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自由研究

 小学二年生の夏休み。葉織は自由研究として、割り箸を積んで家の形をした貯金箱を作っていた。夕食後、自室の勉強机で一心に取り組んでいたところに、波雪が「ただいまぁ」と告げるや否や。葉織の返事も待たず流れるように二段ベッドの下段に倒れ込んだ。


「お母さん、おかえり。……どうしたの?」


 波雪は仕事の疲れをめったに持ち込まないのだが、その日は珍しく黒いモヤモヤがおでこのあたりから滲み出ていて、葉織はそれを剥がした。ふふ、ありがとう、と笑み溢して波雪は身を起こす。



「実はさー、お母さんの勤めてた会社が倒産しちゃって。次の仕事探さなきゃいけなくなったの」


「そっかぁ……大変なんだね」


 祖父母はまだ店をやっていたが、家計を支えていたのはやはり、波雪の外での稼ぎだった。幼くとも潮崎家のたったひとりの子であり、長男でもある。万一の時に備えてそれくらいは教えてもらっていた。



 黒い靄を取ったはいいけど、これ、どうしよう。そんな思いのまま、空いている方の手で作りかけの割り箸ハウスに触れた時。


 バキバキと音を発しながら、目の前で割り箸が次々とひしゃげていく。あまりに音を立てるので波雪も何事かと立ち上がり、葉織の肩を掴んで思わぬ光景に見入っていた。



 やがてそれは、波雪が長く考え込む時によくやる癖……腕を組んで目を閉じて、眉間にしわを寄せている……そんな人形に形を変えた。




「それで、その年の自由研究はお母さんとじいちゃんとばあちゃんの人形作って提出したんだ。次の年からはそういうズルするのは駄目だってお母さん達と約束して」


「そうだったんだぁ~」


 そんな葉織の話を、羽香奈は目を輝かせながら聞いている。


 最初は家族も面白がって、その力でどんなことが出来るのか試したりもしていた。ストレスを感じている時に発生する黒い靄、それを人形に変えるとストレスの原因となっている感情を解消出来る。波雪の転職問題もそうだが、ストレスの原因になった現実自体は変わらないので、人形に変えても一時しのぎに過ぎないだろう。


 しかし、一時的とはいえストレスが綺麗さっぱり解消することで、現実を良い方に変えられる人もいる。そんな人も何人か見てきたし、その可能性を信じて葉織は人知れず活動を続けてきた。



「ちょっと気になるんだけど……葉織くんが初めて、そのせいで怪我をして帰ってきた時、波雪さんやおじいちゃん達は何も言わなかったの?」


 羽香奈は葉織の行動自体を抑制する気はないものの、やはり怪我をしてもおかしくないようなトラブルに見舞われることもいとわない姿勢自体は大いに心配している。ほんの数日前に出会ったばかりの自分がそうなのだから、生まれた時から彼を慈しみ、育んできた波雪達の心情はその比ではなかっただろうと思うのだ。



「最初にそういうことがあった時に、オレがどうしたいのかちゃんと話し合ったよ」


 波雪は、葉織が人の為とはいえ危険に巻き込まれるのも怪我をするのも嫌だと言った。


 そうだとしても、やはりその数か月前の出来事は重くのしかかる。日頃、葉織と親しく接してくれる近所のお兄ちゃん。その友達が投身自殺しかかったところを助けたのは、葉織が勇気を出して行動した結果だ。


 葉織にその意思があるのがわかった上で、救われる命があるかもしれないのにその行動を止めることは、「見殺しにしなさい」と命じるのと同義でもある。



「でもね。ほんっっ……とうに、無理だけはしないでよ? 結果的に傷ついてしまうことがあるとしても、誰かを助けるためなら自分が傷ついてもいいなんて考えないで。葉織の体はあなた自身にとっても、お母さんにとっても、だいっっ……じなものなんだからね」




「って、約束した……」


「葉織くん……その約束って守れてる自信、ある?」


「う~ん……忘れてるわけじゃないんだけど、実際目の当たりにすると気にしてる余裕がなくって」


「ほらぁ~。そこだけはちゃんとしてくれないと!」


 羽香奈は珍しく、頬を膨らませて不満を表す。彼女は従順だが葉織に対して完全なイエスマンというわけでもない。彼の身の安全が第一と考えるからこそ、苦言を呈するのだ。




「そういえば、話してて思い出したんだけど。今年の自由研究はどうしようかなぁ」


 露骨な矛先逸らしではあるが、羽香奈とて葉織が件の問題にすぐ対応策を思いつくわけではないとわかっている。そんな簡単に片付くなら四年間も無駄な加害を甘んじて受けてきたことにもなってしまう。


「こんなことしてみたいな、っていうアイデアは特にないの?」


「毎年、お母さんに相談しながら考えてたからさ……」


 母親のアイデアに頼りっきりだった、という意味ではない。今年は何をしようか、と相談して、あんなのはどうだろう、こんなことをしてみよう。なんて話し合う時間も、夏休みの恒例であり、定番の思い出の風景だった。


 わが家に迎え入れた羽香奈が安心して暮らせるように、努めて冷静に振る舞おうとしてきた葉織ではあるが。母を亡くしてまだひと月ほどしか経っていない、まだまだ辛い時期である。この時ばかりは羽香奈の目前でも明らかに、気落ちした顔を隠せなかった。



「……だったら、わたし、葉織くんと一緒にしてみたいことがあるの」


 波雪さんの代わりになれるとは思わないし、図々しいかなって思うんだけど。羽香奈は内心ではそう思うので、葉織の目を直視できず、自分の膝に目線を落としながらぼそぼそと告げる。


「してみたいこと? どんなの?」


「……いいの?」


「何が?」


 そんな羽香奈の心境がわかるはずもない葉織は、彼女が何を遠慮しているのか理解が及ばない。アイデアがあるっていうなら普通に話してくれたらいいのに。




 善は急げ、翌日には羽香奈のアイデアを受けて、ふたりは出かけた。


 普段は観光客の姿がまばらな早朝から行動しているが、今回は羽香奈の希望で午前十時過ぎに家を出る。



「その予定だとお昼までに帰ってこれそうにないから、今日はこれを持っておいき」


 家族四人で囲む朝ご飯の席でその話をしておいたら、祖母のハツが出かけるふたりにおにぎりを包んで持たせてくれた。


「あ、ありがとうございます……あの、今度、一緒に作らせてもらえませんか?」


「遠慮しなくていいんだよ?」


「遠慮じゃなくて、その、おばあちゃんの作り方をわたしも知りたくて」


「そうかね。だったら私もその時を楽しみにしているね」


「は、はい!」



 羽香奈が持って出たのは、画板、画用紙、絵の具セット、色鉛筆。全て、葉織が学校で使うための道具だ。割と大荷物に見えるので代わりに持とうかと言ってみたが、羽香奈は気にしないで! と言うのでそれ以上は聞かず、いつも通りのブリキのバケツとハツのおにぎりだけ持つことにした。


 羽香奈に頼まれて葉織が道案内がてら先を歩く。片瀬海岸沿いの歩道をしばらく歩き、腰越橋の河口付近まで来た。



「最初にこの辺りを歩いていた時に、思ったんだ。葉織くん、夏の海水浴場は『楽しそうな心の色がいっぱいできれいだよ』って言ってたから。わたしも見られたらいいのになぁって」


 自由研究のアイデアが思い浮かばないという葉織の話を聞いた時に、思いついた。自分がこの場所から、江ノ島と片瀬海岸どちらも望める角度をざっと下描きする。その上から葉織が絵の具で、ここから見える心の色を塗ったらどうかと。


 絵の具だけでなく色鉛筆も持ってきたのは、心の色は絵の具で調色してなるべく見えるままに再現出来るように。背景まで絵の具で塗ったら心の色が目立たなくなりそうだから、背景は色鉛筆で薄~く塗るのが良いのではないかという意図だった。



「すごいなぁ。ここまでちゃんと考えてくれてるなんて。でも、オレの宿題なのに下描き手伝ってもらっていいのかな」


「だって、わたしが見たいからって理由でやってもらうんだから、いちばん手間がかかりそうなところは手伝いたくて。それに……葉織くんと合作って、楽しそうだなって」


 もじもじと手をいじり、恥じらいながら「葉織くんが嫌なら、いいんだけど」と付け足す。


 九月から地元の小学校に転入する予定の羽香奈には、夏休みの宿題がない。自由研究ひとつだけ、それも手伝いってことならないしょで合作ってことにさせてもらってもいいかなぁ。葉織もそう思った。



「そういうことなら、甘えさせてもらおうかな」


「ほんと? やったぁ」


 本来やらなくていいはずの手間だというのに、羽香奈は純粋に嬉しそうだ。葉織も羽香奈が楽しそうな姿を見るのは単純に嬉しく思える。



 羽香奈が下描きするのにしばらく時間がかかるので、葉織は時間潰しに海岸を歩いて流木探しをすることにした。片瀬海岸は水着の海水浴客が多く、服を着たまま無為にうろつくのも落ち着かないので、


「ちょっとだけ歩いて七里ヶ浜の方を見てきていいかな。お昼ごろまでに戻ってくるから」


「了解です!」


 ハツは素手でおにぎりを作るし、保冷剤を入れる工夫などもしているわけでもない。あんまり時間が経つと傷んでしまうから、早めに食べてしまう必要がある。裏表なく、ちょっとだけ見てすぐに戻るつもりだった。



 七里ヶ浜の方はいつも通り、人の姿がまばらだった。サーファーが思い思いに楽しんでいる姿もいつも通り。


 葉織はサーフィンのような全身使ったアクティブな趣味への関心は薄いが、波に乗ったり波間に揺られたりしているのは普通に気持ちよさそうだなぁとは思いながら眺めている。



 海岸の、波のかぶらない位置に呆けるように立ち尽くし。そんなサーファーを羨ましそうに、あるいは恨めしそうに眺めながら黒い靄を出している人の姿も、葉織には日常的だった。ああ、今日もそんな感じの人がいる。羨ましいなら自分もやってみればいいのに、どうしてああいう人達をそういう目で見ているんだろう。いくら心に触れてみても、未だに葉織にはよくわからない。


 まだ若い、二十代半ばくらいの男性だったから余計にそう思う。彼は右手にだけ、かすかに黒い靄をまとわせている。



「お兄さん、こんにちは」


「……ん?」


 何の小細工もなく、葉織は男性の隣に立ち、小さな体で長身の彼を見上げている。しかもなぜだか右手を差し出している。握手?


 義理立てする必要もないのだろうが、相手は子供だし、と思ったのか男性は素直に握手を受け入れてくれた。



「君は?」


「オレ、地元の小学生。お兄さん何を見てるの?」


「あ~……何を見てるってわけでもないんだけど。なんとなくへこんでて、最寄駅じゃなくて鎌倉高校前駅で降りて、海見て気晴らし? そんな感じ」


「そうなんだ。元気出た?」


「どうだろね……そんなすぐには、ね」


 葉織はまだ、握手の際に剥がした黒い靄を人形に変えていないので、男性の心は沈んだままだ。



「俺、中学高校は水泳部でさ。嫌なことあったら目いっぱい泳ぐとけっこう簡単に忘れられたんだよ。でも、大人になったら全然運動しなくなってさぁ。どうやって忘れたらいいのかわかんなくなっちゃったなぁ」


 だから、サーファーを見て考えていた。あんな風に体を動かしたら、あの頃みたいに忘れられるのかなぁと。



 流木拾いをするために出向いた七里ヶ浜だったが、ああやって会話した後で当人の側をうろつくのも気まずくて、葉織はそれじゃ、と挨拶ひとつ残して元来た道を引き返す。一方的に話しかけてすぐにいなくなる子供に、なんだったんだ、あいつ? とは思う男性だったが。葉織の経験からして、その程度の感想で許してくれるだけ、あの男性は根が優しいなと思うのだった。話しかけただけで激高して手を上げてくるような人だって稀にいるから。そもそもがストレスがかかっている状態の人に接触を持とうというのだから仕方のないことだとも思っている。



 羽香奈や波雪にとっては、その「仕方ない」という葉織の物わかりの良すぎるところが心配の種なのだった。



 黒い靄を持ったままずっと歩くのは疲れるので、葉織は小動(こゆるぎ)の切通しを通り過ぎてしばらく歩き、小動神社の境内に足を踏み入れる。僅かな時間とはいえ場所を借りるので、鳥居の前で一礼だけする。


 鳥居は潜らずその足元で、黒い靄を人形に変えた。地面を散らかさないように、バケツの中に木屑が落ちるよう配慮する。


 手のひらに小さな玉をこんもりとのっけて、うつろな目でそれをじっと見つめる男性の人形になった。



『わがくらし らくにならざり ぢつと手を見る』


 人形に変える直前、黒い靄は葉織にそう語りかけていた。



「そりゃあ、働いて働いて、ってことならそうだろうけど……パチンコで負けすぎてお金なくなっちゃったんでしょ?」


 藤沢駅周辺のパチンコ店で大負けして江ノ電で帰る途中、衝動的に途中下車した。人の悩みは千差万別。苦労して黒い靄を回収して人形に変えたところで、こんな悩みだったということも少なくない。なんだかなぁ。心配して損した。



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