誰からも愛されなかった少女
7月31日から8月30日まで、夏休みいっぱいの連載で投稿します。
本作を読んで、久しぶりに「小学生の夏休み」を味わってみてはいかがでしょうか?
友人はおろか家族の見送りすらなくたったひとり。ピンク色の飾り気のないワンピースの少女は品川駅から横須賀線逗子方面行き電車に乗り込んだ。
今日から始まる「潮崎 羽香奈」としての新しい人生に何らの希望も期待も抱かず、無の心境で流れゆく車窓を眺めている。早朝いちばんに近い時間帯ゆえ電車内は空いていて、同じ車両に人はなく、長い椅子も自分ひとりで独占している。
ごく普通の生まれの人間だったら、空いている電車なんて歓迎する以外にないのだろうけど。
生まれてから今日まで誰にも愛されなかった少女は、こんな時まで自分はひとりぼっちなんだなぁと憂鬱を深めていた。
こんなにも長い時間、それもひとりで電車移動したのは生まれて初めて。彼女の生まれ育った東京都心とはまた違った景色へと徐々に移り変わっていくけれど、特段の感慨も抱かなかった。
そんな羽香奈の心をついに動かしたのは、北鎌倉駅を目前にした時だった。不意に、鮮やかな深緑で車窓が満たされたから。
都会育ちの彼女には、こういった綺麗な自然の緑は見覚えがない。都会の木々の葉っぱはもう少し色が薄いというか、くすんでいるというか。ともかくもっと冴えない印象を受ける。それは彼女自身の恵まれない生活ゆえに、何もかもが色褪せて見えただけの錯覚だったのかもしれないけれど。
それほど長くないであろう停車時間、開いているドアから北鎌倉駅のホームを覗き込んだ。なんだか急に、違う世界へ来たみたいな感覚。ここで降りてみたいなぁ。
でも、待ち合わせの約束をした江ノ島電鉄鎌倉高校前駅へ向かうためには、ここで降りるわけにはいかないから。次の停車駅、鎌倉駅で乗り換えをしなければならないのだから。
ほんの一瞬でさっさと諦めて、元通り、座席に腰を下ろす。諦めが早いのも、最初から何も期待しないのも、これまでの十二年間の人生で彼女が身に着けた処世術だった。
鎌倉駅の江ノ電乗り場では、すでに次の電車が到着し、発車時刻を待っていた。まだ時間の余裕もありそうだから急ぐこともなく、羽香奈は悠々歩いて電車に乗り込んだ……ところで、違和感に気付く。
「この電車、床が木で出来てる……」
夏物のサンダルごしに感じる木の感触。小学校の校舎だって木造だったのだしそこまで馴染みのないわけではないというのに、電車の床だと思うとなんだかそわそわする。
進行方向左側の席に座り、首を斜めに向けて窓の外を眺めてみる。
家族旅行の思い出などひとつもない羽香奈にとって、小学校の課外授業でバスが東京湾の近くを通ったのが、唯一海を見る機会だったから。水平線の向こうに対岸のない広い広い海の景色は単純に綺麗だなぁ。なんて考えていた。
それにしても、これからわたしの暮らす江ノ島の最寄は「江ノ島駅」のはずなのに。どうしてふたつも手前の「鎌倉高校前駅」で待ち合わせなのかしら。
その理由はきちんと電話で聞かされてはいる。先方は、この駅から江ノ島方面へ歩く機会はこれから多いだろうから、今の内に道を覚えておいた方が良いだろう。そう言っていた。
いたのだけれど、ついつい疑ってしまう。意地悪な家族がいつもそうしていたように、少しでも私が疲れるように、何の意味もなく徒歩での移動距離を伸ばそうとしているのではないかしら。なんてね。
自虐はするけれど、今更そんなささいなことで心を痛めたりはしない。もうすっかり、正常ではない扱われ方に慣れきっている。
かくして、疑惑の「鎌倉高校前駅」に到着した。電車が発車するまでの数刻、電車が影になって駅のホームは薄暗かった。
「うわぁ~……キレイ……」
電車が発車した後に背後を振り返ると、目の前には海が広がっていた。電車の中から、ガラス越しに見たのとは全然違う。
今日は太陽の光が強いのか、海の広範囲を白い光が散っていて、まるで地上に星屑の降ってきたみたいに羽香奈には見えた。
去っていった電車の後姿を見るように視線を動かすと、これから彼女の暮らす江ノ島の背景にはくっきりと富士山が浮かび上がっていた。
「富士山がこんなに大きく見えたのって、はじめて……」
これから自分が暮らすのは、こんな場所なんだ。もうすっかり、人間には期待していない彼女だからこそ、素敵な風景にはなんだか心が躍るような気がした。
さて、と。待ち合わせは駅の外だったから、運賃を払って出ておかないと。出口へ向かうため、身をひるがえした。
ホームには長い木のベンチが複数並んで設置されていたが、その出口から一番近い席に、羽香奈と同じ年くらいの少年が座っていた。足元にはブリキのバケツが置いてある。上は袖のないポロシャツ、下はジーンズ、サンダル。そのどれもが空色で統一されているから、首から下は全てが空色。青い空と海を背景に立ったらその部分が溶け込んでしまわないかしら、なんて勝手に考えてしまう。
髪の色が黄土色にも近い色素の薄い茶髪で、それは羽香奈自身と同じもので、よく見慣れた色だった。だからお互いに自己紹介する前から、羽香奈もなんとなく察しが付く。あの人が、待ち合わせの人かな。葉織くん、とかいったっけ。
その少年は羽香奈が気付くよりずっと前から彼女に気付いていて、電車から降りた時点から彼女を無遠慮に見つめ続けていた。別に不快に思うわけでもないけれど、もっと早く声をかけてくれてもいいのにね。そんな風に思いながら無意識に肩を竦めてから、彼に歩み寄る。
近づいたことで、羽香奈は彼……葉織の表情がよく見えて、懐疑を抱かずにはいられなかった。彼が羽香奈を見る目はあまりに同情的というか、まるで痛ましいものをみるようで、直視するのが憚られるとでも言いたげで……。
きっと彼は、わたしがこれまでどんな扱いを受けてきたか知っているだろう。だからこそそんな顔をするのだろう。そう羽香奈は思ったから。相手にばれないよう十分に配慮しながらも、ひっそりと口を尖らせた。
「あなたが潮崎葉織くん?」
「え? あ、ああ。そうだよ。君が羽香奈?」
「そう。これからお世話になります。よろしくね」
彼に対する第一印象は良くなかったけれど、表面を取り繕うのは得意だから、羽香奈はばっちり作り笑いで応えることが出来た。
葉織から向けられる同情の目はいっこうにおさまるところを知らない。それを見ない振り気付かない振りを貫きつつ、彼の脇を抜けて、使用済み乗車券入れに持っていた切符を放り入れた。
駅を出て道なりに歩き、線路沿いにある歩道を歩いて江ノ島を目指す。のかと思っていたけれど。
踏切を抜けるとすぐそばに横断歩道があり、たまたま青信号だったのもあって葉織は急ぎ足でそこを渡る。特に合図もなかったが羽香奈もそれを追いかける。
そのまま目の前の階段を下りて、葉織は砂浜の上に立つ。まだ上にいる羽香奈をそこから言葉もなく見上げてくるので、羽香奈も黙って後に続き、砂浜の上で彼の隣に立つ。
「ここで流木を拾い集めながら海岸沿いに歩いていって、江ノ島を目指す。完全にオレの用事でこの駅で降りてもらったから悪いんだけど。付き合ってくれる?」
「流木って、どんなものを拾えばいいの?」
「オレが自分でやるから、羽香奈はついてきてくれればそれでいいよ」
「ふぅん……」
嫌がらせとかじゃなく、葉織くん自身の用事だったのね。疑って悪いことしたなぁと思いながらも、羽香奈は内心ほっとしていた。
それからしばらく、葉織は江ノ島方面へ向かって砂浜を歩きながら、時折腰をまげて手を伸ばし小さな流木を拾っては片手にぶら下げたブリキのバケツに放り込んでいた。からん、からんと乾いた音を立てる。それはなんだか楽器みたいに聞こえて、羽香奈の耳には心地よかった。
「あそこ。正面に見えてるのが江ノ島だよ」
「島っていうくらいだから、もっと陸から遠くにあるのかと思ってた。船に乗っていくみたいな」
「本当は島じゃないし。ここの隣の片瀬海岸の砂浜が江ノ島までずっと続いてて陸続きになってるんだ」
「へー……」
海の上に、緑色のかたまりが浮かんでいる。
すぐ側の陸地は宅地開発されたごく普通の街並みだというのに、徒歩で渡るような場所に自然豊富な陸繋島がある。些か神秘的な光景であると幼心に羽香奈も感じ入る。
ちょうど真ん中くらいの位置に塔なのか灯台なのか、穿つような細い建造物がある。陸続きであると葉織は言っていたが、大きな太い橋のようなもので陸地、街と繋がっているように見える。
「そのおっきな橋で自動車が出入り出来るし、人が行き来する歩道もついてる。潮が満ちてると砂浜が海に沈んで歩けなくなるから」
潮の満ち引きなんて、理科の授業で教わっただけで、羽香奈は現実に触れたことはない。けれど、葉織にとっては日常の風景なのか。
……そして、羽香奈にとって今までもこれからもずっと続く、悪夢そのもの。その権化たるあの人だって、かつてここで暮らしていたんだ。そのことに気付いたとたん、濃い緑で覆われた島影が途端に影を帯びて見える気がした。
八月の日差しを受けながら延々と砂浜を歩くのだけど、今日は海風が強すぎず弱すぎず左側から流れてきて気持ちがいい。首の後ろより少し長いくらいの羽香奈のショートヘアやワンピースの裾がご機嫌にゆるかやに躍る。
日射病になるほどではないと思う。日除けの帽子があればもっと良かったんだろうけれど。そんな気の利いたものを用意してくれるような家族ではなかった。
地元育ちでこの辺の気候に詳しいだろう葉織だって帽子を被っていないし、きっとバテてしまうより前に江ノ島に着くんだろう。と、羽香奈は確認もしていないのに納得した。
「あ、この流木。こんなおっきなのも流れてくるんだね」
葉織が拾い集めている、バケツに入るようなサイズとは比較にならない巨大な流木が、波打ち際から遠く離れた場所にぽつんと落ちている。砂浜から離れているのも不思議だし、こんな大きなものどこから流れてくるんだろうと羽香奈は不思議だった。
「ちょうどいい。ここで座って休もうか」
葉織が途中で休む算段だったとはまるで想定していなかったから、羽香奈は素直に驚いた。流木は少し湾曲した形になっていて、盛り上がった部分はちょうど腰掛けやすい高さになっている。その部分を狙うように葉織は腰を下ろす。羽香奈もそれに続くが、そういった流木の形状から、二人の距離は肩が触れてしまいそうに近くなる。
葉織と羽香奈は「いとこ」だし、まだ十二歳だし、異性として意識するわけではない。それよりも羽香奈が気になるのは、少し前かがみになった葉織が自分を見上げるような体勢になっていて、先ほどと同じような表情をしているから。心から、悼むような眼差し。
やがて葉織は覚悟を決めたように、ひとりだけ立ち上がり、羽香奈の背中側にまわって立った。羽香奈はその動きを目で追って、首を傾げて葉織を見る。
「急で、驚くかもしれないけど。……肩、凝ってたりしない?」
「……しないよ? わたし達、まだ小学生だもん」
この年頃で肩こりに悩まされてる人なんているだろうか。中学受験する子とか? 葉織が何を言いたいのかわからない。
「そう……なんだ」
言いながら、葉織が肩に向かって手を伸ばしてきたので、肩たたきでもしてくれるのだろうかと思った。しかしそうはならず、肩に触れるほんの手前ほどで、何かを掴むような動作をした。ぎゅ、っと、完全に拳を握りしめるわけではなく不自然な空白が指と手のひらの間にある。
そのまま少しだけ後ろに下がった葉織は、今度は泥団子だかおにぎりだかを作るような不可解な動作を手元で繰り返しながら流木をまたぎ、羽香奈の隣に座る。
「うん……うん」
今度は手のひらを合わせて、まるでその上に何か載せているようなポーズで手を目の高さ近くまで持ち上げて、独り言。誰かと話しているかのように相槌を打っている。
あまりにも……奇妙。でも、なんでだろう。そんな葉織の行動を咎める気持ちにならない。むしろ、どうしてか……これまで誰ひとりとして慮ってもらえなかった心が慰められるような心地がした。
「いなくなれって言われて、ずっとずっと邪魔に扱われて、辛かったんだ。大丈夫だよ。オレん家では羽香奈のこと、そんな風にしたりしないから」
添えていた右手を離して、左手の上で何かを撫でるような動きをしてから、葉織はズボンのポケットに手を突っ込む。
ぱらぱらっと放るように、小さな流木の破片がみっつほど、手のひらの上に転がった。もう一度両手を揃えた葉織は、「これを見て」と言いながら羽香奈の目線の先に手を動かした。
「えっ……!?」
葉織の手のひらの上でみっつの破片は勝手に動き出し、身を寄せ合い、ひとつの塊になる。かさかさと小さな音を立てながら微小な木片を弾き続け、黒かった表面から白い地肌が見え出す。
そんな動きを呆然と眺めているうちに、それはみるみる人の形へ変わっていき……。
最終的には、女の子と思わしき人形が完成した。その人形はワンピースを広げるように座り込み、天を仰ぐようなポーズで泣きじゃくっていた。
葉織は木屑まみれになった自分の手を順番に振り、砂浜にそれを落とす。除ききれなかったものはジーンズの太股にこすり付けて、そこをぱしぱし叩いて汚れを落として。
指先で人形のあちこちを撫でて汚れのついていないのを確認してから、羽香奈の手を取って、人形を持たせる。
「これ……もしかして、わたし?」
若干のデフォルメが入っているようだけど、なんとなく、自分に似ている気がした。まさかそんなこと、とも、どうしてそんなことを? とも思うのだけど、葉織はこっくり頷いた。
「だったら、どうして泣いているところなんか」
今日、初めて会った人の人形を作るのに、泣き暮れる姿を選ぶなんて。人によっては怒りだしてもおかしくない。羽香奈だから不快に思わないだけで、ただただ不可解だった。
そもそも、流木の欠片からこの人形を作ったのは葉織なのだろうか。羽香奈もその目で見たように、人形は「勝手に出来上がった」。
「羽香奈の心が泣いていたからだよ。そんな感じで、全身で」
それが真実であることは言わなくてもわかるだろうと確信して、葉織は余計なことは言わない。実際、たったそれだけの情報で羽香奈の内に広がるのは納得だ。