初めての江ノ島へ
「信じてくれるかわかんないけど……オレ、人の心がもやもや~っとした形で見えるんだ。その靄とは言葉でもやり取りできる。話を全部聞いてあげてから人形のかたちに変えてあげるとその人はすっきりするみたいで……」
「……うん。不思議な力、だね」
「信じてくれるんだ。家族以外で信じてくれる人、今まで誰もいなかった」
「だって。実際、わたしもなんだかすっきりしたもん……」
あらためて、もう一度。葉織の作ってくれた人形を見る。
あの人達の前で泣いても何の意味もない、むしろ喜ばせるだけだと気付いて以来、羽香奈は一度だって泣かなかった。表面上は。でも心の中ではこんな風に泣き続けていて、その事実から羽香奈自身も目を背けてきたのだ。
自分自身すら見捨ててしまったわたしを、葉織くんは見てくれた。見つけてくれたんだ。
「羽香奈の靄は今まで見た誰よりまっくらで、羽香奈自身の体よりも大きくて背中から覆いかぶさるみたいにしていてびっくりした……」
「その人によって大きさとか色とか、違うってこと?」
「気持ちが落ち込んでいればいるほど暗い色をしているし、その気持ちが強ければ強い程靄も大きくなる」
「ますます不思議……」
「そろそろ行こっか。午後になったら今より陽射しがきつくなる」
葉織は先に立ち上がり、砂の上に置いていたブリキのバケツを手に取る。流木にかすかに付着していた砂が気になるのか、軽く自分の尻をはたいている。
「うん……あの、葉織くん」
「何?」
「これ、わたしが貰ってもいい?」
羽香奈の手のひらの上には、先ほど葉織が作りあげた、彼女自身を模った木の人形が鎮座している。
「いいけど、欲しがる人なんて初めて見た」
しかも、自分自身が泣いている姿なんて。葉織が不思議がるのも無理はないと羽香奈も思う。
たとえ泣いている姿だとしても、今日から家族になる葉織との、初めての思い出の品だから。それが羽香奈の素直な本心なのだけど、なんとなく恥ずかしくてこの時は口にすることが出来なかった。
葉織に導かれて羽香奈が生まれて初めて足を着けた砂浜は、七里ヶ浜という。
流木はもうじゅうぶんな量集まったのか、葉織は黙々と波打ち際を歩き、羽香奈もその後ろを影のように静かについていく。会話がなくて気まずい、とは、不思議と感じなかった。ふたりとも、常に話していたいと思う性分でもないから、むしろ居心地よく思えるくらいだった。
気が付けば小動の切通しにぶつかって砂浜が終わっている。船を係留する斜面に小舟が数隻、底を空に向ける形で天日干しのように置かれている。その隙間を抜けるように葉織が上がっていく後を羽香奈はついていく。
県道134号線沿いの海側の歩道を歩くが、歩道は狭い上に車道の交通量が多く、遠慮なく走る自動車との距離が近くて羽香奈は少しだけ怖かった。腰越漁港入口に差し掛かるとその歩道すらなくなってしまい、葉織は押しボタン式の信号でいったん町側へ渡る。
その横断歩道そのものが腰越橋であり、渡りきると転落防止の柵にぶつかり、羽香奈は手すりにつかまり川を覗き込む。海へ流れ込む河口であり、川でありながらほとんど海。先ほどまで眺めていた海と同じ色をしているのが羽香奈にとっては不思議だった。
「海もあって、山もあって、川もあって……わたしが暮らしていた町にはどれもなかったのに、ここにはなんでもあるんだね」
正確には、少し歩いた場所に川はある。水が緑色で、羽香奈としてはあまり川と思いたくなかった。単なる水路と思っていた。
「東京にだって楽しいところはたくさんあるって聞いたけど……近所のお兄ちゃんもお姉ちゃんも、大人になったら東京へ行っちゃったよ」
楽しい場所があるんだとしても、それを自分が享受出来た試しがないから、羽香奈には葉織に教えてあげられるような情報は何もない。申し訳ないなぁと思っていたところ、
「でも、東京ってここより人が多いみたいだから、オレもたぶん無理かな……色々見えすぎて疲れそう」
腰越橋の横断歩道は交差点になっていて、葉織はまた海側の歩道に戻ってくるよう羽香奈を導く。目の前には、弧を描くような片瀬海岸の海水浴場が広がっている。夏休みシーズンのため海の家が点在し、海水浴客で賑やかで、遠く見える江ノ島の荘厳さもこの場所からでは少々霞んで見える。
「この時期の海水浴場って好きな人同士で遊びに来てる人ばかりだから、落ち込んだ色の人はほとんどいなくて、見ていて安心する。みんな楽しそうな色してて、それがたくさん集まっててきれいだよ」
そんなにきれいなら、わたしも見られたらいいのにな。葉織くんが見ているのと同じ景色……どうして葉織くんにだけ、不思議な色が見える目と不思議なものを作れる手があるんだろう。
「そういえば、おんなじ海なのにさっきの場所とこっちで全然違うよね。向こうは砂浜で遊んでる人いなかったのに、こっちはたくさん」
正しくは、砂浜で遊んでいる人がいなかっただけで、海の中。波の向こうでヨットを動かす人や波の上でサーフボードに乗る人はちらほら見かけた。
「こっちは海水浴場で、あっちはそうじゃないからってだけ」
その理由も葉織は祖父から教えてもらったが、説明が難しくてあまり覚えていない。ただ、七里ヶ浜は海水浴場として向いた地形ではないからそのような整備はされていないということくらいしか説明出来ない。
江ノ島へ繋がっている弁天橋を目前にしたところで葉織が立ち止まり、右側を指さす。なんとなく白っぽい道の両サイドに店の立ち並ぶ、商店街らしき横道がそこにある。
「このすばな通りをまっすぐいったら江ノ電の江ノ島駅がある。ほら、電車に乗らなくてもけっこうすぐ江ノ島まで着いただろ?」
待ち合わせが江ノ島駅でないことを羽香奈が疑問に思うのでは、というのは、葉織にとってもお見通しだったらしい。
「そうだね。わたし、海なんて初めてだったから。葉織くんと一緒に歩けて楽しかった」
「そう? だったら良かった」
ちょっとだけ勇気を出して言ってみたつもりだったのに、葉織は気付かなかったのか、かる~く流されてしまった。
弁天橋は江ノ島の玄関口だ。「名勝史跡江ノ島」と刻まれた碑がその入り口に佇んでいる。
江ノ島の全景の手前に、その名の刻まれた大きな碑というのは存在感があるなぁと羽香奈は思う。実際、記念撮影に興じる恋人らしき男女がいる。
写真かぁ……あんな風に誰かに撮ってもらえた記憶が、羽香奈には覚えがなかった。
遠目には自動車道と歩道が一体になった横幅の広い橋のように見えたのだが、実際にその場に立ってみるとそれぞれが独立した二対の橋だった。当然、歩道の方が幅は狭い。人が歩くための橋が弁天橋、車が通るための橋が江ノ島大橋である。
二本の橋の隙間を覗き込むと、砂浜が下に見える。もう少し進めば波が橋桁に打ち付けている。
「まるで、海の上を歩いているみたいだね」
一歩一歩進む度、江ノ島が近づいてくる。先ほど、海岸から遠景として眺めた時は実感が湧かなかったけれど、自分の足で橋を歩いて島へ渡るというのは思いのほか心が湧きたつ。すぐ背後は普通の市街地なのだからなおさら、異世界へ踏み出していくような感覚が強い気がする。
「……葉織くん! 富士山が浮いているみたいに見えるよ!」
鎌倉高校前駅のホームから眺めた時は市街地の向こう側に見えた富士山だが、この角度からだと手前の風景が霞むのか、海の上に浮かぶ大きな船のよう、あるいは空に浮遊しているようにも見えた。
「雲ひとつなく晴れていても、こんな風にはっきり富士山が見えない日もあるんだよ。羽香奈は初めて来たのに見られてラッキーだったかも」
ラッキーっていうより、龍神様に歓迎されているのかな。照れるようでもなくごくごく当たり前のように葉織は呟く。
「龍神様?」
「うーんと……羽香奈がうちの子になるってじいちゃんが話してくれた時に言ってたんだ」
江ノ島の発祥として伝わる、五つの頭を持つ龍の物語。かの龍はこの周辺地域で暴れまわって人々を困らせていたが、大地震の後に浮上した江ノ島とそこに降臨した天女に一目ぼれして心を改め、人々に尽くした。寿命を迎えるとその身は山へと転じ、今でも江ノ島を守っていると語り継がれてきた。
「羽香奈はかわいくていい子だからきっと龍神様が守ってくれるよ、って」
「……わたし、おじいさんにはまだ、会ったことないよ?」
「死んだお母さんが言ってた。羽香奈は良い子だよ、間違いない、って」
言いながら、葉織の顔が曇った。羽香奈のことを潮崎家で迎えられるよう、法的な手続きをしてくれたのは葉織の母・波雪だった。彼女も羽香奈と共に暮らせる日を楽しみにしていたのだが……。
葉織と年老いた両親との生活を支える大黒柱として、彼女が選んだ仕事は長距離トラックのドライバーだった。高速道路上で事故に巻き込まれて命を落とし、その日を迎える前に帰らぬ人となった。
『羽香奈ちゃんも、私達の家に来たら葉織をよろしくね。あなたほどの事情ではないんだけど、あの子も色々難しくてね……』
彼女と最後に会った、児童相談所の面会室にて、そう言われた。難しい、っていうのは、なんだろう。さっき見せてくれた、不思議な力のこと? 他の人には見えないものが見える目のこと? わたしは何をよろしくしたらいいのかな。
彼女の残した言葉の意味を、ほんの数分後に羽香奈は知ることになる。
いよいよ江ノ島の入り口に辿り着いても、羽香奈の興味は尽きなかった。
「ねえ葉織くん、どうしてこの鳥居は緑色なの?」
「青銅の鳥居だから。じいちゃんはずーっと潮風に当たってるから、海の色に染まってるんだとか言ってたけど……本当にそうなのかはオレは知らない」
「……本当じゃないかもしれないけど、そう信じるだけで素敵だよね。海の色の鳥居なんて」
羽香奈はしゃがみこんで、鳥居を支える足元の龍の彫り物を撫でる。さっき葉織くんが教えてくれた龍神様かなぁ。
羽香奈は、自分の中にこのような、空想を楽しむ心があるなんて知らなかった。
青銅の鳥居をくぐって、緩やかな上り坂になっている参道を歩く。両側に並ぶのは店舗ばかりだ。お土産屋、飲食店。立派な宿屋もあるけれど、これからここに住むのだから自分には縁がないだろうと羽香奈は思う。
江ノ島神社に着くと、こちらは真っ赤に塗装された、立派な鳥居だった。海からはだいぶ離れているし、建物や木々に遮られて潮風もそんなに当たらないんだろう。だからそんなに風化して見えない、きれいな赤い色。羽香奈はひとりで納得してうんうん頷いて、葉織はそんな彼女を不思議そうに眺める。
仲見世通りの緩やかな上り坂を歩いている時はさほどでもなかった蝉しぐれが、神社の鳥居を前にすると急に激しく降り注ぐ。音なのだから耳にだけ届くはずなのに、全身に浴びているような感覚に陥る。
「別に神社を通らなくても、家まで行ける近道あるけど」
「いいのかなぁ。これからずっとここでお世話になるのに、最初の日にお参りしなくて」
「そう言われると……じゃあ、お参りして行こっか」
「エスカレーターがある神社なんて初めてっ」
「お金もかかるし、子供は乗っちゃダメだって、じいちゃんが。最近はばあちゃん足が悪くて、どうしても辛いって時にだけ使ってるって言ってた」
元より羽香奈だって乗りたかったわけでもなし。長い階段を意気揚揚にのぼっていく。
ところが、龍宮城を模した楼門「瑞心門」に差し掛かったあたりで息が上がる。
「あれぇ? いがいとっ、たいへん……っ」
いくら小学生だからって、長い階段を駆けたら疲れもする。
自分にとっては見慣れた景色なのに、羽香奈がはしゃいで、しまいにはバテているのを見て、思わず葉織は口を押さえてふっと吹きだした。控えめに、抑えたつもりでそうなった。
葉織はこの年頃の男子にしては思慮深い雰囲気で……わたしを散々にいじめてきた、乱暴な男子たちとは大違い……表情もそんなに変化しない。小一時間ほどだが共に行動して、そんな印象だった。可笑しそうに笑うところが見られて羽香奈はちょっと安心した。
そんなに人通りもないとはいえ、階段の途中で休むのは迷惑だろうから、羽香奈は胸をおさえて目の前の階段をのぼりきることにした。