2日目の朝
羽香奈が江ノ島に来て二日目の朝。二段ベッドの上段がきしむ音で、彼女は目が覚めた。
そのまましばらくぼんやりと、小刻みに揺れる上段の底を見上げていると。
「あ、おはよう。羽香奈」
パジャマを腕に抱えて、すでに着替えた葉織がはしごを下りてくる。
「お……、おはよう、ございます……」
目覚めてすぐに「おはよう」の言葉を掛け合った思い出のひとつもない羽香奈は、思わず照れくさくなって夏用の薄い布団を口元まで引き上げて、隠してしまう。葉織は「ん?」と首を傾げるが、深く追求はしない。
「今って何時くらいなのかな」
「んーと、時計見てないけど、だいたい六時くらいにいつも目が覚めてる」
「葉織くんって、いつも早起きなんだね」
「じいちゃんばあちゃんと暮らしてるとね。それに、朝早くから出かけた方が涼しくていいよ、夏場は特に」
今は亡き母・波雪は外での仕事でなかなか家に帰らず、自然、葉織は祖父母の生活時間に合わせた暮らしになる。冬場は六時に起きても外が暗いので、もし六時に目が覚めても二度寝して、明るくなってから改めて起床するのだという。
「オレは今日も午前中は海に出かけるんだけど、羽香奈はどうする?」
「い……、一緒に行っても、いい?」
「もちろん。この家にひとりでいたって、することなくて退屈だろ?」
羽香奈にとっては退屈なんて、全然苦にならない。一緒に行きたいのは、ただ葉織と一緒にいたいだけだ。
「……あのさ、羽香奈」
「なぁに?」
「また、作ってみてもいい? 人形。ちょっと気になることがあって」
嫌だったらいいんだけど、と葉織は付け足すので、羽香奈は思いっきり首を横に振る。
「嫌なんかじゃないよっ。また作ってくれるなんて、嬉しい!」
「……気味悪いって、思わない? 自分の心、盗み見られてるみたいって」
「ぜーんぜん? だって、葉織くんが作ってくれた人形、わたし、大好きだもんっ」
わくわくして心臓が弾けそうで、羽香奈は布団を除けて、ベッドのスプリングを跳ねるようにして正座する。自分の気持ちの高揚で、葉織がちょっとだけ複雑そうな顔を見せたのを見落とした。
葉織は勉強机の下に置いてあった、愛用のブリキのバケツを引っ張り出した。引き出しの中にも流木がいくつかしまってあって、それを取り出す。
羽香奈の隣に自分も腰を下ろして、膝の上にバケツを置き、ずれないよう両肘で押さえつけて固定する。
自身の、ふたつの手のひらをくっつけて、その上に置いた流木がひとりでに形を変える。木屑が跳ねてバケツの底にたまっていく。その過程を羽香奈はうっとりと眺める。
ワンピースを広げて座り込んでいる姿勢は昨日作られた人形と変わらないが、今日はにっこりとほほ笑んでいた。
「やっぱりね。昨日、駅で会った時の羽香奈は黒いもやもやがまとわりついてたけど、今日はすっきりした色してたから」
「たった一日でこんなに変わっちゃうんだ……な、なんだか、現金な人~って感じで恥ずかしいかも……」
ちょっと恥らって、熱く染まりかけた頬に両手をあてて隠そうとする。
「そんなことないよ。羽香奈が言ったんじゃないか。昨日から、今までと違う自分に生まれ直すんだって。それに、うちに来てこんなにリラックス出来てるんだってわかってオレも嬉しい」
葉織はそう言ってくれたが、今度は別の意味で、羽香奈は頬が赤く染まりそうで手のひらを剥がせなくなった。
昨日の、泣いている羽香奈の人形の隣に、今朝の人形を並べて飾る。泣いている人形だけだって羽香奈にとっては宝物だったが、ふたつ並ぶことでより味わいが増したように思える。葉織くんが見つけてくれた、昨日までのわたし。葉織くんのそばにいる、今日からのわたし。前者の自分はもう捨てたものだけれど、最後に葉織がすくい上げてくれた思い出が形になった、大切な証だ。
葉織が二段ベッドの上で着替えていたのは、この部屋で羽香奈と暮らす限りはそうするようにあらかじめ決めた段取りだった。葉織は部屋を出て、先に台所行ってるから着替えたらおいでと言い残し去っていく。
昨日着ていたワンピースはもう洗濯籠の中なので、波雪の幼い頃の服をしまった収納ケースから適当に服を選んで着させてもらうことにした。
というわけで、祖母が用意してくれた朝食を家族四人、台所で食べさせてもらう。食器は自分が食べたものは自分で洗う決まりだと葉織があらかじめ教えてくれていたので、昨日の夕食から羽香奈もそうしている。
「おやおや。ありがとうねぇ、羽香奈ちゃん」
祖母・ハツは昨夜はそう言ってくれたが、今朝は何も言わない。羽香奈はむしろそれが嬉しかった。正式に、家族の一員になれた気がしたから。
葉織の案内で、昨日は帰り道だったルートを逆に歩いていく。いくつか階段を上り、下がりしたところで、葉織は一軒の土産物店の側で足を止める。
左側にひっそりある、薄暗い横道を指さす。
「ここは下道っていって、島の人がよく使う裏道なんだ。いちいち階段を上がったり下がったりするよりずっと楽だし、なんでか体感的にもずっと早く、島の外まで出られる気がする」
別に観光客が通っちゃいけないって決まりはないけど、知らない人も多いから。もちろん、知ってる人は帰り道に使ってるだろうけどね。葉織はそう説明する。
観光客が少ない……それを聞いて、羽香奈は昨日のことを思い出す。わたしがお参りしたいって言ったから、葉織くんは神社を通り抜けて家に帰ることにして、下の宮で知らない人に頬を叩かれて……。
葉織が言っていた、家までの近道というのはこの「下道」のことだったのだ。葉織の言う通りにこっちを歩いていたら、昨日、葉織は傷を受けずに済んだかもしれない。
今度から、葉織と自分が一緒に歩く時は、なるべくこの道を歩くように促そう。葉織がそうしたくない時にまで強要する気はないが、少しでも観光客の少ない場所を選べば、昨日みたいな事態が起こる可能性は低くなるはずだから。
薄暗い、木のトンネルのようになった階段を上がるとゆるやかな上り坂で、住民のためのバイク置き場がある。
「葉織ちゃんじゃないか。こんにちは」
白いスクーターに乗った老婆がちょうどそこへ駐輪するところだったらしい。通りがかった葉織に気が付くと声をかけてきた。ハツと違って背筋も曲がっておらず足腰もしっかりした、元気そうなおばあちゃんだ。
「こんにちは、長谷川のおばあちゃん」
「こ……こんにちは」
「おや、この子が波雪ちゃんの言ってた子かねぇ」
「うん。いとこの、羽香奈。昨日からうちの子になったんだ」
「よろしくお願いします……」
「うんうん、波雪ちゃんのちいさい頃にそっくりだねぇ」
おばあちゃんは羽香奈の頭を撫でてくれた。波雪の子供でないのは明らかだから、あえて羽香奈の母については話題を避けたのだろう。
彼女はハツの相談相手で、娘達と孫の関係を何度も涙ながらに語ったため、詳細までは知らずともおぼろげに事情は察していた。あまり羽香奈の事情に触れないよう、話を変えてしまう。
「おばあちゃんとおじいちゃんはお元気かい?」
「元気だよ。ばあちゃんは最近、物忘れがひどくなってきたけど……けっこう大切なことも平気で忘れちゃうけど、ばあちゃんがにこにこしてるからオレもあまり気にしないようにしてる」
「そうかい……せっかくこっち来たんだし、顔見せてもらおうかね」
細い階段に差し掛かる前にもう一度振り返り、手を振ってくれるおばあちゃんにお返しして見送ってから、また歩き出す。
江ノ島の斜面には樹木がたくさん生えていて必ずしも海への眺望のある場所ばかりではないが、駐輪場から歩いてすぐの場所は木々の切れ目があった。
「今日は昨日みたいな青空と青い海じゃなくて、曇っちゃってて白いね。富士山も見えないし、ちょっと残念」
「そうかなぁ。冬場ならいいけど、夏だと晴れすぎてると暑いし。毎日晴れよりこんな日があってもいいと思うなぁ」
そっかぁ……遠方から一日だけ遊びに来る観光客にとっては、その一日が万全の天候であることが望ましいけれど。ここで暮らしている葉織くんにとっては、毎日晴れしかないなんて逆に不自然なんだよね。
昨日来たばかりだから仕方ないとはいえ、自分がまだ「お客様気分」だったことに気が付いて、羽香奈は少しばかり恥じ入った。同時に、昨日が最高のロケーションだったのは葉織が言ってくれたように幸運だったのだと知って嬉しくもなった。龍神様がどうとかはともかく、確かに、この地に歓迎されているように思えた。
点在する神社や観光スポットを眺めながら、島内の道を歩くのも楽しかったけれど。下道は江ノ島の側面に沿うように設けられた道路で、地層に張り付くように歩くのもなかなか見どころが多くて楽しい。
「ここだけ、急に橋になってるね」
「山二つみたいに、ここもちょっとだけ崩れてるから」
「やっぱり……崩れちゃいそうな場所、ところどころあるのかな」
「心配性だな~」
「だってぇ……切実な問題だよぉ」
最悪のケースを想定して考えすぎるのは、羽香奈の思考の癖なのかもしれない。
これまでの人生で羽香奈が得た知識から想像する「島」という場所と、江ノ島という場所は少しイメージが違った。そも、葉織が言った通り「本当は島ではなく実は陸続きである」という意味だけではなく。
島というと、船着場があってそこから上陸するとすぐに平坦な地面があって普通の住宅街があって。要するに人の行動する場所と海とに高低差はそんなにないイメージだった。
ところが江ノ島は、弁天橋を渡って上陸するとすぐに上り坂で、いくつもの階段を上り下りして。低い位置にも仲見世通りや住宅街はあるものの、ずいぶん海から離れた場所を歩いている感覚になる。島そのものが小規模の山のようで、外観も自然豊かな緑で覆い尽くされてて、海の上に森が浮かんでいるように見えた。
かと思えば、地層の大部分がコンクリートで覆われているのはやはり羽香奈が心配するように崩落を防ぐためなのだろうか。そのコンクリートにも葛の葉っぱがツタになって覆い尽くしているため、遠目には全景が緑一色に見えるのだろう。
下道を歩いていると、江ノ島の土台が観察出来てなかなか興味深い。昨日は海の絶景ばかり気になっていたが、今日は地面ばかり見ていることに気付いて、羽香奈は思わずちょっと笑ってしまった。なんで笑ったの? と葉織に訊ねられたので素直にそのことを話すと、
「まだまだ羽香奈が見てない場所、たくさんあるよ。奥津宮から先だって行ってないし」
「そうなんだ? 楽しみ~」
「羽香奈みたいな人だったら、ここでの暮らしも飽きずに長く楽しめるかな」
「葉織くんは飽きちゃったの? 十二年もここにいるから?」
「嫌いじゃないし、オレだってここでの暮らし方は向いてると思うけど。自然以外の娯楽はやっぱり乏しいからね~」
先に成人したり高校に進学した近所の友人達がこぞって都会に行きたがるのも無理はない、自分はそうしないけれど。葉織はそう苦笑する。葉織自身はそのつもりがないということがわかって羽香奈は安心する……けれど。
その理由が、都会には人が多すぎて、不思議な力を持つ葉織にとっては負担が大きい。昨日、教えてくれた通りなのだとしたら、単純に喜ぶのはなんだか申し訳ないとも思う。






