55 痛みの先
クリスはもう長い時間、僅かな音も聞き逃さないようずっと意識を集中している。
磨りガラスが嵌め込まれた引き戸のドアの向こうにいるはずの、アルドーを探して。
「アルドーのもとへ行っておやり」とクラーワに言われて医療室に来たものの、「ここで待て」といった風な仕草で白い女性はクリスを引き止めた。
治療室の前室の小部屋だ。
そこで神殿長に連れて行かれたアルドーを、ただただ気を揉みながら待っていた。
正確に刻みつける硬質な音が治療室から聞こえるだけで、自分が身じろぎする音さえ耳障りになるほど大きく聞こえる。
何故かその正確な音が聴こえているうちは大丈夫、そんな気がした。
どれくらいの時間が経ったのかもわからない。ただひとり、待っている。
ふいにクリスの耳に、徐々に大きくなる音が紛れ込んだ。
廊下をこちらに向かって走る足音。止まった瞬間、ドアが開け放たれた。
血相を変えたフラッハだ。そのままクリスを見ることもなく、治療室のドアを叩き叫ぶ。
「何やってんだよ! 何が私は大丈夫だ!」
幾度か両手を叩きつけ、不意に手のひらを戸に当てたままフラッハは動かなくなった。
食い入るように、くすんで向こう側の見えないガラスを凝視する。
「フェン様」クリスが名を呼ぶが応えはない。
フラッハの様子に気づいた神殿長が、ドアを開けた。
「脚の外側で、動脈に損傷はございませんでしたので、治療は楽です。ご安心下さい」
奥にある機械で射創の状況を確認して、簡易的な処理を施したという。
二日程奥にある調整層に入り、その後、しばらく安静にしていれば綺麗に治るとの事だ。
「お会い出来るまで回復されたらご連絡致します」神殿長からそう言われて、クリスとフラッハは医療室を出た。
「何があった?」
いつもの陽気さのない硬い表情と声。
クリスは出来る限り事細かにフラッハに話す。クラーワに覆い被さり、撃たれた瞬間を見ていないと告げると、フラッハは眉間の皺を深くした。
「二人揃って、か。軍も大神殿も一体何をしてたんだ。殿下に当たらなければ、アンバーブロウ嬢が撃たれていたじゃないか」怒りを滲ませ、吐き捨てるように言った。
「ですが、王妃陛下は無事です。先代マールム公爵もジュール様も取り押さえられました。⋯⋯フェン様、勝手に身体が動いてしまったのです。アルドー様も同じでしょう。元々、わたくし達は、即死でなければ怪我を負う覚悟で臨んだのです」
ぐ、とフラッハは息をのんだ。
「アルドー様は王妃陛下の長年の苦悩から、解放して差し上げたかったのです。だから、アルドー様をあまり責めないで下さい⋯⋯」
そうアルドーの気持ちを思った後、改めて考えてみると自分は母を取り戻したいだけだったのだと気付いた。自分はなんと利己的か。
落ち着きを取り戻したフラッハにフルーメン伯爵家の馬車で送られ、クリスは家路についた。フラッハは終始無言で、キャビンの窓枠に頬杖をついてじっと外を見ていた。
別れ際「落ち着いたよ。すまなかった」そう言って、頭を下げた。
『部門別発表会』は休日の前日に行われた。
翌日、クリスは淑女教育を受ける為に、ミニュスクール公爵邸へと迎えの馬車で向かった。
窓から見えるタウンハウスの中庭は、すでに冬に向けて落葉樹の葉で埋められようとしていた。冷たくなった風が葉を躍らせる。
長い廊下を進み、セーレナの自室へ入る。
挨拶もそこそこにセーレナはテーブルへと誘う。
気掛かりな事が多すぎて落ち着かず、淑女教育はお休みにしてクリスと話がしたいという。
「はい。わたくしも落ち着かなくて⋯⋯」
「アルドー様のご容態は? 両陛下はしばらくは休学されるとしかおっしゃらなくて⋯⋯」
クリスは医療室へ行ったが、会うことが叶わなかった事と、神殿長の言葉をそのまま伝えた。フラッハがとても心配していた事も付け加える。
「そう、神殿長がそうおっしゃるなら、回復を待ちましょう」セーレナは安堵した様子で、幾度か頷く。
茶を一口含んでから、小さく息を漏らす。
「クリス様は信じられないかも知れませんが、以前のアルドー様はとても人見知りで、かなり頼りない方でしたの。⋯⋯フラッハ様は、アルドー様の事を『守らなければいけない』対象だと思っているの。多分、一学年の頃から」
「⋯⋯想像がつきません」押しの強いアルドーしか浮かんでこない。
「クリス様と出会われて、とても変わったわ。以前は本に逃げてしまわれる事もありましたし。ですからずっと、フラッハ様は過保護なまでにアルドー様のお世話をしているのです。それが今回、わたくしを護れと言われて、とても哀しく⋯⋯、いえ、腹が立ったのでしょう」
あのフラッハの激情はそれが原因だったのか。
助力を拒否されたと思ったのか。
信頼を裏切られたと感じたのか。
役に立たないと思われて失望したのか。
クリスはそのどれでもない、と思った。
アルドーは大切な友人のフラッハを、危険に晒したくないと思ったのだ。
「わたくし、フェン様にあまり責めないでなどと、差し出がましい事を言ってしまいました。わたくしが言える立場では無いのに⋯⋯」
「仕方が無いですわ。それ程までに落ち着きを無くされていたのでしょう? アルドー様がお目覚めになった後に、あのお二人で充分に話し合っていただけば宜しいわ」
「⋯⋯ところで、昨夜、元老院と王家でお話し合いがございました。わたくしも王太子殿下の婚約者として、父と出席いたしました。⋯⋯当事者でもありますし」
「去就が⋯⋯?」
「ええ。大方の予想通り、宰相閣下は任を解かれ領地のない準男爵へ落ちます。しばらくは引き継ぎで王城勤務となるようです。その後は『内務』内で配置を考える事になるでしょう」
マールム公爵家所有の男爵位ではなく、さらに降格の処分だ。
エミリオに関しては意見が分かれている。ガルシア家の者は全て処分すべしという者と、エミリオは知らずに育った上に、先代確保に尽力した事を考慮すべきという者と。
だが、マールム公爵を継ぐには未成年である事が難点だ。
公爵家はジュゼッペの弟が引き継ぐのが妥当である、という意見が主流だ。
「『内務』内で何とかすればいいという方もいらしたわ。そうなると、あまりいい結果にならない気がいたしますわ。どの位置に落ち着いても、在学するのは彼にとって苦痛かもしれませんね⋯⋯」
「口さがない方々がいらっしゃいますから⋯⋯」
「でも、ちょっと面白い事がありましてね。『医療』のバストン侯爵が後見人になると宣言されましたの。フリア様と婚約させたいと。それはそれで、貴女との事がございますから、あれこれ言われるかも知れませんわ」
クリスとアルドーの目眩ましに、クリスにずっと付きまとっている振りをエミリオはしていた。事件後に乗り換えるのかと噂が立つだろう。
「貴女の事も話に上がりましたわ。王妃陛下をお護りになったのですって? アルドー様の応急処置もなさったとか。それで、婚約者候補にすると国王陛下が、みなに触れを出しました」
「⋯⋯え?」
突然の話にクリスは言葉が継げなかった。




