とある、雨の一日
起床したその時点からすでに雨が降り、雨足が強いまま一日中続くだろうと天気予報で告げられている。そんな日は羽香奈が江ノ島で暮らすようになって、この日が初めてだった。
「こういう日って、葉織くんはどうしてるの?」
「正直言って、どうしようもない……今日のところは夏休みの宿題でもしようと思うけど」
こんな天気だが半蔵とハツは近隣のお年寄りと集まって会合する約束があると言って出かけている。ただでさえ階段か坂を歩かなければいけない地形なのに、足腰のおぼつかないハツが転倒してしまわないか羽香奈は心配で、目的地まで手を貸そうかと伝えてみた。ありがとう、大丈夫だよと微笑んで、傘をさして出かけていった。
「じいちゃんとばあちゃんには悪いけど、ふたりがいないからテレビはオレ達の好きなのが見られるから、ちょっとは退屈しのぎになるかなぁ」
とはいえ、午前中にやっている夏休みの子供に向けて特別編成で放送されているアニメの再放送くらいしか、結局ふたりが楽しめそうな番組は放送されていなかった。午後はワイドショーや時代劇、サスペンスドラマの再放送……見ていてもそんなに面白いと思えない。
葉織は居間のテーブルに宿題を並べてそれに取り組んで、羽香奈はソファーに膝を抱えて座り込み、特に意味もなくテレビを眺める……いや、テレビを見る振りをして、ときおり葉織の背中をこっそり見ている。
見られているのに気が付かない葉織が一生懸命、問題に挑み。たまに難問に当たって頭をがりがりかいているのを眺める。なんだかこんな、なんにもない、ふたりだけの時間ってとても幸せだなぁと噛みしめていた。葉織にとっては違うのかもしれないけれど。大人になるまでの期限付きだとしても、しっかり味わっておきたいと思った。
「葉織いるー? ひさしぶりー」
玄関のノックもなしに、がらりと戸を開けて男の人が入ってきて羽香奈はびっくりしてしまった。潮崎の家では日中、玄関に鍵をかける習慣がない。都会育ちの羽香奈には物騒に思えてしまうけれど、後から来た自分が口出し出来るはずもなく。
「あれっ? 女の子いるじゃん。誰? 友達?」
高校生くらいと思われるその来客は、ソファーの上の羽香奈に興味しんしんだが、見知らぬ女の子に無遠慮に近づいたりはせずあくまで葉織に問いかけた。
「友達じゃなくて、いとこ。うちで暮らすことになったんだ」
「へぇー、そうなんだ」
「羽香奈。この人、こないだ話した近所のお兄ちゃん」
この前話したって、葉織くんが小さい頃によく遊んでくれた、近所のお兄ちゃん? そう確認すると葉織は頷く。
「なんだよー、俺のこともう紹介してくれてんのー?」
「は、はい。葉織くんがもっと小さい頃にお世話になったって」
「羽香奈ちゃんだっけ? よろしくね」
「よっ、よろしくお願いしますっ」
ソファーの上にきちんと正座し直して、頭まで下げる羽香奈に「そんなかしこまんなくたっていいってー」と苦笑する。
「この雨でどうせ暇してんだろうと思って、溜まってたマンガ持ってきてやったぜー」
「四冊もあるじゃん。ありがとー」
お兄ちゃんが学校の行き帰りに買っている、週刊のマンガ雑誌。読み飽きたら捨てるしかないそれを、お兄ちゃんは葉織に持ってきてくれるという。分別して捨てる手間を葉織が肩代わりするという条件で。
たかだか捨てる手間くらいで、そして最新話をすぐに見られるわけではないという点を差し引いても、お金を出してもいないのにマンガが読めるというのはありがたいことだ。葉織自身はマンガが大好きというわけではないにしろ、貴重な退屈しのぎの要素だからありがたく受け取っている。
「オレは先に今日の宿題片付けたいから、羽香奈、先に読んでいいよ」
「ありがとう。有名な雑誌だけど、わたし、読むの初めてだから楽しみ」
「バリッバリに男向けの雑誌だけどいいのかねー。あ、羽香奈ちゃん? ちょっと玄関先まで付き合ってくんないかな」
「え? はい」
元は店舗だっただけあって、玄関先には雨避けがついている。玄関を閉めてお兄ちゃんと羽香奈が並び立っても濡れずに済む。そして、強い雨の音によって、屋内にいる葉織のところまで会話は届かないだろう。
「波雪おばちゃんが急に死んじゃって、俺もけっこうショックでさ。なかなか葉織の顔、見に来れなかったんだよね。じいちゃんもばあちゃんもいつかは先に死んじゃうだろうし、そうしたら葉織はひとりぼっちだなって心配だったんだ。羽香奈ちゃんみたいな親戚がいるなんて知らなかったから安心したよ」
「そうだったんですか……」
波雪はまだ三十代の女性で、持病もなく、急に亡くなってしまうなんて意識して暮らしてはいなかっただろう。彼女の周囲の人々も、波雪自身も。
生命保険だけはもしもの時の葉織の立場を思いやってきちんと加入していたため、すぐに経済的に困窮はしないだろう。けれど、羽香奈がいなければいずれ天涯孤独の身になりかねなかった。
「葉織のこと、末永く宜しくね。……俺も、高校卒業したら島を出るだろうから、今みたいに頻繁に顔見に来れなくなるだろうし」
「……はいっ! 任せてください!」
「ははは……羽香奈ちゃんって一見大人しそうだけど、頼りになりそうな気がするー」
お兄ちゃんは傘をさして、笑顔で羽香奈に手を振って去っていった。
宿題を終わらせて、ハツが用意してくれたおかずを電子レンジで温めて食べて、ふたり並んでソファに座ってお兄ちゃんの差し入れの雑誌を読んでいた。
元より、宿題で頭を使ったのもあるし、天気が悪いので低気圧も影響して葉織はうとうとし始めた。
結局、間もなく寝落ちして。ばさっと音を立てて雑誌が地面に落ちるが、葉織は目を覚ますことはなく。こつんと羽香奈の肩に頭を寄りかからせて、寝息を立て始めた。
うわぁ~……と、声にならない歓声を噛み殺しながら、羽香奈は硬直した。読んでいた雑誌の内容もこうなっては頭に入らない。
一分ばかしは緊張で身を固くしていたが、やがて羽香奈もリラックスして、葉織の体の温かさを感じていた。
……ほんの半月ほど前まで、悲しみの中で暮らしていたっていうのに。今はあんまりにも幸せで、幻みたいで怖くさえある。
かつての自分が夢にまで見た、幸せな日々……。「羽香奈」という、自分の名前に通じる、「儚い」という文字にも、「夢」という文字が含まれる。
夢というのは案外あっけなく、儚く失われるものだ。葉織が唐突すぎる不幸に見舞われて、母を喪ってしまったのと同じように。
幸せと同時に怖れを抱いて胸をざわつかせていた羽香奈に、それは訪れた。
居間の片隅に置かれた黒電話から鳴り響く呼び出しのベル音に、びくり、体を震わせる。葉織が起きませんようにと祈りながら、そっと彼の肩を掴んで、ソファに横たえる。
せっかくの至福の時間が終わってしまったのは残念だったが、こんなタイミングで電話が鳴るのは祖父母からか、あるいは彼らの知り合いからだと思っていたから不満ではなかった。
「はい、潮崎です。どちら様ですか?」
受話器を取って、電話の向こうの誰かに溌剌と呼びかけた。相手はしばらく、何も答えず。いたずら電話だったのかしらと、耳から受話器を放そうとしたその時。
『……お姉ちゃん? あたし……初子、だけど』
遠慮がちなその声に、多幸感が一気に、潮が引くように遠ざかるのを羽香奈は意識した。足元が崩れ去るような不快感。
羽香奈の、父親違いの妹。母親からも父親からも溺愛されていた彼女は、羽香奈によく、自身の名前を自慢していた。二番目に生まれた子供なのに、「初めての子」という名前をつけられたことを。
初子がそれ以上を語らずとも、声の調子から羽香奈は全てを悟っていた。
羽香奈は、自分と違って、両親は初子を愛しているのだと思っていた。羽香奈に厳しくあたって初子を甘やかすのは、ただ、愛されているかいないかの違いだと。
そうではなかったのかもしれない。母は、常日頃、家族内の誰かを自身のストレスの捌け口にしないと生きていけない気質の人間で。羽香奈がいなくなったのなら、他の誰かにその役目をさせるだけであって。
羽香奈にとっては義理の父親だったあの人とは、なんだかんだで愛し合って一緒になったのだから、そんな役目にはなりえない。だとしたら、今現在の初子がどのように扱われているのか……。
「……なんのこと? あたしにはお姉ちゃんなんかいないって、あなたが何度も言ったんじゃない」
じゅうぶんすぎる程にわかっていて、それでも羽香奈はそう答えた。受話器の向こうで彼女が絶句する音が聞こえるような気がした。
「あなたは愛してくれるお父さんとお母さんのいるその家で、幸せに暮らしてください。これからも、ずっと。……瀬川初子ちゃん」
一応、数分間、向こうへ猶予を与えた。受話器を下ろさずに待ってあげた。
だが、向こうから何も言ってこないので、さよならも言わずに電話を切った。
……よりにもよって、羽香奈の小さな幸せを、その時間を奪ったのがあの子だったなんて。ほんの一瞬だけ激しい怒りが湧きあがったが、すぐに霧散した。これで最後なんだから、大目に見てあげよう。今後一生、もう二度と、関わり合うつもりはない。
「……電話ぁ? 誰から?」
葉織が寝ぼけ眼で、目を擦っている。いつの間にか目覚めていたらしい。
「おじいちゃん達からかと思って出たんだけど、なんにも言わないの。いたずら電話だったのかもね」
「そっかぁ……」
目は覚めたはいいけれど、中途半端な覚醒だったらしく、まだ眠たいようだ。ソファーじゃなくて二段ベッドでちゃんと寝ようかなと葉織は言う。
羽香奈も、一緒に、下の段で寝ようと思って葉織についていった。起きていたら、さっきの電話について悶々と考えてしまいそうだったから。