45.勇敢
自分と向き合う時間はいくらでもあった。
ネモはルイン・フォースターの言っていた言葉を、ずっと思い返していた。
本質。
ネモに誰かを助ける力があれば無論助けるだろうが、誰かを助けたいという気持ちはそれほど強いのだろうか。
強いかもしれない。
思い返してみると、ネモは誰かが喜んでいるところが好きだった。
自分の作品を好いてくれた人にすぐあげようとしたのも、そういったところからかもしれない。
ミューズで得た利益を、自分のためではなく子供のために使うと決めたのも、そういったところからなのかもしれない。
自分よりも、他人を優先する、というほどではないと思う。
それでも、自分は誰かが喜んでいるのが好きだ。
ネモが自分の作品を褒められて嬉しいと感じるのは、褒めた相手が喜んでくれているのが嬉しいのかもしれない。
他人の喜びを自分の喜びに変えられる、そういった気質があるのかもしれない。
それに弱いものに共感する気質もあると思う。
孤児院の支援をしようと決めたのはそこからであるし、ルイン・フォースターを救ったのも、あの瞬間はルインが弱者だったからに違いない。
そういった気質が、女神様に憧れているところから来ているのか、それとも生来の気質なのかはわからない。
本質かはわからないが、ネモは自分の行動原理の根底にそういったものがあるのは自覚した。
そして、女神様についての話だ。
女神様が勇敢。聞いたこともない考えだ。
けれども、違和感があるかと言われれば、ネモにはなかった。
むしろ、驚くほどしっくりと来ていた。
女神様に守られる人々は、あるいは臆病だったかもしれない。
弱き者を自身の存在をかけて守る女神様が、臆病なはずはないのだ。
自分は、どうなのだろうかとネモは思う。
ルイン・フォースターはネモのことを勇敢だと言ってくれた。
勇敢が、もはやわからなかった。
ネモはなにか大きなことをする時は、いつも怯えていた。
だが、それは多くの人もそうなのかもしれない。
だれもが不安を抱えて前に進んでいるのかもしれない。
勇敢とは恐れを抱かずに前へ前へと進む力ではなく、不安でも、怖くても、それでも前へと進める人間のことをさすのだろう。
もしかしたら女神様も怖かったりしたのかな、とネモは思う。
毅然と神に逆らい、弱き者のために楽園を造ったわけではなく、女神様も不安で、怖くて、自分のやっていることが正しいのかわからなくて、それでも力のない者を救いたくて、神に逆らったのかもしれない。
そう考えると、ネモの中に勇気が湧いてきた。
ネモはルインの言った通り勇敢なのか、それとも臆病者なのか。
決めるのは、ここだと思った。
今、ネモは救いようのない状況に置かれている。
ここで立ち上がれれば、ネモは本当に変われると思った。
この考えに至るまでに三日も考えた癖に、決めるのには一秒もかけなかった。
立ち上がろうと思った。
このまま帝都に幽閉されていても、なにも変わらない。
できることをしようと思った。
最後まであがいて、あがいて、あがきぬこうと決めた。
いてもいなくても変わらない存在でいることを受け入れるなんて、一度きりの人生でやることではないと思った。
錆びついていたネモの頭が動き始めた。
漠然と、ネモの理想が浮かんできた。
ネモが望むもの、一度きりの人生で見たいものは、ふたつの世界が手を取り合って笑っているところだ。
どちらがどちらを利用するわけでもなく、争うこともなく、共に前に進む世界。
そんな世界が、実現できるかはわからない。
ましてやネモごときが動いたところでなにが変えられるかもわからない。
それでもネモはやろうと決めた。
できる限り、最後まで。
――――お前はこれからしばらく世界の中心だ。
ロイ・フューリーはそう言っていた。
ならば、本当にそうなってやろうと思った。
流され流されてそういった立場になるのではなく、自分の足でその高みに登ろうと思った。
まずは、脱出だった。
ネモが軟禁されているのは帝都のジェレン城のどこかの一室だ。
出入り口はひとつのみ。
唯一の窓には鉄格子がはめ込まれている。
おそらく単なる鉄格子ではなく、魔術的な防護柵も兼ねているに違いない。ネモは感じ取ることはできないが、そうである確信はあった。
どう脱出するか。
食事は一日二回。朝夕の二食で――――
と、ネモが状況を整理している時に、目の前におかしなものが浮かんでいた。
それの大きさは手のひらサイズで、人型で、背中には羽が生えていた。
ネモはそれには見覚えがあった。
「やっほー、ネモ元気ー?」
ルクは、おそろしいほど気楽な口調で言った。
「ル、ルク!?」
「ルクでーす! いぇい!」
ルクは言ってポーズまでする。
かわいらしいといえばかわいらしいのだが、全く意味がわからない。
「な、なんでルクがこんなところにいるんですか!?」
「なんでって、そりゃネモがいるからよ」
「……助けに来てくれた、ってことですか?」
「そそ、感謝してよね。今あの馬鹿呼ぶから」
ルクが目を閉じた。
いくらもしないうちに、窓の鉄格子になにかがぶつかる音がした。
それは手だった。
まずは片手が鉄格子を掴み、次いで両手に、そうして両手で鉄格子を登り、最後には、無精髭の男が姿を見せた。
ロイだった。
人間が鉄格子を素手で捻じ曲げるのは、えも言えぬ不気味さがあった。
ロイはそこが正規の入り口であるかのような堂々とした様子で部屋に踏み入った。
「よう、嬢ちゃん、久しぶりだな」
その懐かしい声にネモは泣き出しそうになってしまい、必死にそれを抑え込んだ。
ロイがネモの紫色の瞳を見ていた。
「なんだ、元気そうじゃないか」
「なに? ネモが元気だと不都合でもあるの?」
「いんや、いくらか励ましの言葉を考えてたからな。無駄になってつまらんって話だ」
「励ましてくれてもいいんですよ?」
ネモは言った。
ロイは笑った。
「嬢ちゃんを励ます必要がある時に聞かせてやるよ。さて、嬢ちゃんが真っ先に知りたいだろう話をしてやろうか。良いニュースと悪いニュース、ふたつあるがどっちから聞きたい?」
「悪い方で」
「例の色男は未だ意識不明だ」
静かな驚きと、同じくらいの安堵があった。
ツツジは生きているのだ。
どんな形にせよ。
ネモはそのことを女神様に感謝した。
「じゃあ良いニュースは?」
「色男は生きてる」
「意味ないじゃないですか! わかってますよ!」
「ばっかお前悪い方から聞くヤツがあるかよ!! 普通良い方から聞くだろ信じられん」
「ほらほら馬鹿やってないで!!」
ルクが嗜めるように言った。
「おっと、そうだった。あの格子には結界も貼ってあった。じき気付かれて衛兵なりが来るだろう。俺は嬢ちゃんをミューズに連れて行くつもりだ、それでいいな?」
その目は、ただ連れて帰ることを伝えているものではない気がした。
ロイ・フューリーの目はきっとこう語っているのだ。
――――戦う気はあるか。
と。
ネモはロイの目に射抜くような視線を向けた。
迷いなく、力強く、決意を込めた口調で言う。
「お願いします」