44.貴方の本質
一日が経ち、二日が経ち、三日が経ち四日が経ち五日が経ち、日を考えるのをやめ、出された食事を僅かに食べて、あとはベッドで伏しているだけの生活をネモは送っていた。
ミューズでの生活が夢であったかのような気がし始めていた。
あまりにもすべてが上手くいき、あまりにも都合が良すぎた。
自分の記憶を疑い始めていた。
もしかして今までの出来事はすべてネモの妄想で、現実は最初からずっと帝都に幽閉されていたのではないか。
寝れば悪夢にうなされ、起きていてもなにをするでもなく、ひたすらに無意味としか言いようのない時間を過ごしていた。
ある晩のことだった。
夕食を一部だけ食べ、すぐに食欲がなくなり、ネモはまたベッドに伏していた。
今日は、食事を下げるのが遅いように感じた。
いつもならば半刻しないうちに食事が下げられるのだが、今日はそれだけの時間が経っても給仕は来ていなかった。
ネモは違和感を感じつつも、どうでもいいだろうと気にしないことにした。
そういう日もあるだろう。
ややあって、扉がノックされた。
ネモは返事をしない。
このノックは入るということを知らせるものであり、ネモに入ってもよいかをきいているノックではないからだ。
それなのに、今日は二度目のノックがあった。
なにかが変だった。
ネモは応えるべきか考え、考えているうちに扉が開いた。
一人の兵士が部屋へと入ってきた。
鎧兜で顔はわからない。
なにかの事情で兵士が食事を下げに来たのかとも思ったが、兵士は食事をしたテーブルには興味を示さず、一直線にネモの元まで来た。
ネモはベッドから身を起こした。
この部屋に幽閉されてから、ネモが誰かに声をかけられた事は一度もない。
最初に一方的なルールが説明されただけだ。
伝えるべきことがあるのかもしれず、ベッドに伏したまま対応しようとするのはいくら無気力であろうともネモには憚られた。
兵士はネモの前にまで来ると、兜に手をかけ、わざわざその兜を外して素顔を見せた。
青年だった。
年若い、気の弱そうな、おおよそ兵士には向いてなさそうな人相の男だった。
青年は言った。
「アーキ密教が”声”のひとり、ルイン・フォースターです」
ああ、とネモは思った。
これが自分の終わりなのだと。
アーキ密教は滅びておらず、執念深くネモを追い、こうしてついにここまで来て、自分を亡き者にするのだろうと。
それならそれで良い気がした。
もう疲れてしまった。
ロイがネモを世界の中心だと言っていたのを思い出す。
そんなことはなかったと思う。
自分はもういてもいなくても変わらない人間だ。
もしかしたら、生き延びるとまた誰かに迷惑をかけるかもしれない。
ミューズにまで争いを呼び込んで、ツツジを犠牲にしてしまったのだから。
ルインが動いた。
ネモは覚悟を決めて眼を瞑った。
怖いもの見たくなさに眼を瞑るというよりも、寝る前に穏やかに瞼を下ろすような感覚だった。
一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、三秒が過ぎた。
五秒が過ぎ、七秒が過ぎ、十秒が過ぎた。
最後は、訪れなかった。
目を開くとルインが跪いていた。
ルインは、ネモが目を開いたのを確認して口を開いた。
「女神様、お救いに参りました」
なぜアーキ密教が、と思う前に口が動いた。
「わたしはもう、いいんです……」
ネモは首を振った。
「なぜですか?」
ルインは心底不思議そうにしていた。
「わたしが動いてもなにもいいことはないんです……だからわたしはもう……」
ルインはなにかを言おうとしていたが、それを飲み込み、穏やかな笑みを見せていた。
「わかりました。無理に連れ出そうとは思いません。ですが、僕の話を聞いてもらえますか?」
ルインの口調は優しく、ネモを安心させるものがあった。
ネモはコクリと頷いて肯定を示した。
「まず、僕が誰だかわかりますか?」
ネモが首を振ると、ルインは少し残念そうな顔をした。
「門で貴方に救ってもらったものですよ」
ネモはルインの顔をまじまじと見る。
記憶が蘇ってきた。
サザンカと戦った、あの青年だ。
そしてネモが救い出した。
ネモはあのときの自分の醜態を思い出し、今すぐ布団を被って顔を隠したい衝動に駆られた。
「女神様は自信をなくされているんですよね?」
「そもそも、わたしは、女神なんかじゃありません」
馬鹿げていると思った。
わざわざ強くは否定しなかったが、常々そう思ってきた。
瞳の色が似ていて、容姿も多少なり似ていて、それだけで化身扱いするなどどうかしている。
ネモはただの臆病者で、そんなに尊いものではないのだ。
「いいえ、貴方は女神様の化身です」
ルインの瞳に、一瞬だけ狂気と盲信の色が見えた気がした。
「僕の身の上話からしましょうか」
ルインは立ち上がって食卓により、椅子をベッドの近くまで持ってきて座り、楽な姿勢を取った。
「僕は子供の頃から、アーキ密教の教義に納得はできていませんでした。『どれだけ勇敢に戦ったかで、天国での地位が決まる』それが本当なら僕は間違いなく地獄行きですからね」
ルインは自嘲気味に笑った。
「僕がアーキ密教に属していたのは、単に両親がアーキ密教の信者だからというだけでしかありませんでした。僕は臆病者で、戦いなんて嫌いでした。傷つけば痛いし、負ければ死ぬ。痛いのは怖いし、死ぬのはもっと怖い。そんなことを望んでする人間が信じられませんでした。しかし、不幸なことに僕には戦いの才能があった。両親は喜びましたよ。僕は戦って、戦って、戦って、勝って、勝って、勝って、気付けばアーキ密教の最大戦力である”声”のひとりにまで上り詰めていました」
ネモはいつの間にか目の前のルインの話に引き込まれていた。
戦いを生業としている、ロイのような類の人間が、傷つくのも死ぬのも怖いと言っている。
そのことに途方もない衝撃を受けた。
「そんな地位になっても、アーキ密教の考え方はなにも理解できませんでした。強さが勇敢に繋がらないなんて、自分で一番わかっていますからね。僕は自分よりも弱い相手としか戦わなかったし、強い可能性がある相手からは上手く立ち回って逃げてきました。僕が勇敢でないのは間違いありませんし、僕より弱くても勇敢な人間がいくらでもいるのはわかっていました」
ルインは、ネモの紫色の瞳を見つめた。
「それを最もわかりやすい形で示してくれたのが貴方ですよ」
「わたし……?」
「僕を救ってくれたじゃないですか」
違う。
あの時、ネモはこれ以上自分のせいで誰かが犠牲になるのが嫌だっただけだ。
自分の後ろめたい気持ちを避けるために助けたに過ぎなかったはずだ。
そんなに立派なものではなかったのだ。
「あれは……ちがいます……」
「違いませんよ」
「わたしは……ただ自分のせいで誰かが死んでしまうのが嫌なだけで……」
「それだけではないですよ。それだけであんなことはできません。今でも貴方の言葉は僕の魂に刻まれているんです」
「わたしの、言葉……?」
「覚えていないのですか?」
覚えていない、というよりも、言っている最中ですらなにを言っているのかわからなかったのだ。
ルインを次元の狭間の壁から引き上げようとしながら、恐怖に慄きわけのわからないことを口走っていたはずだ。
「わからないです」
ルインは優しくわらった。
「ならなおさら、それが貴方の本質なのですよ。やはり貴方は女神の化身だ」
ルインは一人で納得し、嬉しそうというよりは恍惚と言っていいほどの表情を浮かべていた。
「わたしは、なにを言っていたんですか?」
ルインは本当に嬉しそうだった。
「ずっと、僕を励ましていたんですよ」
「……え?」
「僕とそう歳の変わらない女の子が、怖いのを隠そうともせずに、べしょべしょに泣きながら、それでも僕を助けようとして『絶対に助けますから! 諦めないでください! 大丈夫ですから!』ってずっと僕を励ましてくれたんですよ」
なにも覚えていなかった。
あの時は必死で、本当になにを言ったのかわかっていなかったのだ。
作り話ではないかとネモは疑ったが、ルインの顔を見るに、それは万に一つもなさそうだった。
「怖くても、恐ろしくても誰かのために動ける。それこそが『勇敢』で、貴方こそが勇敢なんですよ」
ネモが、勇敢。
考えたこともない概念に頭がついていかない。
「それで僕はわかったんですよ、女神様の伝説が。女神様は弱き者を救うために神に背きました。あれこそ女神様が勇敢という話なんです。だってそうでしょう? 神に逆らうんですから、臆病な者が神に逆らう意味がわかりませんし、それが自分のためでなく他人のためだとすれば、さらに意味がわかりません」
ルインの瞳には、やはり盲信とも言える光が宿っているように見えた。
「恐れを乗り越えて僕を助けた貴方はその化身に違いありません。その美しい瞳を見て、さらに確信が強まりました」
ルインは立ち上がった。
「休むのもいいと思います。ですが自分の本質は忘れないでください」
ルインは兜を被り、再びその顔を隠した。
「貴方は立ち直れますよ。その時は必ずお力になります。ですから、僕を忘れないでください」
ルインはそう言って去っていった。
食事の片付けは、翌日の朝まで訪れなかった。