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天女と龍

 半蔵も帰ってきたのでハツを任せて、葉織は自室に戻った。勉強机の椅子に座りこんで、波雪の遺影と窓の外の海を眺めて考えに耽る。自分と羽香奈の、未来のことを。


 お母さん、言ってたっけ。大人になるまでは、オレが羽香奈のそばにいてあげるんだよって……。大人になったら、オレは羽香奈と一緒にいちゃいけないのかな。



 大人になったら恋人として好きな異性と出会って、家族を作って、子供を産んで。それが「普通の幸せ」だから?


 でも、お母さんだって、「普通の幸せ」を選ばなかったじゃないか……。考えていたら、ふと、懐かしい話を思い出した。




 あれは十歳、小学四年生の父親参観の前日のことだった。


「ねえ、お母さん。どうしてオレには、お父さんがいないの?」


 定番中の定番、「僕のお父さん」という題で作文を書かなければならなかった。何を書けばいいかわからなくて、波雪に訊ねたのだ。



 波雪はちょっと照れくさそうに、「ついに訊かれちゃったかぁ」と呟きつつ、鼻の頭をぽりぽりと掻いていた。まだ少年の葉織にはその時点では気付きようもないが、いわゆる「若気の至り」について語らなければならない日を迎えた。葉織の成長が嬉しくもあり寂しくもある、奇妙な心地でいたのだ。



「話せば長くなるけれど、最後まで聞いてくれる? まるでおとぎ話みたいで現実味がないって思っちゃうかもしれないけれど」


「うん。聞きたい」


 なんとなく、今ここで聞くのを止めたら、波雪が一生話してくれないような気がした。多少なら非現実的な話だとしても、自分は信じるだろうという確信もあった。だって、自分の不思議な能力だってじゅうぶん非現実的だし、それをお母さんも信じてくれたじゃないか。



「実はねぇ。お母さん、若い頃ヤンキーだったの」


「ヤンキー? 不良?」


「そう。クラスの悪い男子達とつるんで、悪いこともしちゃうの、色々と」


 今でこそ、妹は両親と絶縁するような素行になってしまったが、思春期は逆の立場だった。妹は大人しくて、波雪は不良。何度も補導されて親を泣かせた。少年院に入れられる瀬戸際をチキンレースしているような日々だった。



 そんなある日。クラスの男子がひとり、不良仲間と海岸で駄弁っていた波雪のもとへわざわざ足を運んでやって来た。



「潮崎さん! こんな奴らと一緒になって悪いことしてちゃいけないよ! 潮崎さんだけじゃない、君達だって悪いことはやめるんだ!」



 唐突過ぎて、その場にいた全員、ぽかーんとしてしまった。それもほんの数秒のことで、喧嘩を売られたと解釈した仲間の男達は彼を囲んでぼこぼこに殴りだした。


 顔が腫れあがって表情もよく見えなくなってしまった頃になってようやく、波雪は彼を気の毒に思って。暴行を止めさせて、彼を病院へ連れて行った。



 名前すら忘れていたそのクラスメイトは、葉月 龍人(はづき りゅうと)という。病院で受付をしている時にようやくそれを知った。



 それからも自分と不良仲間の元へ龍人は幾度と現れて、更生を促そうとする。最初の一回以外は殴り合いにはならなかったが、その度に龍人を連れて仲間の元を離れるのは面倒に思えた。いつしか波雪も仲間とつるむのをやめて、龍人と過ごす時間が増えていった。彼の側は居心地が良いと感じるようになっていった。




 どちらからも愛の告白などなかったというのに、まるで恋人同士のような気分で、ふたりは日々を重ねていった。ある時、波雪はほんの気まぐれで彼に自分の気持ちを伝えてみた。あなたが好きよ、結婚しない? と、ごくごく軽い調子で。


 こんなにも仲睦まじい日々を過ごしたのだから、断られるなんて塵ほども考えていなかった。ところが龍人はなんとも残念そうな顔だった。彼女自身には見えないが、葉織に父親について訊ねられた時。「ああ、ついにこの時が来てしまったか」というあの顔と、そっくり同じ。




「実はですね、波雪さん。僕は……」


 そこで龍人の語った彼の秘密は、それこそおとぎ話めいていた。



 自分は条件付きでこの世界にいられる身で、愛する人を更生させたら元の世界に帰らなければならない。



「僕は波雪さんを愛しています。だからこそ、もうあなたの側にはいられません。元の世界へ帰されてしまうのです」


「そんな……なんとかならないの?」


「なりません。この約束は僕という存在そのものの在る意味で、絶対的なものですから」


「あんたと離れなければならないっていうなら、更生なんかするんじゃなかった。ずっと悪い女のままでいれば良かったよ」


「そんなこと言わないでくださいよ。僕は最初に出会ったあなたより、今のあなたの方がず~っと好きですよ?」


「ぐぬぬぅ」


 卵が先か鶏が先か。更生していなければそもそも彼との愛はなかったのなら、どうしようもないじゃないか。




「その人がオレのお父さんなの? いなくなっちゃったの?」


「そう。どうしてもいなくなっちゃうっていうならせめて、子供だけでも残してくれないかって頼んだの。お母さんからね」


 龍人は、生まれた子供が片親になってしまうとわかっていて無責任は出来ないと、最初は断っていたのだが。



「わかりました、波雪さん。たった一度だけ、試しましょう。その一度だけで授かることが出来たのなら、きっと神様がお許しくださったのでしょう。でも、もし授かっても、その子を僕の代わりにはしないでください」



 その子を「僕の残した子供」ではなく、波雪さん自身のたったひとりの宝として愛し、育てると約束してください……。




 波雪のお腹に無事に宝が宿ったのを報告したくても、彼はすでにこの世のどこにも見つけられなかった。


 母校の元クラスメイト達に訊ねて回っても、誰ひとりとして「葉月龍人」という生徒が在籍したことを知らなかった。波雪以外の誰にも、彼の存在は記憶に残っていなかった。卒業アルバムという記録の中にすら……。




「と、いうわけなのよ。父親のいない人生になるってわかってて生んで、葉織には寂しい思いをさせてしまったよね。それでもお母さんは、どうしても、あの人が良かったの。一生一緒にいてくれて、子供を一緒に育ててくれる普通の人と家庭を築く。彼を諦めてそういう、普通の幸せを求める道だってあったかもしれないけれど……」



「ううん。オレ、お母さんがいれば寂しくないし。そもそもその不思議なお父さんを選んでくれなかったら、オレは生まれてなかったんでしょ」


「そうだね。他の人を選んで子供が生まれても、その子は『葉織』じゃない」


 波雪は葉織をぎゅっと抱きしめて、微笑んだ。



「お母さん、葉織がいてくれて幸せよ。あの人と一緒にいた時だって、今ほどには幸せじゃなかったかもしれない。今がい~っちばん幸せだわ」


 一生一緒にいてくれる普通の人を選んで、ありふれた人生を選ばなくたって、幸せにはなれる。あの人を選んで本当に良かったって、今は心からそう思うよ……。





「そうだよ……お母さんだって、教えてくれてたじゃないか」



 普通の男女としての恋愛をして、普通の家庭を持つことを選ばなくたって、幸せにはなれる。自分と羽香奈がそれで幸せなら、「普通じゃない」かなんて、気にすることはないのだと。

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