40.過去からの足音
ネモは、プライマからミューズへと逃げてきたのだ。
ネモはそのことを忘れかけていた。
なにせミューズでは、なにもかもが上手くいっていたのだから。
その眩しい生活に、目が曇っていた。
自分の見えているものが、世界のすべてだと思い込もうとしていた。
そんなはずはないのに。
元いた世界が見えていなくとも、それは依然存在しているのだ。
目を背け、見えないふりをし、もう元いた世界とは関ることはないのだと、そう思っていた。
そんなはずはないのに。
***
ツツジと遊園地に行った。
ネモは、あんなに遊んだのは生まれて初めてかもしれなかった。
遊ぶためだけに用意された敷地などプライマにはありはしない。
ネモは夢中になって、こどものように一日中遊んだ。
ツツジと一緒に水族館に出かけた。
水の中の生き物はネモにとって真新しかった。
この魚は食べられるのか? といちいち聞くネモをツツジは笑った。
ツツジと動物園に行った。
見世物小屋と同じ分類になるのだろうが、規模がまるで違っていた。
かわいい動物、おっかない動物、珍しい動物、ネモは色々なものを見た。
ツツジと舞台を見に行った。
ツツジと美味しいものを食べに行った。
ツツジと、ツツジと、ツツジと色々な場所に出かけた。
夜。
お風呂から出て、寝室のベッドでのんびりとしているところに、扉をノックする音。
「入って」
シラユキが扉をあけて入ってくる。
「ツツジ様からの念話ではありません」
ネモはシラユキのからかいを無視して、
「誰から?」
「ロイ・ヒューリーです」
ロイから、念話というのは珍しい。
まさかまた借金の催促ではあるまいなと訝しむ。そういえば前に貸した借金を未だ返してもらっていないことを思い出した。
ネモは自分の端末を取り出す。
シラユキからの送信でロイからの念話であるという表示が端末上に浮かんだ。
「もしもし?」
「おう、嬢ちゃんか、この前は出てやれなくてすまなかったな」
「いえ、その件はロイさんがいなくても大丈夫だったので」
「そいつぁ良かった。ところで俺がなにをしているかはサザンカから聞いてるか?」
「詳しくは聞いてません。なにかリの国からの仕事をしているという話だけしか」
「まあそんな感じで、色々厄介事がないか嗅ぎ回ってるわけだが、どうもきな臭い」
「なにがですか?」
「帝国が動いてる」
ネモは、その名を久々に聞いた。
「帝国ってあの帝国ですか?」
「他の帝国がどれだけあるか知らんが、たぶんそれだな。どうも向こうでのゴタゴタが片付いたらしく、こちらの世界にまた働きかけてるようだ」
「ゴタゴタって?」
「アーキ密教関係だろうよ。けっこうな規模の争いになったみたいだぞ。それが片付いて、安全が確保できたんでまた仲良くしましょうってな。こっちの世界の連中は渋ってるがどう転ぶかはわからん」
「というと?」
「今のところ交流の再開をと要求してるだけだが、場合によっちゃお前が絡んでくるって話さ。帝国にとっちゃお前が望んでこの世界に来たのなんて関係ないからな。うちのお姫様を返せってとこから攻めることもできるわけだ。だから気をつけておけ、色々とな」
ロイの話はどこかおかしかった。
肝心なところをぼかしているような、そんな印象を受けた。
「色々ってなんですか?」
「傍受って知ってるか?」
「ぼうじゅ?」
「念話ってなぁ完璧じゃない。こうして念話機の補助を受けようと、生身でやろうとそれは同じだ。念話ってのはうまいことすれば話してる内容を拾えるのよ」
つまり、ロイの色々には盗み聞きされては困るようなものが含まれているということか。
一体誰に。
「だからまあ気をつけろとだけ言っておく」
「わかりました」
「いい子だ。ルクも会いたがってる。そのうち会いに行くと思う」
それだけ言ってロイは念話を切った。
良くない予感がした。
帝国。
忘れてた過去が追いついてきたような気がした。
平和な共存、あるのだろうかとネモは考える。
初めのうちはミューズがプライマを助ける形になるとは思うが、お互いが助け合い、ともに発展していく未来があるのだろうか。
今は限られた者しか行き来できないふたつの世界を、誰もが行き来できる日が来るのだろうか。
プライマはプライマで、良いところも多い。
プライマにも最近ツツジと出かけているような行楽に適した場所などいくらでもある。
それどころか、ミューズの技術が伝われば、プライマが最高の観光地に発展するなんてこともあるのではないか。
想像してみる。
プライマの空を飛空艇で飛び回る自分を。
プライマには自然の脅威とでも言うべき場所がいくらでもあるはずだ。
伝説でしか語られないような場所でも飛空艇でなら簡単にたどり着けるはずだ。
子供の頃憧れた秘境を体験する。そのような経験だってできるかもしれない。
プライマの民はミューズの進んだ魔学による娯楽を楽しみ、ミューズの民はプライマの大自然を楽しむ。
そういう未来が実現したら、どんなに素晴らしいだろうとネモは夢想した。
けれども、そうはならないような気がした。
帝国が――――
シラユキが、再び部屋に入って来たことで、ネモの思考は中断された。
「ネモ様、いつものです」
誰からの念話かはすぐわかった。
端末にツツジの名前が表示される。
今日は忙しい日だ。
「はい、どうしたんですか?」
「こんばんは、またちょっとお誘いの念話でね」
「またですか? まあ、いいですけど」
「明日の夜八時に、首都の中央公園でどうかな?」
「そんな遅くになんで公園なんですか?」
「いや、ちょっと大事な話があってね」
ネモは察した。
だから深くは聞かなかった。
「わかりました」
「よかった、じゃあ明日公園で八時に」
ツツジにしては短い念話だった。
ネモは鼓動が早くなり、居ても立ってもいられないような気分でベッドに仰向けに寝そべって、ごろごろと落ち着かない寝返りを繰り返した。
大事な話。
ツツジはそういった。
首都の公園はネモとツツジが初めて出会った場所だ。
つまりそういうことなのだろう。
たぶん、正式にお付き合いしてくださいとか、そういった類の話だ。
どうしようどうしようどうしよう。
ネモは枕を抱きしめてベッドの上で寝返りを繰り返す。
もしかしたら、プロポーズということもあり得るかもしれない。
ネモとツツジは、今のところかなり親しい異性というだけなはずだ。
ネモのツツジに対しての感情は、正直なところよくわからなかった。
恋愛感情があるかないかと聞かれたら、あまりないような気はする。
ツツジという人間が好きか嫌いかで言えば、好きに入るだろう。
ツツジのネモに対しての感情は、まず間違いなく恋愛感情だ。
ネモの方から、わたしが好きなのかなどと自惚れた質問はしたことがないが、その感情を隠すつもりがないのは見ていてわかる。
それはつまり、最終的には結婚をしたいということなのだろうか。
考えたこともなかった。
結婚。
プライマでは異性とほとんど喋らなかった。
師匠以外の人間からは、不気味な女としか思われていなかったはずだ。
そんな自分が誰かに好かれる。
そのことに、ネモはどうしようもない幸福を感じた。
たぶん、正式なお付き合いを、という話だとは思う。
ただ、そういった話を受ける受けないに関しては、その先に繋がっているものを意識して考えた方がいいと思ったのだ。
誰かに相談したかった。
ユリか、サザンカか。
シラユキはそういった類の話はたぶんできないだろう。
他に自分が相談できそうな人はいないか。
ロイ、はないだろう。
正直まともな答えが返ってくるとは思えない。
そこで、ネモはさきほどのロイの言葉を思い出した。
――――色々と気をつけろ。
色々と、とはなんだろうか。
ネモは浮かれていた気分から、急に冷静になった。
まさか外出してはいけないということはないだろうが、なんだか良くない予感がした。
ロイはどのようなつもりでネモに忠告したのか。
なにを気をつければいいのか。
ネモの中で嫌な予感だけが膨らんでいった。
明日はやめておいて、ロイに直接会って話を聞くべきでは、なぜかネモはそう思った。
そうするとなると、明日ツツジと会う約束は断るべきなのだろうか。
それも良くない気がした。
ツツジの立場になって考えると、大事な話をすると言って一度は了承され、そこから改めて会うことを拒まれたとなれば、間接的に断られたと考えてしまうのではないか。
念話が切れてからネモが察して、断るのは嫌だからそもそも会わない、そういった選択をしたと思われてしまわないか。
かといって、念話で大事な話とやらを聞かせるように言うのも違う気がしたし、嫌な予感がするので会うのを先延ばしにしてくれと頼むのはもっと違う気がした。理由が説明されておらずに意味不明だ。
大丈夫だろう。きっと。
ネモはそう結論付けた。
それよりも重要なのは、ツツジの大事な話とやらにどう返すかを想定しておくことだ。
ネモは寝支度を整え、ベッドの上で悶々と考える。
その日はなかなか寝付けなかった。
思考の間に、ロイの言葉が何度も思い出された。