48 甘くて柔らかい
彼はただぼんやりと窓の外を見ている。
自分が何処にいるのか、何故ここにいるのかわからない。
朧気にお気に入りのフワフワした赤みがかった金髪の女の子が、「私を救い出して」と語りかける姿が脳裏に浮かぶ。
焦燥感だけがずっとある。
でも、手も足も身体すべてが鉛のように重い。
お気に入りの女の子と、彼女を離さないでいる男の姿が浮かんでは消える。
「私をこの人から解放して」
「助けて」
「この人を手に掛けて!」
胡桃色の髪と濃紺の瞳。
思い当たるのは唯ひとりだ。
ああ、身体が動くようになったら、必ずやるよ。
かつてコルデラ侯爵令息と呼ばれたジュール・ギルランドは、一人の女の子が気になって仕方なかった。
公爵領で開催される催し物に親に手を引かれてやって来た、小さくてふわふわな髪の毛の女の子。多分初めて意識に上ったのは四・五歳位の頃だとジュールは思う。
それからずっと気になっている。
自分の方を向かせようとして、庭にあった花をむしり取って渡した。
女の子はぽかんとしながらも受け取って、にっこり笑った。
だが、それを見ていた母ドロテから『あれは悪い娘。花などくれてやるのではなく、自分が上だと解らせなさい』と激しく叱咤された。
その次に会った時からは、両手いっぱいの虫を頭に乗せたり、バケツで水を掛けたりと思いつく限りの躾をした。妹のイブリンも「わたしも!」と言って嬉々として加わった。
流石にそんな見た目にわかるようでは女の子の親に咎められた。
それからは言葉も発達したので、『叱りの言葉』を浴びせるようになった。
叱って躾けているのに女の子はちっとも従順にならなかった。むしろ過剰な迄に恭しい態度を取りながらも、目つきだけは鋭くなっていった。
腹が立つ!
そんな態度なら、もっともっと追い詰めて服従させてやる!
⋯⋯ああ、でも自分と話していない時の、彼女の可愛らしさといったら!
何で僕にそうしてくれないんだ?
そんなもどかしさを感じていた時だ。胡桃色の髪と濃紺の瞳を持つ男が現れたのは。
マグノリア王国第二王子 アルドー・ルカ・マグノリア。
馴れ馴れしく彼女と話している。彼女は、はにかんだような笑顔を見せている。
──どうしよう。クリスは僕のものなのに。
ジュールが入学式の後に躾けようとした所へ、アルドーが止めに入った。そして生徒たちが寄って集ってジュールを責め立てた。
どうにかならないかと思っていると、母が「恥をかかせてあげればいいの」そう言ってイブリンに何か吹き込んでいた。
恥をかけばクリスの周りから人がいなくなって、ちょうど良い。
そう思っていたのに恥をかいたのはジュールやイブリンの方だった。
母は貴族牢に収監され、イブリンは自宅謹慎になった。ジュールの周りからも取り巻きが消えた。
クリスは生徒会役員に護られて全く近寄れない。
どんどん綺麗になっていくクリス。
──どうすれば手に入るんだろう。
領主館で会合があるからと、他の生徒より二日ばかり早く夏の休暇に入った。言われるまま、イブリンも一緒に帰郷した。
領主館には『芸術』一門の当主が集まり、主家であるギルランド家を貶めようとしていた。
ジュールには意味がわからなかった。男爵の娘を躾けようとしただけなのに、何故侯爵位を降りろという話になるのか。
クリスと結婚すれば、あれは、ほんのいたずらだと思わせることが出来るのでは? と浅はかにもジュールは考えた。
会合に来ていたクリスの父の馬車に潜み、クリスの待つクローステール男爵邸に向かった。
可愛いクリスがわざわざ出迎えている。早速結婚の申し込みをした。
しかしクリスは首を縦に振らなかった。側に第二王子がいる。きっとこいつに止められているに違いないと、ジュールは思った。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
クリスは僕のものだ。
クリスの父親に無理やり馬車に乗せられた。
あいつがいない時に、また申し込めば快諾するに違いない、そうジュールは思い込む。変に力が入ったのかずっと頭が痛く、前屈みになり苦痛に耐えた。
不意に馬車が止まり、鈍い音と何かが落ちる振動。ジュールは外を見ようと痛む頭をゆるゆると動かした。
刹那、キャビンのドアが開きジュールの視界は塞がれた。
恐慌状態のジュールの視界が再び戻った時、柔らかな感触と共に口に甘い液体を流された。
否応なしにそれを飲み下し、目を見開いたが辺りは薄暗くはっきりと見えなかった。自分の顔のすぐ側に香りのいい柔らかな女性の顔があり、頬を寄せられ耳元で囁く。
「ジュール様。私を助けて」
眠っては目覚め、甘く蕩けるような液体を飲み下す。
何度も何度も。
ぼんやりとした視界の中、柔らかな女性は繰り返す。
「私をこの人から解放して」
「助けて」
「この人を手に掛けて!」
「ああ、クリス。きっと助けるよ」
ジュールは医療所のベッドの上で手を伸ばす。
やっと腕が上がるようになった。
だが、まだ介助なしには起き上がることもままならない。
時間の感覚が掴めないが、日々秋の涼しさを感じた。
もうすぐあれが来る。それまでに動けるようにしよう。
沢山の人の前で第二王子からクリスを助け出そう。
そうすれば僕の愛を解ってくれる。
ジュールは唇を吊り上げた。
「待ってて、クリス」
ジュールの父、ガブリエル・ギルランドは双子をそれぞれ医療所と矯正施設へ送り、自宅での煩わしさから解放された。
だが、子爵へと転落した事によって、他部門との『虹の蜘蛛』の取引で支障が出てきた。
『虹の蜘蛛』と肩を並べるだけの品質を持つ織物は存在しない。それ故、需要はあるままだが、明らかにガブリエルへの客の態度が変わったのだ。
流言飛語は際限なく大きくなり、真実が埋もれたまま人々に行き渡る。ガブリエルにとっては流言だが、噂の大筋は真実に近い。
妻と子供たちの手綱を握れなかったばかりか、王家と公爵家に盾を突いたのだ。
人々の目が冷たくなるのは仕方のない事だった。
ガブリエルは重い足取りで貴族牢にいる妻の元へ向かう。婚約時代に淋しい思いをさせてしまった償いのつもりで。
兵士の解錠を待ち、部屋へ入る。必要最小限だが、平民の牢屋に比べれば明るく清潔だ。
「ふふふ」牢屋から聞こえてくるには不釣り合いな、密やかだが明るい笑い声。ガブリエルが目にしたのは、小さなテーブルを挟んで向かい合う二人の貴婦人だった。
「あら、あなた。いらしたのね」随分と落ち着いて微笑むようになったものだ。
ガブリエルはドロテの笑顔を流し、向かいに座る貴婦人に膝を折る。
「ご機嫌麗しゅう存じます。王妃陛下」
「ごきげんよう。ムーシカ卿。貴方が来ると聞いたので、まいりましたの」クラーワは広げた扇の向こうから微笑む。
「恐れ多いことでございます」ガブリエルはますます頭を下げる。
「貴方達の息子が何処で何をされたか判りましたの。マールム公爵領の高級宿で、何やら怪しげな事をされていたらしいわ」
「⋯⋯怪しげな?」
「幻覚剤を飲まされて、暗示を掛けられたのですって」クラーワは一拍置いて効果的に口を開く。「アルドーを手に掛けて、クリスを救え⋯⋯だそうですわ」
「⋯⋯!!」ガブリエルもドロテも驚愕する。
「そこで、『部門別発表会』に参加させて頂戴。動けるようにしておいて下さいな」
クラーワの提案に乗れば、第二王子が危険に晒されるではないか。しかも自分の息子は王族殺しの犯罪者になる。
「アルドーの事は気にしないでいいわ。ちゃんと舞台を整えますから」
「しかし⋯⋯」
「ムーシカ卿、これはお願いじゃないの。命令よ。やってくれるわね?」
ガブリエルはクラーワの笑顔に恐怖を感じた。
ガンガンと頭の中で脈打つ音が響く。その合間にドロテのすすり泣く声が聞こえた。




