16.未来の約束3
手にはチョコレートケーキを載せた銀のトレイ。甘く香ばしい匂いがふわりと漂う。
彼女はよく、こうしてお菓子作りをしている。
「おお、エーファ。すごいな」
私が声をかけると、エーファはケーキの香りとともに笑顔を広げた。
「あ! お客様がいらしてたのね! こんにちは、エーファ・ヴァルトハイムです」
「……ゲルハルト・リーベナウです」
ケーキをテーブルに置くと、子供ながらしっかりとお辞儀をするエーファに、ゲルも静かに名乗った。
「まあ! おじ様がゲルさんなのね!」
「これ、エーファ……」
娘の人懐こさに、私は少しだけ冷や汗をかいたが――。
「いいんだよ」
ゲルは小さく笑って答えた。
「そう、私が〝ゲルおじさん〟だよ、エーファちゃん」
その言葉に、エーファはぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
ゲルの頬に、ようやくわずかな光が戻ったように見える。
「よかったら、おじ様もお父様と一緒にどうぞ。私が焼いたのよ!」
「それは楽しみだ。ぜひ、いただこう」
侍女がケーキを切り分け、私とゲルの前に一切れずつ並べると、エーファはふと部屋の隅にいるカミルに気がついた。
「あれ? あの子……おじさまの子供?」
「ああ……そうだよ。カミルだ」
「あの子がカミルなのね!」
ゲルの話も、ゲルに息子が生まれた話も、私は家族に話したことがあった。
誘拐事件のことは子供たちは知らないが、母親が亡くなったことは知っている。
エーファが「いつかカミルに会ってみたい」と楽しそうに話していたのを思い出す。
「こんにちは、私はエーファ」
「……」
お皿に乗せたケーキを持って、カミルのもとに近づくエーファ。
「ねぇ、あなたもこのケーキ、食べてみて?」
「……」
しゃがみ込んでカミルと視線を合わせ、いつものように、にこにこと人懐こく笑って話しかける。
エーファは空気を読むのが上手い子だった。
カミルの様子にも気づいていながら、気づかないふりをして話しかけているのだろう。
それでいて、相手を傷つけるようなことは、絶対にしない。
「私が焼いたの。甘いもの、好き?」
「……」
そんなエーファになら――と、少し期待したが、やはりカミルは黙ったままだった。
しかし、香るケーキの匂いに、彼の鼻がぴくりと動いた。
そして、次の瞬間。カミルの小さな手が、そっとケーキの皿に伸びた。
ゆっくりとフォークを手に取り、不器用に持ち上げる。
そして、おそるおそる、小さな一口分をすくって、口に運んだ。
その仕草に、広間の空気がふっと変わったような気がした。
「美味しい?」
「……」
エーファがにこりと笑って尋ねるも、やはりカミルは何も答えない。
だが、エーファは気にした様子もなく、カミルの隣にちょこんと座り、自分も隣でケーキを食べながら、他愛のない話をし始めた。
「この前はね、お砂糖を入れすぎてしまったの。お父様に、『甘すぎる』って言われちゃった」
ふふふ、と自分でおかしそうに笑いながら、エーファはカミルの顔を見て、にこやかに続けた。
「でも、今日はばっちりだわ! あなたはどう思う?」
そして――その瞬間だった。
「……うん」
小さな、本当に小さな声が、確かに私とゲルの耳に届いた。
私は思わず目を見開き、ゲルがハッと息を呑むのがわかった。
たった一言。それだけのはずなのに、その瞬間、まるで世界が止まったように感じられた。
「うんって、何よ? もう、それじゃあ答えになっていないわ!」
カミルが言葉を失っていたことなど、エーファは知らない。
だからいつも通り、ケラケラと笑って見せた。
「面白い子ね! こういうときは、『美味しい』って言うものよ?」
「……」
カミルは表情を変えないまま、そんなエーファに視線を向けた。
そして、ほんの少し――わずかに頬を紅潮させながら、また小さく頷いた。
「……うん」
「も~! それじゃあ同じじゃない!」
そう言って、エーファは何もかも受け入れるように、ふんわりと笑った。
その笑顔が、きっとカミルの心に灯りをともしたのだろう。
エーファにとっては、とても小さく素っ気ない言葉だったかもしれない。
しかし、私やゲルにとってその一言は……とても大きな、第一歩だった。
「チョコケーキは、好き?」
「……」
改めて問われて、カミルはゆっくりとエーファの瞳を見つめた。
そして、震える唇をそっと開いた。
「ぼ……の、ははう……も……、よく、チョコケーキ……焼い……くれた……」
掠れた、途切れ途切れの声で、カミルは確かにそう呟いた。
〝僕の母上も、よくチョコケーキを焼いてくれた〟
その言葉を聞いた瞬間、ゲルが手で顔を覆い、声を押し殺して泣き出した。
「……カミルが……しゃべった……っ」
ぼろぼろと、大粒の涙をあふれさせる親友に、私も胸が詰まった。
――ああ、本当に。
どれだけの医師を頼ってもどうにもならなかったというのに。
今、目の前で、カミルは声を出したのだ。言葉を紡いだのだ。
「お母様のケーキ、美味しかった?」
「……うん」
「そう。それじゃあ、後であなたのお父様にレシピを聞いて、私が作ってあげるわ!」
「え……?」
「大人になったら、毎日でも作ってあげる!」
エーファがキラキラと瞳を輝かせ、まっすぐにそう言った。
そのあまりにも無邪気でまっすぐな笑顔に、私は思わず笑ってしまう。
隣でゲルも、涙を拭いながら肩を揺らして笑う。
「エーファ、それではまるで、プロポーズじゃないか」
冗談めかして言った私の言葉に、彼女は「えへへ」と笑って頬を染めた。
そのとき、ゲルがそっと私の袖を引いた。
涙を拭ったばかりのその目で、私にだけ聞こえるように、小さく呟く。
「……もし、大人になって、エーファちゃんに決まった相手ができなかったら……」
私は彼の言葉に静かに耳を傾けた。
「カミルと……結婚させてやってほしい。……あの子は、カミルの希望だ」
カミルの希望――。
その言葉に、私はもう一度娘に視線を向けた。
ケーキを口にして小さくだが確かに笑みを浮かべるカミルと、その隣で嬉しそうに笑うエーファ。
それはまるで、ほんのひとときの奇跡のように、あたたかくて、美しかった。
「カミルが大人になるまでに……エーファちゃんを幸せにできるような……次期侯爵に相応しい、一人前の男にしてみせる」
赤くなったゲルの瞳にも、光が戻っていた。
親友の言葉に、私はただ黙って微笑んだ。
――彼らの未来は、その瞬間に決まっていたのかもしれない。




