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15.未来の約束2

 カミルはかつて、言葉を失った少年だった。



 というのも、彼は幼い頃、最愛の母を目の前で(うしな)っている。


 侯爵家の一人息子であるカミルを狙った、誘拐事件。

 犯人の狙いは、カミルを人質に取り、父であるゲルを脅すことだった。


 しかし、交渉の場で起きた小さな混乱が悲劇を引き起こした。

 カミルの母は、身を挺して息子を庇い、命を落としたのだ。


 犯人は捕まった。だが、少年カミルの心は壊れてしまった。

 ショックのあまり、言葉を失ったのだ。

 あの事件の後、彼はまるで言葉を忘れたかのように、一言もしゃべらなくなった。


 医師の診断は「心因性の失声症」だった。

 深いショックと自責の念から、自ら言葉を閉ざしてしまったのだという。


「僕のせいで、母上は死んだ」

「僕なんて、いなければよかったのに」


 カミルが最後に口にしたのは、そんな言葉だったそうだ。


 それからというもの、彼は誰とも口を利かず、膝を抱えて一日中ふさぎ込むようになった。



 それから一年が過ぎたある日、ゲルがカミルを連れて私の屋敷を訪ねてきたことがあった。


 あの日、我が家の玄関に立っていたゲルの顔を、私は今でも忘れられない。

 それは、威厳ある侯爵の姿ではなかった。

 妻を喪い、言葉を失った幼い息子を連れた、一人の〝壊れかけた父親〟の顔だった。



 当時、我が家はのどかで穏やかだった。

 エーファとイーファはカミルと歳が近い。二人とも明るく、よく笑う元気な娘たちだった。

 何気ない日常の中で、ゲルは少しでもカミルの心がほどけるようにと願って、藁にもすがるような思いで……我が家に足を運んだのだろう。



 ゲルと私が出会ったのは、二十五年以上も前になる。

 若き戦士だった私たちは、戦場で初めて顔を合わせた。

 当時、我が国は隣国との戦時下にあり、戦いは数年にも及んだ。

 その長い年月の中で、私とゲルは、いつしか深い絆を結ぶようになった。


 私は戦の前に妻を迎え、最初の子――長女を授かっていた。

 戦が終わり、我々が勝利を手にした頃、ゲルもまたよき伴侶を得て、息子を授かった。

 それがカミルだった。


 その二年後には、我が家にも双子のエーファとイーファが生まれた。

 子供たちの笑い声が、家々に響く日々。

 あの頃はただ、穏やかな日常がどこまでも続くのだと、信じていた。


「これからは平和な時代だ」

「子供たちは、自由に、のびのびと生きていける」


 そう、語り合っていた。

 戦場を生き延びた私たちには、それが何よりの願いだった。



 ――だが、それから数年後のことだった。

 あの誘拐事件が起きたのだ。


 信じたくない報せだった。

 当時の私は家族とともに領地で穏やかな暮らしを送っており、ゲルとは定期的に手紙のやり取りをしていた。


 その中で、突然知らされたのだ。

 そう、私が知ったのは、すべてが終わった後だった。


 もしあのとき、私が近くにいたら。

 彼らのために何か力になれることがあったのかもしれない――そんな悔いが、胸を離れなかった。


 ゲルの手紙によれば、彼はありとあらゆる医師に相談したという。

 だが、誰もが口をそろえて「これは心の問題だ」としか言わなかったそうだ。


 それから一年が経っても、カミルが口を利くことはなかった。

 そしてあの日、彼らは我が家を訪ねてきた。



 カミルはまるで魂が抜けたように、父の背中に隠れていた。

 話しかけても、目を合わせることすらしない。


 私はゲルとカミルを広間に通し、少し離れた場所からそっとカミルを見守ることにした。

 まだ十にも満たないカミルは、静かにうつむいたまま、何も語らなかった。

 しかしその背中には、子供が背負うにはあまりに大きすぎる悲しみが、ただ静かに漂っていた。


「……ゲル、おまえも随分やつれたな」


 彼にそう声をかけると、うっすら笑みを浮かべて首を縦に動かした。


「ああ……父として、私はどうしたらいいのか、もう……」


 戦場で誰よりも頼りがいのあったあのゲルが――。

 あの、不屈の将軍が、今はテーブルに伏せるように顔を下げ、震える肩を押さえきれずにいた。


 その背にかける言葉も見つからないまま、私はふと、部屋の隅に目をやった。


 カミルはただ一人、静かに座っていた。

 膝を抱え、虚ろな目で、何も映さぬ床を見つめている。

 まるで、自分という存在そのものを消そうとしているかのようだった。


「カミル君、何か欲しいものはある?」

「……」


 私の妻が尋ねても、彼は微動だにしなかった。まるで、聞こえていないかのように、ただじっとしていた。


 そのときだった。


「あっ、男の子がいる!」


 廊下からぱたぱたと走ってきたのは、イーファだった。

 興味津々の様子で、カミルの前にちょこんとしゃがみ込む。


「ねぇ、あなた、名前は?」

「……」

「しゃべらないの? 私より年上でしょう? 私はイーファ! 七歳よ!」

「……」

「ふーん。あなたって、無口なのね!」


 くるくるとよく動く表情で、いつもの調子で話しかけるイーファ。


「でも、顔はかっこいいのね!」

「……」


 にっかりと笑うイーファにも、カミルはやはり一言も返さなかった。

 無理に追い詰めることもせず、イーファはしばらく彼の顔を見つめていたが、やがて小さく溜め息をついて、立ち上がる。


「つまんない~」


 そう言って、イーファはまたぱたぱたと走って部屋を出ていった。


 沈黙が戻った部屋で、ただカミルの小さな背中が、静かに丸まっていた。

 耳はちゃんと聞こえているようだ。

 何も答えられない自分に、嫌気がさしているのかもしれない。


 イーファのような、誰にでも明るく話しかける子なら、カミルも少しは言葉を発するかもしれないと期待したが……。

 これ以上この場にいさせては、かえってカミルを傷つけてしまうかもしれない。



 そう思った、直後だった。


「お父様! チョコケーキを焼いたのよ!」


 今度は、弾むような声とともに、エーファが侍女を従えて広間に入ってきた。



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― 新着の感想 ―
こちらの作品、短編の時から楽しく読ませて頂いています! しかし、今回気になった点が一つ。 失語症→失声症ではないでしょうか。 失語症は話すだけでなく聞く、読み書きなどその他の言語機能全体に影響を及ぼす…
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