壊れた心のなおし方
八月十五日は波雪の四十九日だった。
お墓への納骨を終えて家に戻ってきても葉織は放心状態で、勉強机の椅子に座って脱力し、波雪の遺影を見つめていた。
この調子では、今日中に行うと約束していた、元は人形だった木屑のお焚き上げも出来ないかもしれない。
かつて波雪の人形だったという木屑も、未だ、遺影の前に鎮座している。
羽香奈は二段ベッドの下に腰を下ろして、そんな葉織を黙って見ていた。
こんな時、葉織をひとりっきりにしてあげた方が良いのだろうかとも思ったのだけど……。
『羽香奈ちゃんも、葉織のことをよろしくね』
他ならぬ波雪自身が、生前、羽香奈にそう言ってくれたから。
こんな時に、葉織をひとりぼっちにするのが正しいと思えなかった。だって、ひとりぼっちって寂しいものでしょう? 羽香奈はずっとずっとそう感じて生きてきたから、誰よりわかっているつもりだった。
「……うっ……」
やがて、葉織は自身の膝の上でぎゅっと握り拳を作って、声を噛み殺すように泣き出した。
逡巡しながらも、羽香奈はベッドから立ち上がり。床に膝を着いて葉織の握り拳に触れて、産毛をくすぐるような優しさで撫でた。涙がいくつも落ちていて湿っていた。
「オレ……羽香奈を守るって言ったのに……こんなことで泣いてるし、一緒に学校行くことさえ出来ない、なんて」
こんなこと、というのは。お骨だけだとしても波雪が自分のそばにあることは、葉織にとって心の拠り所だったのだ。
波雪自身はもういないのに。お骨が手元からなくなっただけで、悲しくてたまらない……。
……こんなこと、っていうほど、軽くないよ。羽香奈は少しだけ、葉織が羨ましかった。お骨でもいいから側にいて欲しい。そんな人がお母さんだったんだから。
その母を亡くして泣いている葉織に対してこんな感情を抱くなんて。羽香奈はそんな自分の心の醜さが嫌だった。それこそ、自分が墓に入るまで一生涯隠し通すつもりだった。
「……いやだなぁ。わたしが葉織くんに守ってもらいたがってるなんて、勝手に決めないでよ」
涙に暮れる葉織の顔を見上げると、羽香奈の発言が思いがけなかったのか、葉織はきょとんとしていた。驚きで涙も止まったかもしれない。
「わたしはね。葉織くんと助け合って生きていきたいだけなの。葉織くんが大変な時は私が助けてあげたい。どっちが守るも守らないもないんだよ」
女の子だからって、誰もが皆、好きな男の子に守られたいって思ってるわけじゃない。
「悲しいことがあって泣きたいならいくらだって泣いてよ。葉織くんはね。わたしはたぶん、これからも、泣きたくたって泣けないと思うけど」
その理由を知っているのは、この世で葉織だけだ。彼女自身にすら自覚のなかったその心に触れたから。羽香奈がそれを知ったのは、直接的ではないにしろ葉織の行動によって気付かされたから。
羽香奈の「悲しみ」を感じるための心はとっくの昔に壊れていて、今となっては涙すら流れない。
「わたしだって、波雪さんのために泣いてあげたかった。この家で一緒に暮らして、お母さんって呼びたかった。そのどっちもわたしは出来なかったから……わたしの分も、葉織くんがいっぱい泣いてあげて」
生まれ育ったあの家で、羽香奈の感情は全て破壊された。けれど、葉織と出会って「嬉しい」「楽しい」「愛しい」などの心はすぐに修復した。
でも、「悲しい」だけは、葉織と出会ってからはまるで無縁で、きっといつまでもなおらないだろう。
「わたし達がおじいちゃんとおばあちゃんになって、もし、先に葉織くんが死んじゃったら。その時はきっと泣けると思う。これ以上に悲しいことなんて、わたしにはありっこないもん」
「……そんなこと、ない、よ」
鼻をぐずりとすすり上げて、葉織は否定の言葉を口にした。ああ、やっぱりこんなこと、言っちゃダメだったかな。こんな、普通とかけ離れた壊れた女の子じゃ、葉織くんにとって重荷だよね……。
悲しみに沈む葉織は間違っていないと伝えたい一心で余計なことを言ってしまった。そう、後悔しかけたけれど。
「羽香奈だって、これからオレ以外にも大切な人、いなくなったら悲しい人に出会えるよ。学校行って、友達も出来て……。『悲しい』って気持ちなら壊れたまんまでいいなんて、オレは思わない。時間がかかるかもしれないけど、壊れてるっていうんならなおしてあげたいよ」
葉織は、膝の上で固く握りしめていた拳をほどいて、そばにあった羽香奈の手を取った。
……こんなこと、葉織くんには絶対言えないけれど。
葉織くんが誰より優しい人に育つために必要だった全てを、波雪さんは注ぎ終わったから……だから役目を終えて、神様に呼び戻されてしまった天女様だったのかもしれないね。
その後、羽香奈は葉織に頼まれて、半蔵に「今年のお焚き上げは自分達ふたりだけでしたい」と伝えに行った。まだ泣きはらした顔で祖父母の前に出られないというので、羽香奈ひとりで。
「これからは、葉織くんとわたしだけでどんなことも出来るって、おじいちゃん達に見せて安心させてあげたいって……そう、葉織くんが」
葉織に頼まれた言葉をそのまま伝えると、半蔵は重苦しくひと息ついた。ハツは何の話かわかっていないようで、にこにこと、あさっての方を見ている。
半蔵はいつにもまして険しい表情だし、毎年一緒にしてきたことから外されるのが嫌なのかなと羽香奈は不安だったが、それは見当違いだったとすぐに知る。
おもむろに床に膝を着いた半蔵は、老人にしては背も高いので、羽香奈と同じ目線の高さになる。がっしりと痛い程に強く、彼女の肩を掴む。その指先は小さく震えていた。
「羽香奈……わしらの家に来てくれて、ありがとう。これからも、葉織のことを……頼んだよ」
「……は、い」
葉織にとっては母を、祖父母にとっては娘を、それぞれ手放した日だった。悲しみの中にいるのは彼らも同じだった。
そして、羽香奈は感じていた。先ほど葉織が言ってくれたのは正しかったと。
おじいちゃん、おばあちゃんとお別れする時は、わたしもきっと泣いちゃうだろうから。
葉織の気持ちが落ち着くのを待って、ふたりは自宅の庭へ出た。羽香奈は木屑の入った木箱を、葉織は波雪の木屑が入った小皿をそれぞれ手に持って。
太陽がちょうど西の海上に浮かぶ山並みの影へ沈みゆくところだった。空と海の境目は灼熱のように強い金色を放ち、闇をはらんだ空色は徐々に紫色を深めていって、その炎を鎮火していく。
一年間に渡って、亡くなったかもしれない方々の人形の残骸を受け止めた寝床なのだからと、毎年木箱ごと燃やしているという。延焼しないよう一斗缶の中に納める。
準備が整って、波雪の木屑をどうするつもりなのか、最終確認する。
「最後にオレと羽香奈を会わせてくれて、それがたぶん、お母さんのこの世で最後の仕事だったんだ。だからもう、ゆっくり休ませてあげなきゃ……」
寂しそうだけれど、確かに自分の意思で、葉織は木箱の中へ波雪の名残を納めた。
一度は激しく燃え上がり、徐々に燃え尽きていく木材は、先ほどの夕暮れの空に似ていた。