動揺
まだ薄明かりの残る時間、ミオは薬術院の診療所の鍵を開けていた。冷えた空気が頬に沁みる。けれどそれよりもずっと胸が落ち着かないのは、昨日の夜のせいだ。
(……キス、された)
思い出すたび、顔が熱くなる。
「駄目よ……集中しなきゃ……」
気を取り直して深呼吸すると、診療所を開ける準備を黙々とこなした。 祝祭期間だから患者はほとんどいないはず――
そう思っていても、ふいに思い出すライのゴツゴツした手、寄りかかられた時の吐息、抱きしめられた時の厚い胸板――そっと確かめるように、押し付けられた唇――
「ぅあああっ!!」
ミオは思わず頭を抱えた。
その時ジュッと嫌な音がして、焦げた匂いが鼻を突いた。
「あぁっ……」
ローブの袖が、実験用に準備していた薬液に触れて焦げてしまったらしい。
「……やっちゃった……」
(もう、何やってんの、私…)
ガクリとミオは肩を落とした。
***
昼時。
胸のざわつきが収まらぬままミオは人もまばらな静かな食堂に足を運んだ。内心、将軍に会ったらどうしよう、どんな顔をすればいいのか…とドキドキして来たのだが――
(……いない)
がっかりしたような、ホッとしたような気持ち。
けれど、心の中でもう一つの答えが囁く。
厨房でサンドイッチを二つ包んでもらい、薬草園の外れへと向かった。
そこはライがいつも仮眠をとる場所。
(あ、やっぱりここだった…。)
目を閉じているが、ミオの気配に気付いたように、目を開けた。
「……来たのか」
「……お昼、まだかなと思いまして…あの、サンドイッチ召し上がりますか……?」
ミオは、遠慮がちに包みを差し出した。 ライは無言で受け取り、サンドイッチにかぶり付く。
ホッとして、ミオは持ってきたあたたかいお茶を水筒から出し、ライに渡す。
二人で静かにサンドイッチを食べていると、
ポツリとライが聞いてきた。
「……いつものローブ、今日は着てないのか」
「あっ、今日は……誰もいないですし、特に必要ないかなって……」
(絶対に言えない…ポーっとして焦がしたなんて)
気が付くと、ライが自分をじっと見ている。その視線に、ミオは焦ったように目をそらした。
すると、ライは静かに軍服の上着を脱ぎ、黙ってミオに差し出した。
「……着とけ」
ミオは一瞬ためらったが、礼を言っておずおずとそれを羽織る。 少し重たい。でも、あたたかい。
「……昨日の夜のこと」
ライがふいに言う。 ミオの肩がギクリと上がった。
「……その…嫌じゃなかったか」
ミオは、反射的に顔を上げる。視線がバッチリと絡み合い、顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。
「……嫌じゃ…なかった…です…」
絞り出すようなその返事に、ライの瞳が、少しだけ揺れて明るくなる。
ミオが照れ隠しのように、サンドイッチをもうひと口食べようとした、その瞬間。 ライの唇が音もなくトンッと、ミオの頬に触れた。
「……ひゃっ! 」
ミオは思わずパニックになり、のけぞった。頰に手を当て、真っ赤な顔でパクパクと口を開けながら、ライを見上げる。
ライはその反応に、ほんの少しだけ眉をひそめ、むくれたように言った。
「……嫌じゃないって、言ったから…」
「た、確かに、言いましたが…」
もうサンドイッチどころではない。 逃げ出したいような、それでも近くにいたいような感覚にミオは戸惑った。
気が付くと、ライが手を伸ばし、ミオの手にそっと触れて来る。ライは黙ったまま指と指をキュッと絡ませた。
「――ミオ」
「…好きだ」
「…私も、です…」
「…うん」
なぜだろう。泣きそうだ。
胸が熱くなって、目の前の男の顔が滲んで見える。
「…側にいて、いいですか…?」
ミオはか細い声で、勇気を出して言ってみる。
返事はないが、繋がれた指先に、力がこもった。
薬草園の外れ、落ち葉がカラカラと舞う中、二人は息をするのも忘れるように、互いの存在を確かめるように見つめ合った。




