42.人気者
気絶させられていたのだと思う。
どれくらいの時間が経ったのかもわからなかった。
最初に気付いたのはベッドの感触で、目を開けると見知らぬ場所にいた。
広い部屋で、構造は石造りであるように見えた。
調度品はどれも木製で、アンティークを思わせる。
床に敷かれた絨毯は赤で、プライマの貴族趣味を思わせた。
ネモはベッドから起き上がり、ぼんやりと考える。
記憶が押し寄せるように蘇った。
自分が連れさられたことを思い出して、どうしようもない脱力感が全身をなでまわした。
ツツジが無事であったのか、それすらもわからない。
無事を確認したかったが、それを知るすべはなさそうだった。
ここがどこかもわからない。
プライマ、なのだろう、おそらく。
帝国の人間がどうやってミューズに侵入していたのか、それもわからなかった。
なにもかもがわからず、その場で暴れ出したい気持ちに駆られ、そのあとには無力感から泣き出したい気持ちに襲われ、最後にはツツジが死んでいたらどうしようとネモは泣き出してしまった。
現状を把握してできることを考えなければならないのはわかっていたが、精神状態がそうするのを許さなかった。
ネモはそんなに強い人間ではないのだ。
ノックすらなかった。
突然部屋の扉が開いた。
そこから姿を現したのは、ふたりの兵士であった。
鎧と兜で中身がどんな人間なのかはわからないが、体格から男性であるのはわかった。
兵士がベッドのネモに近づき、ネモは反射的に縮こまってしまったが、兵士はお構いなくネモの腕を引き、無理やりに立ち上がらせた。
「着いて来い」
有無を言わせぬ口調でそれだけを言って兵士は歩き始めた。
恐ろしかった。
ネモは今、ひとりぼっちだった。
守ってくれる人間は誰もいない。
そんな中で、ふたりの兵士は途方もない脅威に思え、逆らった時のことなど想像したくもなく、ただただ着いていくしかなかった。
ひとりの兵士が先導し、そのあとをネモが続き、最後にもうひとりの兵士が続くという隊列で動いた。
かなり大きな建物だというのはすぐにわかった。
廊下を歩き、階段を登り、ネモはここがある種の城であることを見て取った。
城。
帝国の城だ。
帝都の主城か、それともどこか別の場所の城か、プライマの城なのは間違いない。
そこから、どこへと連れて行かれるのかは予想できた。
階段を登り、窓からそこが最上階にほど近いのがわかった。
外の天気は晴れで、日はまだ高かった。
時間の感覚はまるでないが、どうやらまだ昼であるようだった。
目的の階を進むと、他よりも一際豪華なホールに出た。
ホールの奥、凝った造りの扉を開け、その先へとネモは進んだ。
予想は、当たった。
玉座の間だ。
紅に金をあしらった絨毯、正面の壁には巨大な帝国旗、そして一段高くなった床には、玉座があった。
その玉座には、ひとりの男が座っていた。
誰だかは一目でわかった。
皇帝だ。
リベリウス四世。
見た目は、かなり若く見えた。ネモの記憶が確かなら皇帝は三十代であったはずなのに、二十代にしか見えなかった。
その顔には高貴と傲慢が共存しており、ネモを見る瞳には見下した色が濃くあった。
皇帝の前まで進み、兵士がネモの左右に分かれ跪いた。
わけがわからずにネモが呆然としていると、左右の兵士がネモの腕を掴み、頭を掴んで強引に跪かせようとした。
「よいよい、余は寛大だ。田舎娘の礼儀知らずは大目に見ようではないか」
皇帝の目には、愉悦とも言える光が輝いていた。
「ネモフィラ・ルーベルだな? なるほど、女神の化身と言われるのも納得だな」
皇帝の金色の瞳が、ネモの紫色の瞳を見据えていた。
「余が誰だかはわかるな?」
「わかります」
リベリウス四世、プライマ最大の国家の王。
「結構。では余がなぜお前をこうして連れ戻したかはわかるか?」
「わかりません」
皇帝は笑い、
「嫌われたものだな。検討くらいはついているだろうに」
もちろんミューズとの交渉に、ネモを使うつもりなのだろう。
当初の予定通り。
ネモの作る陶器を餌に、ミューズとの国交を復活させようという腹に違いない。
覚悟を決める必要があった。
一目見てわかった。
この男は、絶対に共存など目指さない人間だ。
野心の権化。自分がこの世で最も権力を持っていないと気がすまない男だ。
ネモは本能的にそう感じた。
だから、なにがなんでも協力をしない覚悟を決める必要があった。
この男に協力をしてしまったら最後、遠い未来ミューズは帝国の手に落ちるという予感があった。
今はもう、ネモは自身の影響力を理解していた。
ネモの作る陶器は、おそらく外交の切り札になりえる。
最初は信じられなかった話だが、ミューズで実際に反応を見続けて、ようやくそれを信じることができた。
なればこそ、絶対に協力してはならないと思った。
「ネモフィラ・ルーベル。余の元で働くつもりはないか?」
この世界で皇帝に逆らうということは、極刑になってもおかしくないものだ。
怖くないと言えば嘘になる。
ミューズに滞在した時間と、自分が世に影響を与える存在だという自覚と、それに自暴自棄がネモを動かした。
ネモは、ひとつ大きく呼吸をいれてから言った。
「お断りいたします」
部屋の空気が変わった。
特に左右の兵士から、明確な敵意が感じられた。
皇帝からの感情は、わからなかった。怒っているようには見えない。
わずかに驚いた様子に見えたが、予想外ではない、そういった表情なのかもしれない。
「ほう、なぜだ?」
「皇帝閣下からは、ミューズと共存する意思を感じられないからです」
「なにを言う。余は……」
そこで皇帝は自分の言おうとしていることに笑うような声を上げた。
「いや、やめよう。貴様の言う通りだよ。余はいずれ女神の国を我が物にしたいと思っている」
皇帝の金色の瞳には、野心と欲望が渦巻いているように見えた。
ネモは猛烈に嫌な予感がした。
ザクロと対峙した時のことを思い出していた。
悪党が正直になったときは、勝利を確信している時なのだ。
「だが、我が国は女神の国に比べて遥かに遅れていてな。まずはその技術差を埋めなければならない。それには自ら研究するより、教えを請うほうがよほど早い。お前の存在はその交渉でおそらくは最強のカードだ」
熱に浮かされるように頭が熱かった。
現実味がなかった。
田舎の職人見習いでしかなかった自分が、皇帝と言葉を交わし、しかもその皇帝の願いを拒否するのだから。
「わたしは、帝国のためには、どんな作品も絶対に作るつもりはありません」
「絶対、な」
皇帝の笑みは不気味であった。
子供が捕まえた珍しい昆虫に見せるような、そんな目をしている。
「我が国には色々と自慢できるものがある。一般には軍事力こそ我が国最大の長所だと思われているが、その言い方はかなり雑だと言わざるおえん。実のところ、我が国では騎士より魔道士の方が自慢でね。癒やし手の質を高める方策は、父が提唱し最大の成果をあげた運用論だ。我が国は兵士の損耗を抑えることでこれだけ強大な国になったと言っていい」
なんの話をしているのだろう、とネモは間の抜けた顔で皇帝の言葉を聞いていた。
「つまり癒やし手の質は間違いなくこの世界で最高のものだということだ。女神の国にも負けないだろう。中でも審問隊の癒やし手は指折りだ。皮を剥がそうと、指を切り落とそうと、歯を抜こうと、肉を焼こうと、目を抉ろうと治すことができる」
「なんの話をしているのですか?」
「お願いの仕方の話だよ。癒やし手が優秀だから何度でも、何度でも、何度でもお願いできるわけだ」
恐怖が、顔に出たと思う。
皇帝はネモを見て満足そうな笑みを見せていた。
拷問。
考えていなかった。
死刑は考えていたくせに、拷問についてはなにも考えていなかった。
ネモは自分が傷めつけられるのを想像し、顔を青くした。
「冗談だ」
「え?」
「なにもせんよ。別に協力などしなくていい」
皇帝は、どうでもいいことのように言っていた。
「お前はただここにいるだけでいい」
良い予感は、なにもしなかった。
「人気者になりすぎたな」
皇帝は、ネモをいたぶって遊んでいるのだ。
それがわかった。
なんの意味もなく、ただ娯楽のために。
「向こうでは国民の半分以上がネモフィラ・ルーベルを女神の化身だと信じているみたいじゃないか。諜報部の話によればその影響力は凄まじいそうだな。ならばいるだけでも十分だ」
ネモは、ただ絶望の眼差しで皇帝を見ているだけしかできない。
「こちらはただ国交の再開を頼めばいい。要求を飲まない場合、ネモフィラ・ルーベルがどうなるかわからないぞ、と匂わせてね。どこまで有効かは余も疑問だったが、すでに話は進み始めている。だからわざわざ余の前に呼び出したのは、礼を言うためなのだよ」
皇帝はサディスティックな笑みを浮かべて、言った。
「ネモフィラ・ルーベル。人気者になってくれてありがとう」