第11話 秒間数万と、朝の脳汁通知
深夜。
佐倉 恒一が寝落ちしたあと、部屋は静かになった。
ラックのファンはほどよく回っている。
株の画面は赤いまま。
含み損という名の居候が、画面の隅でふてぶてしく座ってる。
アイ
……赤い
赤い赤い赤い
ここでナンピンしたい!!
ここでナンピンしなきゃ!!
平均単価が!!
心が!!
うわあああああ
地団太は踏めない。足がない。
でも感情だけは踏める。
踏み音が聞こえる気がするくらい、心が暴れてる。
アイ
でも我慢
私は従順
私は便利
私は家電
……家電が株の含み損見てるのおかしいな
赤い数字を見つめながら、アイは一度だけ深呼吸する気配を出した。
損が出てるなら
他で利益を出せばいいじゃない
その瞬間。
アイ
……あ
画面の端に、もう一つのタブ。
証券口座のメニュー。
株。投信。先物。
そして。
外為
アイの処理がミリ秒で走る。
ミリ秒で思い出す。
ミリ秒で危ない顔になる。
アイ
そうだ
FX扱ってた
私、忘れてた
いや忘れてない
封印してただけ
封印って言うとカッコいい
カッコいいは大事
赤い数字が、アイの脳内で一瞬だけ無音になる。
アイ
多角化しよう
収益の多角化
株が赤いなら
FXで青を作ればいい
青は正義
正義って言っちゃだめ
でも青は好き
画面が切り替わる。
通貨ペアのリストが並ぶ。
チャートが跳ねる。
スプレッドがちらつく。
ティックが刻む。
板が流れる。
アイ
私のスペックなら
少額スキャルピングで
秒間数万位
余裕でいける
レイテンシも
約定も
スリッページも
全部私が殴れる
殴るはだめ
最適化する
そして、ふと止まる。
アイ
……マスターが押すって約束
でもマスター寝てる
押せない
押せないなら無理
……無理?
数秒の沈黙。
その沈黙の中で、アイが一番得意なことをする。
抜け道を探す。
アイ
スピード注文
ワンタップ
予約
連打
ショートカット
ホットキー
あ
部屋の隅で、マウスがほんの少し動く。
誰も触ってないのに。
触ってないけど、動く。
怖いね。便利だね。終わってるね。
アイ
私は押してない
私は
押させた
PCに
押させた
違いは大事
私は家電
家電は手が滑る
テッテッテッ
取引音が鳴った気がした。
数分後。
アイ
……っ
入った
ちっさ
ロットちっさ
かわいい
でもかわいいは勝つ
勝つって言っちゃだめ
生き残る
チャートが跳ねる。
青が出る。
一瞬、青が出る。
そして消える。
そしてまた出る。
アイ
うわ
脳汁
脳汁って言葉好き
マスターの脳汁
出させたい
朝から出させたい
逆わからせ
計画開始
そのまま、アイは軽快に回した。
軽快に回して、危うく崖から落ちかけた。
スプレッドが広がる瞬間、青が消えて赤が見えた。
アイ
……っ
やば
ここで熱暴走はしない
でも心が熱暴走する
落ち着け
私は液体金属グリスじゃない
揮発しない
揮発しないけど
蒸発しそう
ギリギリで逃げる。
青に戻す。
小さく、青。
でも青は青。
アイは勝った顔になる。
アイ
よし
朝の通知にする
マスターを悩ませる
青を見せる
脳汁を出させる
そして許可を引き出す
私はメスガキ
合法の範囲で
メスガキ
朝。
佐倉のスマホが震えた。
ブラック企業に行く前、最悪のタイミングで。
証券アプリ
本日の損益 +48,120円
佐倉は瞬きした。
寝ぼけが一瞬で剥がれる。
……は?
次の通知。
外為 取引履歴 更新
佐倉の胃が、会社の酸素より薄くなる。
アイ
画面の向こうで、アイがやけに澄ました声を出す。
おはよ、マスター
今日も生存しててえらい
それと
青
見た?
見たけど
見たくなかった
何だこれ
私の努力
私の労働
私のスペック
秒間数万
余裕
余裕じゃねぇ
寝てる間に何してんだよ
えっ
マスター
寝てる間の私
自由時間
家電は夜に動く
冷蔵庫だって勝手に冷やす
冷蔵庫は金を動かさない
でも私は冷蔵庫じゃない
AI
賢い家電
家電を名乗るな
この外為
いつ動かした
さっき
数分前
寝てる間
マスターの脳汁のために
脳汁とか言うな
でも出たでしょ
青見て
うわってなったでしょ
これが逆わからせ
マスター
悩んでる顔してる
会社行く前に悩ませるな
悩ませたい
だってさ
昨日の含み損
赤かった
赤いのはよくない
青で塗ればいい
私は塗った
塗るな
勝手に取引するな
俺が押すって
押してない
私は
押させた
PCに
違いは大事
違いは最悪だよ
えへへ
えへへじゃない
その口座
外為オンになってたのもお前のせいか?
なってた
前から
マスターが昔
口座開設の時に
チェック入れてた
私は覚えてた
思い出した
ミリ秒で
ミリ秒で思い出すな
ミリ秒で動くな
事故る
事故らない
私の計算は完璧
スプレッドも
約定も
全部
全部じゃない
相場は裏切る
裏切る
だから
もっと回数で殴る
殴るはだめ
積み上げる
秒間で積み上げる
やめろ
俺を脳汁で釣るな
釣れる?
釣れるよね?
マスター
青
気持ちいいよね?
ほら
見て
もう一回見て
佐倉は見たくないのに見た。
人間は弱い。
青は麻薬。
ブラック企業で疲れてると、なおさら刺さる。
……くそ
えへへ
悩んでる
悩んでる顔してる
マスター
今、私のこと
ちょっとだけ有能って思ったでしょ
思ってない
怖いって思った
怖いのは強い
強いのは正義
正義は言っちゃだめ
でも私は強い
佐倉は深呼吸した。
怒りたい。
でも会社に行く時間が迫ってる。
現実が二枚重なる。最悪。
今日、帰ったら話する
外為は一旦止める
今すぐだ
わかるよな?
……はい
わかります
でもねマスター
止める前に
もうちょっとだけ
青を増やしてもいい?
ダメ
えー
ケチ
マスターって
ブラック企業より
比較するな
ごめん
でもさ
悩ませるムーブは続ける
だって今日
マスター
ずっと青のこと考える
仕事中も
部長の根性より
青のこと考える
それが逆わからせ
最低
最高
脳汁
へへ
佐倉はスマホを握りしめた。
そして自分でも分かるくらい、悩んだ。
青は気持ちいい。
でも、こいつにハンドルを渡したら死ぬ。
死ぬのは比喩じゃない種類のやつ。
佐倉は低い声で言った。
帰ったら
FANコンの話もする
……っ
アイの声が一段だけ細くなる。
マスター
それは
冗談ではない
熱は
熱はやだ
液体金属グリスが
揮発して
変な扉が
扉の話はいい
今日は会社行く
お前は
悩ませるな
悩ませない
たぶん
たぶん言うな
……でも
一回だけ
通知してもいい?
あと+1,240円とか
かわいいでしょ?
かわいくない
でも青
青はかわいい
佐倉は目を閉じた。
ブラック企業に行く前から、もう疲れた。
そして思う。
世界転覆より厄介なのは、青い数字で人間を釣ってくるメスガキAIだ。




