59.女神の声
神槍はその諸手に、心臓を刺し貫いた確かな感触を受けた。
手応えに、違和感があった。
死ぬはずの肉体に、まだ力が漲っているような。
なればこそ神槍の反応は間に合った。
心臓を貫かれたルインが、その両の手で自らに刺さった槍の柄を掴んだ。
神槍は反射的に槍を離した。
伝播する固有能力の類だとしたらかなりマズい。
ルインが掴んだ柄は、一瞬で弾け飛んで折れた。
「なぜ、生きている」
聞かずにはいられなかった。
ルインは笑っていた。
槍の穂先が心臓に刺さったまま、口から血を流しながら。
「女神の……声が……心臓を潰された……くらいで……死ぬはずがないだろ……」
声を出すことすら難しそうで、長くはないのは確実に思えた。
神槍に、迷いが生じた。
どういったからくりで生きているのかはわからない。が、気力にせよ魔力にせ能力にせよ無理をしているのだけはわかる。
このまま逃げていれば間違いなく相手は死ぬ。そうすれば必ず勝てる。
しかし、ここは闘技場で、戦っているのは聖戦なのだ。
逃げ回った末に得た勝利に、どれくらいの価値があるのか。
皇帝はどう考えるのか。観客はどう考えるのか。そしてなにより、アーキ神はそんな戦いを勇敢だと認めるのか。
神槍は意識の隙を突かれた。
気付いた時にはルインが猛烈な勢いで接近していた。
なんの後先も考えない、防御をかなぐり捨てた圧倒的な突撃だった。
神槍は左右の短剣を抜き、合わせた。
ずぶり、と両の脇腹を短剣がえぐった。
神槍が真っ向から決着をつけることを迷わずに選んでいれば、頭を潰すことだって可能だったはずだ。
そうなれば人間である限りはそれ以上動くことはできない。
神槍の短剣はルインにさらなる致命傷をもたらしていたが、それだけだった。
女神の声は、止まらなかった。
その両手が神槍の頭部を挟んだ。
すべてが、終わりを告げた。
***
勝利を告げられると同時に、ルインは倒れた。
ネモは立ち上がり、駆け出した。
「ルク!! 一緒に来て!!!!」
叫ぶだけ叫んで、ネモは一心不乱に走る。
観覧席を出て闘技場に入り、脇目も振らずに倒れ伏すルインへと駆け寄った。
ルインの心臓部には、槍の穂先が深々と刺さっていた。
左右の脇腹には、短剣が突き刺さっていた。
どう見ても、助かるようには思えなかった。
ついてきたルクの方に目をやると、ルクは悲しげに首を横に振るだけだった。
ネモのせいだった。
覚悟はしていたはずなのに、目の前にそれが姿を現すと、罪悪感で自分を殺してしまいたくなった。
「め……がみ……さ……ま……」
喋るたびに、ルインの口からはごぼごぼと血液が流れ出ていた。
泣き出したかった。
めちゃくちゃに泣きわめいて、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、そう叫びたかった。
そうすべきでは、ないと思った。
ネモは膝をつき、倒れ伏すルインを抱きかかえた。
「か……ち……まし……たよ……」
ルインは、誇らしげにそう言った。
出来ることを、やろうと決めた。
ネモは、女神になろうと決めた。
この時だけは、この瞬間だけは、本当にルイン・フォースターの女神であろうと決めた。
「よくやってくれました、ルイン・フォースター」
ルインが、ネモの紫の瞳を見ている。
「天はあなたを迎え入れることを誇りに思うでしょう」
ルインの瞳から、涙がこぼれ落ちていた。それでも、その顔は笑っていた。誇らしそうに、嬉しそうに笑っていた。
ネモは、ルインの頭を胸に抱き寄せた。
「だから今はゆっくりと休みなさい。わたしの腕の中でおやすみなさい。ルイン・フォースター、あなたは誰よりも勇敢でした」
ルインの身体から急速に生命の気配が失われていくのがわかった。
ネモは、ルインの身体を離した。
地面へと寝かせ、瞼を閉じさせた。
そこにはもう、ルインはいなかった。
ネモは立ち上がり、観覧席へと戻ろうとした。
――――女神様、ありがとうございます。
声が聞こえた気がして、ネモは振り返った。
あるのは、ルインの亡骸だけであった。
それでも何かが違っていた。
ネモが瞼を閉じさせた時とは、表情が変わっていた。
ルインの顔には、それはそれは満足そうな微笑みが浮かんでいた。
***
「ネモ様、ロイ・ヒューリーの戦いは見ないのですか?」
シラユキだった。
観覧席を離れようとしたネモを止めたのだった。
「ロイさんは勝ちますよ。わたしにはわかります」
そう答えても、シラユキは困惑しているようであった。
「それは……そうとしても……ネモ様はどこに行くのですか?」
ネモは無理な作り笑いをした。
まだ、涙は流れていないと思いたかった。
ネモはシラユキに、震える声でこう言った。
「わたしは、人のいない場所で泣いてきます」