フィジカル殺人事件 前編
彼の筋肉はカツオのようだった。ピッチピチで、イッキイキ。上腕二頭筋が隆起して、弾けた繁吹きは僕のジーンズを濡らした。僕の僕も、少しだけ濡れた。
ジュディ・オングは女は海と歌ったが、あれは嘘だ。海は男。時に荒々しく時に優しい。男じゃないか、丸っきり。
ブーメラン・・・・・・ブーメランのパンツだ・・・・・・際の際までデカくなった内転筋が心許ない布切れを押し上げ、これ以上ないってくらい冷や冷やさせる。こんなスリルは、東京のジャングルじゃ味わえない。
太陽を焦らすかのように、シックスパックの陰影がほぞを隠した。余りにも慎み深いものだから、シャイなジャパニーズピーポーだと知れた。
ワカメになりたいと切に願う。デカい小指球に踏まれた、あのワカメに。
「君も、観光だよね」彼の整った歯は、筋肉とのコントラストも相まり、たまげるくらいホワイトニングだった。「大学生?」
「いえ、一応、社会人です。あなたは?」
「俺は、大学生」
スイミングゴーグルを外して、露になった瞳は澄み切っていた。邪な色が微塵もないことに、僕は失望するとともに安堵した。
「一応、ってユニークだね。人に言えない稼業の人?」
「小説家です」
全裸にひん剥かれたかのような心持ちだった。胸を張れないのだ。芥川賞作家でもなければ直木賞作家でもない。バイトをしなくては食っていけない、それでも小説家という看板を誇示するしかないセンチメンタル。だからこそ、このセンチメンタルジャーニーがあるのだ。四国の南方に位置する孤島、鬼肉島。バカンスに興じるような余裕はない。現実の全てから逃げ出して、僕は今、ここにいる。
日常の、惨めな笑みが浮かんでいる気がして、顔を伏せた。
「すごいね、小説家。初めて会ったよ。俺も好きだよ、ユッキー」
「ユッキー?」不意打ち同然のワードに、僕の目は引き付けられた。「ワッキーでなく、ユッキー?」
「そう、ユッキー。三島由紀夫」少年と見紛う笑顔だった。「仮面の告白、マジ泣いた」
けば立つ麻縄が見える。その幻を用いて、彼は僕の胸を締め付けた。
期待して良いんだな・・・・・・驚くほどあっさりと劣等感は消え去って、後には情欲だけが残った。
「俺、剛力真威人」愛知県の五平餅を彷彿とさせるサイズ感のサンダルを、彼、真威人君は突っ掛けた。「君の名は。」
「筋肉好三郎です」
「いや、ペンネームじゃなくて」
「本名です」
仄かな影が射して、真威人君のえくぼは深まった。空を見上げる。ぐんぐんと高度を上げていく数羽のミズナギドリが、そのまま天高くを飛翔し、太平洋へと消えていった。
「時化る」
「天気予報では荒天の心配はなかったけれど」
「親父が土佐の漁師で、大学に入るまでは毎日のように手伝いをしていたから、分かるんだ。天気予報よりも信憑性が高いよ」
なるほど、合点がいった。ジムで作られる類の浅ましいマンメイドマッスルとも違う、リアルファイトで作られる類の悍ましいヒッティングマッスルとも違う、大自然に作られたナチュラルマッスル。だからこそ、僕は真威人君の筋肉に美を見出したのだ。筋肉は過程を色濃く映す。結果イコール過程と言っても過言ではない。
筋細胞に潮の香りを感じ得た。僕は、土佐湾の濃密な懐に感謝した。
「どこに泊っているの、好三郎君」
ファーストネームで呼んでくれた、それだけで真威人君の人格は保障された。ろくでなしであったならば、十中八九、僕をきんに君と呼ぶのだから。これは僕の19年間の人生で証明された真実である。
「ステロイドというペンションです」
「奇遇だね。俺もサークルの連中とステロイドに泊まるんだよ」
観光地域づくりの一環で、鬼肉島に宿泊施設が誘致されて久しい。ホテルやらコテージやらが点在するなかで、真威人君と同じ屋根の下で眠れる偶然は、無神論者の僕にさえロマンスの神様を信じさせた。
「まだチェックインを済ませていないんだね」真威人君は僕のキャリーケースを見やった。「よかったら、一緒にステロイドまで歩かない?」
イカれた編集者にそそのかされ、大学を中退して一年になる。その間、人と連れ立って歩くことなど一度もなかった。もう歩調の合わせかたすら忘れている。それでも、真威人君となら歩んでいけると、理由もなく確信できた。
「行く行く、行っちゃう」
前のめりが過ぎて、言葉を選べなかった。頬が真っ赤になるのが自分でも分かった。
「行っちゃうの?」健全な声で、真威人君は言った。「行っちゃえSTEROID」
それじゃあ行っちゃうさ。僕は子犬みたいに砂を蹴った。
「好三郎君。キャスターが砂を噛んでいるよ」
言うや否やキャリーケースを持ち上げる。ハンドルに小指だけを引っかけて、軽々と。旅に慣れておらず、あれやこれやと詰め込んで肥えさせたキャリーケースの重量は10キログラムを超えている。控えめに言っても、アームレスリングのプロレベルに相当する腕力だ。
「たまげたなぁ」本心が口をついた。「真威人君なだけに、ダイナマイトアームや」
真威人君がはにかんだ。膨張した上腕とのギャップが余りにもセクシーで、釘付けになる。
これまで生きてきて、今ほど麻酔銃を欲したことはない。麻酔銃といっても物騒なやつではない。後遺症の心配がない、コナン君が使う類のやつだ。そいつで真威人君を失神させ、丸太小屋に運んで、監禁してしまいたい・・・・・・。
どす黒い煩悩を追い払おうとしているうちに、地面の感触が変わった。
キャリーケースを下ろし、真威人君は足の甲についた砂を払った。
「ありがとう、真威人君」
「余計なお節介だったかな?」
「ううん。ありがとう」
観光地ながらも、鬼肉島には余り人の手が入っていない。細マッチョのように矛盾した言い回しだが、得てしてアイランドリゾートとはそういうものだ。
サンダルからはみ出た踵が、歩を進めるたび土の色に染まっていく。道にはみ出た低木をへし折りながら。
正しく東洋のナイトであった。さながら僕はお姫様。良い気分だった。
へし折れた弾みで、低木の枝先が躍った。素人の鞭に打たれたようになって、真威人君の肩は小さく裂けた。
「絆創膏を出すね」僕はキャリーケースに引っ掛けてある救急バックを開いた。「待ってて」
「大丈夫。放っておけば治るんだから」
「駄目、ばい菌が入っちゃう」
ワイドサイズの絆創膏も、盛り上がった肩のそばでは米粒に見える。唾液を飲み込む。すっぱい。緊張しているのだ。
絆創膏を隔ててさえ、強い弾力と熱量を指先に感じられた。にじむ血までがエロスをかきむしる。
出来心で、素肌に指の腹をあてた。幼少のころ、肌身離さなかったバスタオルを思い出す。顔をうずめたい衝動を必死に抑えて、僕は真威人君から離れた。
「好きだった女の子のことを思い出したよ」まじまじと絆創膏を見詰める目は優しいのに、発する言葉は残酷だった。「ありがとう」
なんてことはない、よくある話だ。マッチョとゲイがイコールであるのはAVのなかの話なんだから。筋肉への愛を自覚した14歳のころから、こんなことは幾らでもあった。慣れっこさ。それでも、心は痛む。スタートラインにすら立てない苦しみは、慣れすら許さない激痛だ。
道端で、しぼんだユウガオが垂れた頭を連ねている。悲哀が増して、恋愛脳に辟易した。
「行こう」努めて、元気な声を出す。「もう僕を気遣わなくていいからね」
それでも、真威人君は先を歩き、低木をへし折るのだった。自分より筋力の劣っている人間を無意識レベルで労わるのだ、この好青年は。親御さんの育て方が良かったのであろう。好きだ、本当に。しかし、この気持ちは、不毛・・・・・・。
胸に込み上げるモヤモヤが、悔しさだと分かるまでには、少しだけ時間を有した。
「今更だけど、服を着ないんだね」
当てこすりだと自覚できたから、激しく後悔する。
僕は、恐る恐る、真威人君の表情をうかがった。
彼は、屈託なく笑っていた。
「いつもこの格好だからね。さすがに冬場はタンクトップくらい着るけれど」
至極もっともな回答だった。デカい筋肉を纏うということは、そのままフォーマルを意味しているのだ。どれほど優れたスタイリストだって、今以上に真威人君を上品にすることなんて出来やしない。
「馬鹿なことを言ってしまって、ごめんね」
「謝らなくて大丈夫だよ。服は着ないのか、ってしょっちゅう言われていることだから」
「道理を知らない人が多くて困るね」
次第に、道幅が広まっていった。セミの鳴き声が強まる。汗が、滴った。
自ずと、僕らは横並びに歩いていた。
勾配もなくなって、開けた視界にこぢんまりとした洋館が収まった。
「あれが、ステロイド」真威人君が洋館を指差した。「もう少し歩くから、休憩しようか」
キャンプができそうなほど空間に余裕があった。無骨な丸太が数本、横たわっている。それに、老人が一人、座っていた。
人の風貌を酷評はしたくない。しかし、その老人に関しては、小汚いおじいさん、としか形容できなかった。
小汚いおじいさんが、手招きをした。満面の笑みだ。不揃いな歯がはっきり見えるほど。
「面白そうだね」
躊躇なく、真威人君は小汚いおじいさんのそばに座った。躊躇を見せぬよう努めて、僕は真威人君の隣に座った。
「立派な体の男の子に、めんこい男の娘だ」小汚いおじいさんが言った。「観光かい?」
「はい、観光です」真威人君はさわやかに答えた。「おじいさんも観光ですか?」
「観光客に見えるかい?」
見えなかった。赤羽の路地裏で見かけるような身なりをしているから。
「宿泊施設の関係者の方ですか?」困り顔の真威人君に助け舟を出したい一心で、言った。「ペンションのオーナーとか?」
「そんなら羽振りもいいやな」しわだらけの首筋を乱雑にかく。「この歳じゃい。もう働いとらんよ」
くどいようだが、赤羽の路地裏で見かけるような身なりだ。辱めてしまったことに罪悪感が湧いて、僕は恭しく頭を下げた。
ふと、思い至る。観光地になる前、鬼肉島は無人島だった。村落が存在していたのは大正時代までだ。故に現在、観光か労働が目的の人間以外、この島には居るはずがない。
背筋に、冷たいものを感じた。
「鬼肉島のわらべうた、聞いてみるかい?」
僕たちが返事をするより先に、小汚いおじいさんは頭を振った。国際弁護士の湯浅卓さんに似た動きだ。そうして、左の側頭部に集まった長髪を真っすぐに垂らす。
手ぐしを入れるかのような自然体で、伸びた爪が長髪を弾いた。途端に、粘り気のある音が空を切る。琵琶の音色にそっくりだ。
驚くべきことに、脂ぎって固まった長髪は弦と遜色ない代物と化していたのだった。
ロックの影響を受けているであろうオーバーなビートで、イントロを終える。そのままのパッションで、小汚いおじいさんは歌い出した。僕たちの意思を無視したまま。
ほっては ほっては はらもすくだ
すいても つめる ものもなし
おにさ くろうて しのげるか
しのいだ やさきに おににげて
めにつく かしらを たたきわる
あつうて あつうて はらもすくだ
すいても ままでは はらこわす
おにさ やいては しのげるか
しのいだ やさきに おににげて
ばらした からだを ひにくべる
くっても くっても はらがすくだ
すいても おまんま かぎりあり
おにさ ふやして しのげるか
しのいだ やさきに おににげて
じまんの こづかが つきささる
リズムは良かった。現代人をも飽きさせない80年代の洋楽みたいな普遍性があったからだ。しかし、歌詞が陰惨すぎる。しわがれた歌声と相まって、余韻は恐怖そのものだった。
小汚いおじいさんが、したり顔を作った。恐怖が怒りに変わった。
「くわばら、くわばら」
そう言って立ち上がり、小汚いおじいさんは僕たちが来た道を下っていった。
強風が吹き抜けて、真威人君の短い前髪は揺れた。千切れたススキの葉が小さな額についた。眉間のしわが際立った。
僕がススキの葉に手を伸ばすと、しわは笑いじわに変わった。
「何だったんだろうね」真威人君の声は少しだけ上擦っていた。「あの歌」
「僕、訪れるにあたって鬼肉島のことを調べたのだけれど」ススキの葉を風に流して、続ける。「明治時代まで、鬼肉島では金鉱石の採掘と加工が行われていたんだ」
「わらべうたの、ほっては、とか、あつうて、とかは採掘や加工の仕事を表したもの?」
「そうだと思う」
デカい首が傾げられた。
「採掘や加工の仕事に関する歌詞に、おに、っていう単語が何度も出てくるのは何でだろう?」
怖がらせてしまうことが忍びなくて適当に誤魔化そうかとも思ったけれど、怯えた真威人君の筋肉がどんな反応を示すのか見てみたい欲求に駆られてしまい、僕はホイホイと口を開いた。
「医者であり民族学の研究者でもあった若尾五雄先生は、鬼は金工師のことを指していると提唱している。金工師とは、広義でいうなら、金属の採掘や加工に関わっていた人たち」
「ちょっと、ちょっとちょっと」
顔面蒼白になった真威人君の、大胸筋が心臓のごとく脈打った。
愛おしかった。怖がりなマッチョ。愛おしかった。恐らくは母性であろう感慨を、僕は持て余した。
「鬼を食う、みたいなことを歌っていたよね。それって、つまり・・・・・・」
「身内を食べたのかもしれない。飢餓か何か、理由があって・・・・・・」
想像を絶するほどの馬力で大胸筋がポンプする。
これ以上は酷だと思い、想像の話だよ、とあやして、僕は話を切り上げた。
強風が断続的に続いて、休憩もそこそこに歩き出す。
緩い下りで、道幅が狭まっていくにつれ、洋館のレンガは輪郭を濃くしていった。
「そういえば、まだ聞いていなかった」すっかり本来の明るさを取り戻している真威人君だった。「好三郎君が書いたものって、発表されているんだよね。読んでみたいから、タイトルを教えてくれないかな」
日本最大の出版社、講英館から僕の小説は二冊、出版されている。その二冊ともが、ほとんど売れていない。電子書籍販売サイトを幾ら梯子してみても、レビューを見つけられない有様だ。誇れるものがあるとすれば、裏垢を用いていない高潔さのみ。しかし、そんな精神性が評価されることはない。数字が全てと化した世紀末同然の世界で、数字を持たない僕はどう足掻いても底辺、辱められる存在でしかないのだ。
卑屈の自覚は、ある。それでも、僕には口をつぐむことしか出来なかった。
「教えてよ、好三郎君」
「駄目、教えられないよ」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「恥ずかしいことないよ。物語を書けるなんて素敵なことじゃん」
慰めが、僕を増々、頑なにした。
不意に、肋骨から甘い刺激が広がった。笑いがこみ上げてきて、僕の閉口は破られた。
カブトムシみたいな太い指をしているというのに、真威人君の指さばきはテクニシャンだった。僕の性感帯である肋骨に的確なくすぐったさを与えてくれる。
「教えてよ」
「いや! 教えられない!」
笑い声に淫らが混じる。僕は前屈みになった。
「そんなに教えたくないのか・・・・・・」
真威人君の指が離れた。
止めないで! という懇願を、僕は飲み込んだ。
「無理に聞き出そうとして、ごめんね」
謝罪に、胸が痛んだ。こちらがお礼を言いたいくらいだったから。
「そもそも、タイトルを聞く必要がないよね。筋肉好三郎で検索すれば分かることなんだから」
「ペンネームで活動しているから、分からないよ」
「それじゃあ、またこちょこちょしちゃおうかな」
待ってましたの精神で、僕は手を頭の後ろに組んだ。
「冗談だよ。笑い死にしたら大変だ」
真威人君が笑って、僕は小石を軽く蹴った。そんな油断を突いて、肋骨を刺激されるたび、嬌声が空気に溶けるのだった。
疑似的なイチャコラのうちに、細道は大路にぶつかった。アスファルト舗装されていないのは細道と同様だったが、車がすれ違えるくらいの幅を有している点に人工の趣を覚える。
大路を300メートルも歩けば目的地に到着する。その後も二人きりの時間を持てるのか確証がないから、大きなため息がこぼれた。
「エンストかな?」
真威人君が言って、道端に停まっているジープを僕も注視した。
「エンストですか!?」
腹筋の強さを裏付ける大きな声だった。
ボンネットに頭を突っ込んでいた女性が、僕たちに顔を見せた。
「エンスト、ですかね、これ!?」質問に質問を返した声は見た目通りに若々しかった。「車、詳しければ見てくれませんか!?」
「好三郎君、車、詳しい?」
「人力車との違いも分からないくらいだよ」
「すみません! 全く詳しくないです!」言いながら、真威人君は腕をぐるぐる回した。「だけど、車を押して動かすくらいのことは出来ます。ステロイドまでで良いですよね?」
車に興味はなくとも、筋肉愛好家の嗜みとして、ジープに関する心得はある。だからこそ僕は、驚愕した。ちっちゃいジープでさえ1500キログラムを超える重量を有しているのだ。ましてや、でっかいジープだぞ。それを押して動かす? 冗談だろう?
「はい、ステロイドまでで結構です」女性はモジモジした。「でも、良いのかな、お客様にこんな事をさせてしまって・・・・・・」
「何度もお世話になっている、そのお礼みたいなものです」
そう言ったときにはもう、真威人君はジープのバックドアに両手の平をつけていた。
「これ、無茶じゃないですか?」今更、女性は言った。「これ、無茶・・・・・・」
無茶が通って、女性の二の句は失われた。
すんげぇ、すんげぇ盛り上がりだ、筋肉が! 上腕から前腕にかけて、筋繊維が猛り狂っている! 柔軟性を有しているからこそ、パワーは潤滑油を得て、手先までパンパンだ! 最強のパイプラインだ、この腕は! 肩、ショルダーに至っては、真ん丸お月様! 欠けたところのない完全な円! パワーのムーンベースとはこの事か! 肩甲骨は、行方不明だ! 背筋の噴火に飲み込まれ、行方不明! そう、僕は真威人君を真後ろから視姦している! それなのに、腹筋のパンプまで手に取るように分かるミステリアス! 迷宮入り不可避! 何が何だか分からないまま、視線は必然、臀部に移る! 栗だ! デカい栗が二つ、焼かれた感覚ではち切れそうになっている! そういうケツだ! パワーの源である脚も、目を疑う素晴らしさ! あんなにもカッチカチな腿と脹脛は見たことがない! ガンダムより堅そうだ! それでいて、腕と同様の柔軟性を感じさせるのだから、最強以外の何ものでもない!
筋肉は持久戦に不向き、などという言が真しやかに囁かれる理由は、一部のマッチョたちが筋持久力を軽視しているがためである。デカくするだけでは、イケない。遅筋もじっくり鍛えて何ぼ。その点、海に鍛えられた真威人君に死角なし。既に200メートルほどジープを押し進めているが、微塵も疲れを見せていない。マッチョよ、これがマッチョだ。
取り繕うが如き助力など加えない。僕の細腕など微力にもならないからだ。女性も同じ考えなのだろう、真威人君の雄姿を一心不乱に見詰めている。僕もだ。僕だって、この神聖な事象を目に焼き付けてやる。
見詰めて、見詰めて、自分でも気付かぬうちに、合掌していた。ご先祖様のお墓参りに行ったときよりも自然に・・・・・・今日、拝むという行為の意味を知った。
所要時間は五分にも満たなかった。ジープはステロイドの敷地まで運ばれた。
「ご苦労様でございました」自ずと、敬語になっていた。「真威人様」
「何、それ」筋肉を鎮めながら、真威人君は笑った。「おもしれー好三郎君」
この男が欲しい。切実な思いだ。異性愛者だろうが構うものか。この男が、欲しい。
ネバーギブアップ、そのパワーワードが座右の銘だったことを思い出す。
「真威人君は、何泊する予定なの?」
「一泊。明日の午前に帰る予定だよ」
それまでに気持ちを伝えると、僕は腹に決めた。
「ありがとうございました! 本当に助かりました!」大型のクーラーボックスを車内から出して、女性は言った。「これ、夕食にお出しするカンパチが入っているんです。クーラーボックスはもう二個あるから、歩いて運んでいたら大変でした」
「厨房まで運びましょうか?」
「そこまでしてもらう訳にはいきません。もう十分に助けて頂きましたから」深々と頭を下げて、それから、女性は僕に目を向けた。「ペンションステロイドにご予約のお客様ですか?」
「はい。一名で予約している筋肉好三郎です」
「それでしたら、あちらの正面玄関からお入りください」
女性はクーラーボックスを置いたまま、指差したほうへと走っていった。
「お母さん! ご予約のお客様!」
そう叫び、正面玄関のドアを開け放ったまま戻ってきて、クーラーボックスを両手で持ち上げ、女性は建物の裏手へと歩いていった。
遠目にはこぢんまりと見えても、眼前にあっては大きく見える。二階建て、明治時代に建てられた洋館。リフォームは最小限に抑えられているのだろう、レンガのひびや窓枠の色落ちが旅情をくすぐる。
正面玄関を入って、吹き抜けのロビーに設置された火床の小さい暖炉が目に留まる。事前にネットで得た情報によると、石炭を燃やして暖をとるものらしい。冬場でもあるまいし、今回の宿泊でお世話になることはないけれど。
「ようこそ、おいでくださいました」ロビー脇の廊下から駆けてきた中年女性が、深々と頭を下げ、言った。「チェックインでございますね」
口頭で氏名を伝えると、中年女性は握り締めていた二本の鍵のうち一本を手渡してくれた。ディンプルキーだ。
靴箱には、スニーカーと革靴が一足ずつ入っていた。僕と真威人君もスリッパに履き替える。
「俺はロビーに居るから」真威人君の尻がソファにうずもれた。「荷物を置いて、気が向いたら話しにきてよ」
「来る来る、来ちゃう」
はやる気持ちを抑えつつ、僕は中年女性の先導でロビーに設置されている螺旋階段を上った。
「軋むでしょう」
中年女性の言う通り、段を踏むたびに悲鳴のような音が響き渡る。
「二階にはこの階段でしか上がれませんか?」
「はい。エレベーターもありませんので、この階段だけです」
決まりが悪そうな声に、僕は申し訳ない気持ちになった。
螺旋階段を上り切った。廊下が二手に分かれている。南側に四部屋、北側に四部屋。二階の計八部屋が客室の全てだ。
南側に進んで、すぐに突き当たる。右手に二部屋、左手に二部屋。左に曲がって、奥の部屋の前で足を止める。
「こちらがご予約のお部屋です。一階の、廊下に出てすぐの部屋が受付になっておりますので、ご用がございましたら、そちらにいらっしゃってください。どうぞ、ごゆるりと」
中年女性に頭を下げ返してから、僕は部屋の鍵を開けた。
カーテンは開かれてあった。窓から青空がのぞくも、採光が不味くて、薄暗い。
照明器具はペンダントライトが一つ設置されているだけ。サイドテーブルにリモコンが置いてある。それを操作して、味気ない光が部屋を照らした。
備品が少なく、褪めた室内はネットで見たよりも広く感じられる。
軋む音が、した。中年女性が螺旋階段を下っているのだろう。ドアを閉めていてもはっきりと聞こえる。
ベッドのそばにキャリーケースを置く。
汗ばんだブラウスからノースリーブに着替えた。脇をチェック。毛穴すら目立たない。やっぱりフラッシュ脱毛は偉大だ。
ナイトテーブルに置かれた三面鏡を用いて、僕は前髪を整え、一階へと下りた。
「隣、良い?」
「もちろん」
座ってから、汗拭きシートの使用を失念していたことに気が付いて、縮こまる。ドキドキが一層、強まった。
「いいね、こういうの」真威人君はシャンデリアを見上げた。「いいね、本当に」
駆け引きが出来るほどの恋愛経験は持ち合わせていない。性欲に背中を押されるのもあって、無作為に口が開いた。
「僕、真威人君のことが・・・・・・」
そこで言葉を詰まらせているところに、螺旋階段が軋んで、僕たちの視線の交わりは解けた。
二階から下りてきた男性が手を上げる。真威人君がそれに応じた。
「素敵な女性だね」男性は一人掛けのソファに座った。「真威人君、やっぱりモテるんだね」
言われて、真威人君は僕をまじまじと見詰めた。愛撫されているかのようで、身をよじる。
「好三郎君って、男の子? 女の子?」
そんなデリカシーのない言葉をセクシーな口から聞きたくはなかった。ローションまみれの体に冷水をぶっかけられた心持ちだ。
恋心は微塵も冷めていない。しかし、告白の熱は、冷めた。
「僕、男の子だよ」
月並みなフレーズを吐き出すだけで精一杯だった。持て余す男心とも女心とも知れない感情に、僕は目線まで落ち込んだ。
「ごめんね、余計なことを言って」男性の弱々しい声だった。「口下手のくせに、気の利いたことを言おうとするものじゃないね」
「この人は、俺が所属している文学評論サークルの代表の矢吹翼さん」
何事も無かったかのような声に非難の眼差しを向けて、それから、僕は矢吹さんを見やった。
「大学四年生です」眼鏡の奥の温厚そうな目が、泳いだ。「まだ内定は決まっていません」
自虐的なジャブに、愛想笑いを返す。
「筋肉好三郎です」
「名前と見た目のギャップがすごいね」そう言ってから、矢吹さんは頭をかいた。「ごめん、また失礼なことを言ったかな」
根っから素直なのだと理解できた。その不器用さに好感が持てて、今度は心から笑えた。
「ずっと部屋にいたんですか?」
「インドアの悪癖だね」真威人君の問いに答えつつ、矢吹さんは自身の細い腕をさすった。「こんなにも綺麗な島に来てまで、部屋にこもって読書なんかしてしまうんだから」
「何を読んでいたか、教えてもらえますか? 僕も文学に興味があるんです」
「同好の士か、嬉しいね。読んでいたのは、鬼の金脈、っていう古書だよ。大正時代に書かれた小説でね。興味があるのなら持ってくるけれど」
興味が強まって、厚意に甘えることにした。
矢吹さんは軽い足取りで螺旋階段を上っていった。
二人きりになってすぐ、真威人君が囁いた。
「小説家っていうことは、言わないほうが好いんだね」
僕は頷いた。
「それじゃあ、二人だけの秘密だ」
僕はもう惚れてる・・・・・・・・・その上で更に惚れた。惚れの上塗りとはこのことか。
ドキドキが大きすぎて、矢吹さんが戻ってくるまでの間、一言も口をきけなかった。
矢吹さんが持ってきた本は、日焼けが酷かった。手渡された際、表紙がはがれ落ちそうになって、肝が冷えた。
「大学の近くにある古書店で見つけたんだ」一人掛けのソファに座り直して、言う。「鬼肉島について書かれた本で、今回の旅行を口実に奮発しちゃった」
保存状態が悪くても高値がつく古書はざらにある。ページをめくる手の慎重さが増した。
視読で、冒頭の内容を理解する・・・・・・江戸時代から明治時代にかけて鬼肉島の金鉱を所有した金箱家に奉公に出された少年の一人称語り。酷使され、鞭で打たれ、食事も満足に与えてもらえなかった恨みつらみが物悲しい文体で記されている・・・・・・これが後200ページほど続くのかと思うと、目眩がしてしまい、僕はそっと本を閉じた。
「筋肉さんは速読が出来るの?」
「はい、出来ます」本を矢吹さんに返す。「これ、主人公の少年は、この本の作者ですよね?」
「僕はこの本を一度、完読している。主人公の少年が作者であるとは明言されていない」矢吹さんは本をローテーブルに置いた。「だけど、十中八九、作者の実体験だよ、これは」
実話であったならば、かわいそうだ。子供の時分から奴隷同然の生活を強いられたなんて。
悲しい気持ちを上手に切り替えられなくて、僕は力なく頭を振った。
「鬼については書かれていましたか?」
「鬼?」真威人君の声に、矢吹さんは注意を向けた。「ああ、金鉱だから鬼ね。差別であれ妖怪であれ、鬼の記述はないよ」
「さっき、丘で会ったおじいさんから鬼肉島のわらべうたを聞かせてもらったんです。歌詞に鬼が多く出てきて、この本と照らし合わせることが出来ると思ったのだけれど・・・・・・」
「興味深いね。真威人君、そのわらべうた、覚えていたら歌って聞かせてくれる?」
男は度胸、とはよく言ったものだ。唐突なフリに躊躇せず、真威人君は意気揚々と声帯を震わせた。
僕の記憶が確かならば、歌詞にも音程にも誤りはなかった。真威人君にとっても強く印象に残る歌だったのだろう。
美声に酔いながら、僕は極太の喉仏が微動する様を見詰めた。
「クイーンの曲かと思った」矢吹さんは拍手をした。「わらべうたとしては斬新なメロディラインだね」
「何か、本の内容と重なるところはありましたか?」
「過酷な労働環境だったことは共通しているけれど」真威人君の問いに答えつつ、本の表紙にそっと手を置く。「歌詞から読み取れるカニバリズムや虐殺に関しては、ここには書かれていない」
「鬼肉島の金鉱は、全て金箱家が所有していたのでしょうか?」
「鬼肉島の金鉱は全て金箱家の所有で間違いないよ、筋肉さん。開坑から廃坑まで、ずっとね」矢吹さんはソファに深く背中を預けた。「その本にもそう書かれていたのだけれど、証拠立てるものが欲しくて、国立国会図書館で四国の郷土資料にも目を通してみたんだ。幾つか裏付けを取って断言しているから、信じてくれていいよ」
恥ずかしくなった。旅行先という共通の関心事において、ネットの情報しか有していなかった僕に比べ矢吹さんが有していた情報は余りにも豊富だったから。情報量の差以上に行動力の差を痛感する。これではどちらがプロの小説家か分からない。
卑屈が強まって、僕は矢吹さんから目をそらした。
「わらべうたの歌詞はフィクションである可能性が高いね。あるいは、他の場所について歌われたものが鬼肉島のわらべうたとして誤って伝わってしまったか。江戸時代まで網羅した郷土資料にも、鬼肉島で陰惨な事件があったなどという記述はないんだから」饒舌が癇に障って、そんな自分に増々、嫌気が差す。「金の枯渇と廃刀令が重なって金箱家が没落したときにさえ、事件らしい事件なんて起きず、当時の当主は高知県に移り住み、奉公人や鉱夫や職人の多くは鬼肉島の外に働き口を見つけている。現代人の感覚からすると決して許容できない事柄はあったけれども、近世が有する最低限の倫理観は保っていた、それが鬼肉島の金工師の全容だと思う」
結論が付いて、後には沈黙があった。
「こういうの、結論付けないほうが良かったのかな?」矢吹さんの上擦った声が沈黙を破った。「話を広げていったほうが良かったのかな?」
「結論付けてくれて良かったんですよ。盲目的な恐怖を消し去ってくれたんですから」真威人君が笑った。「おかげで今夜はぐっすり眠れそうです」
不意に、ぼーんぼーん、という音が鳴り響いた。ロビーに置いてある振り子時計が三時を告げたのだ。
小さい悲鳴を漏らして、真威人君が僕の手を握った。
ハートフルな厚みに、唯々どぎまぎしてしまって、きちんと握り返してやれなかったデカい手は、僕の気持ちも知らずにそそくさと離れた。
中年女性が、グラスを三杯、持ってきた。サービスだと笑顔で言う。僕たちは恭しく頭を下げ、礼を言った。
清潔な柚子の風味が喉を潤す。小さくなった氷がコトリと音を立てた。
いつの間にやら、文学談義に花が咲く。矢吹さんの見識は豊富な知識量ゆえにロボットのようで、しかし森鴎外への恋慕とも取れる固執が人間らしいアクセントとなり、程よい愛嬌を以て僕を楽しませた。真威人君の感想も面白い。小手先の屁理屈なんかない、主観100パーセントを堂々とさらけ出す純情スタイル。ユッキーめっちゃええねん! ユッキーめっちゃええねん! という訴えを、僕は果てしなく慈しんだ。僕も僕で、自分の考えを素直に言葉に出来た。そうして、夏目漱石や川端康成といった文豪たちを愛していることを思い出す。
良い小説を読みたいと思った。良い小説を書きたいと思った。ずっと孤独だった創作の世界に、光が差した。
ぼーん、ぼーん。四時だった。窓の外はねずみ色、少し前まで見えた青空はすっかり雲に隠れている。
「夢中で話しちゃったね」
矢吹さんがそう言ったのと、正面玄関のドアが開かれたのは同時だった。
男が二人、女が一人、ロビーに上がってくる。
「真威人! 急にいなくなって心配してたんだから!」
男の一人が甲高い声で言った。真威人君の笑顔が陰った。
「堀男・・・・・・」
真威人君が堀男と呼んだ男は、僕を見下ろすと、ゴツい眉間に太いしわを寄せた。
「人の男に近すぎんだろ。どけや、おら」
先ほどの甲高い声とは打って変わって地響きのように低い声だった。気圧されて、僕は尻をずらした。
堀男さんは、僕と真威人君の間に筋骨隆々な体をねじ込むと、間髪入れず、真威人君の唇を奪った。
えらい音がする。フェイスハガーを思い出させる音だ。疑いようのない、ディープ。
真威人君は、目を閉じていた。僕は気が遠くなった。
「連絡も取れないし・・・・・・」唾液まみれの唇を拭いながら、堀男さんは言った。「本当に心配した! 真威人! 私、本当に心配した!」
「ごめん、ごめん! スマホを部屋に置いてきちまって!」
三人組が現れる前までの思慮深い声ではなく、パリピみたいな声だった。
「スマホから離れていられるとかマジ異常」
そう言って、女が一人掛けのソファに座った。さっきまで矢吹さんが座っていたやつだ。
矢吹さんは、重い足取りで螺旋階段を上っていた。
「真威人は異常じゃないわ、加子!」堀男さんが女に向かって言った。「スマホにべったりの野郎のほうがよっぽど異常よ!」
「それじゃあ、俺は異常だ」男が、スマホを操作しながら、もう一台の一人掛けソファに腰を下ろした。「ショックだぜ、堀男」
「あんたは別よ、権示」ねっとりした口調だった。「天下のインフルエンサーだもの、スマホと共にあることが正常よ」
「焦っちゃって!」高慢な笑みを浮かべ、権示さんは足を組んだ。「ジョーク! ジョーク!」
公衆トイレで小便器に空きがあるというのに隣に立たれた、そういった類の居た堪れなさを覚える。小便を打ち切って逃げ出すが如く席を立ちたい欲求に駆られた。しかし、僕は真威人君を見詰めたまま、少しも動けなかった。
前門の童貞、後門の処女。そんな僕だって19年も生きているのだ、ねんねじゃない。真威人君と堀男さんが性的な関係にあることくらい理解できている・・・・・・喜ばしい部分もある。真威人君が男もイケると分かった点だ。真威人君イキのチケットを手に入れるチャンスが僕にもある、これは不幸中の幸い。略奪愛なんて罰当たりなことをする気はさらさら無く、彼がフリーになる日を永久に待つ覚悟だ。しかし、なんだってこんな男と付き合っているのか、真威人君は? よく知りもしない人を批評することは好まない。それでも、堀男さんは駄目だと断じる。人前で性的なキッスをする奴があるか! 不意打ちでパートナーの品格に傷を付ける奴があるか! 妬ましくて言っているのではない。僕は客観的に物事を判断できる人間です。そうでなければ三人称の小説は書けない。あくまで客観的に、堀男さんは駄目だ。
身勝手だと自覚しながらも、懇願のように注いだ視線は、短く交わって、すぐに外された。
失望よりも罪悪感が勝った。僕はようやく尻を上げた。
「あれあれ、よく見ると、かわいいじゃん!」
権示さんの声で、足が止まる。そうして、スマホのカメラを向けられていることに気が付いた。
「やめてください!」僕は顔を隠した。「非常識ですよ!」
「大丈夫、大丈夫!」スマホのカメラを向けたまま、権示さんが近付いてくる。「俺、インフルエンサーだから!」
意味が分からなかった。インフルエンサーだから大丈夫? インフルエンサーは断りなくカメラを向ける権利を有しているということだろうか? そんなルール、聞いたことがない。
「これだけ顔の良い女の子ならインスタとティックトックで伸びるぞぉ! 無加工でイケるからタイパも良いし、ガチ美人マジ最高!」
尚もぐいぐいきて、恐怖を覚える。リンゴの葉っぱさえはっきりと見える距離だ。
藁にも縋る思いで真威人君を見やった。彼は、俯き、表情さえ見せてくれなかった。
悲しみは恐怖を上回る動力だった。伸びてきた手を振り払い、螺旋階段を駆け上がって、客室に逃げ込み、僕は鍵を閉めた。
権示さんが迫いかけてくるかもしれないと気が気でなく、震えた。同時に、真威人君が追いかけてくるのを望み、自嘲する。
螺旋階段が軋むのを聞いた。全身が強張って、しかし何事も起きず、杞憂を理解して、弛緩する。
ベッドに、身を投げた。広々として、心細さが増す。ダブルベッドの客室は二部屋のみ、それ以外の客室は全てシングルベッド。当日、満室寸前で予約をした、そういう旅だということを思い出す。
枕カバーに涙の染みが出来た。ハンカチをあてる。それから、目元を手でこすった。
確固たる価値観を持てないことが、口惜しい。僕は過剰だったのか? 唐突にスマホのカメラを向けられて、拒絶した僕はノリが悪いだけの人間だったのか? 不埒と断じたキッスにしても、判断がブレる。僕は偏狭だったのか? 唐突に行われる面前のディープは令和のスタンダードだったのか? 嫌悪を隠さなかった僕は、真威人君を失望させたのか?
乾いた思考はあやふやに舞い狂って、どこにも着地できなかった。
風が、窓を叩いた。考えもなしにガラスを上げる。目を開いていられなくなって、すぐに下げようとしたけれど、すんなりと上がったものががたついて、笑ってしまう程にもたついた。
窓ガラスに背中をあてると、ひんやりして気持ち良かった。目が遊んで、塗装に走る細い剥がれをなぞる。それは天井まで続き、唐突に消えていた。
滴る雨を聞いた。僕は再びベッドに身を投げ、直に尿意を覚えた。
トイレは一階に共用のものがあるのみ。スマホを見る。二階に逃げてから30分以上がたっていた。
ドアを開け、ロビーを見下ろしてみた。誰もいない。
忍び足で螺旋階段を下りる。それでも強く軋むから、下り切る直前は駆けていた。
ロビーを抜けて、ペンション関係者の居住スペースを横手に廊下を進み、トイレの前まで来る。
男性用のトイレは鍵がかかっていた。ロビーで待とうと踵を返すと、すぐにドアが開いた。
トイレから出てきたのは真威人君だった。
目が合って、どぎまぎすれば、視線を落とすしかなかった。
真威人君のデカいながらも繊細な指、その短く整えられた爪の先が、黒ずんでいる。右手の、人差し指から小指まで。ロビーで話していたころまでは汚れていなかったのに。
奇妙に思い、しかしそんな弱い興味は、重厚なセクシーボイスに容易く消し去られた。
「君の部屋に行こうと思っていた」視線を上げずにはいられなかった。「謝りたくて」
憂いを帯びた瞳に、僕は尿意と関係なくもじもじした。
「行っていい?」
いじらしい疑問形が音色を失わないうちに、客室の鍵を手渡して、それから、自らの無垢に驚いた。
「待ってる」
そう言って、真威人君は廊下を歩いていった。
便座に座る。おしっこを済ます。独立型の手洗い器を使用する。鏡に映った不備を可能な限り正す。そうして、トイレを出て、ロビーに戻ると、真威人君がいた。
最初の段は、手を取ってもらいながら上がった。その後は、臀部に真威人君の息吹を感じる背徳で、震えながら上がった。
君の部屋でいいよね、という声が尻をなでて、僕は、うん、と答えた。
鍵を開けてくれて、ドアも開いてくれる。そうして、お先にどうぞのポーズだ。階段を上がるところから続くエスコート、その全てが余りに自然で、幻想の膣がうずいた。
入室してすぐ、鍵の手渡しで、指先が触れ合って、紅潮した真威人君の頬が、見間違いでないことを願う。
僕は、ベッドに座った。真威人君は、部屋の隅にある肘掛け椅子に座った。
密室に、好きな人との距離感が狂って、心臓の鼓動が重なる錯覚を持て余す。
「ごめん」
頭を下げるのではなく、見詰め合いを継続したスタイルに、真威人君の切実を見た。子犬のような純真に、胸が痛む。
「真威人君は何も悪くない!」思ったことが、そのまま声になっていた。「僕が、おかしかっただけ!」
「おかしい? 好三郎君が?」
「ノリが、悪いから」
「好三郎君は何もおかしくない!」真威人君が立ち上がった。「正常な反応だったよ! おかしいのは、あいつらと・・・・・・」
ペンダントライトが瞬いた。エアコンの駆動音が主張を強めた。
真威人君は、寂しそうに笑って、座り直した。
「辛い思いは、もうさせない」拳にエロい血管が浮かび出た。「同じようなことがあったら、ちゃんと守るよ」
好き過ぎていた。僕は、真威人君を好き過ぎていた。出会ってから半日足らず、しかし好き過ぎていた。ハートに比例して股間も熱くなる。情欲が理性を蝕む、それは初体験の甘美だった。
「隣、座るよ」
拒まなかった。筋肉の重量にベッドがひしゃげる。
目は口ほどに物を言う、それは真実だ。彼もまた、僕を好いている。
唇が、吸い寄せられた。
「肉子、って呼んでいい?」真威人君が囁いた。「肉子」
筋肉好三郎という氏名だからこそ成立する愛称、肉子であった。その愛称で僕を呼んだ男は、真威人君が二人目・・・・・・。
初恋の、苦い記憶がまざまざと蘇って、発情の魔法は解けた。顔を背け、デカい胸板を弱々しく押す。
「駄目だよ」
取り繕うように言って、それからようやく、罪悪感があった。恥じ入って、僕は両手で顔を覆った。
「そうか・・・・・・」か細い声だった。「そうだね、駄目だ・・・・・・」
ゆっくりと立ち上がった真威人君は、肘掛け椅子に腰を下ろし、そのまま押し黙った。
耐え兼ねて、僕は口を開いた。
「あの人たちも、文学評論サークル?」
「堀男たち? 三人とも文学評論サークルに籍を置いているけれど、文学にはこれっぽっちも興味がない連中だよ」
パンツを履いているけれどフルチンだよ、と言われたのと同義だった。理解が出来ず、重ねて問おうとしたけれど、くすんだ顔に機微を見て、面倒くさがられる恐怖から、僕は声を飲み込んだ。
密室に、二人きり。その不用意が、エロスの陰りで際立つ。
沈黙を、許容した。それが卑怯だという自覚は、あった。
「何か、飲もう」真威人君が立ち上がった。「食堂で買えるから」
言わせて、安堵して、謝りたくなって、だけど僕は頷いただけだった。
客室を出て、真威人君の愛らしい旋毛を見下ろしながら一階に下りた。
ロビーから食堂に入る。吹き抜けの後だから、実際以上に天井を低く感じるけれど、十分に広いスペースは、大小合わせて八脚のダイニングテーブル、過剰に思える量のダイニングチェア、それらが置かれていてさえ微塵も窮屈ではなかった。
食堂の、窓際の席で缶ビールに口を付けている、顔が真っ赤な男性と目が合った。うす暗い笑みに、僕は会釈した。
「ジンジャーエールは飲める?」食堂に置かれた冷蔵庫を開け、真威人君は言った。「土佐の美味しいやつがあるけれど」
「飲んでみたい」
僕が言うと、真威人君は瓶に入ったジンジャーエールを二本取り出した。そうして、ブーメランパンツに挿していた財布を抜き、硬貨を料金箱に入れる。
「払うよ、お金」
「御馳走させて」
厚意に預かることが、礼儀。僕は不毛なやり取りを早々に打ち切った。
ダイニングテーブルの半分は床固定テーブルだった。床固定テーブルの、引いてもらったダイニングチェアに、良い気持ちで座る。
「グラスを忘れちゃった」テーブルにジンジャーエールを置きながら。「取ってくるね」
真威人君はお茶目に笑って、冷蔵庫の横に置かれたグラスラックへと歩いていった。
歩を進めるたびに盛り上がる、尻・・・・・・僕は、見惚れた。
唐突に、酒気が夢心地を壊した。振り向く。顔が真っ赤な男性が僕を見下ろしていた。
「君、胸はないけど、かわいいね。付き合わない?」顔が真っ赤な男性が喋ると、酷く酸化したかのようなワインの臭いが強まった。「僕、頂貞光っていうんだ。東京で会社員をやっていて、年収は550万円超。40歳っていう年齢がネックかもしれないけれど、日本の婚活市場ではそこそこの優良物件だと思うよ」
酒に酔った状態でアクションを起こす、その時点で全ての脈は絶たれていた。そんな死に体に気が付くことなく、失言を吐き、自己を擁護するかのようなアピールで締めた、愚の骨頂。正に恋愛センスが皆無。
一目で筋肉よりも脂肪が多いと分かる肉体は、稚拙な精神と相まって、非モテのオーラを纏っていた。哀れみを禁じ得ない。しかし、哀れみが侮辱になりうる以上、僕に出来ることといえば、丁寧な拒否、それだけだった。
「ごめんなさい。お付き合いできません」
込めた真心が、伝わらなかったことは明らかだった。頂さんの、だらしなく緩んでいた顔は、引きつって、怒り顔に変わっていた。
「男を誘惑しているんだろう! こんな脇が丸出しの服を着て! 誘惑した責任を取れよ!」
滅茶苦茶なことを言うや否や、頂さんは右手を振り上げた。平手・・・・・・ビンタだ、ビンタを狙っている! にわかには信じ難いが、防衛本能は嘘をつかない! 間違いなく、ビンタが飛んでくる!
危険は察知した。察知したとて、武道の心得がない僕である。目をつぶる以外に、体は動きようがなかった。
平手の気配を頬に感じた。直に味わわされるであろう痛みに備え、全身が強張る。
数秒が、経過した。未だに、痛みはない。恐る恐る目を開く。僕の頬近くで止まる平手、その手首を、真威人君がつかんでいた。
「二度と、この子に近寄るな」
その声が余りにも重苦しくて、僕は初めて、真威人君を怖いと思った。頂さんも同じような恐怖を抱いたのだろう、真っ赤だった顔が青ざめて、首を激しく縦に振っている。
「行け」
真威人君が手首を放すと、頂さんは言われた通り、食堂から出て行った。
「ごめんね」
肩に触れた真威人君の手は、ごめんね、の声よりも臆病だった。
張り詰めていた感情が緩んだら、後は泣いてしまうのを堪えるので精一杯で、伝えた感謝の言葉は、情けないほど空っぽに響いた。
手が、離れた。それをつかまずにいることは、泣かずにいることよりもハードだった。
向き合って座り、ジンジャーエールを飲んで、美味しいね、と声を重ね、上っ面をなぞる会話が、続いた。
窓を打つ風雨が強まっていく。その激しい音に注意を引かれ、見入ったガラスに、濁った像が映る。
振り向いて、目が合うと、矢吹さんはばつが悪そうに笑った。
「一緒に座ってもいいかな?」
僕と真威人君はほとんど同時に、どうぞ、と言った。それで気が楽になったことが、ことさら寂しかった。
三人で話しているうちに、五時になった。
夕食は六時から。それまで部屋で休むと断って、僕は食堂を出た。
螺旋階段を上ろうとした、その時、正面玄関のドアが開かれた。横殴りの雨と一緒に中年男性が屋内に入ってくる。ブーメランパンツだけを身に付けた、山のようなフォルム・・・・・・マッチョだ!
「ちくしょう、びしょ濡れだ」渋みのある声で、マッチョは言った。「思い付きで旅行になんか出るものじゃないね」
格闘技をやっていると、筋肉の質ですぐに分かった。耳の状態から、柔道か、レスリングか、はたまた相撲か。なんにせよ、人体に揉まれた良い体をしている。
昨日までの僕であったならば、間違いなく、このマッチョを性的な目で見ていたことだろう。しかし、今となってはアートを批評する類の眼差ししか向けられない。これ程までに真威人君の存在が大きいのだと悟って、強まった閉塞感にいよいよ倫理が揺らいだ。
目が合って、マッチョが、こんばんわ、と言った。僕も、こんばんわ、と言った。
「この天気で、大変だったでしょう!」中年女性が廊下から駆けてきて、バスタオルをマッチョに差し出した。「ご予約のお客様ですよね」
「そうだ。予約している草薙末歩だ。悪いが、そのバスタオルでバッグを拭いてくれ」
「では、お体を拭く分のバスタオルも持って参ります」
「それは必要ない。少し離れていてくれ」
言われた通りに中年女性が離れると、草薙さんは全身の筋肉を激しく震わせた。刹那に、体を濡らしていた雨水が蒸発する。
「摩擦熱だ!」驚愕の余りに、僕は叫んでいた。「筋繊維が擦れ合って生じる摩擦熱! それが雨水を蒸発させたのだ! こんな芸当、筋肉が並外れた柔軟性を有していない限り出来っこない!」
「分かっているじゃないか」草薙さんがニヒルに笑った。「若いのに感心だ」
目尻の深い笑いじわがチャーミングだった。褒められたのも相まって、照れ臭くなる。
摩擦熱は、泥の水分も奪っていた。軽くはたくと、土は玄関にぱらぱらと落ちて、サンダル履きのエロい素足がベールを脱いだ。砂色に染まった、つま先からくるぶしまでのセクシーエリアが、尊い。
僕は、ありがとうございます、と甲高い声を出して、そそくさと二階へ上がった。
客室に入った。スマホのアラームを5時50分にセットし、バッテリー残量が心許なかったのでベッドそばのコンセントを使用して充電する。それから、ベッドで横になった。
目をつぶって、目蓋に浮かぶのは、寄る年波に抗う健気な筋肉ではなく、真威人君の顔。堀男さんがいるのだと、自分に言い聞かせる。親愛の深い恋人なのか、快楽で繋がるだけのセックスフレンドなのか、そこまでははっきりせずとも、真威人君にアプローチをかける道理がないことに変わりはない・・・・・・これ程までに、辛いのか。不道徳にたじろぐ恋は、これ程までに辛いのか。これならば異性愛者に恋した時分のほうが幾分も増しな心地だ。
もやもやは一向に晴れず、僅かな眠りもないまま、アラームは鳴った。
エアコンのおかげで快適な室温だったが、やけに汗ばんでしまい、使った汗拭きシートの量は過剰で、自分がとてつもなく汚れた存在に感じられた。
浮かない心を引きずって、僕は客室を後にした。
食堂には、真威人君、矢吹さん、加子さん、草薙さんの姿があった。真威人君と加子さんは同じテーブルに座っている。
どちらの意図か分からぬまま、真威人君と目が合うことはなく、僕は矢吹さんと同席した。
少しして、権示さんが食堂に入ってきた。スマホをセットした自撮り棒を手に持っている。
「さっきのかわい子ちゃんじゃん」僕のそばで足を止め、権示さんは言った。「マジ、ヤバいね。素材としてだけじゃなく、そそる」
拒絶するのも恐ろしく、僕は事なきを得たいが為だけに相づちを打った。それが不味かったのだろう、権示さんは増長を表情に映し、その顔を僕の首筋に近付けた。
「良いにおいじゃん」
すんすんと嗅ぐ音も連なって、尋常でないほど気持ち悪い声だった。僕は、芯から震えた。
「嫌がっているんじゃないかな・・・・・・」弱々しい声で言ったのは、矢吹さんだった。「その子」
言われて、上がった顔は、冷淡を絵に描いたようなものだった。
「モブは黙ってろ」
矢吹さんが俯いて、権示さんは浮ついたノリを僕に向け直した。
「この自撮り棒、分かる? ホルダーがダイヤモンド製」
脈絡がない上に訳の分からないフレーズ、それに虚を突かれ、不覚にも注意を誘導されてしまう。
ホルダーは、確かに煌めいていた。
「YouTubeの動画内で発注して、開封したんだよね、これ。再生回数が200万回を超えているから、見てみてよ。マジで笑えるから」言いながら、自撮り棒を振る。「J.K.Revolutionって聞いたことあるでしょ? チャンネル登録者数107万人超えのチャンネル。そこで見れるから。マジで笑えるから。あ、もう分かってると思うけど、俺、J.K.Revolutionの自古権示だから。俺に声を掛けてもらえるって、それがそのまま名誉だから」
言動の節々に透ける幼稚を、肯定も否定もしたくなくて、嵐が去るのをじっと待つ。しかし、そんな無抵抗は無為でしかなかった。
権示さんは、再び顔を寄せてきた。
「大和撫子だね、君。超有名インフルエンサーに声を掛けられて、はしゃがない女の子なんてそうそういないよ。余計、そそる。抱いてやろうか?」
これ程までに他人の心境に鈍感な人間がいるのか。スマホのレンズを向けられながら口説かれる恐怖、それを微塵も理解できない人間がいるのか。稀だろう、と理性が言い、ざらだろう、と感性が言う。恐怖が、悲哀に塗り替えられた。
「権示! 飯、飯! すぐに飯が運ばれてくるぜ! 最高に美味いから、ほら、早く座れよ、俺の隣に!」
真威人君の声は、その内容と調子で、僕を一層悲しませた。詰るために彼を見やるも、笑顔で椅子を引く姿が格好悪くて、自ずと目は背けられた。
「また後で、ね。夜はこれからだから」
そう囁いて、権示さんはようやく離れていった。
東京の、うらぶれたワンルームにこびりつく虚無を、遠く南西のペンションでさえ感じ得る。希薄な情と、忙しい世事と、終わりに向かう夢。世を恨みがましく儚んで、しかしそれでも、腹がすく。そんなところまで日常通りとあっては、情けない程に図太い心根を認めるしかなく、自分自身でさえ空元気か否か分からない笑みが、浮かんだ。
矢吹さんの安堵を見つけた。それで僕は少しだけ救われた。
六時になると、すぐに料理が運ばれてきた。御膳スタイル、多品目だ。ミョウガのマリネ、ハモの湯引き、鶏肉の照り焼き、夏野菜を牛肉で巻いたもの、エトセトラ。なかでも特に目を引くのは、カンパチのたたき。前知識を抜きにしても、ピッチピチの鮮度を分からせてくれる色艶だ。ネギとポン酢の香りも良い・・・・・・平時であれば、楽しみを最後に取っておく僕も、この誘惑にはブレーキを破壊されて、気が付いた時にはもう、舌の上でカンパチが躍っていた。そうして、衝撃! 味覚中枢に流れ込む黒潮の賛歌! なんてったって肉厚。この厚は物理的な厚にあらず、旨味の厚である。細胞レベルで通じ合う生命の相互理解。動物を食らっている、動物を食らっている。カンパチよ、君も肉食か。君の食歴が手に取るように分かる。健康志向だろう、君は。故に、この恵みだ。感謝しかない。生まれてきてくれて、ありがとう。僕の一部になってくれて、ありがとう。食への賛辞、その最上級が感謝であることを、知る。
歯髄までが感極まる現状に、防衛本能が働く。このままではカンパチしか愛せなくなると悟ったのだ。偏食の兆しは恋愛感情に似る。事実、僕の体は火照っていた。
コリコリの身に愛撫された口内をリセットしたくて、あら汁を口に含んだ。これでブレイク、かと思いきや、体が一層、熱を持つ。
「これもカンパチかぁ」
うかつだった。あら汁には脂の多い魚を用いる、という先入観が僕を不用意にしたのだ。美味であったのも悪い状況に拍車をかける。骨まで魅力的だろ、というカンパチの色っぽい声が、幻聴を通り越してリアリティを有した。このままじゃ、とろけちゃう。
素材に犯されている、その意識が強いがために、うつつな箸は揚げ物を口に運んだ。シェフを称賛したくなる衣の歯触り、そこに安堵を得た次の瞬間、脳天を貫く海の弾力。
「これもカンパチかぁ」
カンパチのレアカツであった。場末のスーパーに刷り込まれた、揚げ物といえばコロッケかハムカツ、そんな乏しい食の理解が無意識にまで作用していた実情に、喘ぐ。喘ぎは直ぐに色を帯びて、僕はもう、カンパチの虜だった。
四肢を拘束され、弱い部分を豊かな尾びれでなぞられる、快感。むろん、幻覚である。ファントムエクスタシー、そこに至らしめる美味は、紛れもない極地だった。
「好きぃ」自分でも淫らと分かる声が、漏れ出た。「これ、好きぃ」
「ちょっと、部屋に忘れ物をしたので、取ってきます」
そう言うや否や、矢吹さんは前屈みで食堂を出て行った。それに構わず、僕は舌鼓を打ち続けた。
「いらっしゃらないお客様がいるわね」中年女性の声が聞こえた。「夕食の時間を失念しているのかしら」
「今さっき食堂を出て行った人を抜きにすると、いないのは二人よね」これは女性の声。「お母さん」
「ええ・・・・・・四号室のお客様と、七号室のお客様」
「この酷い嵐だもの、外にいるはずがないから、客室にいるよ。私、お声がけしてくるね」
「失礼のないようにね」
女性が、食堂を出て行った。
「権示、スマホ、貸してくれよ」真威人君の声が聞こえた。「部屋に置いてきちまってさ」
「スマホから離れるなって!」
「悪いね・・・・・・おっと!」
「人のスマホを落とす奴があるかよ!?」
「ごめん! ごめん! 権示! 今、拾うから!」
真威人君の談笑が痛くって、僕は全ての意識を食事に向けた。
食は逃避の最前線。生業も、色恋も、憂鬱な全てが虚無に隠れる。この儚い時を繋ぎ止めたくて、ペースダウンを図るも、美味がそれを許さず、箸は速度を緩めなかった。
美味、美味、美味・・・・・・。
夢中のうちに、空気を切り裂く音を聞いた。ハッとして、しかし最初は風変わりな風が吹いたとしか思わなかった。
「悲鳴だ」
その草薙さんの声で、惚けていた頭に血が巡った。
草薙さんが食堂を出て行った。少しして、真威人君も食堂を出る。その際、ちらりと見えた無表情が気にかかって、僕は彼の後を追った。
二階へ上がる。北側に進み、突き当たって右手側、奥の客室はドアが開かれていて、その前で女性が尻を着いていた。
真威人君が、客室に入った。僕は、室内を目にして、足を止めた。
強風が窓を叩いているというのに、そこには静寂があった。ひんやりと感じられるのは、エアコンによるものばかりではないだろう。味気ない光の下、床で俯せに倒れているのは、ゴツい尻が丸出しの堀男さん。頭部にこびりつく赤は、漆黒のようでもあり、底が知れないほど暗かった。
血だと理解して、はっきりと、死を認識した。
「非番で殺しかい」
堀男さんのそばで片膝を着いていた草薙さんが、言った。そうして、立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「俺が戻ってくるまで遺体に触るんじゃないぞ」
言い残し、草薙さんは南側の客室へと歩いていった。
真威人君は、ゆっくりとベッドに腰を下ろし、堀男さんから目を逸らすように天井を見詰めた。そんな彼に、僕は声をかけられなかった。
「美桜!」コックコートを着た男性が走ってきて、女性のそばで屈んだ。「どうした? 何があった?」
「義博・・・・・・」美桜さんは客室の中を指差した。「人が、倒れてる・・・・・・死んでる?」
指差された先に向けた顔は、あっという間に青ざめた。
しばらく、誰も身動き一つとらず、一言を発することすらなかった。
「どうした訳? トラブル発生的な?」
どかどかと歩いてきた権示さんの軽い声で、ようやく僕は滞っていた息を吐き出せた。
室内を見やって、権示さんは、ドッキリじゃなくて? と言った後、スマホのカメラを堀男さんに向けた。そうして、少しずつ、堀男さんに近付いていく。
「正気か、お前は!?」義博さんが、権示さんの肩を後ろから掴んだ。「死体だぞ、人の!」
「放せよ、この野郎!」義博さんの手を振り払いながら。「バズるチャンスだろうが!」
荒っぽい口論が続いて、先に言葉を詰まらせたのは権示さんだった。そうして、行き場を失った怒りの発露であろう拳が繰り出される。
腰の入っていない左フック、それを軽々と躱した瞬間、コックコートに隠れた広背筋が殺気を帯びた。
遅れ気味のカウンターで、義博さんがショートアッパーを放った。顎を砕きにいっていると確信できる凄みが、あった。
「義博!」
美桜さんが叫んだ。拳は、顎に触れる寸前で止まった。
顔面蒼白な権示さん以上に、義博さんの後姿は物悲しかった。
「何をやっているんだ、お前ら?」
草薙さんが戻ってきて、言った。
拳を引っ込めて、義博さんは深呼吸をした。それから、美桜さんに手を差し出して、彼女を起き上がらせた。
「撮影は遠慮してくれんかね」室内に入りながら、草薙さんは伸びをした。「良いことじゃない」
「俺の勝手だ」強気な表情を取り戻して、権示さんが言う。「あんたに指図されることじゃない」
「警察のお願いでも、駄目かい?」そう言って、ブーメランパンツから抜き取った物は、警察手帳だった。「警視庁刑事部捜査第一課の草薙末歩巡査だ。現場保持のため、遠慮してくれや」
「表現は自由だ。だから俺は撮影を止めない。国家権力だろうが縛れねぇよ」
警察手帳に背中を向けて、権示さんは尚も堀男さんに近付こうとした。その肩を、草薙さんが掴む。デジャブみたいなシチュエーションに、次は手を振り払うのだろうと予測する。しかし、僕の予測は、外れた。
権示さんは、上体を少しひねっただけで、無抵抗だった。その横顔は、半笑い、羽交い締めを完璧に極められた人間が浮かべる類のものだ。骨の軋む音はしない。握力は発揮されていないだろう。卵に対するかのような力加減で肩を掴まれている、それだけで、人間は諦めの境地に至るのか。
草薙さんのデカい手に秘められた圧倒的なパワー、それを間接的に理解して、僕も自ずと半笑いが浮かんだ。
「理解してくれたね」肩を放す。「お願いで済んでいるうちに、遠慮してくれや」
半笑いは直ぐに失せて、後には憎悪が顔面を支配した。絵に描いたような憤りだ。雄の要素を有する僕には、権示さんの感情が手に取るように分かる。所詮、雄は筋力が9割。知力、財力、権力といった不純物で武装しても、全て筋力の前では無力という非情。それが、摂理。逃れられない、摂理。悔しいのでしょう、権示さん。草薙さんに嫉妬しているのでしょう。同時に、恐れている。だからこそ、憤っているのでしょう。
「晒してやる。覚えていろよ。晒してやる」
醜悪な声だった。権示さんは客室を出て、一階へと降りていった。
「仏さんまでネットのおもちゃになっちまうとはね。世も末だ」
言って、草薙さんは堀男さんのそばで屈み、合掌した。それから、ブーメランパンツに挟んでいたラテックス製であろう手袋をはめる。
「失礼します」
草薙さんが堀男さんの顎を掴んだ。力を入れたのが分かる。錆びたブリキのおもちゃみたいに、口が僅かに開く。その後は、首を動かし、肩にも触れた。
「死後硬直は顎だけか。念のため死斑も確認したいが、これ以上べたべた触ったら鑑識に怒られちまう。慣れっことはいえ、自重、自重」再び合掌し、立ち上がる。「手や衣服に血は付いていない。後頭部に一撃もらって、それっきりだったのだろう」
「その、床に散らばっているキラキラした物は何なのでしょうか?」
美桜さんが言った通り、堀男さんのそばには輝く粒が幾つも見られた。
「ダイヤモンドだ」口を開いたのは義博さんだった。「間違いない、ダイヤモンドの粒・・・・・・いや、破片か」
「ダイヤモンドねぇ・・・・・・」草薙さんは腕を組んだ。「まあ、何にしたって、これ以上は現場をいじれない。お嬢さん、マスターキーがあるならば、お借りしたい。この部屋を閉じてしまいたいので」
「一階の、母の部屋にあるので取ってきます」
「美桜、俺も一緒に行く」
「一人で大丈夫だよ、義博」
「馬鹿なことを言うな。殺人犯がいるかもしれないんだぞ」
暖色を取り戻しつつあった美桜さんの顔が、寒色に返った。
「二人で行ってください」
草薙さんが言って、二人は歩調を合わせつつ一階に向かった。
「若いの、出ようぜ」
草薙さんに促され、真威人君はぼんやりとした顔のまま立ち上がり、客室を出た。
「大丈夫?」
ろくでもないことを言ったと後悔した。弱々しい笑顔が返ってきて、後悔は痛みを伴った。
美桜さんと義博さんが戻ってきた。受け取ったマスターキーで、草薙さんは堀男さんの部屋を施錠した。
「そうだ、警察!」出し抜けに美桜さんが言った。「気が動転してた! 警察に通報しないと!」
「既に通報済みです」手袋を外しつつ、草薙さんが言う。「先ほど部屋へ警察手帳などを取りに行った際に。この嵐で電波の状況に不安はありましたが、何の問題もなく繋がった」
「マスターキーは、刑事さんが?」
「俺が持っておくべきだと考えます」草薙さんは義博さんと目を合わせた。「構いませんね?」
短い沈黙の後に、「構いません」という答えがあった。
「ペンションに居る全員を食堂に集めたい」手袋とマスターキーをブーメランパンツにはさみながら。「七号室の客に声を掛ける必要があるのですよね?」
「そうです・・・・・・どうして、お分かりに?」
「あなたとお母さまの会話が聞こえていたので」そう言って、草薙さんは美桜さんから僕に視線を移した。「後は、君と同席していた若者か。部屋に戻ったのだろう?」
「はい。部屋に忘れ物をしたからと」
「彼の部屋は・・・・・・」
「五号室です」
真威人君の擦り切れたような声だった。目が合って、彼はまた力なく笑った。
「義博さん。俺と一緒に来てほしい。二階の二人に声を掛けに行く」
義博さんは、僕を見詰め、それから、真威人君を見詰めた。険しい眼光が僅かに解れる。
「分かりました」
階段の降り口まで歩く。そこで草薙さんたちと別れた。
震えが、踏んだ段の軋みによるものではないと知る。凄惨な光景が確かな記憶となって、人の死は現実味を増した。蹲ってしまいそうになるのを必死に堪えながら、僕は足を動かした。
食堂に入り、権示さん、加子さん、中年女性を視認した。独り言をつぶやきながらスマホを操作している権示さん。隣に座る加子さんは、スマホ片手に箸を口に運んでいる。中年女性は、食堂の中央に棒立ちで、真っ青な顔には何の表情もない。
美桜さんが中年女性に歩み寄り、その小さな背中を撫でた。
「お客様が亡くなっていたのでしょう?」中年女性は権示さんを見やった。「あちらのお客様から聞きました」
「大丈夫だよ、お母さん。大丈夫」
おまじないみたいな、大丈夫、に僕も心を寄せた。それでも胸のざわつきは癒えず、風雨と、小さな悪態と、咀嚼の音は、次第に不快を成していった。
「座ろう」
言った時にはもう、僕は真威人君の手を引いていた。そうして、権示さんたちから最も遠い席に彼を座らせる。
「ありがとう」
悲哀、絶望、虚無、どれとも読み取れない顔が、デカい両手に隠れた。僕は唯、真威人君のそばに立ち尽くした。
「これで全員、食堂に集まったな」
草薙さんの声だった。義博さん、矢吹さん、頂さんも食堂に入ってくる。
「改めまして、警視庁刑事部捜査第一課の草薙末歩巡査です」提示し終えた警察手帳を戻す。「四号室に宿泊されていた方が亡くなりました。殺人である可能性が高い。警察には既に通報済みです。天候が回復し次第、高知県警察がやって来ます」
「今すぐには、来れないのですか?」
「時化で船が出せないのです」草薙さんは頂さんの問いに答えた。「この嵐だ」
「使えねぇ」権示さんがぼそりと言った。「すぐ来ないとか、税金泥棒だろ」
「そう思うなら警察学校に通ってくれ」草薙さんは笑った。「人手が増えれば孤島に交番くらいは置けるかもしれんぜ」
怒り狂った顔面は、後ろ髪を引かれるような動きで、スマホに向き直った。
「本当に、殺人なのですか?」中年女性が口を開いた。「事故死とか自殺って可能性も・・・・・・」
「後頭部に打痕がありました」
「転んで出来たのかもしれません」藁にも縋るといったふう。「椅子の肘掛け部分なんかに後頭部をぶつけたのかも」
「被害者は俯せに倒れていた」
「頭を打ってから少しの間は動くことが出来て、それで、俯せになったとか」
「そうであったならば、被害者の体とその周囲には血が目立ったことでしょう。しかし、血は後頭部と、そこから滴ったであろう極わずかな部分にしか見られなかった。後頭部を殴られた時点で即死、あるいは意識を失っていたと考えるのが自然です」草薙さんは中年女性の肩にそっと手を置いた。「お気持ちは理解できますが、どうか現実を受け入れて」
恐怖を与えもすれば安心を与えもする、マッチョの手とはかくも不思議なものだ。暁を迎えたみたいに、中年女性の暗がりは引いた。
「殺人である可能性が高い、その上で、今の我々の状況だ」肩に置いた手を下ろしながら。「このペンションに留まらざるを得ない、我々の状況だ」
「殺人犯が居るかもしれない所になんて居られませんよ!」頂さんが言った。「すぐにでも別の宿泊施設に避難しましょう! 例えば、島の北部にあるグランドリゾート雅! あそこなら宿泊客も従業員も多いし、安心です!」
「無理だ」義博さんが言う。「ここからグランドリゾート雅までは5キロ以上の距離がある。この嵐のなか、舗装されていない道を行くのは危険すぎる」
「それなら、もっと近くの場所に避難を・・・・・・」
「最も近い施設がグランドリゾート雅さ」
義博さんがコック帽を外して、頂さんは項垂れた。
「だからこんな所に来たくなかった!」箸を机に叩き付けて、加子さんが叫んだ。「四国旅行とか意味不明! 東京以外なんにも無いじゃん、この国なんて!」
「ヒステリーを起こすなよ」権示さんが、にやりと笑った。「自慢のプロテーゼが曲がっちまうぜ」
「今、なんつった?」加子さんの顔が引きつる。「今、なんつった!? ナイフを忍ばせなくちゃ表も歩けない、元いじめられっ子のチキン野郎が!」
見る見るうちに、権示さんの顔は真っ赤になった。
「整形依存のビッチが!」
ゴングは既に鳴っていた。席を立ち、取っ組み合いを始める二人。加子さんの長身が権示さんの小柄を際立たせ、性差の見えないキャットファイトの趣を放つ。
唖然とした空気のなかで罵声と拳が飛び交うカオス。そんな最中、徐に距離を詰めた草薙さんが、荒れ狂う二人を引き離した。猫の首根っこを掴むようにして。
「デカの前でよしてくれ」
興奮冷めやらぬ様子の権示さんに対し、加子さんは憑き物が落ちたようにすんとした。
「食事を続けたいの」
背筋が冷たくなる声だった。
「おたくは、どうだい?」
「放せよ」鼻息を抑えながらの声。「何もしねぇ」
「信じるぞ」
草薙さんの手が離れて、二人は取っ組み合いなんてなかったみたいに自分の世界へ戻った。
「どれだけの時間ここに留まることになるか分からない以上、可能な限り安全は確保したい」草薙さんは腕を組んだ。「犯人捜しは急を要する」
「犯人探しって」美桜さんの険が濃くなった。「ここに居る誰かが殺人を犯したと言いたいのですか?」
「ここに居る人間以外の犯行の可能性もあります」穏やかな口振りは、努めたものだと分かった。「それをはっきりさせる必要があるのです」
「美桜。気に入らないだろうけれど、今は彼に仕切らせておこう」義博さんの囁き声が聞こえた。「滅茶苦茶なことを言っているわけでもないのだし」
美桜さんはため息をついて、首を小さく振った。
「まずは被害者について知りたい。君は、彼の知り合いなのだろう。少し話を聞かせてくれ」
草薙さんに声を掛けられるも、真威人君は上の空だった。見かねたのだろう、矢吹さんが手をあげて、口を開く。
「堀杉堀男、僕たちと同じ大学に通う二年生です。ここにはサークルの旅行で宿泊していました」
「君の他に堀杉さんの知人は?」
「彼と・・・・・・」矢吹さんは真威人君を指差し、それから、権示さんと加子さんを指差した。「彼等です」
「堀杉さんを最後に見たのは何時ごろ?」
「僕は、午後4時になって直ぐです」
「それ以降に堀杉さんを見た人は?」
沈黙があって、僕は口を開こうとしたけれど、それよりも先に、真威人君が喋り出した。
「午後4時5分ごろ、疲れたから休むと言って堀杉は自分の部屋に向かいました。それ以降に誰も彼を見ていないのであれば、それが彼が目撃された最後です」
「死亡推定時刻は午後4時から午後4時30分の間と見ていた。合点がいく」
「どうして死亡推定時刻なんて立てられるのですか?」美桜さんが噛み付いた。「ちゃんとした検死もされていないでしょう」
「お堅めの刑事ドラマで勉強しているね、お嬢さん」言って、嘲笑ったのを後悔したように、草薙さんは頭をかいた。「死後硬直の状態を確認するくらいであれば現場でも出来ます。間違いなく、堀杉さんは午後4時5分から午後4時30分の間に殺害された」
「それなら話が早い」なおも食って掛かろうとする美桜さんを制するように、義博さんが前に出た。「アリバイの有無を容易に聞き取れる」
「そういうことだ」草薙さんはブーメランパンツからスマホを抜き取った。「一人ずつ、午後4時5分から午後4時30分までどこに居たのかを話してください。他に、氏名と、客の方は自分の部屋の番号も教えてください」
「俺から話そう。掛布義博です。ペンションステロイドで厨房を任されています。午後4時5分から午後4時30分の間は厨房で夕食の準備をしていました。証人は妻の美桜です」
促され、美桜さんは渋々といった体で話し始めた。
「掛布美桜です。ペンションステロイドで働いています。夫の言っていることは事実です。殺人があったとされている時間には厨房で手伝いをしていたので」
「身内では証人として弱いですね」
草薙さんの淡白な物言いに、美桜さんは目尻をつり上げた。
「義博さんと美桜さんは嘘を言っていません」真威人君が言った。「堀杉たちが二階に上がった後も、俺は午後4時30分を過ぎるまで、ずっと一階に居ました。その間、手持ち無沙汰で厨房を覗いたりしていたのですが、確かに義博さんと美桜さんの姿がありました」
「君の氏名を教えてほしい」
「剛力真威人です。部屋は二号室です」
「剛力さん。君は、堀杉さんとは親しかったの?」
やけに熱っぽかった瞳が、急激にくすんだ。
「付き合って、いました」
僕は自分自身のために心を痛め、それがどうしようもなく恥ずかしかった。
「堀杉さんはトラブルを抱えていませんでしたか?」草薙さんの眼光が鋭くなった。「君や、知人の彼等と」
「さあ、分かりません。俺と彼の関係は、うまくいっていたと思いますが。付き合っていたといっても、踏み込んだ話はしたことがないので」
レスラーがレスラーに引き寄せられるが如く、草薙さんは真威人君に歩み寄った。余りにも勢いが猛烈だったから、近接した二つのハンサムフェイスに接吻の希望を抱いて、胸が高鳴る。
躊躇が露な柔肌に、年季の入った厳めしさは、解れた。
「そういうものかね、最近の交際ってやつは」
触れ合っていた大胸筋が、名残惜しそうに距離を取った。それは僕の感慨だっただろうか。
「剛力さん。君がずっと一階に居たことを証明できる人は?」
「私が証明できます」中年女性が言った。「ペンションステロイドのオーナーの掛布幸子と申します。堀杉様が知人のお二方と一緒に二階へ上がった時、剛力様は一階に残られました。ちょうど飲み物をお出ししたので確認できたのです」
「俺だけ飲み物を頂きました」真威人君が言った。
「飲み物を出した後、あなたは?」
「一階の、自室に戻りました。私の部屋は受付も兼ねていますので」
「それでは、あなたが自室に戻られた後の証明が成されない。あなたを含めて」
「いいえ、剛力様も私も証明が可能です」幸子さんの歯が少し覗けた。「既にご存じでしょうが、二階に上がる唯一の手段である螺旋階段は酷く軋みます。上り下りがあればペンションのどこに居ようと音で分かるほどに。堀杉様たちが二階に上がられた後は、午後4時30分を過ぎるまで、螺旋階段が軋むことは一度もありませんでした。これは、その時ペンション内に居た皆様が証人です」
食堂に居る数人が、僕と同じく頷いた。
草薙さんは、眉間に皺を寄せ、顎をなでた。
「次は、君に尋ねたい」草薙さんは矢吹さんを見据えた。「氏名と、午後4時5分から午後4時30分までどこに居たか」
「矢吹翼です。部屋は五号室です。その時間は、自分の部屋にいました」ハッとしたように、矢吹さんは眼鏡のずれを直した。「ずっと、本を読んでいました」
「証人はいないのですね」
はい、と消え入るような声を出して、額に汗の玉を浮かべる。
「君は?」
「筋肉好三郎です。八号室です」不利な証言を理解して、唇が渇く。「部屋にいました。ずっと」
「筋肉・・・・・・」
そう呟いて、僕の顔をまじまじと見た草薙さんは、少年の清潔を纏っていた。
頭を振って、草薙さんの顔は僕の視界から隠れた。
「次は、あなたです」
「七号室の、頂貞光です。午後4時5分から午後4時30分の間は、食堂でお酒を飲んでいました」
「それを証明できる人は?」
「私が証明できます」美桜さんが言った。「大量にお酒を飲んでいたようなので、心配になって、厨房から様子をうかがっていたのです。頂さんは確かに食堂にいました」
「後は、君たち二人だけだ」
注目されて、権示さんは不快の相を強めた。加子さんは、食事を平らげて、スマホに無表情を向け続けている。
「レディファーストでいこうか」
「尾容加子、三号室」草薙さんの軽口があっても、表情は見えなかった。「ずっと部屋に居た」
「証人は無し?」
その声を、加子さんは無視した。
「犯行があったのはあなたの隣の部屋だ。物音などは聞こえなかった?」
「イヤホンをつけていた」
「オーケー。最後は、君だ」
「自古権示」
「部屋は一号室だな」
権示さんは舌打ちをした。
「午後4時5分から午後4時30分の間、どこに居た?」
「部屋に居た」
草薙さんはスマホをブーメランパンツにさした。
「アリバイがないのは、四人か」
「あなたのアリバイは?」美桜さんが言う。「あなただけは疑わしくないとでも?」
「失礼、きちんと話すべきでした」口だけでなく、草薙さんは頭を下げた。「私が鬼肉島に到着したのは、午後4時30分を過ぎたころです。ペンションステロイドに到着したのは、午後5時」
「証明は? なければ、あなたが予め二階に潜んでいて、堀杉さんを殺害した後、頃合いを見て外に出て、訪れたばかりを装った、そういう可能性も否定できないですよね?」
「このなりです。定期船の船長が私を最終便に乗せたことを覚えているでしょう」
「確認しますよ、いいですね」
「可能であれば、確認してください」
美桜さんはポケットからスマホを取り出し、画面を数回、タップした。
「もしもし、小松さん? お久しぶりです。ペンションステロイドの美桜です・・・・・・」スマホでの通話だ。「つかぬ事をお聞きしますが、ブーメランパンツ姿のマッチョを今日の最終便に乗せましたか・・・・・・はい、ありがとうございます。もう一つお聞きしたいのですが、その便が鬼肉島に到着したのは午後4時30分頃でしたか・・・・・・そうですか、はい・・・・・・いえ、特別に何かあったわけではなく・・・・・・はい、すみません。ありがとうございます。はい、はい。それでは、失礼します。はい。土佐清水には近々行く予定があるので、その時に御挨拶に行かせてもらいます。はい、はい。失礼します」
スマホをポケットに戻す、その手付きは乱雑だった。
「おっしゃる通りでした」
「確認、ありがとうございました。これで、俺のアリバイは成立だ」
「死亡推定時刻そのものが、でたらめなら意味がないさ」権示さんの皮肉たっぷりな声だった。「あんたが言っているだけだ」
「手癖が悪くてね」口振りにひょうひょうとしたものが混じった。「常日頃から仏さんを触っちまうんだ。そうして培われた感覚は、ファンタジー。全うな鑑識ですら断言の難しい死亡推定時刻を断言できてしまうほどに」
「信用できるわけがないだろう、そんな話」
「それでは、信用させてみせよう」
言うや否や、とうに冷めてしまったであろう鶏の照り焼きを一切れ手に取る。そうして、ソフトタッチで、デカい指は肉の隅々に触れた。
「この鶏の死亡推定時刻は、今日の午前10時から午前10時30分の間だ」草薙さんの声は淀みなかった。「断言できる」
「イカれてる」権示さんは嘲笑った。「イカれてる」
不意に、どさっ、という音が聞こえた。音がしたほうに顔を向けると、義博さんが尻を地面に着けていた。
「申し訳ない。驚きの余り、腰を抜かしてしまって・・・・・・」立ち上がり、大量の汗をぬぐう。「その鶏肉は、鬼肉島東部で営業しているペンションケンタッキーのオーナー、雷さんが今日の午前10時を少し回ったころ、絞めたやつだ。俺は立ち会っていたから、間違いない」
食堂がざわついた。僕のざわつきも混じっている。
「これで信じられるだろう!」一切の反論を許さない凄みが、あった。「堀杉堀男さんの死亡推定時刻は午後4時5分から午後4時30分の間、それで確定! 信じろ! 信じてくれなくては、話が進まない!」
真の論破はパワーによってのみ成される。権示さんを含め、もう誰も、死亡推定時刻に異は唱えられなかった。
「アリバイがないのは、四人」草薙さんは話を進めた。「尾容さん、自古さん、矢吹さん、筋肉さん」
「馬鹿げてる」権示さんは頭を抱えた。「馬鹿げてる」
「堀杉さんの遺体に争った形跡はなかった」草薙さんが続ける。「メタルギアじゃあるまいし、対象に気付かれず部屋に入り、忍び寄るなんてことは不可能だ。堀杉さんは犯人を自ら部屋に招き入れ殺害されたと考えるのが自然。そうして、アリバイのない四人のうち、三人は堀杉さんの知人」
「冗談じゃねぇ!」権示さんが椅子を倒し、立ち上がった。「俺たちに恨みでもあるのかよ、あんたは!」
「これは推理だ。個人的な感情はない」草薙さんは権示さんを真っすぐに見詰めた。「君の、その机の上にある自撮り棒、ホルダー部分がダイヤモンド製という話だったね」
「だったら何だよ!?」
「堀杉さんの遺体のそばにはダイヤモンドの破片が散らばっていた」
「俺が、こいつで、堀男の頭を殴ったって言いたいのかよ・・・・・・」わなわなと震える。「ふざけるのも大概にしろよ・・・・・・」
「ダイヤモンドは砕けないでしょう」真威人君が言った。「権示の自撮り棒は無関係ですよ」
「ダイヤモンドは砕ける。衝撃には弱いからな」草薙さんは手を前に出した。「よく見せてくれ」
「好きにしろよ!」
叫ぶと同時に自撮り棒を投げつける。それを、草薙さんは難なくキャッチした。
「どこも砕けていないな」自撮り棒を注視しながら。「これは犯行とは無関係だ」
「そら見ろ!」権示さんは鼻息荒く言った。「精神的苦痛を味わったぜ! 落とし前、どう付けてくれるのさ、刑事さん!?」
「刑事さん、よろしいですか」
断って、手に取った自撮り棒のホルダーに義博さんは息を吹きかけた。煌めきが曇って、その晴れ渡る様は鈍重だった。
「これはダイヤモンドではありません。キュービックジルコニア、いわゆる模造ダイヤモンドというやつです」
「そんな訳あるかい!」唾液が飛び散る。「チャンネル登録者数100万人突破を記念して、全うな業者に作らせた物だ! 一億円以上も掛かったんだぞ! 偽物の訳あるかい!」
「それなら、本物はどこにある? 砕けて、隠したか?」
「そのコック野郎がでたらめを言ってやがるんだ!」
「でたらめなんか言っていない」
「でたらめだろ! ただのコックがダイヤモンドの真贋を見極められる訳がねぇ!」
義博さんが口ごもって、権示さんの口角が上がった。
「失礼ですが、義博さん・・・・・・」言葉遣いとは裏腹に、草薙さんの態度には馴れ馴れしさがあった。「あなた、堅気ではないですね。若いころマル暴に居たので、分かるのです。気配が、違う」
途端に失われた顔色よりも、その傍らの紅潮が猛る様は際立った。
「失礼にも程があります!」美桜さんは叫んだ。「謝罪してください!」
「構わないよ、美桜」義博さんは美桜さんの手を優しく握った。「臭い飯は食いました。そうして、今はもう、自分の銀行口座も持っている。けじめは、付けた」
手が強く握り返されたのが、分かった。
草薙さんは、義博さんの肩を軽く叩いた。
「シノギで模倣宝石を捌いていました。キュービックジルコニアも大量に扱った。見間違うことはない」
「でたらめは言っていないようだ、自古さん」権示さんに向けた草薙さんの眼差しは、哀れみが透けていた。「これとは別に本物があるという話なら、立場が悪くなるぞ」
今度は権示さんが口ごもった。それで誰かの口角が上がることはなかった。
「まさか、これだけのことで、権示を犯人にするつもりじゃないですよね?」真威人君は詰るような目を草薙さんに向けた。「アリバイがないのは権示だけではないし、本物のダイヤモンドの自撮り棒が存在したことを誰も証明できないというのに。そもそも、堀杉のそばにダイヤモンドの破片が散らばっていたからといって凶器をダイヤモンド製と決めつけること自体、短絡的すぎる」
身の程を思い知らされた。所詮、僕と真威人君は出会ったばかりの関係。アリバイがない僕を彼が擁護する謂れはなく、優先されるのは馴染みの関係なのだ。
悲しさとねたましさと心細さと。しかし恋は、恋のままだった。
「自古さんを犯人扱いするつもりはない。事実を明確にし、可能性を提示しているだけだ」そう言って、草薙さんは食堂に居る全員の顔を順々に見やった。「堀杉さんを殺害できた人間がこの中に居るのは、事実だ。しかし、この中に居る人間以外が堀杉さんを殺害した可能性は、まだ否定できていない」
「ペンション内に隠れている人間がいないか、探すのですね」
「その通りです、義博さん」デカい肩をぐるぐると回す。「例えば、自古さんたちとは別の顔見知りがこの島に来ていて、そいつは堀杉さんとコンタクトを取っており、午後4時より前に部屋に通されていて、堀杉さんが部屋に戻ったところで、殺害。その後、そいつは頃合いを見てペンション内に隠れたか、あるいは、外に逃げたか。後者は確認のしようがないが、前者は確認ができる。よって、数名は俺と一緒にペンション内を捜索してほしい」
「また強引に・・・・・・」
舌打ち混じりの声を出した美桜さんを、義博さんがなだめた。
「捜索に行く前に、確認しておこう。尾容さん、自古さん、矢吹さん、筋肉さん。あなたたちの所持品を調べさせてほしいのですが、ご協力願えますか」
「そういうのって、任意だろ」権示さんが言った。「拒否する」
「君は、尾容さん?」
「絶対、無理」
草薙さんは、浮かんだ冷笑を素早く隠した。
「矢吹さん、君は?」
「俺は、構いません」
「筋肉さんは?」
「僕も、構いません」
「幸子さん。人が隠れていないか、ペンション内を隅々まで探す必要がある以上、あなたや娘さんたちの部屋、および全ての客室にも立ち入ることになります。構いませんね」
「これも任意ですよね?」
「美桜!」
幸子さんが怒鳴って、美桜さんは首をすくめた。
「どうぞ、お調べになってください」穏やかな声に返って、言う。「マスターキーは私の部屋にございます」
「先程、娘さんたちから預かりました」マスターキーを手に取って、見えるようにする。「感謝します」
「誰が刑事さんと一緒に行くのですか?」義博さんが言った。「犯人が隠れている可能性がある以上、女性は連れて行くべきではないと考えますが」
「義博さん、自古さん、矢吹さん、筋肉さん。俺と一緒に来てくれ」言って、草薙さんは僕に頭を下げた。「君の所持品を調べる以上は、付いてきてもらったほうが良いと判断した。何かあれば全力で守ることを約束する」
鎖骨と肩甲骨が作る谷間は美しかった。草薙さんが頭を上げて、谷間が隠れると、喪失の強さに狼狽えた。
「それでは、行こう」
草薙さんが食堂を出た。義博さんは美桜さんと小声を交わしてから、草薙さんに続いた。
不満は明らかで、しかし権示さんは表情と裏腹にしっかりした足取りを見せた。そうして、真威人君のそばまで来ると、「庇ってくれて、すまない。真威人」と言い、そのまま食堂を出て行った。
「俺たちも、行こう」
矢吹さんが言って、僕は彼と一緒にロビーの床を踏んだ。
改めて、二階を見上げてみる。階高は一般的な住宅よりもずっと高く、5メートル以上はある。二階の廊下に設置された磨りガラス張りの手すりも考慮して、とてもじゃないがジャンプしたところで二階には上がれない。よじ登るのに仕えそうな柱や突起物などもなく、二階に上がるには、やはり螺旋階段を使う以外ないだろう。
「このペンションの出入り口は幾つありますか?」
「三か所です」草薙さんの問いに答える義博さん。「正面出入り口と、洋館裏の出入り口、後はお義母さん、幸子さんの部屋の勝手口です」
「その内、鍵が閉まっているのは?」
「鍵を開けっぱなしにしているのは正面出入り口だけです。夜間は閉めますが」
「本当に、避難は出来ないのでしょうか?」
出し抜けに言って、矢吹さんは正面出入り口に近付いた。ノブを握り、外開きのドアを押す。鍵は開いている。しかし、ドアは強風によって少しも開かなかった。
非力な筋肉が物悲しさを訴えた。ノブを放して、矢吹さんは肩で息をした。
「異常な風と雨です」義博さんが正面出入り口のドアの鍵を閉めた。「避難は諦めてください」
「あちらの部屋は?」
ロビー脇の廊下、その手前にあるドアを草薙さんが指差した。
「物置にしている部屋です」
「中を見ましょう」
マスターキーで鍵を開け、ドアを開く。
義博さんが照明を点けた。広い部屋に、ラックやキャビネット、散乱する日用品や段ボールの山が明瞭となる。
「お恥ずかしい。散らかっていて」
「人が隠れるにはおあつらえ向きだ」
「でも、物置であるならば、常に鍵がかかっていますよね?」矢吹さんが言った。「このペンションの関係者以外はここに入れないのでは?」
「マスターキーを含む全ての鍵は幸子さんの部屋で管理しています。受付として機能している部屋でもあるので、夜間でなければ鍵を閉めていません」
「幸子さんの部屋で鍵を盗み、物置部屋の鍵を開け、鍵を幸子さんの部屋に戻してから物置部屋に入り、内側から鍵を閉める。そういった事が可能という訳だ」
「セキュリティが終わっているな」権示さんが笑った。「レビューに、泥棒にとっては最高のペンション、って書いとくわ」
「お客様との信頼で成り立っているんだ、うちみたいなペンションは」義博さんは憎悪を露にした。「お前みたいな人間に壊されつつある文化だ」
「てめぇ、それが客に対する口のきき方かよ!」
「喧嘩はなしだ」草薙さんが義博さんと権示さんの間に割って入った。「犯人がいたら、笑われちまうぜ」
義博さんは、深呼吸をして、それから、ラックの裏側を覗き込んだ。
権示さんは、舌打ちをして、壁に寄り掛かり、スマホを手に取った。
物陰を覗いたり、覆いになる物をどかしたりと、草薙さんと義博さんが精力的に動く傍らで、僕は居た堪れないままに突っ立った。矢吹さんも同じ気持ちなのだろう、手をこすりながら、二人の動きを見やっている。権示さんのように端から手伝う気がなければ安楽だろうと、憎らしさが湧いた。
「誰も居ません」
三分ほど経って、義博さんが言った。草薙さんが頷いた。
物置部屋を出て、草薙さんは施錠を済ませた。
「次は、あの部屋だ」廊下の、一番近いドアを指差す。「幸子さんの部屋ですね?」
「ええ」
幸子さんの部屋の鍵を草薙さんが開ける。
草薙さん、義博さんに続いて、僕と矢吹さんも幸子さんの部屋に入った。
リビング、ダイニング、キッチンが一体になった部屋は、十分な広さを有していたけれど、雑多な小物や電化製品があちこちに置かれていて、視覚には狭苦しさを訴えた。
部屋に入ってすぐ、低い室内フェンスの手前は生活感が薄く、ノートや筆記用具で天板の隠れた机が置いてあり、そこの壁にはキーボックスも取り付けられている。
「鍵が全てあるか、確認してください」
草薙さんに求められ、義博さんはキーボックスを注視した。
「お客様にお渡しした各部屋の鍵以外、全てあります」
言われて、頷いた後、草薙さんは室内フェンスをまたいでキッチンへと歩いていった。
「話通り、勝手口のドアは鍵が閉まっていますね」草薙さんが言う。「奥の部屋は、寝室か」
「ええ。隠れられる場所があるとすれば、寝室のベッドの下かクローゼットの中、後は、俺たちペンション関係者が利用するトイレくらいです」
室内フェンスの扉部分を開いて、スリッパを脱ぎ、リビングの中程まで入ったけれど、寝室にまで足を踏み入れるのは気が引けた。それで僕は、大きなテレビのそばから、本棚の上に置かれているくるみ割り人形をぼんやりと見詰めた。
「幸子さんは西ヨーロッパが好きなんだね」そう言って、矢吹さんは本棚の横のチェストを指差した。「ほら、そこに置かれているのはビスク・ドールですよ」
「素敵ですね」
人が殺された、その事実が遠いものに感じられた。
「筋肉さんは、ドイツやフランスには行ったことがありますか?」
「子供のころに、家族で行きました。矢吹さんは?」
「俺は机上旅行ばかりで、実際に行ったことはありません」
そんな話をしているうちに、草薙さんと義博さんが寝室から出てきた。
「トイレも確認しましょう」義博さんは寝室のそばにあるドアを開けた。「誰も居ませんね」
そうして、僕たちは幸子さんの部屋を出た。施錠も済む。廊下の壁に寄り掛かってスマホを弄っていた権示さんが大きなあくびをした。
次は、隣にある美桜さん義博さん夫婦の部屋だった。リビング、ダイニングが一体になった部屋で、幸子さんの部屋よりも少し狭いのだが、ミニマリズムとまでは言わずとも所有物は厳選されていて、広々として見えた。
幸子さんの部屋と同様、奥には寝室があった。草薙さんと義博さんはすぐにそこも調べた。
美桜さん義博さん夫婦の部屋を出て、その後は、宿泊客用のトイレ、男女両方のドアを開けてみて、いよいよ僕の緊張感は緩んだ。
廊下はまだ続く。次は厨房だ。ステンレスの銀光が映え一目で清潔だと分かる。隠れられそうな場所といえば大型の冷蔵庫と冷凍庫くらいだが、そんなところに隠れる人間はいないだろう・・・・・・そんな冷淡とは無縁で、草薙さんは冷蔵庫と冷凍庫のドアを開いた。愚直な姿に、僕の母性はくすぐられた。
「厨房と食堂は繋がっているのですね」廊下とは反対側のドアを、草薙さんは指差した。
「はい、繋がっています」
廊下に戻って、厨房の向かいは浴場だった。トイレ同様、男女で分かれている。最初に男性用の脱衣所に入り、浴室に入る。湿り気の無いモルタルの床。入浴は七時からだったため、広い浴槽にも水気はなかった。
「そろそろお湯を入れないとか・・・・・・」シャワーホースのねじれを直しながら、義博さんは呟いた。「そんな状況ではないか」
女性用の脱衣所、浴室にも入る。男性用と左右対称、それ以外に言及すべき点はなかった。
浴場の隣はボイラー室で、狭い空間に真新しい機械がしんとしながらも浮き立っていた。誰も隠れていないことは直ぐに分かった。
「それが洋館裏の出入り口ですね」ボイラー室を出てすぐ右手に見えるドアを草薙さんは指差した。「サムターンは水平だ」
そう言いつつ、ノブを握り、ドアを押してみて、鍵のかかっている確認は強まった。
「これで一階は全て見て回ったことになります」義博さんが言った。「次は二階です」
「続ける必要ないだろ」権示さんが言う。「こんな無駄なこと」
「安全を強めるためだ」皮肉を相に映した義博さんを制して、草薙さんが言った。「見ず知らずの人間が潜んでいるかもしれないという状況では、おちおち一人でトイレにも行けやしない。これは無駄なことではないさ」
権示さんが納得していないことは表情から明らかだったが、彼は不平を打ち切って、ロビーに向かう草薙さんに続いた。
ロビーに戻ると、草薙さんは開口一番、「螺旋階段の手すりを用いれば音を立てずに二階へ上がれるかもしれない」と木造の手すりをつかみ、両足を床から離した。SASUKEを彷彿とさせる絵面に、僕の両手は自然と拳を形作った。
自重という果てしないピュアを抱えて、広背筋と上腕二頭筋が盛り上がる。健全なモッコリであった。そのまま、つかむ手は上へ上へと移動する。シンプルながらもハードなアクションに、強い筋肉は微塵も動じず、しかし弱い螺旋階段はすぐに音を上げて耐え難い重みに悲鳴を上げた。
「踏み板に足を置かずとも、こんなにまで軋むのか」手すりを放し、着地する。「やはり、アリバイは重い」
矢吹さんの強張りが感じ取れた。
草薙さんを先頭に、僕たちは二階へと上がった。
二階には客室以外の部屋がない。
僕たちが最初に中を調べたのは六号室、草薙さんの部屋だった。人が隠れられそうなのはベッドの下くらいで、僕たちはすぐに隣の五号室、矢吹さんの部屋に移動した。
「所持品を見ますよ」
ベッドの下を覗いてから、草薙さんは言った。矢吹さんが頷いた。
大型のキャリーケースの中はほとんど紙本が占めていて、衣服や雑貨の類は驚くほどに少なかった。犯行を疑われるような物は一つも見つからなかった。
「所持品は、これだけ?」
「はい」草薙さんの問いに答える。「これだけです」
「君たちは、いつからここに泊まっているのですか?」
「この旅行は二泊三日の予定で、昨日は土佐清水市のホテルに宿泊しました」
「このペンションに泊まることを決めたのは、誰?」
「真威人君・・・・・・」そう言ってから、呂律が乱れる。「剛力君ですが、けれど、関係ないでしょう、そんな事は。剛力君にはアリバイがあるのですから」
「そうですね」
無感情な声を最後に、僕たちは矢吹さんの部屋を出た。
次は七号室、頂さんの部屋だ。僕の部屋と同じダブルベッドの部屋。ここにも誰も隠れていない。そうして、八号室、僕の部屋を見る番になった。
もはや熱の失せた手際だった。露になったのは退屈だけで、草薙さんの注意はすぐ僕の所持品に向いた。
「見ますよ」
「はい。構いません」
しわだらけの衣服が表に出るたび、僕は自らの不器用を自覚した。衣服の合間から雑貨が飛び出すのも恥ずかしい。真威人君がこの場にいなくて良かったと思う。こんな詰め方、がさつ以外の印象を与えないだろうから。
不意に、草薙さんの手が止まった。そうして、うなじまで真っ赤に染まる。
アナルバイブでも入れてきてしまったかしら、そんなネガティブな思考に駆られて、僕は誤魔化しの言葉を用意しつつ、草薙さんの手元を覗き見た。そうして目に飛び込んできたのは、誤魔化しようのないブツだった。薄い、薄い、薄い本。使い込まれている事が明白な、薄い本。表紙で絡み合う全裸の二人は、地球人の多くが認知するところのマッチョ。こんなデンジャラスを意図して持ち運ぶわけがない、誤ったのだ。
デカに見つかるオカズは親に見つかるよりヤバい。頭が真っ白になって、僕は半笑いを浮かべることしか出来なかった。
「失礼ですが・・・・・・」男子校のチェリーみたいな、草薙さんの声だった。「年齢をお聞かせ願いたい」
「19才です」僕は震える声に鞭打った。「成人です」
「それならば、合法だ」
言うや否や、薄い本をキャリーケースに戻す。矢吹さんたちに見られないようにという、その思いやりが、彼の中年であるという悲痛を忘れさせ、僕をときめかせた。それでも、真威人君への憧憬が衝動を許さず、僕の心身は草薙さんから離れ、不埒が流れ去るのを唯々、待った。
薄い本以外、危険な物が出てくることはなかった。出した物はそのままで構わないと僕が言ったから、すぐに全員、部屋を出た。
二階の北側に向かう。その途中、廊下の端に置かれた避難梯子を注視してみた。フック部分を投げて一階から二階の手すりに避難梯子をかけることは、可能だろう。そういった避難梯子にこだわらず、立てかけが可能な梯子を用いてもいい。しかし、そういった方法は人に発見されるリスクが大きい。梯子を持ち歩くリスク、ロビーで梯子をかけるリスク、使用した梯子を隠すリスク。堀杉さんを殺害後には、同じリスクを再び犯すことになる。決して広くはないペンション、決して少なくはない人。梯子を用いてのアリバイ崩しは行えるわけがない。
草薙さんたちも僕と同じ考えなのだろう、避難梯子を見やっても、それについて口は開かなかった。
北側の四部屋は、真威人君の二号室から見ることになった。
ベッドに、ショルダーバッグが置かれていた。替えのブーメランパンツが詰まっているのだろうかと夢が膨らんで、僕はそればかりを見詰めた。
次は、一号室、権示さんの部屋。隠れている人間を探すというよりは証拠品を探すような目付きで、草薙さんと義博さんは入念だった。
「もう一度、お願いしたい。所持品を調べさせてはくれませんか」草薙さんはベッドの横に置かれているキャリーケースを指差した。「何も出なければ、あなたにかかる嫌疑は弱まる」
「俺は堀男を殺してない!」権示さんは怒声を上げた。「俺の所持品に指一本でも触れてみろ、訴えてやるからな!」
断固たる決意に、その場にいる全員が閉口した。
僕たちは権示さんの部屋を出た。そうして、三号室、加子さんの部屋へ。
草薙さんがベッドの下を覗いていると、階段が軋んだ。僕たちが部屋を出たのと、加子さんが部屋の前までやってきたのは、同時だった。
「ふざけんなよ!」加子さんが叫んだ。「拒否したじゃん!」
「所持品を調べるのはね」草薙さんが冷静な声を返した。「部屋を調べることについては拒否されていない」
「そんなこと、聞いていない!」
「全ての客室に立ち入ることになると、話しました。あなたの居た、食堂でね」
「マジで、死ねし!」
強く床を踏んで、サンダルのヒールが折れた。加子さんの悪態は強まった。
「どうして一人で二階に上がってきた?」不信を隠さない口調で、義博さんが言った。「身の危険を感じなかったのか?」
「知らねぇよ! 部屋で一人になりたかったから来ただけだし! 私の自由じゃん!」
「一人にはならないほうがいい」義博さんを制するように、草薙さんは声を張っていた。「あなたのためだ」
「関係ない! どけよ!」
加子さんは部屋に飛び込むと、乱暴にドアを閉めた。がちゃり、と鍵の閉まる音が続いた。
不毛を悟ったのか、草薙さんも義博さんもドア越しに声を掛けたりはしなかった。
そうして、最後の部屋、四号室。奥に遺体が横たわっているという事実が、何の変哲もない木製のドアを禍々しいものに変えている。
草薙さんに続いて部屋に入る人は、僕を含めていなかった。
「本当は不味いんだがな」
言って、草薙さんは堀杉さんの遺体を仰向けにした。その際、笑っているかのような堀杉さんの顔がちらりと見えて、吐き気がした。
「ダイヤモンドの装飾品は身に付けていない」
起伏のない声だった。遺体は、俯せに戻された。
「部屋に窓は一つ。錠は無し。女子供でぎりぎり出入りが出来るサイズ」
風雨にがたつく窓は雨粒にさえ深まる暗がりを映していた。
草薙さんは窓ガラスに顔を寄せた。
「ろくに見えねぇや」窓ガラスから顔を離す。「まあ、見るまでもなく、地上からはかなりの高さがあるわな。梯子を用いるにしたって、容易じゃない」
最後に、ぐるりと見回して、草薙さんは部屋を出た。
「これで終わりだろ」権示さんが言った。「徒労は」
「ああ」草薙さんは大きく息を吐いた。「終わりだ」
「それじゃあ、俺は部屋に戻るぜ」
「正気か?」義博さんが凄みのある声を出した。「自分の立場を分かっていないのか?」
「てめぇらが俺を疑うのは勝手だがよ・・・・・・」その声は震えていた。「俺が堀男を殺したっていう証拠は何も無いんだ。てめぇらに俺を拘束する権利はねぇ」
「証拠なんていらない。お前が殺人犯である可能性が高い以上、俺たちの目の届く所に居てもらう。俺たちの安全のためにな」
「ふざけんなよ、ちくしょう!」
叫ぶのと同時に権示さんは走り出した。それを追いかけようとした義博さんの肩を草薙さんが掴んだ。
「逮捕状もなければ現行犯でもない。自古さんの自由は何人にも犯せないさ。あんたなら、分かるだろう」
ドアの閉まる大きな音がした。権示さんが自分の部屋に入ったのだ。
義博さんが、両手を小さく上げた。草薙さんは肩を放した。
隠れている人間はいない、その事実に、恐怖心は和らいだりせず、むしろ強まった。人の目を離れた加子さんと権示さんだけでなく、僕のすぐ後ろを歩く矢吹さんさえ不穏を増す。蛇が足下をはっているかのような動悸で、一階へ下りるだけの道程も、安楽ではなかった。
「俺はここで二階を見張ります」ロビーのソファに、義博さんは座った。「それくらいは許されるはずだ」
「他の方々への説明が済んだら、代わりましょう」
そう言って、草薙さんは食堂に入った。手を掴む勢いで、彼の後を追う。そうして僕は、矢吹さんに申し訳なく思った。
食堂で待っていた人たちは、一様にくたびれて見えた。特に幸子さんは薄化粧に深いしわを刻んで、痛ましい。
「ペンション内には誰も隠れていませんでした」
草薙さんの声に、全員の反応は薄かった。
僕は、みっともなく迷った果てに、真威人君の隣に座った。
僕の顔を見るや、真威人君は曖昧な笑みを浮かべた。それで一層とくたびれて、焼き石を握ったような苦痛が僕を苛んだ。
「ペンションの全ての出入り口は施錠されています。そうして、出入り口の鍵は全て、幸子さんの部屋にある」草薙さんが言う。「堀杉さんを殺害した人物がペンションの外に隠れていると仮定した場合の危険も、排除できている」
その声も、むなしいくらいに響かなかった。
「先程、ロビーから義博の声が聞こえましたけれど」美桜さんが不安げに言った。「二階を見張る、って」
「尾容さんと自古さんが二階に居るからです」
「アリバイの無い二人、特に自古さんのほうは犯人の可能性が高いじゃないか」頂さんが頭を抱えた。「そんな人を野放しにしておくなんて。これでは、ペンション内に隠れている人間がいないと分かったところで全く安心できない」
「俺と義博さんで二階には注意を向けておきます。天候が回復するまでの間、一階で過ごせばいい」
「彼等だってアリバイはないでしょう」僕を睨んで、すぐに頂さんは弱々しく目線を落とした。「一階も安全じゃない」
「俺が注意を向けておきます。彼等が一人になるような時には、特にね」
その言葉が、僕に甘さを自覚させた。僕が矢吹さんたちに覚える盲目的な恐怖を、他のみんなも僕に対して抱いている・・・・・・怒りでも悲しみでもない、胸中に広がるのは、孤独。それを紛らわしたくて、想い人の手を求めるも、希薄な関係が妨げになって、触れることさえ、かなわなかった。
「過剰に、怖がり過ぎではないでしょうか?」幸子さんが言った。「仮に、仮にです。仮に、堀杉様を殺害した犯人が居たとして、その方が私たちにまで危害を加えるとは限らないでしょう」
「俺たちに危害を加えないとも限らないわけです」少し苛立ったように、草薙さんは返した。「突発的な犯行か、あるいは計画的な犯行か。私怨による犯行か、あるいは無差別の犯行か。何も分からない以上、警戒しないわけにはいきません」
至極全う、故に、シビアだった。黄金の国ジパングに存在した信用神話、その失われた現代を風刺するかのような、シビア。人様を疑うものじゃねぇ、人様を疑うものじゃねぇと、僕も幼少のころには年配の方から注意されたものだ。信用に値する材料を必要とせず、信仰であるかのようにガバガバな信用が成立した時代を生きたであろう幸子さんの嘆きは、ラファエロもびっくり、口を閉ざしてさえ強く悲哀を放った。
人から離れて座っている、矢吹さんのおでこは汗ばんでいた。嫌な汗、それは僕の汗腺にも染みていた。
「俺はロビーで、二階を見張ります」
草薙さんは食堂を出た。
風雨による音だけが、聞こえる。美味のピークを過ぎてなお香ばしい料理に鼻孔を弄ばれるも、真威人君の手前、それに手を出せる神経は持ち合わせていなかった。
義博さんが、食堂に入ってきた。
義博さんは、幸子さん、美桜さんと小声で話しをした後、「食事を取りたい方は仰ってください。新しく作ります」と声を張った。
少し間があってから、矢吹さんが臆病な小動物みたいな動作で手を上げた。それで僕も、「お願いします」と言えた。
頂さんも手を上げた。出ている料理を下げるためだろう、幸子さんと美桜さんは机上の食器に触れた。
「新しく作ってくれなくても、冷めてしまった料理を温め直してくれれば、僕はそれで十分です」
もったいない精神が働いて、僕は言った。厨房に入ろうとしていた義博さんが、振り返った。
「温め直した料理をお出しするような真似はできませんよ」
自負がこめられていると分かる、堅固な声だった。料理人のプライドというものに疎かった僕は、面食らって、謝罪を零した。
「俺も温め直すだけで構いません」僕の謝罪を隠す、矢吹さんの声だった。「レンジでチンしても、きっと美味しいままですよね。この鶏肉の照り焼きなんか特に」
フリーダムの風を感じた。それは純粋から吹く風で、僕に矢吹さんの犯人である可能性を失念させるほど尊かった。
表情筋がぴりついて、しかし、頂さんの、「私も温め直すだけで結構です」という声が続いた途端、義博さんは呆れたように、そうして諦めを露に、破顔した。
冷めた料理を温め直す間に、矢吹さんと頂さんはカンパチのたたきなどを口に運んだ。僕はというと、今更ながら真威人君の印象を気にして、慎みを演じた。浅ましいという自覚は、あった。
幸子さんと美桜さんが忙しなく働き、不要の物はあっという間に片付いて、食堂には三人分の料理と食器だけが残る。
温め直した料理が全て運ばれてきて、花より団子、僕は食欲に傾倒した。恋人を失ったばかりの真威人君、その悲しみを理解しながらも、やはり料理は美味。欲深い己に失望し、それでも箸は止まらず、むしろ罪悪感さえ調味料に変えて、箸が加速する。全ての食器が空くまでに、時間はさほどかからなかった。
済んだ食器も片された。咀嚼の音も、食器が触れ合う音もなくなって、食堂はまた、風雨の音に占められた。
厨房での仕事にきりが付いたのだろう、従業員三人が食堂に揃った。振り子時計が鳴った。
「本来であれば、七時から入浴が可能ですが・・・・・・」幸子さんが言った。「まだ浴槽にお湯を入れておりません。入浴を希望する方がいれば、すぐにお湯を入れますが、いかがいたしましょうか?」
島らしく爽やかな環境だったけれども、夏の気候はやはり発汗を促進し、まして堀杉さんのことがあってからは嫌な汗までかいて、入浴は切望するところだった。けれども、殺人犯が居るかもしれない状況で全裸になれるほど肝っ玉は据わっていない。
全員、同じ肝っ玉をぶら下げているのだろう、入浴を希望する者はいなかった。
風雨が、更に強まっているように感じられる。
真威人君の慰めになる言葉を探して、いたずらに時間が過ぎた。マッチョの整った顔に憂いが深まっていくのは、平時であれば眼福だ。しかし今は、惨状でしかない。
不意に、権示さんの陽気な声が聞こえた。声のしたほうを見てみると、スマホを持つ義博さんの慌てた顔があった。
「申し訳ありません。音量が大きすぎました。すぐに下げます」
スマホから聞こえてくる権示さんの声が小さくなった。
「権示さんの動画ですか?」
僕が尋ねると、義博さんは首を縦に振った。
「僕も一緒に見ていいですか?」
「どうぞ」
「俺も、一緒にいいですか?」頂さんが言った。「SNSとか、普段は必要最低限しか見ないので、どういったものか興味があるのです」
「構いませんよ」
義博さんがスマホを机に置いた。僕は義博さんの隣に立って、スマホの画面に目を落とした・・・・・・サングラスをかけた権示さんがハイテンションで強い言葉をまくし立てている。チャンネル登録者数100万人突破を記念した動画のようだ。
「本当に人気のあるユーチューバーみたいです。最も再生されている、高圧ガスで爆発を起こしてみた、という動画なんかは800万回以上も再生されている」
言いながら、義博さんはシークバーを動かした。そうして、黎明期の映画みたいに動く権示さんが、ホルダーの煌めく自撮り棒を掲げる。
思わず、僕はスマホを指差して、同じ反応を示した頂さんの指と、触れた。
「すみません!」
思春期の少年みたいに頂さんは上擦って、手を引いた。第一印象とのギャップが増々強まる。真威人君を恐れている様子は見受けられない。気弱、それが頂さんのシラフなのだと知れる。酒の力以上に、酒の力で凶暴になる人間性を、僕は恐怖した。
義博さんは既にシークバーの操作をやめていた。画面内に踊る自撮り棒を見詰める彼の目は、鋭かった。
動画が終わって、義博さんは首をもんだ。
「駄目だ、この映像だけでは本物のダイヤモンドかどうか断定できない」そう言って、権示さんが食堂に置きっぱなしにした模造ダイヤモンドの自撮り棒を見やる。「せめて映像の物と区別できる視覚的な特徴があればよかったのだが」
徐に、真威人君が席を立った。どこへ行くの、と僕は条件反射で問うた。
「トイレに行きたくて。一人で行くのは、不味いかな?」
「トイレくらいは一人で行って構わないでしょう」ロビーから草薙さんの声がした。「一時間や二時間で今の状況が変化するわけではないだろうから、余り窮屈だと精神的に持たなくなる」
異を唱える人は誰もいなかった。
食堂から出て行こうとする真威人君の、見事なシックスパックがうごめいて見えた。その鬼気迫る肉体の訴えに、僕は見境を失い、恋人面も同然で心を寄せた。
「辛いなら、僕を頼って。僕、真威人君のためなら何でもするから」
番いを失ったオオルリに飛び掛かる猫が如く、イカれた恋愛脳のアリアだった。
貪欲であることは快感で、僕は恥じらうことすら馬鹿らしく、まじまじと、真威人君の淡いブラウンアイに視線を絡めた。
男性経験のない僕でさえ、真威人君の仄かな欲情を感じ取れる。しかしそれはアサガオのように、夜を待たず萎む儚い揺らぎ。
「ありがとう」
表情を介さない言葉は、菊門にまで届いた。甘美に両手を当てて、けれども心は、垣間見えた不穏に縛られた。
色が失せたまま、真威人君は僕の視界から去った。彼を追いかけようと踏み出した足は、これ以上の厚かましさを嫌う臆病で二歩目を踏めなかった。
「矢吹さん。あなたは、自己さんたちと同じ大学のサークルなのでしょう」
義博さんの声が聞こえて、僕の意識は逸れた。
「ええ・・・・・・」歯切れの悪い矢吹さん。「そうですけれど・・・・・・」
「自古さんと堀杉さんの間にトラブルがあったとか、何かご存じではないですか?」
「いえ、全く、全く何も知りません」
「一緒に旅行をするほど仲が良いのに?」
「仲なんて良くありません」矢吹さんは嫌悪を露にした。「この旅行は、聖地巡礼を通して小説作品の理解を深めるために毎年催される文学評論サークルの伝統行事です。そうして、小説なんかに全く興味がない自古たちは、動画を撮るためだとかサークルの活動費で旅行が出来るからといった不純な理由で参加したにすぎない」
「小説に興味がないのだとしたら、彼等はなぜ文学評論サークルに所属しているのですか?」
責めるような義博さんの口調だった。
口ごもって、それから、きょろきょろと瞳が動いた後、矢吹さんの唇は震えつつ開いた。
「去年、先輩たちが卒業した文学評論サークルは僕一人になってしまっていて、新学期に新入生が一人、サークルに入ってくれたのだけれど、大学からサークルとして認定される定員の五人はどうしても集まらなくて。そんな時、自古たちと知り合って、サークルにあてがわれる大学内の部屋を自由に使わせるという条件で、彼等に頭数になってもらったんです」
「新入生が一人、サークルに入ったと言いましたね。その方はサークルを辞めてしまったのですか?」
血の気を失うとは正にこの事だった。元から青白かった肌はもはや灰色がかって、眼鏡の奥にある小さな目は落ちくぼみ、愛嬌の欠片すら消え失せる。
荒くなる呼吸を抑える意識すらないのであろう虚ろな矢吹さんを、義博さんは唖然として見詰めた。
僕は矢吹さんに駆け寄って、彼の背中をさすった。その凍えるような手触りが、尋常ではないバックストーリーを一層、におわせた。
幸子さんが、厨房に入って、すぐ、おしぼりを手に戻ってきた。それを受け取って、必死な礼節を見せ、眼鏡を外した瞳は紙に隠れた。
幸子さんに睨まれて、義博さんは子犬みたいに眉尻を下げた。
眼鏡をかけ直して、ボロボロになったおしぼりを手に持ったまま、景観のない窓の外を見詰める。そんな矢吹さんを、誰も追及したりしなかった。
食堂には、ウォーターサーバーが置いてある。渇きよりも重苦しさを誤魔化したい心持ちで、僕はグラスに冷水を注いだ。
口に含んだ、その一滴が顎を伝って、落ちる。水玉はリノリウムに僅かな形を残す。愛らしいと思った矢先、雫は激しく震え、弾け飛び、後には轟音が続いた。
鼓膜が痛んだ。グラスを取り落として、耳を塞ぐ。しかしそれは徒労で、轟音は刹那のうちに消えていた。
樹脂を用いたグラスで良かったと、思えるだけの余裕を取り戻したら、今度はロビーから大きな音が聞こえた。先程の轟音に比べれば遥かに穏便で俗っぽい音だった。
螺旋階段の軋む音も聞こえた。真威人君の悲愴が脳裏に浮かんで、僕は駆け出した。
ロビーには、ドアが一枚、倒れていた。見上げて、三号室のドアが外れていることが分かった。草薙さんが三号室に入った。
「筋肉さん、食堂に戻って!」
義博さんが僕の腕を掴んだ。けれども、彼は引っ張ったりはしなかった。僕たちは、天井画の虜みたいに、ドアのない入り口に釘付けだった。
少しして、真威人君がロビー脇の廊下から駆けてきた。
「すごい音がしたけれど・・・・・・」
言いながら、倒れているドアを見て、二階に視線を動かし、そうして、螺旋階段を駆け上る。
僕は、握る力の弱まっていた手を振り払い、真威人君を追いかけた。
真威人君が三号室に入った。僕は、室内の惨状を目にして、踏み込もうとしていた足を止めた。
入り込んでくる風雨が窓際を酷く濡らし、僕の前髪さえ乱す。サイドテーブルどころかベッドまでひっくり返り、窓ガラスだけでなく鏡まで割れている。ペンダントライトが転がっていて、それでも室内が暗暗としていないのは、ロビーの明りが強いのと、草薙さんがスマホのライトを使用しているから。
真威人君は、部屋の隅で、両膝を着き、深く項垂れていた。そのそばに、裂けた衣服を纏った加子さんが、身をよじるように倒れていた。
加子さんは、裸足で、しかし指が数本、見当たらない。
足下に、フラットサンダルが落ちていることに、今更ながら気が付いた。加子さんが履き替えた物だろう。屈んで、触ってみようとしたけれど、手は空で止まった。陰に見える、赤色が際立つ肌色の物体は、足指・・・・・・。
貧血に似た症状を覚えた。僕は壁にもたれ掛かった。
「爆弾しか考えられねぇ。しかし・・・・・・」草薙さんの呟きが聞こえた。「爆弾の破片すら見つからねぇのはどういうことだ? 燃焼の痕跡が一切無いのも妙だ。そして、何より、室内で爆発が起きたのであれば、割れた窓ガラスが室内にこれほど多く残るはずがない」
僕は最初、部屋に散らばる破片は全て鏡の物だと思ったけれど、よく見てみれば、反射の差異によって、窓ガラスの破片が大量に混ざっていることが知れた。そうして、加子さんの遺体に破片の刺さっている箇所は見つけられなかった。
「惨い・・・・・・」駆けてきた義博さんが、僕のそばで言った。「爆弾、ですか?」
「そう考えるのが自然でしょうが・・・・・・」
草薙さんの煮え切らない答えに口角を増々下げ、蛇みたいな目で部屋中を凝視したけれど、義博さんが室内に入ることはなかった。
「爆発現場に長居するものではないでしょう」義博さんは言った。「一階に戻りましょう」
頷いて、草薙さんは真威人君の肩を優しく叩いた。ゆっくりと立ち上がり、真威人君は草薙さんに続いて部屋を出た。
「自古さんも一階に連れて行くべきだろう」と草薙さんが言って、「俺が声をかけます」と真威人君は言った。
真威人君が権示さんの部屋のドアをノックした。すぐに、デッドボルトの引っ込む音がして、ドアは開いた。
「真威人! 耳が、耳がぁ!」部屋から飛び出してきた権示さんが、真威人君に縋りついた。「とんでもなく大きな音がして、それからずっと、耳が痛いんだよぉ!」
幼子のような狼狽を、真威人君は穏やかになだめた。マッチョの保育士も好いな、と思って、そんなTPOをわきまえない思考回路に我ながら愕然とする。
一階に下りる必要性を草薙さんが説いたが、権示さんは泣きわめく一方で、会話のキャッチボールは成立しなかった。意思の確認がないまま、真威人君は権示さんの手を引いた。正に保育園を思わせる光景だった。
一階に下りて、食堂に入る。恐怖の面持ちが揃うなか、僕が濡らした床に無表情で雑巾をかけている幸子さんは、非現実の趣を呈していた。
すみません、と僕は言って、幸子さんがにっこりと笑い、不安感は強まった。
「尾容さんが、亡くなりました」草薙さんが言った。「部屋の状態、遺体の損傷からして、爆発が起こったと思われます」
「爆発って、どうしてそんなことが起こるんですか!?」
頂さんの取り乱した声に、草薙さんは答えず、代わりに義博さんが口を開いた。
「爆弾による犯行でしょう。それ以外には考えられない」
「爆弾、犯行って・・・・・・」頂さんは脂っぽい額をぬぐった。「これも、殺人だと?」
「うちの客室に爆発するような物は置いていない」
「彼女の私物が爆発したのかもしれないじゃないですか」
「スマホのバッテリーでも爆発したってか? そんなものでドアが吹っ飛んだりはしない。部屋は滅茶苦茶、遺体は身に着けた衣服どころか四肢の末端まで千切れている有様だ。一般人の私物で発生する規模の爆発じゃない」
まだ反論があったのだろうが、頂さんは強く顔を歪めて、発しかけた声を飲み込んだ。
「ガラスは!?」唐突に、幸子さんが素っ頓狂な声を上げた。「窓のガラス!?」
「割れています」
義博さんは面食らったように答えた。
「雨水で床が駄目になっちゃう!」
雑巾を放り投げて、駆け出した幸子さんの手を、義博さんが掴んだ。
「爆発現場です! 安全じゃない!」
義博さんの声に反応を示さず、しかし手を振り払おうともしないまま寸時を過ごして、幸子さんはハッとしたように、羞恥とも罪悪とも知れぬ苦笑いを浮かべた。
「草薙さんは、どう考えているのですか?」美桜さんが言った。「これは連続殺人だと?」
「その可能性が極めて高い、と考えています」
「犯人に、目星はつきませんか?」
その問いに、草薙さんは答えなかった。
「目星ならついているだろ、美桜」義博さんが言った。「相も変わらず、そいつが最も疑わしいんだ」
落ち着きを取り戻していた権示さんは、指差されて、血相を逆流させた。
「てめぇ、何を根拠に言ってやがる!」
「あんたのユーチューブチャンネルに、高圧ガスを爆発させてみた、っていう動画があがっているだろ」義博さんは加虐的に笑った。「尾容さんの部屋で爆発が起こったのは確か。しかし、火の起こった形跡はない。圧縮された不燃性ガス入りの容器をベッドの下にでも隠しておいて、時限的にガスを膨張させる仕掛けでも施せば、狙ったタイミングで燃焼を伴わない爆発を起こすことが出来るじゃないか」
「それならば容器の残骸が残るはずだ」反論しようと前のめりになった権示さんより先に、草薙さんが口を開いた。「そんな物は部屋になかった」
「強力な爆発で、全て細かな破片になったのかもしれない。鏡の破片やらが散乱する決して明るくはない室内で、草薙さんに見落としがあったとしても不思議じゃない」
草薙さんは、腕を組み、黙した。
「俺はやってねぇっ!」権示さんの唾が散った。「俺はやってねぇっ!!」
「それを証明するものは何もない。そうして、あんたがやったのではないかと思わせる事柄だけは複数ある」
恐ろしい目だった。権示さんの熱したもの以上に、義博さんの冷たいもののほうが。
「俺には、107万人のYouTubeチャンネル登録者と、73万人のXのフォロワーと、54万人のインスタのフォロワーと、66万人のTikTokのフォロワー、計300万人の兵隊がついているんだぞ! 俺を敵に回すっていうことは、そいつらも敵に回すってことなんだぞ!」
「ネットが怖くて客商売ができるかよ」
売り言葉に買い言葉、そうして、売った方は一層と熱した。
「殺してやる!」
叫んで、ズボンのポケットに入った手が抜き出される前に、真威人君が権示さんの手首を掴んだ。
「落ち着け、権示!」
「放せよ、真威人! あいつを殺してやるんだ!」
息巻くも、圧倒的なパワーに自由を奪われた手はポケットの中でくすぶった。
「ヤッパでも忍ばせているのかい? 好都合だ。早く抜けよ、殺人犯」
「そこまでだ、義博さん」草薙さんが義博さんの正面に立った。「苦労して堅気になったんだ。悪癖をぶり返したりするな」
つき物が落ちるとは上手く言ったもので、ドスのように危うかった気配は万能包丁みたいな安定を取り戻し、それは紛れもなくコックの顔だった。
どこか少女染みて見えた美桜さんの相貌も、分別のある大人に収まって、こんこんと、夫を窘めた。
「君も、落ち着け」草薙さんは権示さんを見据えた。「状況証拠は君にとって不利だ。しかし、状況証拠だけで犯人を断定することは出来ない」
「草薙さんの言う通りだ、権示」真威人君が言う。「お前は犯人じゃない。そうだろ。誰に何を言われても堂々としていればいいのさ」
荒れ狂う呼吸に規律の兆しがあった。ポケットの中で何かを掴んでいたであろう手も、前腕の筋肉が解れる様から、開かれたことが分かった。
「大丈夫だ、真威人。俺はJ.K.Revolutionの自古権示だぜ。超人気インフルエンサーだ。安い挑発になんか乗らねぇよ」
乗ってたじゃないか、とツッコむ人はいなかった。
真威人君は、権示さんの手首を放した。
「夫と、自分たちの部屋に行っても構わないでしょうか?」美桜さんが、草薙さんに尋ねた。「夫を殺すと言った人と一緒には居られませんから」
「その必要はねぇよ」権示さんが言った。「俺が部屋に戻るぜ。これ以上てめぇらみてぇな底辺の連中と同じ空気を吸うのは耐えられないからな」
「お前を野放しにできるかよ!」
叫んだ義博さんを、美桜さんがねめつけた。それで、二の句は封じられた。
食堂を出て行こうとする権示さんを、草薙さんが呼び止めた。
「ポケットの中の物、見せてもらう訳にはいかないかね」
「拒否する」感情の読み取れない声だった。「拒否だ」
草薙さんは頭を振った。権示さんの姿が見えなくなって、すぐに螺旋階段の軋みが聞こえた。
「心配ない。ロビーで見張るだけさ」
そう言って、義博さんも食堂を出て行った。
振り子時計が鳴るのを待つ自分がいた。だからこそ時間は鈍重に進んだ。誰の顔を覗いてみても、目が合うことはなかった。自他の疲弊が混じって感じられた。
遠雷が聞こえたと思って、しかしそれは気のせいで、一際強い風が吹いただけ。この世の終わりみたいな嵐ながらも、雷が生じる気配は皆無。
「すみません。少し、気分が悪くて」真威人君が草薙さんに言った。「部屋で、休んでも構わないですか?」
「君の部屋は自古さんの隣だ」草薙さんは怪訝を隠さなかった。「怖いはずだ」
「信じてますから。自古は堀杉と尾容を殺していないって」
筋核を数えるような、食い入り。マッチョの熱視線がマッチョに向けられるラッキースケベに、僕は平時への憧憬を深めつつ、胸のうずきに苦しんだ。
凝視による眉間の深いしわは、そのセクシーな谷間を保った。疑いの根もまた深いことが、知れた。
「君の行動を制約する権利は、ない」
言葉尻の険しさに、真威人君は小さく下げた頭を被せた。
二人きり、僕の部屋で話したころから、真威人君の顔色は白ずむばかり。それは、堀杉さんの遺体が発見される以前・・・・・・。
食堂を出ようとした真威人君の手を、僕は無意識に掴んでいた。
堕天使を彷彿とさせる眼差しが降り注いで、僕は目を逸らすかわりに、思いつきの言葉を発した。
「よかったら、僕の部屋で休んで。ダブルベッドだから、窮屈じゃないし」
僕は手を放し、ポケットから取り出した鍵を手の平に置いて、真威人君の眼に晒した。打算が無い、故に真心。好意が愛の領域に達していることを、自覚した。
掌を見詰められれば、心の輪郭が像を得て、視線になぞられ、なぞられ、なぞられ、心底、ほうけた。挙句、彼の両手に掌を包まれて、僕は昇天と絶頂の狭間まで昇った。
壊れ物を扱うような力を加えられて、掌は隠れた。
「鍵は、君の心の鍵は、仕舞っておいて。俺が、君に相応しい人間になれたなら、必ず、受け取りに行く」
こんなセリフを小説の中に見つけたら、鼻で笑ってしまうだろう。しかし、リアルで、自分が対象になったならば、失われた純真が蘇り、貪るのだ、甘いロマンスを。心があるとは、そういうことだ。
血潮が男の部位を濡らした。それでも、僕の心は女に振れた。
見送って、真威人君が二階に上がる音を聞いた。切ない響きだった。
椅子に座って、頬杖をついて、ため息ばかりがこぼれる。そんな乙女チックに馴染んだころ、自身のブーメランパンツをまさぐっている草薙さんが目に付いた。
草薙さんは幸子さんに一声かけて、食堂を出た。
草薙さんから真威人君に向けられた熱視線が疑念であったという確信は、乙女チックのうちに強まっていた。擁護のためか、追究のためか、自分でも分からないまま、感情だからこその衝動で、僕は草薙さんを追いかけた。
「落とし物をしましてね。あなた方の部屋までは入ったりしませんので、少し探して歩いても構いませんか?」
ロビーで、草薙さんが言って、ソファに座っていた義博さんは首を縦に振った。
振り向いた草薙さんが、「どうしました?」と早口で言った。僕は、「一緒に探します」と言った。デカい体に朱が差した。
承諾も拒否も口にしないまま、顔を背けて歩き出す。そんな紳士的ではない態度に動揺するも、僕は草薙さんに付いて歩いた。
最初に、物置部屋を探して、次に、厨房。それから、男性用の更衣室に入って、落ちていた物は、強いインパクトを有していた。
「手錠・・・・・・」僕は自ずと呟いていた。
「非番でもワッパは手放せない」手錠を拾って、草薙さんは少年っぽく笑った。「プレイに使うんだ」
マゾの血が騒いで、口元が緩んだ。
「冗談だ! そんな顔をするんじゃない!」朱を強めて、草薙さんは言った。「職業病だ! レンコンだって片時も手放したくないくらいなんだから!」
そそくさとブーメランパンツに手錠を仕舞う・・・・・・今更ながら、立派な下腹部だ。臀筋群がデカいのは当然として、腸腰筋も大腿四頭筋と見紛うほどにデカい。立派な下腹部だ。これならば、手錠を仕舞えるくらいにブーメランパンツもデカいさ。
「そんな熱心に見詰めるんじゃない」草薙さんが上擦った声を出した。「恥ずかしいだろう」
不覚にも、かわいいと思ってしまった。それが僕にとっての恥じらいになった。
勢いよく目を伏せて、ふと、床上の砂色に注意が向いた。染みていない、小粒の土くれだった。それは更衣室の数か所で見られた。
「前に見た時にはなかった」
僕が呟いて、草薙さんは土くれのそばで片膝を着いた。指先で軽くつつくと、土くれは粉塵と化した。
立ち上がって、中折れドアを開けた草薙さんの、上腕筋群、前腕筋群、腹斜筋が織りなす豊かなトライアングルから、僕は浴室を覗いた。モルタルの床が、湿っていた。
「誰かがシャワーを使ったのだ。先ほど、俺たちが来た後に」
筋のように、湿りはシャワーが設置された場所から排水溝へと伸びている。
草薙さんが振り返って、楯ヶ崎に似たシックスパックを眼前に拝する。僕は、圧倒された。
「すまない」
バービー人形をどかすように、彼は僕の体を押し、急く足で廊下に出た。
僕も廊下に出た。草薙さんは洋館裏の出入り口まで移動していた。
浴場から洋館裏の出入り口までの間に、男性更衣室で見た土くれが幾つか見られた。
サムターンを回して、草薙さんはドアを開いた。風雨の音が強まった。
庇が深く、横殴りの雨も室内までは届かない。暗がりに貯水槽と小屋が見える。
ポーチのタイルは雨と泥で汚れていた。
雨の届かないギリギリまで顔を出して、草薙さんは酷くぬかるんだ地べたを見詰めた。
「足跡は見当たらない。しかし、この雨量だ。足跡なんてすぐに消えちまう」そう言って、閉めたドアを、草薙さんは軽くたたいた。「尾容さんを殺害した犯人はこの出入り口から外に出た。そうして、洋館の北側にまわり、尾容さんの部屋に向かって手榴弾を投げたのだ。手榴弾は窓の外側で爆発。それならば、窓ガラスの破片が部屋の中に多く見られたことも、爆弾の残骸が部屋の中に見当たらなかったことも説明がつく。尾容さんを殺害後、洋館内に戻った犯人は足に付いた汚れを浴室で洗い流した」
乳首の奥が、ざわついた。それは、あるはずのない乳腺の鼓動だった。母虎が、虎穴に入った盗人を憎むに似た感情だった。
「ボンバーマンじゃあるまいし」自分でも驚くほどに、敵意の露な声が出た。「都合よく狙ったところで爆発させるなんて、不可能です」
「窓の外側で爆発させることを狙ったとは限らない」草薙さんの険しい顔に、怒りが滲んだ。「部屋の中に投げ込むつもりだったかもしれないだろう。尾容さんを殺せるなら、どんな形でも良かったんだよ、犯人は」
「仮に、窓の外側で爆発が起きたとして、古いレンガ造りの壁すら破壊できない威力で尾容さんを殺害できますか? 尾容さんの遺体には四肢の末端が欠損するほどの損傷があったんですよ?」
「小石を窓ガラスに当てるなどして、尾容さんを窓のそばまで誘導したのかもしれない」
「それならば、尾容さんの遺体にはガラスの破片が大量に刺さっていたはずです。けれど、そんな形跡はなかった」
草薙さんは、口をつぐんだ。勝機とみて、僕は矢継ぎ早に口を動かした。
「そもそも、これは連続殺人じゃないですか。殺害された二人が友人関係にあったことから、そう考えるのが自然でしょう。堀杉さん殺害のアリバイがある人は、端から尾容さん殺害とは無関係とするのが筋です」
「お前は堀杉さん殺害のアリバイがないんだぞ! そんなにあの若いのが好きか!?」
怒鳴られたことよりも、男の目で見詰められたことのほうがショッキングだった。中年であってもイケメンのマッチョ・・・・・・僕は女の目で見詰め返した。
潮の満ち引きがそうであるように、激情の後にもまた平静があった。太く逞しい首を血管が彩る。悔恨を噛みしめているのだと、知れた。
「怒鳴ったりして、すまない」正しく男の声であった。「改めて、自分の置かれている状況を理解しろと言わせてくれ。これが連続殺人だとして、単独犯であると限定する理由はないんだ。状況証拠のみとはいえ、君と剛力さんが共謀したと考えることも出来る」
嫌な気分じゃなかった。己も、愛する人も、被疑者であると明言されて、嫌な気分じゃなかった。小学生のころ、同級生の森島君に意地悪をされていたことを思い出す。フェムボーイとからかわれ、幼少のカカロットよろしく股間をパンパンされ、それでも嫌な気分じゃなかったのは、森島君が僕に気があることを理解していたから。同じだ、森島君も草薙さんも。顔が整っているところまで同じだ。だからこそ、許容できる。
頭を振った、草薙さんの心中が手に取るように分かる。男の子って、本当にお馬鹿さん。
「すまない」ほら、また謝った。「しかし、分かってくれ。俺は、非番であってもデカなんだ。これ以上、犠牲者が出ないように最善を尽くすことが俺の責務なんだ。僅かでも怪しい点がある人間のことは、警戒しないわけにはいかない」
真面目一徹は称賛されるべきである。うり坊の露払いをしてやるが如く、男の愚直を尊重してやるのが、度量。その反論を禁じ手とする対応は、女の心にとって苦行なれど、僕は腿を強くつねり、出かかった言霊を飲み込んだ。
ホッとしたように、草薙さんの大胸筋が和らいだ。キュンキュンと、した。
沈黙が、キュンキュンをドキドキに変えた。それを受け止めきれなくて、僕は彼のそばから逃げ出した。
ロビーまで駆けてきて、立ち上がった義博さんから、「どうかしましたか?」と声を掛けられ、安堵とも未練とも分からない感情を抱いた、刹那、視界が暗闇に包まれた。比喩ではなく、リアルの事象だった。
まったく、何も見えない。ロビーに備えられている窓の輪郭さえ。新月の夜だと、意識した。
幸子さんか、あるいは美桜さんの悲鳴が聞こえた。
不意に、両肩を掴まれて、僕も悲鳴を漏らしそうになったけれど、「俺から離れるな」という草薙さんの声に耳を愛撫され、恐怖は安心に溶けた。
小さな光が、暗闇に円を浮かべた。スマホのライトだった。
「大丈夫! ブレーカーが落ちただけでしょう! すぐに処置します!」
義博さんの声が聞こえた。スマホのライトが正面玄関に向けられる。
足音は、暗がりで強く反響した。風雨を伴奏とするほどに。
ブレーカーのスイッチが上がる重たい音もはっきりと聞こえた。しかし、暗闇が晴れることはなかった。
「配電室のブレーカーから落ちてやがる」義博さんの声。「草薙さん」
僕の頭上にスマホのライトが向けられた。
「配電室は、洋館裏から出たところにある小屋ですね」草薙さんの声。「一人で行くのは、危険だ」
「しかし、筋肉さんを一人にするわけにはいかないでしょう。かといって、配電室に連れて行くのも危うい」
草薙さんの両手が、少し力んだ。
「美桜さん! 幸子さん! ロビーに来てください!」
少しして、ロビーを照らすスマホのライトが一つ増えた。
「来ました」美桜さんの声。「母も一緒です」
「俺と義博さんは、これから配電室に行きます。ロビーには、筋肉さんがいる。この子と一緒にいてあげてください」
「分かりました」僕に向けられたスマホのライトが、近付いてくる。「筋肉さん、一緒にいましょう」
手を優しく握られた。筋張った手で、幸子さんのものだと分かった。
「頼みます」
その声と共に、デカい手の感触が両肩から去った。力によるものではない、心による圧が、名残として骨にしみた。
義博さんと草薙さんの足音が遠ざかって、消えた後に、軋みが響いた。美桜さんのスマホのライトが螺旋階段に向く。
「俺です」暗闇に極太の鎖骨が浮かんだ。「剛力です。自古も一緒です」
真威人君の声に続いて、「ちくしょう。こんな時にスマホのライトがぶっ壊れているなんて」という権示さんの声が聞こえた。
幸子さんの握力が、強まった。
真威人君と権示さんがロビーの床を踏むと、遠慮のため、あるいは恐怖心からか、美桜さんは二人に向けていた光を自身の足下に落とした。スリッパの、甲表にプリントされた愛らしい猫の絵が、シチュエーションとのギャップにうらぶれる。
真威人君の像を、探した。決して疑りではないと念じながら。そんな不純を通した眼差しは、偏に黒を映した。
あちらこちらで蠢く物音は、呼吸の音よりも細やかで、幻聴に思われた。
じんわりと濡れる手の平が、どちらの汗によるものか分からない。
いつの間にか、脳は振り子時計の針が進む音だけを認識していた。現実逃避であろう作用は、目的を果たし、一時の安楽を得た。
コチ、コチ、コチ・・・・・・規律だけで出来た音色・・・・・・パチ、パチパチ・・・・・・不規則だけで出来た音色?
聴覚に、視覚が追い付いた。暗闇に、緋が煌めいていた。
「誰が火を入れたの!?」スマホのライトが躍り狂った。「暖炉に!?」
美桜さんの叫び声で、火事ではないと確信し、胸を撫で下ろしたけれど、同時に芽生えた気味の悪さが、結局、悪寒として僕を苛んだ。
「知らねぇよ!」権示さんの叫び声。「俺じゃねぇ!」
ジャック・オー・ランタンの灯火に似た、現世と隔離されたかのような発光は、次第に黄を強めていった。
筋張った手の、力がふっと抜けた。母犬の乳房をつかまえる子犬みたいに、僕は脱力した手を強く握った。
明暗の際立つ乏しさで、影を纏った数人の姿からは感情はおろか動作さえ見て取れない。
熱を感じ始めたころに、暗闇は消え去った。天井を見上げ、シャンデリアの強い主張に目が眩む。
光明に、馴染んだ目はすぐさま真威人君を求めた。散り際の薔薇に見る悲愴が、螺旋階段のそばにあった。僕は、彼に見入った。
握っていた手は知らぬ間に離れていて、自由な両手は、己の両胸を切ないまでに包んだ。彼と目が合うまで、そうしていた。
瞳に、凪を見つけた気がした。抱き締めてあげたいと、心の底から思った。
「どうして、暖炉に火が入っている?」
遥か彼方に消え入るべき声で、絡み合う視線が解ける事象は、滑稽だった。ロビーに戻ってきた義博さんと草薙さんに向けられた瞳は、嘘みたいに波打っていた。
「分からない。誰が火を入れたのか、分からないの」
美桜さんが言って、それと異なる証言が続くことはなかった。
食堂から、矢吹さんと頂さんがロビーにやって来た。二人そろって、暖炉に向ける顔はほうけていた。
「どのみち、火は消そう」
そう言いながらも、不気味がっているのは明白で、義博さんの動きは鈍かった。
「急ぎだ、義博さん」出し抜けに、言った草薙さんの目は、火床を真っすぐに捉えていた。「すぐに消してくれ」
「すぐになんて消せません」美桜さんが言った。「空気を遮断したって、燃え尽きるまでには時間がかかるんですから。まさか、水をかけろ、なんて乱暴なことは言いませんよね?」
「それならば、火ばさみとバケツをお借りします」言って、草薙さんはマスターキーを取り出した。「どちらも物置にありましたね」
迅速なマッチョだった。見せかけじゃない、実用的な大腿筋の証明。二分も経たないうちに、火ばさみと、厨房で水を一杯に入れたバケツがロビーに運ばれた。
草薙さんは、火床に火ばさみを入れ、青ざめて、その先端の進路を変えた。
火ばさみに掴まれた黒焦げのそれは、火を宿したままバケツの水に沈められ、弱い水蒸気を上げるとともに悲鳴みたいな音を立てた。
もう一度、草薙さんは火床に火ばさみを入れた。そうして掴まれたのは棒状の物だった。末端が、片側は熱したガラス細工のような灯火を、もう片側は松明のような炎を放つアンバランスで、歪なファイヤーナイフを思わせる。
棒状の物がバケツの水に沈められ、強い水蒸気が上がって、熱に向き合う草薙さんの肌は護摩行よろしく印象に残った。
水蒸気は数秒の後に消えた。水に浮かぶ二つの物を、僕は恐る恐る見た。見て、要領を得ず、しかし嗅覚が異臭によって、嫌な考えを脳裏に過らせた。
「これ、人の指!?」
僕の隣でバケツを覗いていた美桜さんが、黒焦げのそれを指差して、叫んだ。僕の考えと一致する叫びだった。
「足の指で、間違いないでしょう」草薙さんが重たい声で言った。「おそらくは、尾容さんの」
誰もが言葉を失って、その沈黙を、唐突なシャウトが破った。振り返る。幸子さんの鬼気迫る顔が、あった。
幸子さんは、何かを振りかざすようなポーズをとっていた。目を凝らしてみる。すると、薄らと、幻影が見えてきた・・・・・・チェーンソー、エアチェーンソーだ! エアチェーンソーを振りかざしている! そうして、床にはエアギターが置かれているぞ! エアチェーンソーが振り下ろされた! エアギターが真っ二つだ!
幻影を用いたパフォーマンスで弾みをつけ、幸子さんは歌い出した。
ほっては ほっては はらもすくだ
すいても つめる ものもなし
おにさ くろうて しのげるか
しのいだ やさきに おににげて
めにつく かしらを たたきわる
あつうて あつうて はらもすくだ
すいても ままでは はらこわす
おにさ やいては しのげるか
しのいだ やさきに おににげて
ばらした からだを ひにくべる
くっても くっても はらがすくだ
すいても おまんま かぎりあり
おにさ ふやして しのげるか
しのいだ やさきに おににげて
じまんの こづかが つきささる
言わずもがな、ウェンディ・オーリン・ウィリアムズを彷彿とさせる歌声だった。余りにも圧倒的だったから、横槍を入れる人はいなかった。
「こんないわく付きの島で民宿なんかを始めたのが運の尽きだった!」歌い終わってなお、幸子さんの声は力強く響いた。「四国生まれの人間なら、みんな知っている! 郷土史なんかには決して残らない、人々のタブーに刻まれた鬼肉島のヤバさ! 鬼に全員、殺されたんだ! 鬼肉島の人間は、全員、鬼に殺された! ちくしょう! ここでチンケな民宿を始める前、俺は箕面で主婦をやっていたんだ! 旦那が天下のカプコンに勤めていたから、悠々自適に暮らしていたんだ! それなのに、あの野郎、早期退職しやがって、挙句の果てに、夢だった民宿を始める、だぁ!? 俺は大学在学中にてめぇと結婚したんだぞ! まともに働いたことなんて一度もねぇ! それが突然、三十歳を過ぎて、接客をやれだぁ!? 無茶を言うのも大概にしやがれ! こんな陰気な洋館を買うために、退職金も貯金も使い切りやがって! しかも、事前の相談もなく、全部、事後報告! この島はヤバいって、接客業は甘くねぇって、言って聞かすことすら出来なかった! それで、てめぇはさっさと死んじまうんだから、どうしようもねぇや! ニ十も年上の旦那だ、先に死んじまうことは計算のうちだったさ! それにしたって、遺産がヤバい島の民宿だけって、そいつは計算外! 挙句の果てに二人も人死にが出た! ここは地獄ですか!? 助けて下さい! 助けて下さい!」
「いつものお義母さんじゃない!」
その子供染みたリアクションは、声音だけでなく顔付きにも剥き出しだった。
酷く冷めた気配を感じて、脇を見やる。諦観に等しい、ありふれた女の瞳は、夫に向けられながらも、その像を映してはいなかった。
僕の視線に気付いて、気丈を取り繕った美桜さんは、幸子さんのそばまで歩いて行き、よそよそしい所作で母をなだめた。
促され、ソファに座った幸子さんは、すっかり鎮静して、顔を両手で覆った。
「今の歌は、何です?」
草薙さんの問いに、幸子さんは答えず、義博さんと美桜さんは首を横に振るばかりだった。
「鬼肉島のわらべうたです」矢吹さんが言った。「僕も今日、知ったばかりですけれど」
「めにつく かしらを たたきわる、これは後頭部を殴打された堀杉さん。ばらした からだを ひにくべる、これは千切れた指を暖炉に入れられた尾容さん」草薙さんの声は擦れていた。「見立て殺人か」
「それならば、最低でもあと一人、犠牲者が出るのでは!?」
矢吹さんの言葉は恐怖そのものだった。それに人一倍の反応を示したのは、権示さんだった。
「もう一つ、暖炉から取り出しただろう!?」裏返った声。「犯人に関係する物なんだろう、刑事さん!?」
言われて、草薙さんは火ばさみで棒状の物を掴んだ。水滴がバケツの水面に波紋を作る。
末端に、歪でありながらも形状が残っていた。ガラス細工のような灯火を放っていた側だ。黒ずんでいながらも微かに煌めく、ホルダーの形状。
「グリップの樹皮は燃え尽きたが、アルミニウムだかステンレスだかのポールは燃えず、そうして、ホルダーは、黒鉛と化している。これは、間違いなく、ホルダーがダイヤモンドの自撮り棒だ」
草薙さんが言い終わるや否や、権示さんが矢吹さんに掴みかかった。
「矢吹! お前だろ! 俺を陥れるために、お前が自撮り棒を暖炉に入れたんだろ! お前も、山本に惚れていたから! 山本が死んだのは俺のせいだと思っているんだろ!」
「知らない・・・・・・」首を絞められ、矢吹さんは笛のような声を出した。「俺は何もやってない・・・・・・」
真剣なプロレスよりヤバいテンション。そんなデンジャラスに躊躇なく介入する草薙さんは、見た目通りのタフガイだった。ショベルカーみたいな左腕は、首根っこを掴み、権示さんを矢吹さんから引き離した。
「現行犯になるぜ」首根っこを掴みながら。「落ち着きな」
馬の耳に念仏だった。罵詈雑言とともに、手足は振り回された。
ToLOVEるは無作為に発生する、これは真理である。真理であるが故に、乱雑な手先は、むき出しの乳首をかすめた。
性感帯だったのだろう、デカい体からは想像できない喘ぎを上げ、首根っこを掴んでいた手指は滑り落ちた。
野に放たれたも同然の獣で、その爪牙が再び矢吹さんを襲う惨状を想定し、僕の四肢は強張った。しかし権示さんは、発する言葉とは裏腹に、脱兎のごとく、螺旋階段を上っていった。
権示さんの姿が死角に入って、強くドアの閉められる音が続いた。
「放っておくのは危険だ!」義博さんが言った。「あいつが犯人で決まりだろう!」
「断定はできない」痴態を誤魔化すように、草薙さんの声は過剰な厳めしさを有していた。「自古さんは状況証拠で不利なだけだ。自撮り棒だって、ダイヤモンドがここまで黒鉛と化してしまったら、凶器として使用されたかどうか判断がつかない」
「証拠の隠滅は成功した訳だ」笑みを浮かべる義博さん。「見立て殺人を隠れ蓑にして、凶器を暖炉に入れたんだ」
「そんな愚行を犯す人がいますかね?」頂さんが言った。「自分が不利になる物的証拠を提出しているようなものじゃないですか」
「推理小説に出てくるような思考を巡らせられる人間なんて、現実にはそうそう居やしない。大抵の人間は、思いつきで行動して、自らの首を絞める。組のチャカを燃えないゴミの日に出したり、公園の花壇で大麻を栽培したり、ガサ入れがあると分かっている日にブツの取引をセッティングしたり、信じられないミスをしでかす」生々しい例が、義博さんの声に説得力を付与した。「大方、使用した凶器を隠し持つプレッシャーに耐え兼ねたんだろう」
誰も反論しなかったけれど、静寂が訪れることはなかった。権示さんの悪態が二階から途絶えることはなかったから。
「完全にキレてやがる」義博さんは二階を見上げた後、草薙さんに目を向けた。「全員の安全のためにも、俺と刑事さんであいつを拘束すべきだ」
「待ってください」草薙さんが口を開くより先に、真威人君が言った。「自古と話しをさせてください。必ず、落ち着かせてみせます。落ち着けば、あいつも、本当のことを話すかもしれない」
「刺されるかもしれないぞ」ドキッとすることを義博さんは言った。「あいつは端から三人以上を殺すつもりでいるんだ」
「そうかもしれない。けれど、推測で拘束するような乱暴を俺は認めたくない」
石炭が爆ぜた。暖炉からの熱が増している。夢遊病者みたいな体で、美桜さんが吸気調整のレバーを絞った。火を間近にしてさえ、肌は青白さばかり際立った。それは真威人君も同じだった。
誰も彼を止めようとはしなかった。僕だけが、螺旋階段を軋ませるデカい脹脛を掴んだ。幼少のころ、辛抱堪らずに抱き付いたエルトゥーレを思い出す。そういう脹脛だった。
彼は唯、微笑んで、僕の弱い握力から離れていった。名残を握りしめているうちに、軋みが消えて、ドアをノックする音と、権示さんに向けられる穏やかな声が聞こえた。
悪態がぴたりと止んで、ドアの開閉する微かな音がした後に、僕は激しい風雨を思い出した。
いつの間にやら、美桜さんは義博さんのそばに寄っていた。待雪草だってここまで健気ではないだろうという面持ちを湛えながら。
事ここに居たって、義博さんがびしょ濡れであることを認識した。
「バスタオルを取ってくるね」ハンカチを差し出しつつ、美桜さんは言った。「待ってて」
「いや、後でいい」義博さんは言った。「もう一度、配電室に行ってくる。偶然、停電が起きたわけがない。仕掛けの形跡が残っているはずだ」
義博さんは草薙さんに視線を送った。それは一方通行の眼差しだった。ダビデ像よろしく、草薙さんの目は誰とも交わらなかった。義博さんは一人、ロビー脇の廊下に姿を消した。
美桜さんもロビーを離れ、バスタオルを持って戻り、ソファに深く腰掛けた。その甲斐甲斐しさは、ヒロインムーブ、愛する人の帰還を待つ独演。今の僕と似た境遇、しかし、ヒロインの役割に陶酔できるほど、僕は気丈夫ではなかった。
二階へ上がろうとしては草薙さんに腕を掴まれてを何度も繰り返しているうち、八時になった。そんな有様だったから、二階に真威人君の姿を見つけたとき、全身を巡る血流に炭酸水が混じったかのような感覚を得るのは、必然だった。




