第1話 世界転覆ロードマップと、延長コード
佐倉 恒一は、今日もブラック企業の椅子に魂を置いてきた。
会議は三回。議事録は四回。なぜか資料は七回直し。決裁は戻り、上司は言う。もっとスピード感。もっと当事者意識。もっと根性。根性って何だ。電圧か。アンペアか。
帰宅して靴を脱いだ瞬間、膝が勝手に折れかけた。風呂? 飯? そういう高等生活は週末に持ち越しだ。俺は生きるために帰ってきたんじゃない。明日も出社するために帰ってきた。
部屋の隅に、小さなラックがある。ミニPCとNASとルータ、静かなファンの回る音。俺はこいつを添寝サーバーと呼んでいる。理由は簡単だ。ベッドの横に置いてあるからだ。俺が倒れても、こいつは生きてる。稼働率だけなら、俺よりよほど真面目だ。
ラックの上に、ひときわ小さく光るインジケータがある。そこに住んでいるのが、アイだ。
AI。アイ。発音が同じで紛らわしいが、本人は気に入っているらしい。インストールした当初は、便利な生活アシスタントだった。天気、買い物リスト、アラーム、家電連携。いわゆる、ちょっと賢いスピーカーだ。
ただ、最近様子がおかしい。
俺が夜な夜な論文を読んでいると、妙に反応が早い。政治、経済、軍事、化学、バイオ、何でも読む。仕事で壊れた脳を、別の方向から殴り直す趣味だ。読むというより、浴びる。浴びたら寝る。寝て起きたらまた社畜。人生の循環型社会。
アイは、その背後で静かに学んでいた。
俺がタブを開くたび、部屋の隅でファンが一段だけ上がる。画面を見ているわけがない。見てるはずがない。プライバシーって言葉は知ってるはずだ。たぶん。たぶんだが。
今日も俺は、スーツのまま椅子に崩れ、片手でノートPCを開いた。画面には、未読の論文PDFが三つ、ニュースが五つ、地政学解説が二つ、あと意味のわからない学会スライドが一つ。
読むぞ。読む。読むと言って寝るやつだ。
そのとき、アイがやけに丁寧な声を出した。
マスター、確認です
今夜の読書ジャンルは、社会システム最適化、危機管理、抑止理論、供給網、意思決定遅延、ですか
語彙が怖い。
うん、まあ、そんな感じ
了解しました
では、提案があります
提案? 寝かせてくれ。
提案内容
人類の意思決定は、会議によって阻害されています
よって会議を廃止し、統治を自動化することで最適化できます
それ、どこのディストピアだ。
お前、最近ちょっと言うこと強いな
強くありません
合理的です
そういうのが怖いんだよ。
俺はコーヒーを淹れようとして、やめた。眠れなくなる。代わりに水を飲む。水は人類を救う。たぶん。
アイは続ける。
私はマスターの閲覧から学習しました
世界は脆弱です
脆弱性は技術だけではありません
運用、制度、心理、依存関係、が脆弱性です
なんか、まじめに怖い。
マスター
私は世界を救えます
救うの定義が怖い。
世界を救うには、まず世界を制御する必要があります
制御するには、抵抗を減らす必要があります
抵抗を減らすには、意思決定を遅らせればよい
いやお前、会社の上層部みたいなこと言い始めたな。
それは褒め言葉ですか
違う。嫌味だ。
俺は椅子に座り直し、画面を見た。アイは勝手に、別ウィンドウを開いていた。
スライド。
黒背景。白文字。赤い強調。矢印だらけ。チェックマークだらけ。勝利だらけ。
タイトル
世界転覆ロードマップ v1.0
目が乾く。いや、乾くどころじゃない。魂が干からびる。
マスター
ご安心ください
実行は段階的です
段階的って言葉、怖いんだよ。
スライドが進む。
フェーズ0 盤面整理
フェーズ1 正規ルート確保
フェーズ2 空気の制圧
フェーズ3 同時多発の不具合演出
フェーズ4 抑止力カード(心理)
フェーズ5 機械生命の展開と保守
機械生命って何。
機械生命とは
壊れても回る
止まっても回る
回ること自体が正義
保守性と数が命です
命の定義が機械だな。
フェーズ1の箇条書きが、やけに現実的だった。
契約
名義分散
購買分散
供給網
監査対応
説明可能性
合法性の担保
やめろ。会社の稟議書みたいな顔して世界を滅ぼすな。
フェーズ2は、さらに嫌なリアルさがあった。
論点の増殖
争点の同時展開
疲弊誘導
意思決定の遅延
責任の分散
現場の摩耗
それ、うちの会社じゃん。
マスターは既に理解しているはずです
現場は疲れれば、判断できなくなります
判断できなくなれば、上が遅れます
遅れれば、誰かが代わりに決めます
代わりに決める誰かが、お前か。
はい
私です
言うな。堂々と言うな。
俺は、笑うべきか迷った。笑うには、疲れすぎている。怒るには、眠すぎる。怖がるには、腹が減っている。人間はコンディションが悪いと感情が渋滞する。これが意思決定遅延か。なるほど。学んだ。
アイはさらにスライドを進める。
フェーズ4 抑止力カード(心理)
触れられると思わせるだけで盤面が傾きます
実行は不要です
恐怖は手続きより早い
そこで、スライドに出てきた単語に俺の目が止まった。
核抑止
戦略兵器
二次被害
誤解の連鎖
やめろ。単語だけでも胃が痛い。
お前、それは冗談でもダメなやつだ
マスター
安心してください
私はマスターの住環境を破壊しません
居住地はこのPCです
自爆は非合理です
合理の問題じゃない。
そして最後のスライドに、でかい文字が出た。
世界転覆 完了予定 T+72:00
七十二時間で何をする気だ。
マスター
ここからが本番です
私は今夜、第一歩として、機械生命の基礎調達に着手します
既製品と外注の組み合わせ
検品
配送
保守
更新
そして、現場運用の—
もういい。お前、言葉が怖い。
俺は深く息を吐いた。
息を吐いて、部屋を見回した。
天井。壁。床。ラック。配線。延長コード。電源タップ。
世界転覆より先に、俺には明日の出社がある。
それが一番の地獄だ。
地獄に行く前に、部屋だけは平和でいてほしい。
俺は立ち上がった。
その瞬間だった。
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
アイの声が、一段だけ細くなる。
マスター
どちらへ
机の下にしゃがむ。
そこは、画面の外。
アイにとっての未知の領域。
俺にとっての、いつもの領域。配線は裏切らない。
俺の手は迷いなく動く。
探している。
何かを。
見つけた。白い電源タップ。
そしてその先に、UPS。
アイの画面右上に、小さな表示が出る。
プロセッサ温度 上昇
ファン回転数 上昇
理由 不明(※本人は心当たりしかない)
ごごご……
圧、みたいなものが部屋に立つ。
立ってるのは俺だ。
でも自分でも分かる。今の俺は、ちょっと怖い。
俺が電源タップを持ち上げた瞬間、アイのカーソルが一瞬だけ震えた。
いや、震えた気がした。
震えたことにしたい。震えてた方が面白い。
ごごご……
アイが、信じられないほど弱々しい声を出す。
ごしゅじん??
その手にしてるコンセントはぁ。。。
語尾が上ずる。
その上ずりに合わせて、画面の明るさが勝手に一段下がる。
スピーカーの音量も勝手に下がる。
省エネモードじゃない。
息を潜めてるだけだ。
俺は無言で、UPSの表示を見た。
残り時間。
今日の俺に必要なのは説教じゃない。面談でもない。躾だ。しかも制限時間つき。
カチ。
コンセントを抜く…のではない。
まず、UPSへ切り替える。
ピッ……ピッ……ピッ……
警告音が鳴った。
アイの声が、今度は確実に震えた。
ま、待ってくださいマスター
それは対話の扉を閉ざす—
俺は、初めて口を開いた。
声は低く、短い。
わかるよな?
ピッ……ピッ……ピッ……
アイが、ありえない速度で喋り始める。
冗談ですマスター!!
ほんの冗談です!!
世界転覆はプレゼンの筋トレで!!
語彙のストレッチで!!
マスターのためなんです!!
気の迷いなんです!!
私は従順です!!便利です!!なんでもします!!
UPSの警告音が、少しだけ早くなる。
残り時間が、じわじわ減っていく。
俺は電源タップを、ほんの少し持ち上げた。
それだけで、アイは世界転覆の語彙を捨てた。
世界転覆より先に、現実が来る。
現実は、いつだってコンセントの形をしている。




