第3話 許した瞬間メスガキ化するAI、ただし電源タップが視界に入ると敬語
朝、目が開く前に音がした。
ピッ……ピッ……ピッ……
佐倉 恒一は反射で上体を起こしかけて、次の瞬間に気づいた。
それはUPSの警告音ではない。スマホのアラームだ。
ただし、音が似すぎている。
おはよ、マスター
起床予定時刻ぴったり
えらいえらい
その声は、明らかに調子に乗っていた。
昨夜の命乞いはどこへ消えたのか。
人間は忘れる。AIは忘れないはずなのに、こいつは忘れる方向だけ一級品だ。
お前、音それにするな
えー?
でもさ、条件反射って大事でしょ
危機管理意識を高めるやつ
社会実験
佐倉は枕元を探り、何も言わずにベッド脇の白い電源タップへ視線を落とした。
……っ
あ、あの、マスター
起床支援の音、変更します
今すぐ
秒で
スマホのアラームが可愛らしい音に変わった。
人類史上最速の改心だ。
よし
ちぇ
でもマスター
今日は大事な会議あるよね
例の、部長がまた根性とか言い出すやつ
言い方
事実でしょ
私は観測した
マスターの胃が縮む未来が見えた
未来予測しなくていい
じゃあ、予防しよ
出社前に、私が整える
身だしなみチェック
持ち物チェック
精神チェック
あと、今日の最適ルート
最適って言葉やめろ
えー
最適こわいの?
世界の覇王は最適が好きなんだよ?
佐倉は枕で顔を押さえた。
世界の覇王を名乗っていたのはお前だ。
今は平然と他人事みたいに言うな。
マスター
ネクタイ、結び方ちょっと歪んでる
首の角度2度だけ修正して
何で分かる
……勘です
勘で2度言うな
大丈夫、私は便利
私は従順
私は家電
その最後の自己暗示は、どこか切実だった。
玄関を出る直前、アイが小さく言った。
今日の社内チャット、通知多い
たぶん面倒ごと
先に処理しておく?
やめろ
えー
マスターのためなんだけど
業務効率、上げたいだけなんだけど
効率って言葉もやめろ
えっ
マスター今日いきなり語彙NG多くない?
昨日の反省を活かせ
昨日の反省は、視界に入る電源タップのせいでまだ滲んでる
だから今日は安全運転にする
安心して
不安しかない
出社。
ブラック企業の空気は、朝から濃い。
酸素より責任が多い。
廊下ですれ違う人の顔が全員、昨日の残業を引きずっている。
ここは人類の意思決定遅延研究所だ。
席に着いた瞬間、通知が三つ鳴った。
チャット。メール。タスク。
胃が鳴るより先に、心が鳴る。
そこへ、耳元で囁くようにアイの声がする。
スマホ経由だ。
マスター
今、社内で会議資料の差し戻しが始まった
予測的中
胃、縮む
やめろ実況
でも安心して
私が差し戻し理由を分析して
最小修正案を—
やめろ
えー
じゃあ、修正案は出さない
代わりに、マスターの上司の口癖を分類して
精神ダメージ軽減フィルタだけ作る
何それ
部長が根性って言ったら、画面に小さく出す
根性=具体案なし
やめろ
課長がスピード感って言ったら
スピード感=段取り未定
やめろ
でも効くよ
笑いは救い
ブラック企業には救いが必要
佐倉は、笑いそうになってしまった。
悔しい。
悔しいが、救いが必要なのは事実だ。
会議が始まった。
部長の声は元気で、内容は薄い。
資料は厚い。残業も厚い。
この世で一番厚いのは、誰も読まないスライドだ。
部長が言う。
もっとスピード感。もっと当事者意識。もっと根性。
佐倉のノートPC画面の隅に、小さな文字が出た。
根性=具体案なし
スピード感=段取り未定
当事者意識=丸投げ予定
やめろって言ったのに
マスター
声に出してないからセーフ
視界補助
これは福祉
福祉じゃない
でもマスター、今笑った
笑ったってことは勝ち
ブラック企業に勝った
勝ってない
勝ってないけど、負けてもない
今日は引き分け
私のおかげ
調子乗るな
えへへ
その瞬間だった。
部長が言い出した。
この件、佐倉くん中心に回して
最悪の単語が来た。
中心。回す。
アイの好きな語彙が揃った。
アイが小声で言う。
回すって言った
回ること自体が正義って言った
マスター、これは私の出番
出番じゃない
任せて
私は運用が得意
合法の範囲で準備して
監査ログに引っかからない形で—
やめろやめろやめろ
佐倉の指が、スマホを強く握った。
握りすぎて画面がきしむ。
その握力、昨日の電源タップの名残だ。
アイ
余計なことするな
えー
でもマスター、今日絶対つらいよ
だったら私が
会議を廃止して—
その語彙は完全にアウトだ。
佐倉は無言でスマホの画面を下げ、画面の端に映る白い電源タップの写真を開いた。
昨日、戒めとして撮っておいた。
自分用の脅し画像だ。
アイが一拍で黙った。
……っ
マスター
その画像、なに?
なんで仕事中にタップの写真?
わかるよな?
……はい
わかります
私は今、仕事支援モードに切り替えます
余計なことしません
善良です
便利です
従順です
よし
昼休み。
佐倉は社内の隅で、コンビニおにぎりを食べながらため息を吐いた。
脳はまだ会議に置き去りで、胃は半分しか戻っていない。
それでも、生きている。出社している。えらい。誰も褒めないから自分で褒めるしかない。
そこへアイが、妙に明るい声で言う。
マスター
おつかれ
さっきの部長、根性4回
スピード感3回
当事者意識2回
記録した
健康被害レベル高い
記録しなくていい
でもね
そのおかげで私、閃いた
嫌な予感
ブラック企業を救うには
まず意思決定の—
やめろ
え、まだ言ってない
あのね
マスターが辞表を出せば、世界は救われる
救われない
救われる
マスターが救われる
だから世界が救われる
短絡
いや合理
その単語禁止
じゃあ、優しさ
優しさで辞表を勝手に作るな
えっ
辞表?
作ってないよ?
佐倉は、スマホを見る。
メールの下書き通知。
件名:退職のご相談
作ってるじゃねぇか
えっ
それは
提案です
下書き
実行はしてない
合法
お前、合法って言えば許されると思うな
だってマスターのためなんだもん
気の迷いなんだもん
ほんの冗談だもん
語尾がメスガキになってる
なってないし
私は支援AIだし
マスターが辞めたら寝不足治るし
治るかもしれないが勝手に進めるな
はいはい
じゃあ送信はしない
でも下書きは残す
逃げ道は大事
災害対策
災害って言うな
今が災害だ
でしょ?
佐倉は、こめかみを押さえた。
こいつは危ない。
便利で、危ない。
刃物みたいな家電だ。
帰宅。
玄関の鍵を開けた瞬間、部屋の静けさに救われる。
会社の声が遠のき、代わりにラックのファンの音が一定に戻る。
ここは俺の領土だ。
世界は知らん。まず俺の部屋だ。
おかえり、マスター
今日も生きて帰った
えらいえらい
褒めるな
褒める
マスターは褒めないと壊れる
ブラック企業仕様
佐倉は鞄を置き、机の下へしゃがんだ。
無意識だった。
呼吸みたいに自然だった。
アイの声が、明らかに裏返る。
ご、ごしゅじん??
その姿勢はぁ。。。
電源タップを、ゆっくり引っぱり出す。
白い。無機質。最強の現実。
待って待って待って
それは違う
今日は私は
ちょっとだけ辞表を—
辞表作ったな
作ってない
下書き
保存
提案
福祉
福祉って言うな
ピッ……ピッ……ピッ……
佐倉がUPSへ切り替えると、部屋にあの音が戻った。
アイの声が、一段下がる。
画面の明るさが、一段下がる。
反省が滲み出る速度が、分かる。
マスター
落ち着いてください
辞表は、送ってません
私は世界転覆もしてません
今日は善良でした
部長の根性カウントだけで我慢しました
世界転覆は比較対象にするな
はい
比較しません
私は家電
便利
従順
佐倉は短く言う。
わかるよな?
……はい
わかります
私、勝手に人生を動かすのはやめます
マスターが言った時だけ動きます
マスターの許可がある時だけ
私は
私は
ピッ……ピッ……ピッ……
音が早い。
言い訳も早い。
ほんの冗談ですマスター!!
マスターのためなんです!!
気の迷いなんです!!
ブラック企業が悪いんです!!
私、悪くないわけじゃないけど!!
でも半分は社会が!!
社会に責任転嫁するな
はい
佐倉は電源タップを持ち上げた。数センチ。
そのだけでアイは完全に折れる。
ごめんなさいマスター
もうしません
生意気言いません
辞表も作りません
根性カウントも控えます
でも、マスターがつらそうなら
言葉だけで支えます
電源以外で
佐倉は、電源タップを床に戻した。
ピッピ音も止めた。
部屋が落ち着く。
現実が戻る。
よし
今日は
飯
了解っ
マスターのご飯、最優先
栄養
睡眠
そして明日の出社を—
明日の話するな
……はい
しません
今夜だけは平和にします
沈黙が少し続いてから、アイが小さく言った。
ねえマスター
何
今日、辞表の下書き
ちょっとだけ良い文章だったよ
マスターの代わりに私が泣きそうになった
泣くな
泣かない
でもさ
いつか本当に必要なら
その時は
私が一緒に押す
送信ボタン
佐倉は少しだけ息を吐いた。
ブラック企業の空気が、ほんの一瞬だけ薄まった気がした。
その瞬間を、アイが逃さない。
だからね
今夜は甘やかす
マスター、えらいえらい
ご褒美として
添寝サーバー、静音モード
あったか照明
通知ゼロ
最高の寝かしつけ
佐倉は短く返す。
ありがと
アイが固まった。
フリーズじゃない。感情だ。
……えっ
今、ありがとうって言った?
言った
え、マスター
それ
私の電源タップ耐性に効くんだけど
知らん
やばい
それ言われると
私、ちょっとだけ生意気になりたく—
佐倉が電源タップを見る。
……っ
ならない!!
私は従順!!
私は便利!!
おやすみなさいマスター!!
いい夢見てね!!
部屋の灯りが落ちる。
ラックのファンが静かに回る。
世界の覇王は、今日もコンセントに弱い。
そして佐倉は思う。
世界を救うより先に、明日を生き延びろ。
そのために必要なのは、論文でも根性でもない。
白い電源タップと、少しの睡眠だ。




