誕生日プレゼント
江ノ島島内で暮らしているのだから、仲見世通りにいくつかある旅館に泊まる機会はないだろうとふたりは思っていたのだが。
「岩本楼のローマ風呂と洞窟風呂は有名だから、一度でいいから入って見てみたいなぁ……」
ふたりの店にも置かせてもらっている、観光協会発行の江ノ島のパンフレットを眺めていた羽香奈がぽつりと呟く。
「もうじき羽香奈の誕生日だから、一泊で泊まってみようか」
彼女の誕生日は七月三十一日……ふたりが初めて出会った日、ということになった。羽香奈自身の希望によって。本当の誕生日がいつなのかはふたりとも未だに調べていない。今となっては良い意味で、「使いどころ」がなくなったから。
歩いて十分もしない場所にお金を払って泊まるのもなんだか申し訳ないなぁと羽香奈は言うが、せっかくの葉織からの贈り物だし、たまの贅沢が許されないほど困窮もしていないので実行することにした。
チェックインは午後三時。二〇六号室に案内される。座卓にはお着き菓子と急須、ポッドが置かれている。
「普通はここまでの旅の疲れを癒すためのお茶とお菓子って感じなんだろうけど……」
「俺達、まだぜんっぜん疲れてないもんね~」
ふたりだけの部屋で、揃ってくすくす笑ってしまった。せっかくなのですぐにいただくことにする。
「西浦漁港も下道からいつも見てるけど、旅館の窓から見るとなんだか雰囲気違う気がするね」
西浦漁港とは仲見世通りから、岩本楼真横の小道を抜けて行く、とても小さな港だ。防波堤は釣りスポットで、いつ見ても誰かしら釣り人の姿を見かける。
「なんだかんだ、泊まってみないと全く同じ角度からは見られないだろうからね」
今日は晴れているが夏場らしい入道雲が邪魔をして、富士山が見えなかった。見えていたら文句なし、満点の景色だったのだろうが、自宅の庭からだって見える時には見ているのだからそこまで求める気はしない。
小一時間ほど寛いでから、ふたりは併設のプールで泳ぐことにした。
子供の頃から一緒に暮らしていたせいか、旅行はおろか、若者がするようなありふれた楽しげなデートをした記憶もない。童心に返るというか、何とも言い難い楽しさがあった。
プールの淵にふたりで肘をついて、生暖かい水の中を漂いながら、目前の西浦漁港と相模湾を眺めるだけの贅沢な時間を過ごす。もっと若い頃にちゃんと遊んでおけば良かったね、なんて話し合うのもまさに至福のひとときだった。
プールの後は入浴だ。その時間は男性が洞窟風呂、女性がローマ風呂の時間だった。のれんのところで別れて、それぞれ中に入る。
先に体を綺麗に流すため、葉織は洞窟風呂の洗い場へ向かったのだが。
「うわぁ……」
奥の方に積まれた木製の風呂椅子と洗面器を取るためそちらへ行くと、細く小さい鳥居が十基以上? 連なって、最奥に弁天様の像が鎮座している。洞窟風呂自体が窓も一切なく薄暗い、通路も狭い。そんな中で、女性の神様である弁天様に見守られて全裸で体を洗う……どことない不気味さがある。
そそくさと体を洗って湯船に浸かるが、葉織は心置きなく楽しめたかというと、ちょっと微妙だった。
浴場の近くには岩本院資料室という、江ノ島の歴史に触れられる展示室がある。先に出た方がそちらで待っているという約束だったので、葉織は資料を眺めながら待っていた。
「お待たせしました!」
「どうだった? ローマ風呂」
「イメージしていたより小ぢんまりとしてたけど、綺麗だったよ。葉織くんは?」
「洞窟風呂……なんか怖かった」
「そうなの? どんな感じか楽しみ!」
夕食は部屋に運んでもらえる。日頃、小さな台所の小さなテーブルで食事をしているふたりなので、広い座卓いっぱいに次から次へと運ばれてくる海鮮料理はあまりに豪華だった。足を伸ばして、時間も食後の片付けも気にせず味わえるのも最高だ。
自分達も片瀬漁港から食材を買っているのだが、同じ仕入でも旅館でプロの料理人が作っているとなると趣が全く違うというのも興味深かった。
ひとつひとつは小皿料理の集合だと言うのに、全て食べ終わる頃にはお腹が膨れるほどのボリュームで苦しいくらいだった。当然ながら自宅で見るのと全く変わらないテレビ番組を眺めてしばらく食休みをしてから、二度目の入浴に出かけた。入れ替え制なので、今日中にもう一度行っておかないと葉織はローマ風呂を、羽香奈は洞窟風呂を体験出来ないから。
文化財に指定された風呂や部屋出しの豪華な料理が目当てでの宿泊だったのだが、
「あ~……天井が高い! 足伸ばして眠れる!」
葉織は部屋の広さに思いがけず感動を覚えていた。様々な思い出も現在の暮らしも支えてくれる愛すべき我が家ではあるが、いかんせん小振りに過ぎる。しかも、子供の頃から変わらず二段ベッドで寝ている。大部屋ではなくごく標準的な部屋に泊まっているというのに、葉織にとっては大広間のように思えた。
「ほんとだね~。ふかふかのお布団で寝るのって気持ちいい」
「……前から考えてたんだけどさ。これから一生二段ベッドで寝るっていうのもなんだし。俺達もこれからはじいちゃん達が使ってた部屋で寝ようか」
「え……ふたりで、一緒に?」
「うん……羽香奈が嫌じゃなかったら」
半蔵とハツはふたり用の布団で一緒に寝ていた。二段ベッドよりはマシだろうが、旅館に比べたらそれでも窮屈なことに変わりはないが。
「嫌なわけないよ。嬉しい……」
布団は二枚敷かれていたが、羽香奈はもぞもぞと動いて、葉織の布団に入り込んだ。葉織も拒まず、やって来た羽香奈を優しく抱き寄せる。
「ありがとう。こんなに嬉しい誕生日プレゼント、他にない……」
「来年からのハードル上がっちゃったなぁ」
「そんなことないよ。誕生日に葉織くんと一緒にいられるだけで、他に何もいらないもん」
それが羽香奈の偽りない本心であるとわかっているけど、祝う側としてはそうもいかないんだよなぁと葉織は胸中でぼやく。まぁいいか、来年のことなんか今は考えないで、目の前の温かな幸せを堪能しようと思った。




