静かな葛藤
蜂の一件から数ヶ月が過ぎ、青空の色に秋の気配が感じられる頃。
王宮の一画にある軍事司令部の一室には
張り詰めた空気が流れていた。
「おいっ!聞いたか!? あの薬師のお嬢さん、王宮の薬師団に入るかもしれんぞっ!」
バタバタと興奮気味でライの執務室に飛び込んできたのは、リド・ブラント。 十歳の時、ライと同じ日に騎士学校へ放り込まれ、それ以来の腐れ縁だ。
「なんでも、あのお嬢さんのマヌガ蜂の処置の方法が、薬師団の中で話題になってるってよ!」
目を輝かせながら机の前まで詰め寄るリド。 ライは眉間に深いシワを刻んだまま、書類を黙々と書き続けている。
「おーおー、また出てるぞ、暗黒の不機嫌オーラ……」
「……」
ライは書類にペンを走らせ続ける、しかしその胸中では、月例の評議会の出来事を静かに思い返していた――。
* * *
「オルグレン将軍、先日の山での演習中、マヌガ蜂の毒に倒れた者がいたそうだな。経緯を説明してくれ」 陛下の声が、静かに響いた。
「はっ。クルト村付近の山中で、地形の把握を兼ねた演習をしておりました所、騎士がマヌガ蜂に首を刺され 倒れました。この蜂の活動期間はまだ先でしたが、今年の気象状況などから、稀に早く活動する個体が出てくるとのことでした」
ライは 本能的に何かを警戒し、必要な情報だけを簡潔に伝える。
「不運だったな……その騎士の体調は?」
「はい。たまたま居合わせた薬師のおかげで、後遺症もなく、すでに職務に復帰しております」
慎重に、慎重に言葉を選んだつもりだった。
だがそのとき、王宮薬師長が鼻息荒く、言葉をかぶせてきた。
「陛下! それが素晴らしいのです! 刺されたのは首だというのに!普通なら10分ももたぬ間に呼吸困難に陥り、命を落とすのですよ! 騎士の話では、何やら薬草から出る煙を吸った後、呼吸ができるようになったと…私共でもそのような手法は知りませぬ!」
ライは苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んだ。 (……厄介な、黙ってろ…)
「ふむ……王宮薬師団でも知らぬ薬草か? 村にそのような高度な知識を持つ薬師がいたとは…オルグレン将軍は応急処置を見ていたのだろう。後ほど報告書にまとめ、提出せよ。」
「…はっ…承知いたしました…。」
* * *
「おい…おーい! ライ!」
「……なんだ」
ピクリと眉間だけ動かすと、ライは目の前の声の主に意識を戻した。
「知ってるか? 今、王宮からの伝令係が、あの診療所まで打診に行ってるらしいぞ。
… いやあ、にしても可愛らしい薬師さんだったよなぁー。サンドイッチも美味かったよなあー。」
じろりとリドを睨むライ。
「……あの診療所がある……断るだろ……」
(そうだ、断った方がいい…… どんなに知識があれど、王宮に来れば村の診療所のようにはいかん。断ってくれ……)
ライは、机の上に置かれた小さな小瓶に視線を落とす。 別れの日に、ミオがこっそり持たせてくれた、額の古傷のための軟膏だった。
ライのゴツゴツした指が、小さな軟膏の瓶を握りしめる。
「すみません、差し出がましいとは思ったのですが……。 ライ将軍のその額の古傷、暑くなったりすると痒みや腫れが出たりしませんか? そんな時に塗ってみてください」
脳裏に、夕暮れのようなアンバーの瞳が浮かぶ。 ライはリドに気取られぬよう、短く息を吐いた。
(……何故、こんなにも気になるのか。 何故あの瞳が、もう一度見たいと思うのか…)
想いを断ち切るように、ライはペン先に力を込めた。




