03.私を置いて行くのなら、もうそれで構いません1
契約結婚した私たちには愛がない。
それでも名目上は侯爵夫妻である私たちは、社交の場では常に並んで出席しなければならない。
楽しく手を取り合って踊ったことなど一度もないけれど、それも侯爵夫人としての務め。
でも――。
私には、どうしても我慢ならないことがある。
夫が私を置いて、どんどん先に行ってしまうのだ。
「あ、カミル様……、待ってくださ――!」
「お嬢さん、お一人ですか? よかったら私がエスコートしましょうか?」
「……」
また、広いパーティー会場でカミル様に置いていかれたせいで、知らない男に声をかけられた。
「せっかくですが、私には連れがおりますので」
「ああ……そうなんですか。それは残念だ」
「失礼します」
カミル様は少し先で、仕事相手と話をしている。
ちらりとこちらを見たけれど、私がドレスの裾をたくし上げながら近づいていくのを見て、視線を逸らされた。
「どうして私をちゃんとエスコートしてくれないのかしら……!」
彼は幼い頃に母を亡くし、二十歳のときに父も亡くした。
いくら若くして侯爵になったとはいえ、幼い頃から一流の教育を受けているはずだ。礼儀作法も、女性の扱いも、それなりに教えられてきたに違いない。
だというのに、ドレスで歩きにくい私を置いて、彼はスタスタと一人で先を行ってしまうのだ。
だから、私は決めた。
この人にエスコートしてもらうのは、もうやめる。
*
その日も、夫は私を置いて一人でさっさと会場に入っていった。
いつもなら、文句を言わずに必死に彼を追いかけていたけれど……今日は違う。
「――エーファ!」
爽やかでよく通る声が、私の名を呼ぶ。
「……ルイ。待ってたわ」
振り返ると、そこには赤い髪をラフに整えた、背の高い美丈夫が微笑んで立っていた。
切れ長の瞳と高い鼻梁、ガタイのいい肩幅に、筋肉質な腕。
堂々とした佇まいと優雅な所作は、周囲の男たちすら見惚れるほどだ。
「ごめんね、少し遅れた」
少しワイルドな見た目に反し、甘い声音でそう言って。ルイは私の手を取ると、丁寧にその甲へ唇を寄せた。
その動きには一切のためらいも照れもない、完璧な所作だった。
私の夫にも、少しでもそんな心得があったら……ううん、期待するのはもうやめたのだった。
「じゃあ、行こうか。美しいエーファのエスコートができて、光栄だ」
「ふふ、ルイったら……。今日はよろしくお願いね?」
「任せてよ」
ルイが軽やかに私に腕を差し伸べ、私はその腕にそっと手を添える。
ルイのことは、子供の頃からよく知っている。私が夫と出会う前からの、気心の知れた仲。
昔は……私よりも小さかったのに。いつの間にか、こんなに大きくなってしまったのね。
ドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりと歩み出したその瞬間――。
「エーファ!?」
突然、驚いたような夫の声が響いた。
「だ、だだっ、誰だ、おまえは……!?」
顔を上げると、既に会場へ入ったはずの夫――カミル様が、入口付近でこちらを凝視していた。
案外早く、私がついてきていないことに気づいて、戻ってきたのかしら?
それは少し、意外だった。
彼の視線は、私の隣に立つルイに釘付けになっていた。
その表情には驚きと困惑、そして隠しきれない動揺が浮かんでいる。
「あなたがエスコートしてくださらないので、彼にお願いすることにしました」
「なんだって!?」
「問題ありませんよね? どうせあなたはいつも、私を置いて一人で先に行ってしまうのですから」
微笑みながらそう答えると、カミル様の目が大きく見開かれた。
「こんなに美しい奥様を置いて行くなんて……あり得ないですね。あっという間に、他の男にさらわれてしまいますよ?」
「それは……っ」
余裕たっぷりに笑うルイは、まるでからかうように片眉を上げた。
その言葉は礼儀正しい口調でありながら、芯の通った〝棘〟がある。
カミル様は何も言い返せず、唇を噛みしめながら視線をさまよわせていた。
「それでは、失礼いたします。エーファ、今宵は俺と一緒に楽しもうね」
「ええ、ありがとう、ルイ」
「…………!!?」
夫の前で、堂々と。
ルイの目を見て答えた私に、カミル様は頭を鈍器で殴られたのかと思うような顔を見せた。
……でもまさか、そこまでショックを受けるなんて、意外だわ。
これは契約結婚。彼が私を愛することはないし、私はそれで構わないと思っていた。
彼が侯爵として地盤を固めた後は、白い結婚のまま静かに離婚する予定なのだ。
彼が私を気にするなんて思わなかった。
それとも単に、男のプライドが許せないだけだろうか?
そんなことを考えながら、私はカミル様に背を向け、ルイの腕に手を添えたまま歩き出した。
親しい雰囲気たっぷりの私とルイを見て、カミル様は開いた口が塞がらない、という様子だ。
けれど、いいじゃない。
どうせ彼は、侯爵としての義務でこの場にいるだけ。
仕事相手と挨拶を済ませたらすぐに帰るのだから、私なんていてもいなくても問題ないでしょう?
どのみち、いつも置いていかれるのだし。
「――待ってくれ、エーファ」
だというのに。
彼の声が背中から飛んできた。
振り向く前に、カミル様の手が私の腕を掴み、ぴたりと引き留められる。