初めての共同作業
予定していた散策をせず羽香奈の元へ戻ったため、風景の下描きはまだ終わっていなかった。出来上がった人形を見せてその元である男性とのことを話すと、羽香奈はいたく喜んだ。
「葉織くんの作った人形が好きっていうのがもちろん第一なんだけどね。葉織くんの人形にはひとつひとつにお話があるから、それを聞いたり想像したりするのが楽しいんだ」
小学生の葉織の小さな手に乗るようなサイズの人形だから、出来上がったものはとても小さい。その人形の米粒ほどのサイズの手にパチンコ玉のようなものが山盛りになっているのだ。実際に彫ったら多大な手間がかかるだろう。すごいねぇ、と言いながら羽香奈も指先でそのパチンコ玉の山を撫でる。
そのしぐさが、表情が心から楽しそうだから、葉織も不思議な気持ちになる。今まで人知れず、家族にしか打ち明けず孤独に続けてきた活動だったから。もちろん、羽香奈だってこれからは家族のひとりではあるのだけど。同い年の少女が自分の活動を知った上で、応援したり喜んだり楽しんだりしてくれるというのは、奇妙な感覚だった。……今年の春先、まったく真逆の反応で学校での居場所をなくした葉織だからこそ、深く感じ入ってしまう。
いくら純然たる善意のつもりで行ってきたとはいえ、相手の許可もなく、他者の心を覗き見ていることは間違っているのではないか。そんな風に迷い始めていたのだが、羽香奈の存在は全身で自分を肯定してくれる。もちろん、危ないことはして欲しくないという前提があるとはいえ。
「パチンコのお兄さん、葉織くんとも普通に話してくれたんだし、私もお話ししてみたかったな。でもパチンコって怖い顔したおじさんがするものだと思ってた。若いお兄さんでもするんだね」
羽香奈はかなりの世間知らずだが、それにしたってその思い込みは少々偏見が強い。
「お母さんが言ってたんだけど、会社に入ってくる若い新人さんが職場のおじさんに誘われてパチンコ行って、本人も夢中になっちゃうってよくあるんだって」
「そうなんだ。お母さんがお勤め先のこと話してくれるって、いいね」
羽香奈は自分の育ての両親がどんな仕事をしていたのかすら知らずに生きてきた。絶縁した今となっては無駄な情報を持っていなくて良かったとすら思ってそう吐露したのだが、それを聞かされる葉織にとってはやはり異質すぎる世界の話で、胸を痛める。
しかし、羽香奈が自分に求めているのは「同情」ではなく、「日常」だ。葉織はそれを知っているから、羽香奈が過去の痛みを無意識に垣間見せても、必要以上にそこに触れないようにしていた。
話しながらも羽香奈は順調にスケッチを続けていて、下描きが終わった頃はちょうど正午近くだった。予定通り、画板をいったん外してハツのおにぎりをふたりで食べる。
「ばあちゃんのおにぎり、傷み防止で梅ぼし以外の具でも刻んでちょっと混ぜてるんだ。梅、苦手じゃない?」
「大丈夫だよ。わたし、食べ物の好き嫌いないもん」
「それはいいね」
「葉織くんは苦手なものってあるの?」
「ナスの入ってるカレーが苦手……給食でたまに出てくるやつ。ばあちゃんが作ってくれるものはだいたい大丈夫」
だいたい、とはいえ、カレーのナスをきっかけにナスそのものがかなり苦手になってしまって、ハツの作るナスの煮浸しを食べる時は我慢を強いられている。ハツに何の落ち度もないことだから秘密にしてるけど……そんな話をしていると、羽香奈がふっと吹きだして笑う。
「葉織くんって本当に優しいね。おばあちゃんもおじいちゃんも波雪さんも、そういう葉織くんで幸せだったと思う。わたしもね……幸せすぎて、なんだか心臓が痛いよ……」
「なんで痛いの……? 大丈夫?」
「わかんないの……自分でも」
かつての自分が夢見たような幸せだから、ある日突然目が覚めて、夢として消えてしまう幻なのではないか。意識の底の底で根源的な不安を抱いていて、けれど葉織の存在を疑いなくて葛藤している。羽香奈にも言語化できない感情だが、体だけはそれを訴えてきているのだった。
羽香奈は急に呼吸が苦しくなったことで、おにぎりを食べ終えるのに想定より時間がかかってしまった。味も途中でよくわからなくなってハツに申し訳ないとも思った。
はー、と羽香奈が溜息をついてごちそうさま、というのを横目で見ながら、葉織は先ほどまで彼女が使っていた画板を膝に乗せる。そして前方の、片瀬海水浴場を見据える。
お昼時を過ぎて、海で泳ぐには気持ちのいい陽射しの下、大勢の人が行き交っている。
葉織の目には色とりどりの靄がふわふわと砂浜いっぱいに漂って見える。靄は握り拳のような大きさ……葉織自身は実物を見たことなどあるはずもないが、ちょうど心臓と同じ大きさなのだ。それが、夜の闇の中をふわふわと飛び交う蛍の光のように動いて見える。
その色を再現して見せて欲しいと言われても、ひとりひとり、こまか~く違う色なので、完璧にするのは無理だなぁと葉織は内心では思っていた。とりあえず、パレットには手持ちの絵の具、十二色を全て出した。あまり深く考えず、直感で次々と画用紙に色を乗せていく。単色だけではなく気まぐれで複数の色も混ぜて。
羽香奈の希望は、普段、葉織が見ている景色を知りたいということなのだから。考えてみれば、今、目の前に見えているものを完全に再現する必要はないのではないかと思う。今日たまたまこういう色の組み合わせなだけであって、毎日、見える色は変わるのだから……なんて、言い訳をしながら。
腕時計もしていないし、目に見える範囲に時計もないので、どれくらい描いていたのかわからない。作業がひと段落する頃にはかなり疲れていた。出来たよ、と、羽香奈に画板を渡す。
「砂浜いっぱいがたくさんの色で埋め尽くされてて、こっちまで海みたいになってるんだね。本当に、きれいなんだろうなぁ……」
こういう場所で、こういう時期なら、安心して見ていられる。楽しむために来ている場所で黒い靄を出している人がいないから。本当に、いつでも「きれいなだけ」だったらいいのになぁと葉織は内心では思うのだが……。
「そういえば、葉織くん自身の色は見えないの?」
「自分の色は見えないよ。鏡とかで映してもね」
「そっかぁ。知りたかったな、葉織くんの色」
背景を色鉛筆で塗る作業も、すでにヘトヘトではあったが別の日に改めて出直すというのも大変そうなので、そのまま続行した。
「で、出来たぁ……つっかれたぁ」
「お疲れ様でしたぁ」
階段上のコンクリートの上に長時間腰を下ろした上での、集中的な作業。実際に描いていた葉織自身はもちろん、付き合っていた羽香奈も疲れ果てていた。
たった一枚の風景画という、小学六年生の自由研究としては些か地味なものなのだが、労力はそれなりにかかっているのだから堂々とこれを提出しよう。せっかく羽香奈が考えてくれたのだし。
天国の波雪にも自信を持って見せられる、と、葉織は満足だった。