怒号
軍馬に乗り、行軍の先頭を行くライはピクリと空気が変わったのを感じた。訝しげに後ろを振り返る。
――空気が静か過ぎる。嫌な予感がする――
何度となく死線をくぐり抜けたライにしか分からぬ、胸をざわつかせる気配、そこへ土煙を上げて 伝令の黒馬が、ものすごい勢いで駆け込んでくる。
「オルグレン将軍!薬師の女性1名が崖から落ちた模様です――!!」
(…女の薬師――?)
動悸が耳の奥で鳴り響く。手綱を握りしめる手に血管が浮く。
「どけッ――!!」
ライは馬を全速力で駆けさせた。
***
その頃、騒然とする崖の側では、シアンが必死に、崖下に消えたミオに向かって叫んでいた。
「ミオ!!ミオッ!!聞こえる!?」
しかし草や枯れ木が生い茂り、日暮れも近づいてきた為、視界が悪い。気温も急激に下がってきた。
周囲にいた兵士や、薬術院、医術院の面々も顔を真っ青にし、崖下を覗き込む。
「俺のせいじゃない、俺のせいじゃ…」
アダムは爪を噛み、茫然として動けないままだ。
その時、砂煙をあげて猛然と黒馬が降りてくる。乗っていた大きな獣のような男は、馬を降りた瞬間、厳しい口調で、鋭く言い放った。
「説明しろっ!!」
目に宿る気迫に、身体から放たれる重圧に、周囲は思わず、息を呑んだ。
「僕のせいじゃない…」
アダムは情けなく呟き、逃げ腰になって後退る。
「お前のせいだろ!!お前が崖際なんか連れてくから!!」
シアンが赤い顔で、泣きながらわめいている。
その時、現場を目撃していた部下の一人が、ライの耳元で状況を素早く説明した。
(くそが――)
自分の胸の奥でうごめく怒りが抑えきれない――手が無意識に剣の柄に伸び、抜剣しそうになる。鋭い殺気が、周囲に立ち込めた。
剣を抜きかけた瞬間、間一髪 追いついたリドが咄嗟にその手を押さえた。
(やめろ)
ライは一度、大きく息を吐き、リドの手を無言で振り払うと、すぐに崖の縁へ駆け寄った。
(まずいな…もうすぐ日が暮れる…)
ライはすぐさま崖を降りようとした。
その時──
目の間にニュッと白い手が伸びてきて、勢いよく地面をワシッと掴んだ。
緊迫した空気の中、のんきな声が崖下から響いてくる。
「――アイタタタ…誰かぁ、引っ張り上げてくださーい…!」
その場にいた全員が、ポカン…とした。
次の瞬間、ライは反射的にその手を掴み、ミオの体を一気に引き上げた。
その勢いで、ミオの身体はライの上にドサリと重なり、二人の視線が至近距離でぶつかった。
「……無事、か…?」
「……将軍、すみません…落ちてしまいまして…」
ミオは顔を上げると、苦笑いでライの身体の上から、ヨイショと降りる。
「ミオ〜!!!良かったああっ!!怪我は!?」
シアンが涙ながらに、ミオのもとへ駆けつけた。
ローブは泥や草まみれ、
それでも、ミオの傷だらけの手には薬草が、しっかりと握りしめられている。
ミオはアダムに向き直ると、苦笑いしながらその薬草を見せようとする。
「アダム先輩、ダロスの葉じゃなかったですよ。これ、よく似てるだけで…」
「――馬鹿がっ!!」
突然、
雷鳴のような怒号が、辺りを切り裂いた。
ミオの肩がビクッと跳ねる。
こんなにも人が本気で怒る声を初めて聞いた。喉がヒュッと締まり、呼吸が上手く出来ない。
体が硬直して――指一本も動かせない。
「アダム・バイロン、王宮へ帰還次第、聴取。聴取が終わるまでは医術院への出勤を禁止する。場合によっては軍法会議にかける、――もう、医術院に席があると思うなよ。」
眉間にシワを寄せたまま、ライの声は冷たく重々しい。
「そんな…そんな…」
アダムは、顔面蒼白で震えるばかりだ。
ライはミオの方へ即座に視線を向けた。
「…薬師、怪我は?」
ミオは白い顔で、か細く答えた。
「…いえ、ありません……」
「……」
しかし脚首は腫れ、痛そうに立っているのをライは見逃さなかった。ミオの傍へと歩み寄ると、
ためらわず、その身体を抱え上げ、軍馬の背に乗せる。
ライはすぐさまミオのすぐ後ろに跨り、手綱を固く握った。
「リド、先に行く。――その馬鹿は任せた。」
「はいよ。」
リドは眉毛だけを上げて、未だ腰を抜かしているアダムの襟首をグイと掴み上げた。
二人を乗せた軍馬が、山道を駆け出した。
冷たい冬の風が、2人の頰に当たる。
ミオは白い顔のまま、馬上で俯き、肩を小さく震わせていた。




