53.決意表明
聖戦まで、あと一週間と迫っていた。
病院は、薬の匂いがした。
壁も廊下も真っ白な空間に、赤い夕日が差しこんでいた。
ネモは病室の、ベッドの横で佇んでいた。
二度目のお見舞いだった。
ベッドの上には、ツツジが横になっている。
穏やかな寝息を立て、見ただけでは眠っているようにしか見えない。
こうして話さないツツジを見ていると、なんだか別人のように感じる。
ネモのせいで、こうなってしまったのだけれど。
昏睡の原因は頭へのダメージらしかった。
医者が言うには、時間が解決してくれる可能性が高いらしかったが、確たることはなにもわからない。
ルクにも治療を頼んでみたが、治せる範囲では異常がわからないらしく、結局は今も昏睡状態が続いていた。
もしかすれば、プライマにはこの状態を治せる術師がいるのかもしれないが、今はミューズにプライマの術師を招くなど不可能であった。
最後に、ツツジの姿を見ておこうと思った。
明日からネモは、プライマへと戻る。
聖戦のために。
聖戦に挑むと宣言した以上ネモは安全だと思うが、プライマへと移動をするのは直前にと決めていた。
明日には、サザンカと、ロイと、ルインを連れてプライマへと跳ぶことになる。
ヒューゴ卿との合流は、現地の帝都で、ということになっていた。
ネモはツツジに話しかけるでもなく、ただ座ってツツジを眺めていた。
奇跡が起きて今すぐ目を覚まさないかな、そんな夢のようなことを考えはするが、現実はそれほど甘くなかった。
仮に目を覚ましたとしても、その先がどうなるかはわからない。
帝国と決着をつけない限り、ネモは常に脅威の中心となる。
なにを犠牲にしてでも、帝国がミューズに対して優位性を得ようとするのをやめさせなければならない。
なにを犠牲にしても、だ。
ネモはその覚悟を完全なものにするために、最後にツツジの顔を見に来たのだ。
自分でもどうかと思った。
まさしく犠牲になったツツジを目にして、他の人間が犠牲になる覚悟を決めようとするなんて。
それでも、ツツジに意識があったらこう言ってくれそうな気がする。
――――ネモの役に立てるなら、僕はなんでも嬉しいよ。
サザンカが、死ぬかもしれない。
ルインが、死ぬかもしれない。
ロイが、死ぬかもしれない。
ヒューゴ卿が、死ぬかもしれない。
そして、ネモも死ぬかもしれない。
それでも成すべきことだとは思った。
帝国がミューズに侵攻する形から世界がひとつになるよりも、お互いが手を取り合った方が、絶対に良い世界になると思う。
そのために、ネモは自分を殺そうと思った。
覚悟は、決まった。
理想のために、これから起こる犠牲のすべてを受け入れようと思った。
女神の化身とネモを崇める人間がいるならば、本当に女神の化身になってやろうと思った。
この状況を女神様が見ていたとしたら、必ずミューズを守るために動くに決まっているからだ。
「行ってきます」
眠れるツツジにそれだけを言って、ネモは病室を出た。
「もうよろしいのですか? 女神様」
ルインだった。最近はミューズでの外出だろうと護衛をつけていて、その役割は専らルインの役目だった。
ロイに言わせれば「俺を除けば最適任」だそうだ。
「うん、待たせてごめんなさい」
「いえいえ、女神様のためだったら何年だって待ちますよ」
冗談と思えないのがルインの怖いところだった。
ミューズに連れてきてからのルインのネモへの尽くし具合といえば異常の一言だった。
すべての時間をネモのために使い、ネモの言う事はなんでもきいた。
休んだ方が良いと言っても「女神様のために動くのが、なによりの安らぎですから」と言って決して休まなかった。
頼もしい反面、申し訳ない気もしていた。
この人も、ネモの希望を叶えるために聖戦で命をかけて戦うのだ。
二人は病室の廊下を歩き出した。
ネモのため、であるのは間違いない。
ルインは、プライマとミューズの関係にあまり頓着がないように思える。
ネモ以外のことはすべてどうでもいい。本当に、心からそう思っているように見える。
ネモの自惚れでは、おそらくない。
ネモは他人の感情を読み取るのが得意なのだと思うが、ルインからは純粋な敬意しか感じられない。
命を救ったとて、ここまで尽くしてくれることに、疑問を感じずにはいられない。
ルインを見ると、頭一つ高い位置から、ネモに「どうかしましたか?」とでも言いたげに首を傾げていた。
「ルインさんは、聖戦に勝てたら、どうするつもりですか?」
「どうしたのですか? 突然」
「今はわたしの護衛をしてもらっていますが、聖戦に勝てばそのような必要はなくなると思います。たぶんミューズとプライマの交流が想像できないほど活発になって、そうなったらルインさんはどうするのかな、と」
「ふむ」
とルインは考え込んだ。
廊下の窓からは薄暮の気配が差し込んでいた。
点々とした星が見え始め、夕日が沈みかけていた。
「どういう形にせよ、女神様のお側に居られれば幸いと考えています」
ルインは微笑みながらそう言った。
気弱そうな顔が、いつもよりもさらに気弱な感じに見えた。
「そこまでわたしのためにしてくれなくてもいいですよ。ルインさんはルインさんのやりたいことをしてみてください。二つの世界が繋がったら、今よりもずっと楽しいことも増えますよ?」
「僕のやりたいことがそれなんですよ。僕は生まれてから今までやりたいことなんてなくて、言われるがままにアーキ密教の徒として戦って、空虚な人生を送っていました。楽しくもなく、心安らぐこともなく、意義のあることをしているとも思えず、いつか戦いで負ける日に怯えながら送る日々を繰り返してきました」
ルインが窓の外を見ていた。
プライマよりも少ない星が輝き始めている。
「そうして女神様に助けられて、ようやく僕は人生の意味を知りました。僕は今が人生の中でも最も楽しく、心安らぐ時間なんですよ。女神様のために戦うのならば、僕にとってはそれですら心安らぐ時間なんです。ですから、聖戦を終えても、もしよろしければ女神様のお側に置いていただければと思います」
複雑だったが、合計すれば嬉しいという感情になったと思う。
ネモも今までの人生を生きてきて、これほどまでに自分に尽くすと言ってくれた人間はいなかったと思う。
「わかりました。では、聖戦に勝って、その後に平和な世界が訪れても、色々と助けてくださいね」
「ありがとうございます、女神様」
ネモはルインを見て笑った。
「もう、わたしは本当に女神様じゃないんですってば」