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誰からも認められない人形師

 江ノ島には三つのお宮がある。階段を上がった先とはいえ、そこはまだ参拝ルートの最下層、下の宮(辺津宮)。そこまで詳しくない羽香奈は、真正面に見えた辺津宮にさっそくお参りしようとしたのだが。




 賽銭箱の前にいた、中年の男女の姿を目にした葉織が急にぎくりと足を止め、顔色を変えた。羽香奈も長年の経験で人の顔色をうかがうのが癖になっていて、すぐに気が付く。




 どうしたんだろうと思う間もなく、理由も即座に察する。件の男女は、賽銭箱の前で言い争いをしているのだ。男の方が一方的に怒鳴りつけるのを、女はただ黙って耐えている。




 境内には他に数組の参拝者の姿が見えるが、賽銭箱に近付けず、迷惑そうな目で遠巻きに彼らを見ている。




「このっ……」




 ついに男は、右手を振りかざして女性のいずこかを平手で叩こうとした。そうなるより以前から、すでに葉織は持っていたバケツを放り投げ、駆け出していた。ブリキのバケツが地面に落ちて、中に入っていた小さな流木がぶつかって立てる音が響く。




「葉織くんっ!」


 男女の間に割って入った葉織の左頬に、男のふるった手のひらが命中して、吹き飛ばされる。




 その身に暴力を受けなかったものの、倒れ込む葉織の体重を受けた女は彼と共に倒れ込み、尻餅をついた。




「なっ……なんてことをするんですか、あなたっ。こんな、子供に手を上げるなんて」


 自分の身に受けるなら堪えられたのだろうが、女は見ず知らずの子供を巻き込み、傷付けたことにショックを受けたらしい。言葉ではそう言いながらも葉織への気遣いもままならず、顔を手で覆って涙をこぼす。




「うっ……うるさいっ。その子供が勝手に入ってきたんじゃないかっ」


 羽香奈は葉織に駆け寄って膝を着き、頬の状態を確認する。薄ら赤く腫れているが、傷はなさそうだ。




 咎めるつもりで男を睨みあげ、口を開こうとしたところで。




「……いい、オレが勝手に、したことだから」




 左の手のひらを男に向かって見せつけて動きを制しながら、立ち上がる。


 葉織の右腕は何かを抱えるような、不自然な空白を感じる体勢になっている。羽香奈はもしかして、と思う。




「行こう、羽香奈。騒ぎになる前に」


「でも……」




 すでに、現場を目撃したらしい人が社務所に向かっているのを葉織は見ていた。放り捨てたバケツのことはすっかり忘れていたが、遠巻きにしていた内のひとりが散らばった流木をそこにおさめてくれていたところだった。




 遠慮がちに近づいてきたその人からバケツを受け取り、軽く頭を下げてから、葉織は羽香奈の手を引いて走り出した。




 賽銭箱も弁財天(奉安殿)も八坂神社も参拝せず通り抜け、階段を駆け下りていく。




 そんなに遠くまで逃げて身を隠さずとも、追われたりはしないだろう。そう判断した葉織はとりあえず、そう離れていない中津宮の階段下に腰を下ろす。葉織はさほどでもないが、羽香奈はすっかり息が上がっていた。




「はっ……織、くんっ。だいじょ、ぶ、なの?」




 葉織はとりあえず、持っていたバケツを傍らに置いて、ポケットに右手を突っ込む。




 しばらくは、左手の空白をじっと見つめていた。そこへぽいっと木片をいくつか投げ込む。先ほど、羽香奈の人形を作った時と同じように……先ほどの男の人形が形作られた。




 男は跪いて、祈るような姿勢で、胸を押さえている。そんな人形が出来上がった。




「あの人……心臓が悪いんだって。あと何か月かで死んじゃうってお医者さんに言われてて。奥さんに当たっても仕方ないってわかっていても、辛くて、酷いこと言っちゃうんだって……」




「葉織くん……もしかして、いつもこんなことをしているの? 見ず知らずの人のもやもやを解消して」




 羽香奈の心の靄を人形に変えて、心を楽にしてくれたように。時にはこんな風に、トラブルに巻き込まれてきたのだろうか。




「江ノ島って観光地で外から人がたくさん来るし。神社で願い事をする人の中には、さっきの人みたいな深刻な悩みの人もよくいるから……」


「今日みたいに危ないことだってよくあるの? いくら人が助かるんだとしても、葉織くんが傷ついてまでしなくちゃいけないの?」




 いつまでも階段に座っているのも迷惑だろうという判断か、葉織は立ち上がった。歩きながら話してもいい? と言うので頷く。




 目の前の階段を上がりきると、そこは「上の宮」(中津宮)。豊かな樹木を背景に、朱色の塗りが鮮やかなお宮だ。




 葉織が一礼するだけで通り過ぎるので、お参りはいいのかと訊ねると、


「次のお宮の方がオレ達の家に近いし、じいちゃんもあっちが本宮さんだって言ってたから。そっちでお参りすればいいかと思って」




 大事な話の途中だというのに、葉織がさりげなく「オレ達の家」と言ってくれたのが、羽香奈は少し嬉しかった。もう、あっちの家はわたしの家じゃない。もう二度と帰らなくていいんだって、実感を得られたから。






「江ノ島の一番奥まで歩いていくと、稚児が淵っていう岩場がある。小さい頃、近所のお兄ちゃんと一緒によく遊びに行ったんだ」






 四年前。葉織は小学二年生で、お兄ちゃんは今の葉織と同じ、六年生だった。




 稚児が淵には江ノ島の最奥、「岩屋」がある。江ノ島神社発祥の地と伝えられ、自然の洞窟とはいえ江ノ島神社の本宮である。




 この当時は落石の危険性のため数十年に渡って閉鎖されていた。しかし、岩屋に繋がる橋の通路は歩くことが出来た。




 お兄ちゃんは釣りが趣味で、夏休みともなると毎日のように、稚児が淵で釣りをする。葉織はそれについていって、周囲をうろついて魚を探したり岩と岩の間にたまった海水の水たまりを観察したりして楽しんでいた。




 葉織は岩屋へ繋がる通路に、毎日同じ少年が佇んで海を眺めているのに気が付いた。少年には黒く禍々しいもやもやがつきまとっていた。




 そういう靄を発している人は、心に何らかの負担を抱えている。幼い葉織は現在ほどその法則性を把握していなかったが、それだけはなんとなくわかっていた。




 そうだとしても見知らぬ人に接触するのは怖くて、嫌な予感を覚えながらも数日間、そのまま様子をうかがっていた。




「ねえ、お兄ちゃん。あそこの人、毎日同じ場所に立っているよね」


 ある日、葉織は思い切って、お兄ちゃんにそう話した。精いっぱいの勇気を振り絞って。




「んー? あいつ、同じクラスのはっしーだ」


 橋本君、あだ名がはっしー。なんでこんなところにいるんだろう、訊いてくるからここで待ってて。葉織にそう言いおいて、お兄ちゃんは彼のところへ向かった。岩場に残った葉織は彼を見上げて待っていた。




 すると、彼はおもむろに手すりを乗り越えようとした。まさにジャストタイミングでお兄ちゃんが彼のところへ辿り着き、彼の体を引っ張って通路に戻して事なきを得た。






「間に合ったから良かったけど、オレがあとちょっとでも先延ばしにしていたら、お兄ちゃんの友達が死ぬかもしれなかったんだ」




 彼がそのような行動をとった具体的な理由までは、葉織は今でも知らない。けれどお兄ちゃんが言うには、その後、周囲の人の適切な対応によって元気を取り戻したという。




 お兄ちゃんは高校生になって部活動に忙しくなって、あの頃みたいには一緒に行動しなくなった。葉織はひとり、江ノ島を歩いて、悩みの深そうな靄を見つける度にこっそり近づいて、人目につかないところで人形に変えて処理していた。気性の荒い相手とトラブルになったことも数えきれないくらいだった。




 これまでは小学生だったから、見知らぬ人に近付いたところで「子供だから」と見逃してもらえた場面も多い。年齢を重ねるにつれ、今までのような活動を人知れず続けていくのは困難になっていくだろう。




「葉織くんにしか出来ないことだから、っていうのはわかるけど……いつまで続けられるの?」




「わからない……同じやり方を続けたら、もっと大きくなったら不審者とかで通報されても仕方ないよな……」


 相手が若い女の子だったりしたら、痴漢とか。ただでさえ葉織が受ける必要のない暴力を目の当たりにしたばかりだ。この上に精神的な痛み、他者を思いやっての行動を偏見の目で見られてしまうのは、羽香奈にとっても耐え難い。




 けれど、葉織の口ぶりは辞めることは毛頭考えていないことがうかがえる。葉織は途方に暮れたような顔だが、羽香奈も同じ気持ちだった。




 何とかしなきゃ……葉織くんが辞めるにしても、続けるにしても。葉織くんがすっきり納得できるようなやり方を、わたしも考えなくちゃ。そう、密やかに誓っていた。








 さっきまであんなにわくわくしていたのに、お参りだって楽しみにしていたのに。羽香奈はすっかり意気消沈していた。




 葉織自信は平然としている……それもなんだか信じられない、見ず知らずの大人に頬を叩かれてどうして平気でいられるんだろう……なんでもないように歩き続け、道案内をしてくれている。




「ここは熱帯植物園。青い塔みたいのが建ってるけど、あれは昔は灯台だったんだって。今は灯台としては動いてない。入場料かかるしオレもあんまり入ったことないけど、ばあちゃんが夏休み中に羽香奈を案内してあげなって昨日言ってたよ。お金出してくれるって」


「えっ……いいの?」


「せっかく夏休みでしばらく学校行かなくて時間あるし、江ノ島に慣れた方がいいと思うし。いいんじゃないかな。オレも久しぶりに中が見られるの楽しみかも」




 せっかくご近所に住んでいるというのに、近くにありすぎると意外と中に入る機会というか、タイミングがないものなのだろうか。




 なんだかなぁ。さっきまで葉織くんのことを心配していたっていうのに、自分も現金かもしれない。ほんのり自己嫌悪を抱きながらも、羽香奈は江ノ島という、自分にとっての新世界を歩く楽しさを取り戻してきた。




 いくつもの階段を上がったり下がったりしながら、細い道を歩く。夏休みとはいえ平日だからか、通り過ぎる人の姿はまばらだ。羽香奈の印象に過ぎないし実際は違うのかもしれないが、立ち並ぶのは住宅よりもお店、あるいは店舗兼住宅に見えるものが多い。




「島全体に大きな商店街が続いているみたい……」


「うちもじいちゃんとばあちゃんがちょっと前までお土産屋さんやってたんだよ。年金貰えるようになったからっていうんで辞めちゃったけどね」


「元はお店だったお家に住めるんだぁ……」


「羽香奈って何にでも感動するなぁ」


 別にからかっている風でもなく、葉織はただただ疑問らしく、首を傾げている。




 葉織くんはどこまで知っているか、わたしにはわからないけれど。それだけわたしは今までに、何ひとつ持たずに生きてきたってことなんだよ。葉織くんにとってはささやかなものなのだとしても、わたしにとってはひとつひとつがあんまりにも大きくて、抱えきれないくらいだよ……。




 この江ノ島にしたって、そうだ。橋の向こうの藤沢の町よりも、羽香奈が生まれ育った東京よりも、江ノ島はうんと小さい。それなのに、「生まれて初めて、本当の意味で生きようとしている」羽香奈にとっては広い世界に思えた。




 島内を道に沿って歩いていると、豊富な樹木に遮られて意外と海が望める場所が少ない。そんな中でふいに、崖によって開けた場所に差し掛かった。


「崖? 急に?」


 唐突に思えた羽香奈は足を止める。まるで島に裂け目が出来てしまったみたいにぱっくり割れている。とても人の身で降りられるようには見えない急こう配。


 しかし、眺望は抜群で、海がよく見える。観光地で眺めが良いのだから当然のように、展望台としてきちんと整えられている。羽香奈も手すりにつかまって下と、前方の海を交互に堪能する。




「山二つっていうんだ。海の波にだんだん削られてって、崩落しちゃったんだって」


「崩落……江ノ島の他の場所って大丈夫なのかな」


「さぁ……あんまり考えたことなかったけど。そう言われるとうちも大丈夫かなって気がしてきた。崖の上に建ってるし、ボロいし」




 せっかく受け入れてくれることになった家がなくなったら残念すぎる。どうか崩れませんように、と羽香奈も祈った。あ、あとでお参りする本宮さんってところで、ご挨拶のついでにそれもお願いしよう。そう決めた。

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