山二つにて
挨拶回りを終えた帰り道。夏休みの江ノ島はそうそう簡単に日は暮れないので、午後四時くらいになっていたが未だ空は紺碧だ。陽射しもきついが、ハツに言われてふたりとも麦わら帽子を被っているので顔だけは陽射しから守られていた。
かつては都会暮らしで外遊びもしてこなかった羽香奈の肌は真っ白だったが、今は腕だけはこんがり日焼けしていた。なんだかそれがどこか誇らしく思えた。
「あ……」
そんな喜びも、葉織がかすかな呟きと共に足を止めたので吹き飛んでしまう。最近は下道を通っていたし、海岸に遊びに行くのも人の少ない朝方で、観光客の多い場所に近寄る機会が減っていた。
ちょっと事情でお店巡りをして、観光客の通る道を選んで歩いたというだけで、さっそく葉織がその目に厄介な色を見てしまう。羽香奈は葉織の特別な力を尊いと思うものの、その力のために彼が傷つくのは本当に心から辛かった。
ふたりが今立っているのは、山二つの展望台に続く階段の最上段。件の人は中学生くらいに見える少女で、展望台の柵に手を着いてぼんやりとした眼差しで景色を眺めている。
「あそこの人……黒いもやもやが頭を取り囲んでる」
「頭?」
「この前の人は心臓だった」
要するに。その人の悩みの原因になっている場所に、その靄は現れるのだろう。
「頭についてるなんて、こっそり取るの難しくない?」
「どうしようかな……」
羽香奈も大概の心配性だが、葉織もこういう場面で「難しくなんかないよ」と虚勢を張るような性格でもない。ごくごく素直に、難しいということを否定しないので、羽香奈はこっそり溜息をついてしまう。
「だったらわたしがあの人に話しかけてみるから、葉織くんは後ろからこっそり取ってあげてよ」
「羽香奈が? なんで?」
「見ず知らずの人に突然話しかけられるにしても、年下の女の子が相手だったら、男の子より警戒心が薄れそうだから」
葉織が善意でそうしているのはわかるが、観光地に来ている時に見知らぬ人に突然声をかけられたら警戒心を抱くのは無理もない。少しでも相手の気分を害さない配慮だって必要だと思う。それは羽香奈にとって半分本音で、半分建前だ。言っていることは事実だけど、それ以上に、葉織ひとりに無理をさせるなら自分も協力したいという気持ちの方が大きいから。
「ごめん……なんだか変なことに付き合わせて」
「謝らないでよ。葉織くんが悪いんじゃないもん」
あれ? なんだか全く同じこと、前にも言った気がする。そう思って羽香奈はちょっと笑ってしまった。こんな時になぜ笑うのかわからなくて葉織は不思議そうだ。
「変なことっていうか、変わった経験してるかなぁとは思うけど。葉織くんと一緒にするのなら、わたしはどんなことだって楽しいの。だから謝るようなことじゃないよ」
じゃあ、先に行くから葉織くんも頑張ってね、と笑顔で伝えると、葉織はちょっと安心したような顔で頷いた。
ちょっとだけ跳ねるようなご機嫌な足取りで階段を下りながら、羽香奈は考えていた。
きっと今までの葉織くんは、ひとりぼっちでこういうことをしなければならないこと、辛いと思ってたわけじゃないんだろう。そうだとしても、わたしという、秘密を共有出来る身近な人が出来て、少しくらいは心強いのかもしれない。その上、こうやってお手伝いも出来るんだからね。
羽香奈はこの瞬間、これまでの人生で類を見ないほどの、自己肯定感を抱くことが出来たのだった。
「こんにちは、お姉さん」
彼女のすぐ傍らに立ちそう呼びかけても、羽香奈が自分を呼んでいるのだと少女はなかなか気が付かなかった。そも、観光地にきて路上で他人に声掛けされるなど、想定していないのだから。
「ここから何を見ているんですか?」
羽香奈がそう言葉を続けてようやく、彼女はこちらを見た。一度は無視されたものの羽香奈は一切意に介しておらず、にこにこと彼女を見つめている。
「何をって……景色っしょ。ここ、展望台だよね」
「そうですねー。わたし、初めて見た時、ここちょっと怖かったんで」
「高所恐怖症?」
「ここは山二つっていって、元々の地形が崩れて山が真っ二つになったんだって聞いたから。きれいだなーって眺めていて、急に崩れちゃったら怖くないですか? 落っこっちゃいそうで」
「そうなんだ……確かにここくらいしか、落ちれそうなとこ、他になかったもんね」
他に該当する場所が見つからなかったから、彼女はここに立って、考えていた。落ちてみようか、やめておこうか。直接は聞かずともそんなところかなと羽香奈は考えていた。
「お姉さん、なんだか浮かない顔ですけど……何かお悩みですか?」
「……そんなこと訊いてどうすんの?」
「わたしもちょっと前まで人生のどん底だったところを人に助けていただいたので。その人がしてくれたみたいに、困っていそうな人がいたら力になってあげたいって思っているんです」
「どん底って……」
「聞きたいですか? お姉さんの悩みの内容次第ですけど、聞いたらそれも吹き飛ぶかも!」
にこにこ笑顔で底の知れないことを言い出す羽香奈に、少女は明らかに引いていた。
少女が羽香奈にくぎ付けとなっている隙を突いて、葉織は後ろから彼女の頭にくっついていた靄を引きはがすような動きをした。本人に見られてしまえば不審者めいた葉織の行動も、直接に体に触れているわけではないから、他に注意をひきつけていられれば問題にならない。羽香奈は一連の流れをその目で確かめて、胸中でひっそり一息ついた。
葉織はいつも通り、手のひらに不可視の何かを乗せるようなポーズで階段を下りていく。羽香奈達から離れすぎず、かつ少女から見えない場所を選んで階段に腰を下ろしたようだった。
「なんだかな~。あんたって変な子だけど、話してたらちょっとすっきりしたっていうか。悩んでるのもあほらしって思っちゃった」
それは羽香奈と話したおかげではなく、葉織の力で解消したからだろう。もちろんそれを教えてあげるわけにはいかないが、羽香奈は内心で得意満面だった。やっぱり葉織くんはすごいや!
「あたしってさ……めちゃめちゃ頭が悪くって、人よりいっぱい勉強してもちっとも理解出来ないままで……このままだったらみんなと同じ、高校生にもなれないんじゃないかって……」
最終学歴が中卒もしんどいし、こんな馬鹿が大人になってどうやって食っていけばいいの? 生きていけるの? そう考えたらつい、どこかから身を投げることまで検討し始めていた。
「お姉ちゃん、勉強出来ないのに学校行くのって、辛くない?」
葉織は背中側に腕を回して完成した人形を隠しながら階段を上がり、羽香奈の隣に並んで少女に問いかけた。
「えー? 勉強は出来ないけど、友達いるし。部活も委員会も楽しいから辛くないよ。授業は嫌で嫌でたまらないけど」
「オレなんて、学校にすら行けてないから……楽しいって思いながら学校行けてるだけでじゅうぶんだと思うよ」
葉織の発言に少女は口を噤み、目をぱちぱちと瞬きさせていた。
ついさっきまで、計画が大成功して上機嫌だった羽香奈は思わぬ事実を突きつけられて、思わず時を止めていた。葉織くん、今、なんて?
「担任の先生が言ってた。学校にすら通えない心の弱い奴は、大人になって社会で生きていけないって。お姉ちゃんは学校行って、みんなが嫌がるような仕事も委員会で頑張ってて、周りの友達にも気が遣える人で……こんだけ出来てるんならもし勉強が難しいんだとしても、大人になって出来る仕事が何かしらあると思うよ」
「ちょっと待ってよ。あんた、なんでそんなことまで知ってんの?」
あたし、そこまで話してないじゃない。……気味が悪い。そんな言葉が続くのを、葉織も羽香奈も覚悟した。だが、少女はそこで言葉を止めたので、葉織は意を決して手のひらを前に出す。彼女に人形を見せる。
少女の人形は、制服姿で、額に鉢巻をつけて気合十分の顔をして腕まくりまでしていた。
「お姉ちゃん、本当は自信がなくても出来る限り最後まで頑張ろうって、心の底では思ってるんだよね?」
「なにこれ? この人形、あたし?」
「えーと。実はこの子、見習い占い師なんです。その人の見た目の印象から内面を読み取って、人形の形にするのが得意なんですよ!」
羽香奈は思いきって、いざという時の為に考えていた言い訳を披露してみることにした。葉織とも打ち合わせてはいなかったため、彼女以上に葉織の方が驚いたような顔を見せる。
「え~っ! すごいじゃん、あんな短時間でこの人形作れんの!? そういや弁天橋の入り口であんたみたいなことしてる人見たよ~」
「えっ。人形作るんですか?」
「そっちじゃなくて。顔だけ見てその印象で、内面想像して詩を考えます~ってやつ! その場で紙に書いてくれるんだってね」
「ああ、その人か。流しの絵描きさん。毎日じゃないけどたまにいるね」
彼女が想像以上にはしゃいで喜んでくれたので、良かったら人形持って帰る? と提案して見たら、大喜びで受け取ってくれた。
「あんたもさっきかなーり自分下げしてたけどさぁ。ちゃーんと特技あるんじゃない。占い、けっこう当たってたよ? 勉強は出来ないけど手伝い上手だねってよく褒められるのよ、あたし」
「なーんだ。だったらあなたがいなくなったら悲しむ人、たくさんいそうじゃないですか」
「……そうだね。ありがとね、おふたりさん。今日ここに来てみて良かったよ」
「あ、帰り道。もう観光する気がないなら、階段のぼるよりすぐそこの下道通った方が楽だよ」
山二つから下道までは目と鼻の先だ。まだ門限の十七時まで余裕があるので、ふたりは彼女を下道の終わりまで見送って歩くことにした。