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5.過ぎ去りし日常


 馬車は町の外に停めてあるらしい。

 なんでも、帝国の動きを悟らせないためだそうだ。

 いったいなにに対して動きを悟らせないためなのかは、ネモが聞いてもルドルフは答えてくれなかった。


 嫌な予感がしていた。

 まさかルドルフが帝国の軍人になりすました何者かで、ネモに対して危害を加えようとしている、という可能性はあるまい。ルドルフが帝国の人間であるのは間違いなさそうだ。

 ただ、なにかを隠している様子はうかがえた。それはネモを雇うのとは違った、おそらくは危険ななにかだろう。


 帝国がネモのことを職人として雇いたいというのは、信じられない話だがたぶん本当だ。

 帝国のお抱え職人。いいではないか。

 うまくやれるかはわからないが、職人としての働き口を見つけたには違いない。かえって手間が省けたというものだ。

 それに、自分が好きな職人としての道を歩めるのも変わらない。

 事態は把握しきれていないが、そう考えると悪くないのかもしれない。


 この時、ネモはまだどこか日常にいるつもりだった。

 二つの世界がこの先どのような道を歩むか、という分岐点において、その中心にいる人物に何が起こるかなどまるで想像ができていなかった。

 

 それは、町の外に出た直後であった。

 ルドルフが歩みを止めてネモに振り返る。


「この先、少し行ったところに馬車があります。そこまで行けば……」


 悪夢は、あまりにも突然舞い降りた。

 そこまで行けばどうなるかは、最後の最後までわからなかった。

 気付いた時には、ルドルフの背後に長い黒髪の、男と思しき影があった。

 

 ネモからは良く見えていた。

 一瞬前まではなにもいなかったはずの空間に、突然男が現れたのだ。

 ルドルフは背後をとられたことに気づいてすらいなかったはずだ。

 その証拠に、最後までなんの反応もできずにいたのだから。


 ネモはルドルフに知らせようとしたが、間に合わなかった。

 背後の男は手を交差させ、ルドルフの顔を挟むように動かしたかと思うと、


 ルドルフの首が捩じ切れた。


 ネモは何も理解できなかった。

 衝撃に、脳が半ば麻痺していた。

 端正なルドルフの顔が転げ落ちるのを見て、そんなことをしたら死んでしまうのではないかと思った。

 捩じ切れた首からは噴水のように出血するかと思ったのに、そこからはドクドクと赤黒い血液がこぼれ落ちるだけだった。


 男はルドルフだったものの胴体を邪魔そうに倒して、ネモに近づいてきた。


 そこで、ネモはようやく理解した。


 ルドルフが目の前の何者かに殺されたことを。


 そして、目の前の何者かの狙いは、ルドルフではなく自分だということを。


 腰が、抜けた。


 ネモは足が崩れ、その場にへたりこんでしまう。


 思い出したように悲鳴をあげようとしたが、それは叶わなかった。


「シー―――ッ」


 男はそう言ってかがみ、ネモの口に手を当てて抑えた。

 男の手からはねっとりとした血液がこびりつく感触があったが、不快感よりも恐怖が勝った。


 ネモは怯えた目で、長髪の男を見つめる以外なにもできなかった。


「お迎えにあがりましたよ、お姫様」


 男が優しげな笑みを浮かべた。

 長髪の優男で、見た目だけで言えばむしろ大人しそうにも見えた。

 その見た目があてにならないのは一目瞭然で、普通ならば魅力的に見えるかもしれない笑みも、死体の前で浮かべられると醜悪極まりないように感じた。


 意味がわからなかった。

 数秒前まで帝都で職人として生きると思っていたのに、いったい今、なにが起こっているのか。


 生まれて初めての本当の命の危機に、ネモの目から涙が溢れ出した。

 失禁していることにも気づかない。

 目の前で殺されたルドルフのことなど考える暇もなく、ただ恐怖だけしか頭にはなかった。

 笑みを浮かべる男から目を放すことができず、死にたくない、死にたくない、死にたくない、それだけしか考えられない。


「かわいそうに、随分怯えてしまって。僕が迎えに来たからもう大丈夫ですよ。アーキ密教はあなたのことを丁重に扱うつもりです。叫ばないと約束いただければこの手はお放ししますがどうですか?」


 ネモはくぐもった声を上げながら頷いた。


「よろしい」


 そう言いながら、男はネモの口から手を離した。

 口が自由になっても話すことはできなかった。

 少しでも言葉を発すれば殺されるような気がした。


「では、これより本部へ飛びますので僕の手を取ってください」


 男が優しげな笑みを浮かべながら手を差し出した。

 その様は、転んでしまった少女を助け起こすような動きであった。

 男の体が血まみれではなく、近くにルドルフの死体が転がっていなければ本当にそう見えただろう。


 町から少しだけ離れた平原で。

 空は青く。

 小鳥のさえずりまで聞こえ。

 街道には薄っすらとした草が生い茂り。

 血まみれの男が、ネモに手を差し出していた。


 ネモはその手を握るのを躊躇した。

 その手は、自分を地獄に引きずりこもうとする悪魔の手のように見えた。

 まるで現実感のない出来事が起きているのに、現実感がありすぎるのが問題だった。

 ルドルフの頭部はまだ地面に転がっていて、ネモのいる場所からは顔を見ることはできなかった。

 ルドルフの胴体からは、もうあまり血は吹き出てはいなかった。

 吐き気を催すような光景なのに、恐怖で感覚が麻痺しているのか、自分のことしか考えられなかった。


「どうしました? なんの心配もしなくていいんですよ。アーキ密教はあなたを歓迎します」


 男は再度ネモに手を取るように促す。


 男の表情から、悪意をまったく感じ取れないのがより恐怖を煽った。


 手を取らなければ殺される気がした。

 逃げようとしても殺される気がした。


 この手を取ったら自分はどうなってしまうのか、ネモにはそれすら考える余裕がなかった。

 ただ恐怖に負け、その手を取ろうとした瞬間だった。


 なにか、音が聞こえた。


 ネモには、視界の右から影が疾走ったように見えた。

 影は、ネモの目の前の男に激突し、男は冗談のように真横に吹き飛んだ。


 ネモは吹き飛ばされた男を目で追う。

 男は地面に叩きつけられるように二回転しながらも体勢を立て直し、自分を吹き飛ばしたモノに向かって対峙した。


「うーい、ギリギリ間に合ったようだな」


 品のない、少しも緊張感を感じさせない声だった。


 声の主は、無精髭を生やした、どこにでもいそうなおっさんだった。

 ネモは目の前の展開についていけず、突如現れたその男を呆然と眺めていた。

 なにが起きているのか、ひとつも理解できなかった。

 どう考えてもネモが立ち入れない状況になりつつあった。


「お嬢ちゃんが噂のお嬢ちゃんか。髪で目ぇ隠してたらなにがなんだかわからんな。それと……」


 男は、自らが吹き飛ばした相手に向き直り、


「思い切り手加減してやったがちゃんと防げたか? そこの首なしとお前さんとどっちが帝国でどっちがアーキ密教だ?」

「何者ですか、あなたは」


 長髪の優男は、明確な敵意を向けて言った。


「お前が名乗れば答えてやらんでもないよ」


 長髪の男は僅かな逡巡を挟み、


「テセウス。アーキ密教の”声”がひとりです」

「”声”が出張ってるのか、実際目にしたのは初めてだな」


 テセウスと名乗った男は警戒を顕にして構え、無精髭の男はネモから見たらただ立っているように見えた。


「それで、あなたは何者ですか」

「ロイ・フューリー。またの名をさすらいの……」


 思いつかなかったのか、一旦そこで言いよどみ、


「用心棒になるかもしれない男だ」


 ネモからしたらふざけているようにしか見えなかったが、対峙しているテセウスはネモから見てもわかるほどの驚愕の表情を浮かべていた。


「圧倒者ですか。冗談じゃない」


 そう吐き捨てるように言った。


 圧倒者。ネモですらその名前は知っていた。

 偉大と言うべきか、悪名名高きというべきかはわからないが、この世界に生きてその名を知らぬものはいないだろう。

 彼を一言で表すならば『伝説的な無法者』という表現が最も正しくその存在を表している。


「そう、珍しく冗談じゃなく俺はここにいるんだ。ところでお前さんはこのお嬢ちゃんをどうにかしようとしてここまで来てるわけだよな?」

「この世界をあるべき姿にしておくには、その少女が必要です」


 それを聞いた圧倒者は、牙を剥くように笑った。

 それだけで、場の温度が下がったような気がした。

 なにがどう変わったのかは言葉に出来ないが、場の空気が変わった。

 ネモは言いようのない息苦しさを感じた。

 

「じゃあ殺し合おうか。せいぜい頑張ってくれ」

「殺し合いませんよ」


 テセウスは構えを解いた。


「あなたと真正面から戦おうなんて思いません。逃げさせていただきます」


 言うが早いが、テセウスは自らの影に沈むようにして、その場から姿を消してしまった。


 突然の静寂。

 

 町の出口の平地に残されたのは、ネモと、ロイと、ルドルフの遺体だった。


「なんだ、つまらん」


 ロイは面白くなさそうに髪の毛をかいてネモに向き直った。


「大丈夫か? お嬢ちゃん」

「え、と、その……」


 なぜそう感じたのかは、自分でもわからなかった。


「さっきの人が、まだ襲ってくるんじゃ?」

「なぜだ?」


 なぜ、と言われてもネモはそれを説明することができない。

 それでも、ネモの中の何かが警鐘を鳴らしていた。

 自分の中に渦巻くものをネモはなんとか言語化しようとして、


「えっと、その、さっきの人の声の感じが、あ、あと、一瞬ロイさん? の影を見てたように見えましたし、なんか変な感じが、そうだ、真正面って言った時の声の感じが」


 それを聞いたロイの顔には、見紛いようのない好奇の色があった。


 その時だった。


 ロイの背後に突然ルドルフの姿が再び現れた。

 

 ネモは我が目を疑った。


 ロイの動きは、ネモが表情を変えるよりも早かった。


 ネモからしたら、目の前で突然大砲のような轟音が響いただけにしか思えなかった。

 

 なにが起きたかはロイの立ち姿が変わっていたことでわかった。


 肘だ。


 ロイが左肘を背後に放ったのだ。


 動きが見えなかったために、冗談みたいな結果だけが見えた。

 

 ネモは、人間にそのようなことが起きているとは、自分の目で見ながらも信じられなかった。


 圧倒者の肘をモロに受けたルドルフは、地面と水平にどこまでも飛ばされ、丘に激突して凄まじい轟音と共に跳ね上がり、そのまま見えなくなった。


 人間に起こってはならない出来事だった。

 生き物に起こってはならない出来事だった。

 どう考えても無事に生きていられるようには見えない。


 ロイは目の前で起きた激烈な破壊など無関心であるかのように、ネモだけを見て言った。


「なるほど、ただ愉快な嬢ちゃんってだけじゃないのかもしれんな」


 お礼を言おうと思ったのだ。

 状況はまるでわからなかったが、ネモはおそらく助けてもらったはずだから。


 しかし、体が言うことを聞かなかった。

 立とうとしても立ち上がれず、なにかを言おうとしても口が言うことをきかない。

 極度の緊張から開放されたせいか、気が遠のくような目眩を感じ、


 そこで、ルドルフの遺体が目に入った。


 首のない遺体に、そこから引きちぎられた頭部。


 一歩間違ったら、自分も辿ったかもしれなかった道。


 さっきまでは恐怖に支配されてなにも感じなかったのに、今目にしたら凄まじい不快感がこみ上げてきた。

 少し前まで話ていた相手の首が地面に転がっている。

 あたりの草は血で赤黒く染まっている。


 ネモの口からは、お礼の言葉とは別のものが飛び出た。


「おいおいおいおいおいおい!!」


 ロイの勘弁してくれという声が響く。


 筆舌に尽くしがたい惨状であった。


 そこでようやくネモは嘔吐した。

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