古き思い出の元旦
元旦の潮崎家の定番は、いつもよりは朝寝坊して九時ごろからおせち料理を食べる。そして……。
「じいちゃん、ばあちゃん。いってきます」
「ああ。ゆっくりしておいで」
「わしらの分もしっかりご挨拶してきておくれ」
「あの、ありがとうございます。お金出してくれて……」
葉織と羽香奈は半蔵からいくらかのお年玉を貰ったが、ハツからは家計の財布を開けて「今日の食事代」を受け取った。
毎年、元旦の十五時頃に波雪と葉織のふたりだけで家を出て、遅めの昼食を島内の飲食店でとっていた。毎年そうだったんだから気にしないで楽しんでおいで、ということで、ふたりに見送られて葉織は例年通りに過ごすことにしたのだ。波雪はいないが、羽香奈と一緒に。
「なんで出かけるかっていうと、お正月くらいじいちゃんとばあちゃんをふたりっきりで、のんびり出来る時間をあげたいからなんだって。だからもしお母さんが生きてたら、羽香奈も連れて三人で出かけたはずだと思うんだ」
「そうかな……だったらいいな」
葉織が最初に羽香奈を連れて来たのは、潮崎家の斜め向かいにある土産物の商店だった。喪中なので、店主の女性には「本年も宜しくお願い致します」とだけ挨拶する。
「毎年元旦に、お母さんがこの店で銭亀を買ってくれるんだ」
「銭亀?」
「これだよ」
ショーケースの上に無造作に置かれた小箱には、底に赤いクッション材が貼ってある。そこに爪の先ほどのサイズの、貝殻を加工したような亀の彫り物が並んでいた。
「キラキラしててきれい。ひとつひとつ、顔も形も違う?」
「手作りらしいから、全くおんなじにはならないよ」
「ふふふ……葉織くんが彫ってくれた人形と同じだね」
九月になって羽香奈が学校に通っている時間、葉織も家で遊んでいるわけにもいかないので、空いた時間でなんとなく自分で木彫りをしてみた。図工の授業の為に買った彫刻刀と、半蔵がこんな日が来るかもとわずかだが売り物の木材を買っておいてくれたので、それを使って。
オレの作った人形を見て、この世で一番喜んでくれるのは羽香奈だし……そう思ったから、最初の一体は羽香奈を作ってみた。それを見た羽香奈は涙を流すほどに喜んでくれて、こうしてよく引き合いに出すのだ。
その後も練習のため色々彫っているのだが、羽香奈は完成を見る度にいつでも「前に作ったのよりちょっとずつ上手になってるよ」と誉めてくれる。
「それで、銭亀って何?」
「これをお財布に入れておくとお金が逃げない……無駄遣いしなくてお金が貯まるかもっていうお守り」
潮崎家は決して経済的に豊かとはいえないので、波雪はこの縁起物を気に入って毎年買っていた。
「最初に買ったのいつだったか忘れちゃったけど、オレのはもう五匹くらいいるから、今年は羽香奈のを買おうよ」
「ありがとう。大事にするね」
そういえば、羽香奈は自分専用の財布をまだ持っていない。それは葉織も同じだ。今日もそうだが、何か支払いがある時は、ハツから小さながま口を渡されている。
近所だからと鞄も持ってきていないので、羽香奈の銭亀はいったん、がま口に入れることにした。
次に訪れたのは奥津宮。潮崎家からほんの数歩の距離感なのだから、新年のお参りといえばもちろんそこを選ぶ。
「う~ん……」
「どうかした?」
「前から気になってたんだけど……羽香奈と一緒にここに来ると、たまに、足元に白い靄が転がってるんだ」
今日も、羽香奈が階段を上がりきったところでふと見てみたら、彼女を付け回すように足元に白い靄が現れていた。気のせいか偶然と思おうとしていたが、もう何度もこんなことがあってそろそろ見過ごせなくなってきた。
これは羽香奈の心の可能性もあるから気が咎めたが、人形にしてみてもいい? と確認すると、彼女は「どうぞどうぞ」とむしろ喜んでいる。葉織は遠慮しているが、羽香奈は葉織にだけは「隠したい感情」など何ひとつないから、今度は何が出来上がるのかしらと歓迎してくれる。
いつも通りにポケットに突っ込んでいた流木を、手のひらにのせた白い靄に向かって放り投げる。ふたりで固唾をのんで人形に変わるまでの過程を見守る。
「え……何これ」
「龍……だよね? かわいい~」
予想もしなかったものが完成して、葉織は愕然としてしまうが、羽香奈の呟きには高揚感が滲んでいる。
『ちゃんと見ていてあげないと、天女は遠くへ帰っちゃうんだよ?』
白い靄は、龍の形に変わる前、葉織にそう告げた。ちょっと不満そうな声色に聞こえた。まさか、龍のお告げってこと? まさかなぁ……。
「葉織くん、この子いらないの? だったらわたしが預かってもいい?」
「うん……オレはなんか、いらないから。持っててくれるっていうならどうぞ」
羽香奈は「わぁーい」と言いながら手のひらに龍をのせ、ちょっととぼけた顔のそいつの頭を撫でている。
お参りしたりゆっくりめの足取りだったのもあって、馴染みの飲食店に到着する頃には十六時近くになっていた。
そのお店は江ノ島内にある飲食店の中でも入口や店内の間取りが開放的で、窓からは何ら遮るものがなく全面的に海が眺められる。普段、窮屈な家で暮らしている葉織にとっては実に寛げる空間になっていて、波雪もそれに気付いてこの店を行きつけにしていた。もちろん、飲食店なのだから味が気に入っているというのは大前提として。
座敷席の柱の天井近くに、飴色をした海亀の剥製が飾られている。羽香奈は葉織に声掛けして財布を渡してもらい、中から銭亀を取り出して親指と人差し指で挟み、海亀と見比べるように掲げる。
「奥津宮の天井にも亀さんが描かれていたし、元旦は行く先々が亀さん尽くしなんだね」
今までに何度かお参りしたが、羽香奈が拝殿の天井に描かれた「八方睨みの亀」に気が付いたのは今日が初めてだった。元旦らしく今年一年の始まりを祈願した後、何の気なしに天井を見上げたら下を見下ろすような眼力のある亀と目が合い、驚いて声まで上げてしまった。
元旦の来客はまばらで、毎年決まって窓際の席に案内してもらえる。今日も西側窓際のテーブル席について、メニューを渡された。
「何食べようかなー」
「ねぇ、この江ノ島丼って何かな?」
「ああ、それかぁ」
葉織はちょっと思うところがあったが、あえて教えずにいたら、「どんな料理か気になるからわたしはこれにするね」と羽香奈は注文することに決めた。葉織は親子丼を注文した。
料理が出てくるまでのしばしの待ち時間。羽香奈は「これ、なんだろう」と、テーブルの窓際に置かれたものを指さす。黒っぽい、レバーのついたプラスチックのおもちゃみたいなものの上に、銀色の灰皿が置かれている。灰皿は清掃済みのようだ。
「十二星座のおみくじだよ」
「面白そうだね。葉織くんの誕生日でやってみてもいい?」
「いいけど、自分の誕生日じゃなくて?」
「自分の誕生日なんて、もう、忘れちゃったの。使いどころがなかったから」
「じいちゃんに聞けば、教えてくれると思うけど……」
「いいよ。知りたいって思わないから」
葉織も、羽香奈がそう答えそうな気がしていた。わかっていても確認だけはしておこうと思っただけだった。
「誕生日、十月十五日だよね。てんびん座……小吉。無理をしないで、慌てず焦らずが大切。そうすると徐々に運気を取り戻すことが出来ます。だって。やっぱり今は無理しないで、休んでいて良かったんだよ」
葉織は相変わらず小学校に通っていないが、四月になったら羽香奈と共に中学校に通うと約束していた。
江ノ島丼とはサザエを刻んで卵とじにして、ご飯にのせて食べる料理だ。葉織も初めてこの店に入った時、見慣れないメニューだったので気になってこれを注文したのだが。
ほかほかの江ノ島丼と親子丼がテーブルにのせられて、いただきますとふたりで手を合わせて。葉織は自分は口を着けずに羽香奈が食べ始めるのを見守った。
「どう? 江ノ島丼」
「ん~……お肉の入ってない、親子丼、みたいな感じ?」
「パッとしないんだよね……」
期待を込めて口に入れると、こんな反応になりがちな気がする。とはいえ、実際に食べてみて気に入る可能性もあるのだから、一度も食べたことがない人に「こんな感じだよ」と事前に言ってしまうのも気が引ける。
「親子丼、半分あげるよ」
「悪いよ、葉織くんが注文したのに」
「こんな感想かもしれないってわかってて教えなかったんだし。気にしなくていいよ」
羽香奈が江ノ島丼を器の半分食べ終わるのを待ってから、葉織はその丼に自分の親子丼の半分をそっくりそのまま移し替えた。そして羽香奈の丼を自分の前へ、親子丼が半分だけ残った丼を羽香奈の前へ。
「あ、ありがとう……ごめんね。出てきたばっかりの頃より冷めちゃったし……わ、わたしの食べかけ、なんて」
自分はもうこの店で何度も食べてるからいいんだよ、と言っても、羽香奈は恐縮している。ちょっとだけ頬が赤らんでいるように見えるけど、気のせいかな? ちょうど夕暮れ時で窓から赤い日差しが射し込んでいるから染まっているだけかな、と葉織は自己解釈する。
「真冬だと、こんな時間でもう日が暮れるね」
冬場で空気も澄んでいて、雲もなかった。だから今日は見事に富士山が見えていて、逆光で影に沈みつつあるもののまだ山頂に積もった雪の色まで判別できる。
夕日は真正面、伊豆の山脈に隠れる寸前だった。海にはまっすぐ、太陽に向かってオレンジ色の帯が伸びている。
「わたし達のお家の庭から見える町の風景も好きだけど、海しか見えないっていうのも印象違っていいね」
羽香奈が江ノ島で暮らし始めて五か月になるが、まだまだ知らない景色が見つけられる。
葉織も、ちょっと感慨深かった。今まではこの店で見る元旦の夕日も料理も、波雪との思い出だった。今年からは羽香奈との思い出になっていくのだと、胸に滲み込むように実感していく。
波雪は毎年、江ノ島ラーメンを注文していた。江ノ島丼のラーメン版のようなもので、サザエが入っている以外は特徴のないラーメンでしかなかったが。「せっかく年に一度なんだから、家では食べないものにしたいの」と言って食べていた。
来年はオレも江ノ島ラーメンにしようかな、と、まだ一年も先のことを考えていることに気付いて苦笑する。
「葉織くん、さっき、波雪さんは『おじいちゃんとおばあちゃんをふたりっきりにさせてあげたいから』って言ってたよね。わたしはそれだけじゃなかったと思うなぁ」
「どういうこと?」
「たまには葉織くんとふたりだけで、のんびり、お外でご飯を食べたかったんじゃないかな。って、思ったの」
テーブルの窓際に、ルーレット式おみくじ器と、葉織が作った木彫りの龍が並ぶように置いてある。
その龍は窓の外を見るように配置していて、ごちそうさまでした、と言いながら彼女はその頭を撫でていた。