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空の中で暮らす

 山二つを過ぎて階段を降りた先に、潮崎家はあった。

 年季が入って黒ずんだ、木造の平屋建て。




「じいちゃん、ばあちゃん、ただいま。羽香奈を連れてきたよ」


 玄関口は大きなガラス窓の引き戸だった。元は店舗だったというのだからさもありなん。ガラガラと、不愉快なきしみのない、耳に心地よい音を立てて葉織が開けてくれる。




 元はお土産屋さんだったというスペースはがらんとしていた。丸いテーブルとイスが二脚、皮がぼろぼろに剥がれた古い、黒いソファーが置いてある。それらに座ると見やすいであろう位置にテレビがあり、部屋の片隅にはダイヤル式の黒電話。食事は台所のテーブルでとるもののここは居間として扱っていて、家族で集まって寛ぐ場所になっている。




 電気は天井からぶら下がった白熱電球のみで、昼間だというのに少々薄暗い。暗い室内だからこそ、四角い窓と、崖に面した庭への出入り口から覗く青い海と空が際立って見える。




「おかえり葉織、羽香奈ちゃん……ん? 葉織や、まぁたケガして帰ってきたんかねぇ?」


 腰の曲がった老婆が体を震わせながら、歩くのもやっとといった体で出迎えてくれた。葉織の頬の不自然な赤らみにすぐ気が付く。




「せっかく羽香奈ちゃんにはじめましての挨拶をしようっていうのに、おまえが水を差すようなことをしちゃあ駄目じゃないか」


「ごめん……」


「そんな、謝らないでよ。葉織くんが悪いんじゃないんだから。あの、わたしはいいですから、葉織くんの手当てを……」


「ばあちゃんや。とりあえず葉織はわしが診とくから、予定通り羽香奈を部屋へ案内してあげなさい」




 祖母と違って祖父は背筋がぴんとして、身長も高く、白髪と顔のしわさえなければ老人らしく見えないしゃんとした男性だった。表情が険しくて、威圧感があって、ちょっと怖い。羽香奈は少し萎縮してしまう。




「はい、はい、そうですね。羽香奈ちゃん、私についてきてちょうだいね」




 店舗は土間になっていて、住宅に上がるまでに石の段差と上り框を乗り越えなければならなかった。足腰の衰えた祖母にとっては辛そうだ。手助けをしてあげたいと思いつつも、土間は広くても住居スペースの廊下が狭すぎて先に上がるにしても手を貸せるような余分な場所がなく、おろおろしてしまう。




 羽香奈の心配はさておき、祖母は時間がかかりながらも「よっこいしょ」と呟いて、無事に廊下に上がった。羽香奈もサンダルを脱いで後に続く。




 そういえば初めましてと言いながら名乗るのを忘れていたね、ごめんねぇと言いながら、祖母は自分の名前がハツ、祖父の名前が半蔵であると教えてくれた。






 住居の方には台所、風呂トイレの他には祖父母の寝室、葉織と母・波雪が一緒に寝ていた部屋、かつて商品をしまっていた倉庫の三部屋しかなかった。外観からもわかっていたが小さな住宅だ。




 土産物屋をしていたというくらいだし、取扱いの商品数も多かったとうかがえる、段数の多い木製の棚がある。そこに窮屈そうに身を寄せて並んでいるのは、手のひらサイズのたくさんの人形だった。




「これ……木彫りの人形ですか?」


 訊ねずとも葉織が作ったんだろうと想像はつくが、確かめたいこともあって羽香奈はあえてハツに問いかける。




「ああ、これねぇ。葉織が趣味で作るんだよ。材料の木も海で拾い集めてきてね」


 葉織の不思議な力のことを、祖父母はどこまで知っているんだろう。ハツの回答からははっきりとは掴めなかった。






「今日からここが羽香奈ちゃんの部屋だね」


 その部屋には、壁に沿って二段ベッドが、窓際に勉強机が置いてあった。しかし葉織は、今はその机で勉強はしていないらしいと見ただけでわかる。




 波雪の遺影が、海を眺められるように少し斜めがかったような角度で置かれていた。まだ四十九日すら迎えておらず、骨壺も置かれたまま。




 骨壺だけではなく、銀色のアルミ製と思われるスープ皿が写真の手前に置かれていて、中には木屑のようなものが散らばっていた。




 この年代の老夫婦には珍しいように思うが、半蔵とハツは仏壇を用意しない方針らしく、葉織の希望もあって遺影も遺骨もしばらくここに置くことにしたのだと説明を受ける。とりあえず、羽香奈は遺影に向かって手を合わせた。ほんの少ししか会ったことも話したこともないけれど、彼女の優しい言葉がけや気遣い、頭を撫でてくれた手の温かさなどが今でも思い出せる。




「この部屋は葉織の母親と、羽香奈ちゃんの……いや、私達の娘ふたりが子供の頃に使っていた部屋でねぇ。葉織が生まれてからは二段ベッドの下の段で波雪が、上で葉織が寝てるんだよ。ありあわせのもんで悪いんだけど、今日から下の段で寝てもらえんかね?」


「はい、ありがとうございます」




 ハツは羽香奈の母親の名前を出さずに、濁した。その気遣いもありがたく受け取る。




「お下がりばっかしで悪いんだけども、娘達の服が残してあってね。下着は新しく買ってあげるけど、これを着てもらえんかね」


「そんな、悪いなんて。助かります」


 羽香奈は最低限の交通費をポケットに入れてきただけの身一つで生家を追い出された。服だって、今着ているものしか持っていない。




「いつ使うんだろうって思ってたけど、一応、残しておいて良かったんかね……本当、姉妹揃って子供に迷惑をかけてしまって、あんた達には申し訳ないって思っているんだよ」




 葉織も羽香奈も、「実の親にすら紹介できない相手」との間に授かった子供だった。波雪の方は、「事情があって紹介できないし一緒になれない相手だけど、確かに愛し合った人との子供だ」と主張し、葉織に目いっぱいの愛情をかけて育ててきた。


 一方、羽香奈の父親は不貞の関係で、母親は彼女を産んだことそのものを悔やみ、「人生の汚点」呼ばわりをして彼女を虐げてきた……。




 自分にとっても最低な親ではあったが、実の両親からしても絶縁せざるを得ないような娘であった。その事情も波雪を介してすでに聞いている羽香奈は、寂しそうなハツの顔にやりきれない思いを抱いていた。






「葉織くん……何をしてるの?」


 ひと通り、家の中を見せてもらった後で庭へ出させてもらった羽香奈は、そこに葉織がいるのを見つけた。




 屋外用の小さな鉄製の丸テーブルの上にガスコンロを置いて、金物の銀色の鍋に湯を沸かしているところだった。


 ちょうど沸騰したばかりで準備が整ったところでもあり、葉織はそこに、先刻砂浜で拾い集めていた小さな流木をひとつずつ投げ入れていく。




「流木って拾ってきたまんま使っちゃダメなんだ。こうやってお湯でアク抜きして、真水に二日くらい浸けて、よく乾かして……。それでやっと使えるようになる」




 アク抜きするにしても、重曹を使えばもっと楽だし。そもそも拾った流木ではなく木材を買ってきた方が手っ取り早い。しかし……。




「いくら必要なことでも、毎回お金がかかるってなると続けられないから……なるべくタダでなんとかなるもの、使わせてもらうしかないんだよね」






 自分の体だけではなく、それに伴う労力まで。あんまりにも葉織の負担が大きすぎる気がして、羽香奈は何と言ってあげたらいいのかわからなかった。


 葉織のことが気になって、せっかく庭に出たというのに何も見ていなかったことを思い出す。




 庭はそれほど広くはなく、物干し台と葉織の使っているテーブルと物置が置かれているだけですでに手狭だ。転落防止の柵も一応ついてはいるが山二つの展望台のような立派な作りではなく、あくまで家庭用レベルのところどころ腐って朽ちた木の柵でしかない。危ないからあんまり崖の淵まで近付いちゃダメだよ、と葉織が注意してくれる。




「葉織くんって、生まれた時……赤ちゃんの頃からこの家で暮らしていたの?」


「そうらしいよ。さすがに赤ちゃんの頃のこと覚えてないけど」


「すごいなぁ~……」




 眼前に広がる湘南の海。日本一の富士山ですら、ここから眺めると小さく見えて、浮かんでいる船みたい。




正面には藤沢市、向かって右側に鎌倉市、同じく左に茅ヶ崎市が見える。街並みの向こう側にも広い世界が続いていること。湾曲した相模湾のラインから、世界が丸い……球の形をしていることが強く実感できる眺めだ。




 毎日毎日、こんな景色を見て暮らしている人達がいるなんて、羽香奈は知らなかった。カチカチに固まった灰色の地面に足を着けて、四角い建物に遮られた小さな空を見上げて。誰からも求められなくて、「生きている」ってなんてつまらないんだろうってことばかり考えてきた。




「まるで、空の中に住んでいるみたい。わたし、こんな風景が同じ日本にあるなんて知らなかった」


「羽香奈だって、オレの知らない場所を知ってるじゃないか」


「知らないよ、ぜーんぜん。だって、今日までの私はきっと、生きてすらいなかったから……」




 生まれ育った家も、街も、学校も。思い出そうとしても何ひとつ、具体的な風景が思い出せない。


 今朝、品川駅から電車に乗った時点ではまだ、記憶していたのだろうけれど。風の強い日、巻き上げられて空に消えていく砂埃のように散り散りになって消えてしまったようだ。




「わたしね。生まれてから今までで、今日がいちばん楽しくて、幸せな一日だった。葉織くんに会って、ほんの短い時間一緒に歩いたってだけで。生まれて初めて、『おかえり』って迎えてくれる家に帰ってこれたっていう、たったそれだけのことで……」




 葉織にとってはきっと何でもない一日だっただろう。大げさとか、気持ちが重すぎるって、呆れるだろうな。わかっていたから、こんな気持ちを口にするのも羽香奈は躊躇ったのだけど。




「そういうことなら……昨日までの全部、忘れたらいいよ。『潮崎羽香奈』になるまでの何もかも、なかったことにして」


 今度は同情的な眼差しですらなく、ごくごく当たり前のように、そう言ってくれた。羽香奈の一番欲しかった言葉をくれて、気持ちを慮ってくれて。




 今までの暮らしの全てを忘れたい。なかったことにしたい。




 「羽香奈」というひとりの人は今日、葉織と初めて会ったあの時に生まれたことにしたい。そんな図々しい願望を否定しない。




「お母さんが事故に遭う前、最後に話した夜にさ。言われたんだ。羽香奈は今まできっと寂しかっただろうから、大人になるまでオレがそばにいてあげるんだよ、って」




「大人になるまで?」




「オレ達、きょうだいになったんだから。いつか羽香奈に好きな人が出来て、家を出る日が来るかもしれないから、それまでってことだと思う」




 まさかこんな急にお別れになるなんて思わなかったから、ちゃんと聞けなかったんだよ。葉織は無念そうに溢すが、羽香奈は別の意味で残念だった。きょうだいになってしまうっていうのは、大人になったらそれぞれ別の家庭を持って、お別れしなきゃいけないってことなんだ。




 いつまでもこの家で、葉織くんと一緒にいられたらいいのに。まだ、半日ほどしか一緒にいないというのに、羽香奈は確信していた。このわたしに、葉織くん以上に好きになれる人なんているのかしら。あまりにも短絡的な思考ではあるが、実際、その直感は将来に渡って外れてはいなかった。




「だから、大人になるまで羽香奈はオレが守るよ。お母さんとの約束だから」




 まっすぐ羽香奈を見つめてそう宣言する葉織の眼差しはいたって誠実で。羽香奈もはっきり自覚した。




 家族としての愛情なのか、それとも同い年の少年に対しての恋心か。


 どちらにしても自分は、彼のことが心から好きだなぁ、と。


 だからこそ、「大人になるまで」という期限付きの約束が、ただ嬉しいというだけでなくどこかせつなさを感じずにはいられなかった。








 潮崎の家が建っているのは江ノ島神社本宮と目の鼻の先。ほんの少し歩いて右に折れればすぐそこに奥津宮がある。なるほど、本宮にお参りすればいいと思うという葉織の意見はもっともだったと羽香奈は納得した。こんなに身近な存在なのだから、この家で育った葉織が親しみを覚えるのは自然だろう。




 羽香奈が早起きして、短いながらも旅の疲れを感じているだろうからと、葉織は夕方になるまで家で休んであらためてお参りに出かけようと提案した。反対する理由もないので羽香奈も素直に甘えさせてもらうことにして、二段ベッドの下の段でひと眠りすることにした。




 二段ベッドは枕を置く側に物を置く戸棚が設置されているタイプのもので、羽香奈は眠る前、そこに葉織が作ってくれた人形を飾ってみた。身ひとつで家を出た羽香奈にとって、今はたったひとつの私物。新しい自分になって初めて手に入れたもの。自分自身が泣いている姿なんていう風変わりな贈り物ではあるが、それを眺めているとただただ嬉しくて、羽香奈は心地よい眠りに落ちていった。






 江ノ島に足を踏み入れて最初に見た鳥居は青銅で、海の色をしていた。次に見た鳥居は鮮やかな朱色。


 そして三つ目の鳥居は石造りで、ある意味最もシンプルで素朴な、自然の色をしていると羽香奈は思った。


 実際、本宮の周囲は木々に囲まれて森の中にある。蝉しぐれはあまりにも濃く、鼓膜を直接に叩かれるかのようだった。




 葉織が鳥居の前でぺこりと頭を下げるのでそれを真似して後に続くと、右手側にお手水がある。鳥居の前で一礼するくらいは羽香奈も知っているが、お手水の作法など全く知らない。葉織にいちから教えてもらう。


「羽香奈、家からハンカチって持たせてもらって来てる?」

「……持ってきてないの」


 さすがに羽香奈も、ハンカチくらいは自分のものを与えられていたのだけど。申し訳ないけれど、あの家からは何ひとつ持ちだしたくなかったからあえて持たずに出てきたのだ。


 あくまで自分の意思でしたことなので理由までは後ろめたくて言えなかったけれど、そうだと思った、と葉織は白いハンカチを渡してくれた。これも波雪が使っていたものだというのでありがたく使わせてもらうことにする。



 お手水の前でも軽く一礼してから右手で柄杓を持ち、葉織は左手に水をかける。清めた左手にひしゃくを持ち変えて右手を洗う。再度、右手に持ち直して左手に水をためて、口をすすぐ。左手を洗い直して柄杓を元々あった位置に立てかける。


 羽香奈は葉織に手本をそのまま真似て、生まれて初めての手水を終えた。



「葉織くん、こんなこと、よく知ってるね」


 小学校の課外授業で神社に行った時、こんなことをしている同級生はまるでいなかった。教師だっていちいちそれを教えたりはしなかったのを思い出す。




「こんな場所にじいちゃんばあちゃんと住んでたら、そりゃあね……オレだって毎回ここまではしてないよ。人に見られてなかったら一礼だけして素通りしてるもん」


 先ほど話していたように、稚児が淵で近所の友達と遊ぶためにここを通る時、毎回いちいちお参りしたりはしない。特別に信仰に厚いわけでもない小学生なんてそんなものだ。




「でも、今日は羽香奈が初めて江ノ島神社でお参りするんだから、ちゃんとしておかなきゃダメかなと思って」


 自分のためじゃなく、誰かのためだから、不足があって悪いことに繋がったら申し訳ない。葉織は本当に優しい男の子だなぁ、と羽香奈は感心する。


 正式な拝礼の仕方も当然知らない羽香奈なので、葉織が先にお参りする姿を斜め後ろから見せてもらうことにした。お賽銭箱の前に立ち、二回、深く頭を下げる。両手を合わせ、拍手を二回。お賽銭を投じて胸の前で手を合わせてお祈りをして、両手を下ろしてから最後にもう一度深くお辞儀をした。




「どんなお願いをしたの?」


「羽香奈がうちでの暮らしを気に入ってくれますように、って」


 それ、お願いなんてしなくてももう叶ってると思うけどね。せっかくのお祈りに水を差したくないので口にはしなかった。



「羽香奈は何をお祈りした?」


 彼女の方からだって訊いたのだから、葉織は当然同じことを訊いてくる。



「んーとね。神社でお願いしたことって、人に言ったら叶わなくなるっていうから、ないしょ」


「え~……オレ、さっき言っちゃったじゃん……」


「ごめんね~」




 本当はね、言ったら叶わなくなるなんてわたしだって信じてないんだよ。




 葉織くんとずっと一緒にいられますように、ってお願いしただけだから、恥ずかしくて言えないだけなんだよ。

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