。スタンガンなんかでは、不可能だ」

 「真威人君はスタンガンなんて使っていません。彼はエレクトリックサンダーによって停電を起こしたのです」

 「ジミー! 野生児の人力発電ですね!」

 「そうです、幸子さん、人力発電です。それを今から草薙さんに実証してもらいます」

 「電気は出ないぞ」むっつり顔で、草薙さんは言った。「俺は化け物じゃねぇ」

 「この野郎、ジミーに謝れ!」

 叫んで、幸子さんは草薙さんに殴りかかろうとした。それを、義博さんが羽交い絞めで制止した。

 「電気は出ないぞ」微塵も動じず、繰り返す。「俺は化け物じゃねぇ」

 「化け物じゃなくても、電気は出せます」僕も冷静だった。「柔軟な筋肉を有していれば、出せます」

 「話だけでも聞いてみるべきです」羽交い絞めをキープしながら、義博さんは言った。「ここまで、全て筋肉さんの言う通りなのですから」

 草薙さんは、自身のブーメランパンツに手を突っ込んで、「禁煙中だった」と言い、出した手を揉みしだいて、腕を組み、「どうやって出す?」と言った。

 「電気を発生させること自体は、草薙さんは既にできています。先ほども、体を乾かすために筋肉を摩擦させていたでしょう。あれによって発生するのは熱だけではありません。静電気もまた発生しているのです」

 「帯電したとして、放電はできないだろう」

 「電撃は電圧の高いほうから低いほうに流れる。すなわち、電圧を上げれば放電が可能になります」

 「どうやって電圧を上げる?」

 「負荷を減らすのです。負荷が減れば電圧が上がる。筋肉の負荷を下げるのです。それで電圧が上がる」

 「義博さん、大丈夫、もう興奮していません、冷静です。放してください」

 唐突に、幸子さんが言った。義博さんは慌てふためきながら幸子さんを放した。

 幸子さんは、互いの体温が感じ取れる距離まで僕に近付いて、瞳を覗き込むように見詰めながら、口を開いた。

 「正気ですか、筋肉さん? 正気ですか?」

 「僕は正気です。筋肉の負荷が下がれば電圧は上がります」

 幸子さんは、嘲笑を浮かべ、やれやれジェスチャーをこれでもかと強調した。美桜さん、義博さん、矢吹さんも各々の方法で呆れを表現する。少し前までホームだったのに、今はもう完全にアウェイだった。

 「筋肉の負荷が下がれば電圧は上がります!」自ずと声を張り上げてしまう。「嘘じゃない、信じてください!」

 「人が三人も死んでいるんですよ!」美桜さんの怒声が耳を刺した。「ふざけたことを言うのも大概にして!」

 トラウマが、蘇った。中学二年生の、夏。誰も僕を男子と信じてくれなくて、更衣室に入ることを許されず、ポンプ室で水着に着替えた、トラウマ。真実を言っているのに虚偽と捉えられてしまう途方もない絶望。正に今と同じシチュエーション。

 涙が出ちゃう、男の子だけど。涙が、出ちゃった・・・・・・悔しい、だけど、出ちゃう・・・・・・。

 滲んで、溺れて、そうしているうちに、薔薇の香りが、した。それは、ハンカチにしみ込んだパルファムの癒しだった。

 「日常の全てが筋トレだ。負荷をかけずに筋肉を使う方法を、俺は知らない」そう言って、草薙さんは僕の涙を優しく拭った。「教えてくれ。負荷をかけずに筋肉をこする方法を」

 「あなたまで、ふざけるのですか!? 警察のくせに!」

 「黙ってろ!」

 草薙さんの一喝で、美桜さんは大人しくなった。

 「三度は言わないぞ。エレクトリックサンダーの出し方、教えてくれ」

 とんでもねぇイケメンだ、そんな感想を抱くのに一切の抵抗力は働かなかった。正しく摩擦ゼロである。筋肉のこすり方を求められて、僕の心は摩擦ゼロである。それでも、報いたいと思う。草薙さんの思いやりに、報いたい。恋心よりも尊い義理人情。僕は、ハンカチの染みに向かって小さく頭を下げた。

 「レクチャーします」涙はもう、過去だった。「僕の部屋へ行きましょう。そこで、実証します」

 激しく入り込む風雨を背にして、部屋を出る。そうして、舞台は僕の部屋。

 「草薙さん。手の指先をコンセントに当ててください」

 ラブラドールよりも従順に、草薙さんは僕の言う通りにした。

 「OKです。それでは、筋肉を摩擦してください」

 筋肉が、摩擦する。筋繊維のビッグウェーブと言っても過言ではない、押しては引き、引いては押す、押しては引き、引いては押す・・・・・・超高速で、筋繊維が大自然の事象を再現する。必然、熱が発生している。必然、帯電もしている。更に必然、負荷が放電を妨げていた。

 「ジムじゃない!」僕は草薙さんの筋肉に向かって叫んだ。「ここはジムじゃない! 筋肉に負荷をかけないで!」

 「分からない! やり方が分からないんだ!」草薙さんも叫んだ。「初めてなんだ!」

 「欲張らなければいいのです! 筋肉をデカくしようとする欲を捨てればいいのです! アメリカの野球選手が下半身の筋肉に向ける程度の情熱、その程度で筋肉を摩擦させればいいのです!」

 「こうか!? こうか!」

 飲み込みが早かった。素人の腕立て伏せみたいな負荷のない運動が、草薙さんの筋肉で起こった。後はお約束の刹那で、超常現象発生。草薙さんから発せられた電撃が、はっきりと視覚化したままコンセントに流れた。

 そうして、暗闇が世界を支配した。

 「なんてこと!」母娘の絶叫が、ユニゾンした。「ジーザス!」

 暗闇に、光が浮かんだ。

 「俺、配電室を見てきます!」

 義博さんのスマホが発する光が、部屋から消えた。

 ぐっと、強い力で体を引き寄せられる。悲鳴が出る前に、「俺のそばから離れるな」という草薙さんの囁きに耳を愛撫されて、小さな喘ぎだけが零れた。

 得も言われぬ緊張感が、その場にいる全員の鼓動が聞こえるかのような錯覚を以て、実感となった。この暗闇のなか、真威人君が、殺人犯が、そばにいる。

 浮かんだスマホの光も、恐怖を和らげる助けにはならなかった。窓ガラスを叩く風雨の音が、どんどん強まっていった。いつしか僕は、草薙さんの手を握っていた。

 暗闇が、晴れた。そこに、真威人君の顔を見た。悪意もない、作為もない、そこにあるのは寂しげな、母犬から引き離された子犬みたいに寂しげな、破顔に至らぬ辛苦だけだった。

 握った手の、温もりが罪悪に変わった。「放して!」と叫び、僕は草薙さんの手を振り払った。それからは誰も動かず、口を利かず、場の硬直は、びしょ濡れの義博さんが部屋に駆け込んでくるまで続いた。

 「配電室のブレーカーから落ちていた!」新大陸を見つけたかのようなテンションの義博さんだった。「エレクトリックサンダーによる停電は実証された!」

 「それで、犯人は!?」現金な母娘が、再びユニゾンした。「停電を起こして、犯人は!?」

 彼女たちが僕の声を待っていることは明白だった。喉のつぶれたオペラ歌手にアペルトを求めるが如き所業。それでも、否、それだからこそ、非情を追い風として、僕の声帯は震えた。

 「停電を起こした後、真威人君は予め自古さんから盗んでおいた自撮り棒と石炭を持ち部屋を出た。そうして、自古さんの部屋へ行き、一緒に来るよう促し、彼と供に一階へ降りた。後は、暗闇に紛れ、暖炉に自撮り棒と石炭を入れ、火をつける。停電が回復するころには、証拠隠滅であるかのような自撮り棒の残骸が見つかるという訳です」

 「自古さんが犯人だと、全員の考えを誘導するために・・・・・・」

 草薙さんが言って、義博さんが喉を鳴らした。

 「暴論だ!」矢吹さんが叫んだ。「ファンタジーの連発で真威人君が犯人だなんて、暴論に他ならない! 犯人は真威人君じゃない! 犯人は自古だ! まさか忘れてはいないでしょう!? 自古の死体が密室にあったことを、忘れてはいないでしょう!? あいつは、堀杉と尾容を殺して、証拠の隠滅に失敗して、刑務所に入ることを恐れて、自殺したんだ! そう考えるほうがよっぽど、刃牙やらストリートファイターやらよりよっぽど、現実的だ!」

 賛同したかった。僕も真威人君を擁護したかった。けれど、それは失楽園に続く堕落の道。救済から遠ざかる破滅の道。だから僕は、断腸の思いで、それこそ役所広司さんからの求愛を拒むが如き断腸の思いで、誘惑を振り払った。

 「現実はファンタジーより奇なり。犯人は、真威人君です」

 「それじゃあ、自古の密室はどういうことなのです!?」

 「その最後の謎を、これから解明します」僕はドアを指差した。「皆さん、廊下に出てください」

 六人が廊下に出た。僕はドアが開いたままでサムターンを回し、後に続いた。

 「ご覧の通り、サムターンを回せばデッドボルトが出ている状態になります」

 「当たり前だ、そんなことは!」柄にもなく、恫喝するような矢吹さんの口調だった。「オランウータンだって知ってる!」

 「この状態でドアを閉めようとすれば、デッドボルトが受け金物にぶつかって、閉まりません」臆することなく僕は言った。

 「当たり前だ、そんなことは! チンパンジーだって知ってる!」

 「しかし、光速でドアを動かした場合、デッドボルトは受け金物をすり抜けて、閉まる。これは一握りのホモサピエンスしか知り得ない事象です」

 一握りのホモサピエンスから漏れていたであろう、矢吹さんが受けた衝撃の大きさは容易に理解できた。彼は、まだ自然現象が信仰されていたころの人類みたいに、穢れのない眼を畏怖で染めていた。

 「無茶ですよ、それは。物体は光速に達することが出来ないのだから」義博さんが頭でっかちなことを言った。「こればっかりは無茶です」

 「フィジカルは無限のエネルギーを生み出します」論には論で対抗する。「優れた筋肉があれば物質を光速で動かすことは可能です」

 「仮に、仮にです。仮に、光速で動いたならば、その物体は分解してしまうでしょう」

 「分解する、その寸前でスピードを緩めるのです。デッドボルトが量子と化した、その刹那にスピードを緩めるのです。後はトンネル効果によって、デッドボルトは受け金物をすり抜け、量子は物質に戻り、ドアは鍵がかかった状態で、閉まる」

 「アインシュタインもびっくり」幸子さんが頭を抱えた。「言うなれば、フィジカル相対性理論」

 「結局のところ、百聞は一見に如かず、です」僕は草薙さんを見詰めた。「これで、最後です。草薙さん、お願いします」

 「どうすればいい?」ソルジャーの顔だった。「どうすれば光速で動かせる?」

 「シンプルです。ドアノブを掴み、全力でドアを閉める、それだけです」

 「やってみよう」ソルジャーの顔だった。「やってやろう」

 草薙さんが、ドアノブをつかんだ。真剣での切り合いが始まる直前に流れる類の空気が、流れた。固唾をのむ音が、聞こえた。

 草薙さんが、ドアノブを引いた。全力だと分かるコンセントリック。

 ドアは、初動から、大谷選手のストレートより速かった。正しく光速であった。

 空間の歪みを、視認できた。時間の歪みさえ、視認できた。アインシュタインの笑い声が聞こえた気がした。

 デッドボルトが超スピードで受け金物にぶつかり大破する、そんな最悪のシナリオを想像したのであろう、美桜さんは両手で目を覆った。それは、歴史的瞬間の目撃者になるチャンスを放棄する、臆病な愚行だった。

 ドアが、閉まった。デッドボルトが、受け金物にぶつかることはなかった。デッドボルトは、すり抜けていた。飛び道具をすり抜けるアクセルスピンナックルのように、すり抜けていた。鍵は、かかっていた。

 「こうして、真威人君は密室を作ったのです」

 言って、後はもう、涙をこらえることしか出来なかった。

 「嘘だ! そんなわけがない!」

 叫んで、矢吹さんは草薙さんの手を払いのけ、ドアノブを掴み、引こうとして、しかし引けなくて、何度も何度も、ドアをガタンガタン言わせた。

 「ちくしょう! なんで鍵がかかっているんだよ!」

 なおも叫んで、ドアをガタンガタン。健気で切ない、ガタンガタン。これは涙腺に利いた。僕はもう、涙をこらえることが出来なかった。

 「いいんです、矢吹さん」

 真威人君が、矢吹さんの肩にそっと手を置いた。ガタンガタンが、止んだ。

 「俺が、堀杉と、尾容と、自古を、殺しました」

 恐らくは、人類史上最も穏やかな告白。それくらい、真威人君の顔も、声も、澄んでいた。

 「そんな訳がない!」駄々っ子のような、矢吹さんの声。「真威人君は犯人じゃない!」

 「ドアノブを見てください」

 真威人君に促され、矢吹さんはドアノブから手を放した。そうして、マガジンマーク。ドアノブは、握った手の跡で、歪んでいた。

 「光速でドアを動かすためには、ドアノブを強く握らなくてはならない。花山薫の数式、その応用です。握力×体重×スピード=破壊力、それはそのまま、握力×体重×破壊力=スピード、に当てはまる」

 「結局、刃牙じゃん」美桜さんが言った。「刃牙じゃん、結局」

 「この手の跡は、当然、草薙さんのもの。そうして、自古のドアのノブには、俺の手の跡が残っている」

 ベートーヴェンのピアノの音色が聞こえた気がした。月光・・・・・・それは幻聴だっただろうか? おそらく、幻聴だろう。ここにあるのは、唯、悲しみのみ。

 矢吹さんが、膝から崩れ落ち、むせび泣いた。

 「手錠は、頂さんに使っちまったか。まあ、手錠があったところで、この太い手首にははまらないか」

 愛犬の死を悼んでいるかのような声で言い、それから、草薙さんはブーメランパンツに手を突っ込んだ。

 四次元ポケットを探るような動作があって、そうして、草薙さんはブーメランパンツから麻縄を取り出した。

 麻縄の長さは10メートルほどだった。緊縛用の物だと、すぐに分かった。

 「剛力さん。殺人の容疑で逮捕する。悪いが、縛らせてもらうぞ」

 真威人君は、こくりと頷いた。

 逮捕術のルーツは捕縄術である。必然、草薙さんの手際は良かった。真威人君が身を委ねているのもあって、縛りはすぐに済んだ。そうして、亀甲縛りである。余りのエロさに、僕は卒倒しそうになった。

 「まじヤバい!」

 言うや否や、美桜さんはスマホのカメラを真威人君に向けた。

 「恥知らずなことをするんじゃない!」

 純度100パーセントの叱責であると、分からせるだけの清廉が草薙さんの声にはあった。だからこそ届いたのだろう、美桜さんは現代人の邪悪なサガを打ち切り、恥の露わな顔でスマホをポケットにしまった。

 「一階へ降りよう」

 麻縄の先端を、草薙さんが引っ張った。抵抗することなく、真威人君は引かれるまま歩いた。時代劇に見る罪人の有様そのままで、人情は容易に色欲を覆い隠した。麻縄が食い込む筋肉に、僕は唯々、嘆いた。

 一階へ降りて、食堂に入り、草薙さんが握っていた麻縄の部分が床固定テーブルの脚で縛られて、真威人君の拘束は完成した。事件の終わり、その安堵感が、あふれ出す疲労という形で具現した。

 「皆さん、疲れたでしょう」草薙さんの声も疲れていた。「俺が見張っておきますから、皆さんは休んでいてください」

 すぐには、誰も食堂を出なかった。数分して、ようやく、矢吹さんがふらふらと食堂を出て、螺旋階段を上った。その後、幸子さんも食堂を出て、僕もいよいよ、自ら作り出した絵面に耐えられなくなって、食堂から、真威人君から、逃げ出した。

 二階に上がって、自室に入って、ベッドに身を投げて、足の裏からじんわりと鈍い痛みが広がってきて、シーツをつねってみたりして・・・・・・全てが浮かないまま、夢想する未来は霞がかって、真威人君の出所が何時になるかどころか、それを待ち続けられる忍耐が僕に備わっているのかさえ、見当が付かなかった。身を、縮める。せめて、孤独にくらいは抱きしめてほしかった。

 

 底の見えない白だった。空だと気が付くのに時間がかかった。弱い波が僕の足をくすぐった。僕が笑って、真威人君は、「かわいいね」と言った。

 空に負けないくらい真っ白な砂は、まとわりついて、筋肉の陰影を惑わした。これ以上ないってくらい、裸。お互いの恥骨の位置さえ手に取るように分かる。

 ダイナミックな筋肉からは想像できない繊細で、踊る指先は僕を果てしなく昇らせた。全身が性感帯になっている。獣同然の声は必然、痴態を奏でるも、ここには僕と真威人君の二人きり、それなら構うものかと、全力で発した喘ぎは欲情の潤滑油だった。

 反撃の狼煙は、乳首。意図せずこすった乳首で、身をよじる真威人君の可愛さたるや、筆舌に尽くし難し。貪って、こすり倒した乳首の感触は、果てしない隆起に見つけたり。

 「入れるよ」

 待ってましたと四つん這いになるも、真威人君は僕を軽々と仰向けに倒した。逆光にさえ煌めくハンサムフェイス。そこに混乱は見て取れなかった。

 「どこに?」

 「女の子の部分に」

 言われて、自身の下腹部を見た・・・・・・仰天! 汚らわしい露出内臓が、無い! そこに広がるのは真っ新な丘、そして慎み深いブラックホール!

 「タマがねえ・・・!! チ・・・チンも・・・」

 「女の子なんだから、当然さ」

 僕が、女の子・・・・・・そう、僕は、女の子。涙が、上からも下からも流れた。

 「入れるよ」

 「入れて」

 真威人君の真威人君は、真威人君だった。デカくて、滑らかで、温かい。

 力強い先端は、容易に、女の核に届いた。前立腺のそれとは類が異なる、Gの衝撃。足指が、自ずと開いた。

 「肉子」

 呼ばれて、僕はもう肉子だった。筋肉好三郎なんていう男丸出しの名からの、解放。これで名実ともに、女。

 「もっと強く呼んで!」僕は真威人君の背中に爪を立てた。「肉子って!」

 「肉子! 肉子!」

 ピストンなんて必要なかった。繋がって、雄と雌の部位が荒ぶるままに委ねれば、それで快感だった。空の白が、強まった。

 イク、イク、イッちゃう! そんなファンタジーを地で行った。空の白が、強まった。


 ショーツの不快感が、あった。目覚めにはキツいスムージー。

 遅れて、首から背中にかけてが痛んだ。俯せが祟ったのだと、また遅れて理解した。

 仰向けになって、上体を起こして、僕の僕は僕のままで、ショーツを破らんばかりに立ち尽くしていた。正しく、リアル。

 ミルク塗れのショーツを脱いだ。道化みたいな下腹部をティッシュで拭いた。泣かずにはいられなかった。

 何の考えもなく、持参した最も高価なショーツを履いた。姿見に自身を映し、男と女の両立を見て、しかし愛する彼の温もりがどこにも見つからないのであれば、目を伏せるしかない。

 スカートを、履いた。履くつもりのなかった、お守り同然のスカート。そうして、リップを軽く塗る。

 風雨の音が聞こえないことに、今更気が付いた。窓に目を向ける。真っ暗。スマホを見て、暁だと知れた。

 部屋を出た。しんと静まり返った空間では、シャンデリアの明かりが過剰に思えた。

 螺旋階段の軋みも又、過剰だった。

 ロビーで、草薙さんはソファに横わたっていた。目は開いている。

 ローテーブルに置かれたマグカップの中で、冷めたコーヒーが明かりを反射した。

 僕を見つけると、草薙さんは上体を起こした。それから、マグカップに触れて、すぐに放して、「君は正しいことをした」と言った。

 僕は、苦しくなった。

 食堂のほうに歩を進めると、草薙さんが、「頂さんが意識を取り戻している」と言った。構わず、僕は食堂に入った。

 真威人君と、真っ先に目が合った。相も変わらぬ亀甲縛りで自由を奪われている貴公子、その眼が優しすぎて、まるで僕を労るようで、縄を解いてやりたい欲求は尋常のレベルを優に超えた。

 「イケメンだからって、解放しちゃ駄目だよ」

 卑屈な声で、無法の精神は萎えた。冷静に堕ちた侘しい瞳で卑屈な声の主を見やる。

 頂さんは、胡坐をかき、無骨な手錠で繋がれた床固定テーブルの脚をべたべたと触っていた。

 「女の目だ」頂さんは、濡れ雑巾みたいな笑みを浮かべた。「弱者男性を蔑む、女の目だ」

 事実だと思った。事実、僕の女の目は、既に頂さんを映していなかった。

 僕と真威人君は、黙って見つめ合った。

 螺旋階段が、軋んだ。真威人君の目の動きに合わせて、僕の目も動く。

 矢吹さんが、食堂に入ってきた。こけた頬、眼光の目立つ瞳、骨張って見える肢体。力石減量ドリルをこなしたかのような、異様。

 「君は、山本さんと、知り合いだったんだよね」真威人君のそばに立って、矢吹さんは言った。「彼女も、高知県出身だった」

 「ええ、そうです」真威人君の表情が張り詰めた。「陽菜は、俺の幼馴染です。俺の、初恋の人です」

 デカいハンマーで脛骨を強打されたかのような痛みが、僕を襲った。それはそうだろう。愛する男が初恋を語っているのだから、それはそうだろう。

 会ったことすらない人物に、僕は激しく嫉妬した。同時に、そんな自分を激しく嫌悪する。

 「復讐、だったんだろ」声だけでなく体まで、震える矢吹さんだった。「山本さんを自殺に追い込んだのは自古たちだと、そう考えたのだろ」

 「考えたのではないです。知ったのです」強く食いしばって、続ける。「陽菜の自殺のきっかけになった強姦、それが自古たちが仕組んだものだと、知ったのです」

 さえずりが、聞こえた。二羽いるようだ。この世界には悲しみなんて何一つないとでも言うような、清純。

 真威人君の視線が、彷徨った。それを、追いかけることは叶わなかった。

 「ずっと、保育園のころから一緒だったから、そばに居るのが当たり前だったから、陽菜が東京の大学に行くまで、陽菜がどれだけ大事な存在か自覚することはなかった。自覚したらもう離れているのが辛くって、就職したばかりの水産会社を辞めて、陽菜と同じ大学へ行くために勉強を始めた。それが、去年の夏。陽菜には、同じ大学に行くために勉強を始めたことは黙っていた。サプライズのつもりだった。独り善がりのサプライズ・・・・・・陽菜が一番辛かったときに、陽菜からのラインにあいつらしくない弱気な言葉が散見していたのに、俺は、勉強で手一杯で、同じ大学に通い始めてからちゃんと話を聞けばいいと、陽菜に、あのときにこそ必要だったのに、寄り添ってやれなかった。そうして、合格発表の日、陽菜は、自ら命を絶った。しつこく言い寄ってくる男がいたことだけは、過去のラインで知っていた。だから、俺は大学に、陽菜のいない大学に入って、その男を探した。そいつは、自古は、すぐに見つかったよ。陽菜が自古に言い寄られていたことは大学の連中のよく知るところだったからね。俺が陽菜の幼馴染だと知れたら警戒されると思い、俺は素性を隠して、自古がたまり場に利用している文学評論サークルに入った。自古に取り入って話を聞き出す腹積もりでね。取り入るのは簡単だったよ。取り巻きは大勢いたけれど、自古は孤独な男だったからね。けれど、どれだけ距離を詰めようとも、自古は陽菜について言及しなかった。それで痺れを切らして、俺に気があることが見え見えな堀杉と付き合うことにしたんだ。前立腺を突いてやると、堀杉は口が軽くなり、陽菜と自古の間にあったことを何度か口走った。しかしそれらは喘ぎの延長でしかなく、確証に繋がるものではなかった。だから俺は、堀杉のスマホを見てみることにしたんだ。ロックは指紋認証だったから、寝ている堀杉の指に当てるだけで容易に解除できた。そうして、堀杉のライン、自古と尾容とのグループラインに、証拠があった。グループラインを遡れば、陽菜に対する強姦がどのようにして行われたのか、それがどれほど悪質であったのか、理解することができた。陽菜に対する強姦で逮捕された暮椙暮汚ぐれすぎ ぐれおは、尾容の元カレで、半グレの一歩手前の悪党だった。そいつを尾容は自古に紹介した。自古は暮椙に金を払い、陽菜を強姦するよう依頼した。強姦は、実行されて、堀杉はその一部始終を録画していた。その動画を、自古は、脅しに使って、陽菜に交際を求めた・・・・・・グループラインに、全て残っていた。陽菜の、脅しに使われた動画も、残っていた・・・・・・俺は、悟ったよ。証拠を丸々残している奴らの有り様で、悟った。奴らは自分たちが罰を受けるだなんて、これっぽちも考えていないのだと、悟った。人の人生を、命を奪っておいて、罪の意識を覚えることもなく、恐怖すら抱いていないのだと、悟った。俺は、奴らを殺すと、決めた」

 「君は正しいことをしたよ。殺されて当然のクズどもを殺したんだから」

 黙れ! と頂さんに怒鳴りたくなった。たとえ悪人であったとしても、私刑によって命を奪うことなど、単純に肯定してよいものではない。それが分かっているからこそ、真威人君の顔には正義のおごりなど微塵もなく、罪悪の悲痛だけがありありと浮かんでいるのだ。

 真威人君が背負うことになった二重の苦しみ、それは僕がもたらすこととなった司法の罰によって、三重の苦しみとなるのか、あるいは一つの苦しみを消し去ることになるのか、明白ではない。だから僕は、途方のない虚無を抱き、後悔を強めた。

 「二つ、気になることがある」草薙さんが食堂に入ってきた。「一つ目は、鬼肉島のわらべうたに見立てて殺人を行ったことだ。必要性をまるで感じない」

 「見立て殺人になったのは偶然です。俺も高知県の出身ですから、鬼肉島のわらべうたは知っていましたが、その内容は、昨日、久しぶりに聞くまで完全に忘れていました」

 「尾容さんの足の指を暖炉に入れただろ。それで偶然だったとは言えないぜ」

 「俺は、尾容の足の指は暖炉に入れていません」

 室温が5度くらい下がった気がした。風は収まっているのに、窓ガラスがガタガタなった。照明がチカチカした。

 「私ではないですよ。重度の足フェチですが、そんなことはしない」

 頂さんが言って、底冷えするような空気が晴れた。

 「信じるぜ。尾容さんの足の指はソニックブームで吹っ飛び、偶然、暖炉に入っただけだ」おばけなんてないさ、を地で行く草薙さんだった。「さて、気になることの二つ目だ。剛力さん、君の復讐の対象はまだ一人、残っているだろう」

 矢吹さんの悲愴が強まった。

 真威人君の影が、暗さを増した。

 「暮椙暮汚」草薙さんの眉間のしわが深くなった。「もう一人のろくでなしだ」

 「暮椙は懲役6年の判決を受けた」真威人君の声は海底から聞こえてくるようだった。「奴は控訴せず、黙って刑を受け入れた。けれど、それは罪の意識によるものではない。出所したら自古から大金をもらう約束で、損得勘定のみで、奴は今、豚小屋でのうのうと生きている」

 「そんなことまでグループラインに書いてあったのか」草薙さんは首を横に振った。「それで、君は暮椙が出所したら殺すつもりだった、と?」

 「つもり、じゃない。殺すんだ」

 そう言ったのと、亀甲縛りが解けたのは、同時だった。ローション風呂のなかであるかのように、麻縄からするりと抜け出す魅惑のボディ。

 「パンプダウン!」

 僕は叫んでいた。そうなのだ、パンプダウンなのだ。トリックは、こうだ。僕の推理が始まる直前、真威人君は筋トレを行っていて、パンプアップしていた。筋肉がデカい状態で縛られた訳だから、必然、パンプダウンして筋肉が小さくなれば縛りに緩みが生じる。それなら、縄抜けは容易さ。

 拘束から自由になった真威人君の、初動はスピーディーだった。矢吹さんの背後をとり、彼の首に左腕を回す。これで左腕に力をこめたら裸絞だ。

 「動くな!」真威人君が草薙さんに向かって叫んだ。「動けば矢吹さんの首を折る!」

 草薙さんは舌打ちをして、エネルギー爆発寸前のふくらはぎを静めた。

 頂さんの、揶揄する声が癇に障る。

 「暮椙を殺すまでは、捕まるわけにはいかない」鋭いナイフを連想させる真威人君の眼光。「陽菜の無念は、必ず晴らす」

 「ここは孤島だ。逃げられない」混じりけのない同情が、草薙さんの瞳に切なく透けた。「考え直せ。情状酌量の余地はあるんだ。君は、やり直せる」

 「陽菜のいない世界でやり直す意味がどこにある」

 リカルド・ロペスのアッパーを食らったかのようなインパクトで、僕は悶絶しそうになった。そんなにも、こんなにも、真威人君は陽菜さんを想っているのか・・・・・・僕は、道化だ。出所した真威人君との日々を、ほんの僅かでも夢想した、道化。そんなものは端からなかったのだ。真威人君は、自分の人生など、捨てていた。愛する女性のために。その覚悟に泥を塗ったのは、他ならぬ僕。正義だの愛だのと誤魔化して、結局は自分の欲、自己愛において愛する男を辱めた、万死に値する所業。僕には、なかった。真実を明らかにする権利も、真威人君を法の下にさらす資格も、僕には、何もなかった。

 強く握ったスカートの生地越しに、爪が手の平へと食い込んだ。

 「殺してくれ」

 その声は、自分の口から溢れたものだと思った。けれど、違った。声の主は、矢吹さんだった。

 「殺してくれ、真威人君。俺を、殺してくれ」矢吹さんは、泣いていた。「俺は、山本さんが苦しんでいるのを、ずっと近くで見ていた。見ていて、なのに、何もしなかった。自古たちが、怖かったから。俺も、同罪だ。殺してくれ、真威人君。殺して」

 真威人君の、顔よりも筋肉に動揺が出た。デカい左腕が、緩んだ。

 草薙さんの、ふくらはぎに再びエネルギーが集まった。真威人君に飛びかかろうとしているのは明らか。

 考える時間なんてなかった。だから僕は心のままに、草薙さんの下半身に抱き着いた。

 「逃げて!」心がそのまま声になっていた。「真威人君!」

 真威人君は、矢吹さんを突き飛ばすと、そのまま壁に向かって後ろ蹴りを放った。強い筋力に比例する威力で、壁が吹き飛ぶ。涼しい風が、食堂に流れ込んだ。

 幸子さん、美桜さん、義博さんが駆けてきた。美桜さんは、壁にできた大きな穴を見ると、「またお金がかかる!」と叫び、卒倒した。

 壁の穴から外に出た真威人君を、草薙さんは僕を少し乱暴に引き離してから追いかけた。

 床に突っ伏した矢吹さんは、体を震わせ、声もなく泣き続けた。

 澄んだ空気が、海の香と音を運んだ。夜明けが暗がりを犯す。さえずりが、戻った。ちゅんちゅん、ちゅんちゅん、番だろう、きっとそうだ。

 ぬかるみに、足跡を見つけた。ビッグフットのものと勘違いしても可笑しくないサイズ。しかし僕には、それが真威人君のものであると手に取るように分かる。

 愛されるよりも愛したいマジで。見返りなんて、いらない。愛に殉ずることが、僕には尊かった。

 走り出して、壁の穴をくぐって、ぬかるみにスリッパをとられて、何度か転んで、それでも走り続けた。獣道に入って、枝で頬や肩を切って、泥に隠れた石で足を切って、朝霧に視界を塞がれて、それでも走り続けた。真威人君も、今の僕と同じだったのだろうと思う。傷付きながら、進むべき道すら見えなくなって、あるのは唯、愛する人への思いだけ。彼の行為を、僕は肯定しない。けれど、否定もしない。僕は唯、彼を思う。

 疲労と傷の痛みが足の運びを弱めるも、激しい呼吸が次第にその白を露わにして、木々の狭間に見えた二人のマッチョに、最後の力は振り絞られた。

 孤島の長い獣道を抜けると断崖であった。川端康成先生もびっくり。

 水平線が黄金をたたえている。船越英一郎さんみたいな佇まいの草薙さん。真威人君の顔は、逆光で見えない。

 「東京タワーレベルの断崖だ」草薙さんが言った。「落ちれば間違いなく死ぬ」

 真威人君がじりじりと後退って、僕の心臓はつぶれそうになった。

 「死ぬな、若いの」

 草薙さんの声は切実だった。それを感じ取れない真威人君ではない、けれど、彼は崖っぷちに向かうことをやめなかった。

 「真威人君!」憎い喉仏を引き千切る覚悟で、叫んだ。「真威人君!」

 彼の注意が、僕に向いた。ライブ会場で推しが僕を見てくれた、といった類の思い込みではない。ガチのガチで、彼は僕だけを見詰めた。

 黄金色は肉体を透けて、逆光という無粋を消し去った。リアルであるのにファンタジーだった。

 真威人君は、優しく、笑っていた。

 「ごめんね・・・・・・肉子」

 その言葉だけを残して、真威人君の体は空に放たれ、すぐに、見えなくなった。

 僕は、崖っぷちに向かって走った。草薙さんに手を掴まれるも、筋力を超越する精神の力で進み続け、そうして、崖っぷちに到達した。

 遥か下方の、荒波は無慈悲だった。そこに人の姿など、見つけようがなかった。

 「真威人君」

 泣き声にすらならない声だった。沖に流されていくブーメランパンツだけが、世界がまだ終わっていないことを僕に知らせた。

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