39.ババを引くのは
扉を閉めて、麻痺していた恐怖と興奮が一気に来た。
ネモは水中から浮き上がって第一にするような大きな深呼吸をする。
「どうだった? 結構長かったけど上手くいった?」
なにも知らないツツジが気楽な様子で話かけてくる。
上手くいったと言えばいったのだろう。悪い予感は当たり、すべてはネモの思い描いた通りに運んだ。
まさかネモに自分のものになれ、などというまでは予想できなかったが。
あれはどういうつもりだったのか。プロポーズというやつなのか。
悪寒が走った。
ザクロはどこか正気ではなかった気がする。
なればこそ、ネモは急がなければならなかった。
「ツツジさん、すぐ帰ります。護衛、お願いします」
「もしかしてなにかまずいことでもあったの?」
「わからないです」
ザクロができることはもうほとんどないが、残された手段に強行策がある。
ネモを、この場で亡き者にしてしまう手だ。
どうなろうと知ったことはないの精神で、一矢報いようとする可能性は十分にある。
ミューズの人間がやるとは思えないが、警戒するに越したことはない。
それに、ネモの悪い予感はどうにも当たる。
そうなってしまったら、ツツジだけが頼りだ。
「ツツジさんって、どれくらい強いですか?」
「今それを聞くのかい?」
「聞きます。例えば複数人の訓練された人間を相手に、わたしを守りつつ殺さず無力化できますか?」
ツツジがソファーから立ち上がり、考え、
「複数相手に無力化は難しいよ、大きな隙があればわからないけど」
ネモはひとり先んじて通路へと進み、背後から慌ててツツジが着いてくる気配。
感覚が鋭敏になっているのを感じた。視界がやけにクリアで、後ろにいるツツジの表情までわかる気がした。
昇降機を使うのはどうなのだろうか。待ち伏せにあうかも知れない。非常階段のようなものはないかと探すと、展示室の左手壁際に金属製の扉があるのが見えた。
いや、心配し過ぎかもしれない。
ネモは興奮しすぎて妄想に取り憑かれている。
どういった理由で争いになると考えているのか。いくらなんでも悲観論者が過ぎる気がした。
自らをたしなめ、昇降機を目指して歩こうとしたその時だった。
チン、という間抜けな音が部屋に響いた。
昇降機が十二階へと到着した音だった。
昇降機が開くと、中から三人の男が現れた。
三人の男は逞しく屈強で、どう見てもカタギの社員には見えなかった。
その根拠はいくつもある。
ひとつ、灰褐色のアーマーを着ている。
ふたつ、ネモを目にして、三人のうち二人が左右に展開し、囲むような陣形を取った。
みっつ、その手には世にも恐ろしい魔道銃が握られていた。
ネモも見たことがある武器だ。
映像機で放送されているアクションではよく使われる定番ではあるし、なによりサザンカが実物を使うのを目の前で見ていたことがある。
ツツジがネモを庇うように前に出た。
「おいおいおい、いったいなにをやらかしたんだい?」
妙だった。
こんな場面でありながら、危機感をまるで感じないのだ。
この三人はおそらくネモを消すか、どんなに良くても拘束するような命令を受けているはずだ。
それなのに、この三人からは戦意を感じないのだ。
見た目を取り繕っただけで中身がないかのような猛烈な違和感。
魔道銃を構えてこそいるが、むしろそこから感じられる感情は、恐怖であるように思えた。
ネモは囁くような声で自分を庇おうとするツツジに言った。
「無力化してください」
そもそも、ネモを殺害しようという意思が明確ならば、昇降機が開き、ネモの姿を目にした時点で撃ってしまえばよかったはずだ。
「隙、作れると思うので」
***
カタバミはザクロ社の警備員である。
だが、それは表の顔でしかない。
裏の顔はと言えば、どんな汚れ仕事もこなすエージェントだ。
ザクロ社にはこういった仕事屋がいくらでもいるのだ。
そんなカタバミは、ある日突然リの国の支社へと配属になった。
支社での始めてのミーティングでは、十人のエージェントが集まっていた。
これは、異例の事態だと言えた。
基本、エージェントは顔を隠すものだ。
普段は一社員として社内に潜み、必要とあらば仕事をする。
仕事をする時は単独であり、複数人でチームを組むことはない。
もしかしたらチームで行動する部門も存在するのかもしれないが、少なくともカタバミはそんな噂を聞いたことはなかったし、こうして集会で自分以外のエージェントを目にしてそんなものは存在しない確信を得た。
ただごとではない事態に違いなかった。
なにかろくでもない汚れ仕事をやらされるだろう予感があった。
会議室に十人が集まってすぐに、ひとりの老人が入ってきた。
年齢の割には背筋の伸びた男で、歩きはきびきびとしている。
その男は、こう告げたのだ。
「君たちには、場合によってはネモフィラ・ルーベルを消してもらう」
耳を疑った。
ネモフィラ・ルーベル。
その名前はもはやミューズで知らないものはいないだろう。
異世界から来た女神の化身。
稀代の芸術家。
それに、カタバミのアイドルでもあった。
その証拠に、カタバミが服の下にかけているペンダントには、ネモフィラ・ルーベルの写真が入っている。
冗談ではなかった。
なにかの間違いであってほしかった。
そんな依頼は受けられない、受けたくない。
できるだけ表情に出さないように周囲の様子を伺うが、カタバミ以外の全員が無言の了承を示しているように見えた。
断ることは、出来ないのだ。
拒否すればおそらくカタバミも消される。
万一消されなかったとしても、もう真っ当には生きられないほどの汚れ仕事をしている。
この仕事の最も悪い点は、後戻りができないことだ。
カタバミは、なにも言う事はできなかった。
決行する可能性のある当日になって、カタバミたちはリの国の支社の六階の、警備員控え室で待機していた。
広い、仮眠室として使われる部屋で、八人のエージェントが待機していた。
ミーティングの時から二人が欠けていた。どこか別の場所に配置されているのかもしれない。
部屋にいた八人は誰も喋らなかった。
各々が神経を研ぎ澄ますように、緊張感をその身に留めるように座っていた。
カタバミが祈るのは、決行に至らないことであった。
あの男は「場合によっては」と言っていた。
それはおそらく、社長とネモフィラ・ルーベルとの間で、なんらかの不和が発生した時だろう。
そうならない可能性はあり、カタバミたちが集められているのはあくまでも保険であると自分に言い聞かせた。
待機中、カタバミは他のエージェントの面々の顔を見ていた。
誰もが無表情で、訓練されたエキスパ―トにしか見えない。
まともな人間たちじゃない、とカタバミは思った。
あのネモフィラ・ルーベルを手に掛けるなど想像もしたくなかった。
そんなことをしでかして、精神がもつ自信がカタバミにはなかった。
いまさら拒否はできない。
逆らったら死ぬ羽目になる。
ネモフィラ・ルーベルと自分を天秤にかけて、自分を犠牲にできるほどカタバミは高尚な人間ではなかった。
同行だけすれば、最低限の体裁はつく。そう考えていた。
いざ決行となったならば、一緒に出動はする。
そうして、もし本当に引鉄を引く事態にまでなってしまったら、他の人間に引いてもらえばいい。
クズ中のクズとも言える考え方かもしれなかったが、自分の精神を守るにはそれしかないように思えた。
それでも、ネモフィラ・ルーベルが犠牲になるのを目にして、その後のカタバミの精神がどうなるかはわからないのだ。
カタバミは祈った。
女神様に。
自分のようなクズの願いではありますが、どうか命令が下りませんように、と祈った。
待機室の壁に設置されたランプが赤く光り、続いて拡声器から声が発せられた。
願いは、叶わなかった。
「出動しろ、ネモフィラ・ルーベルを消せ」
カタバミは目を瞑ってうなだれた。
頭から比重の重い液体が身体に流れていくように絶望感が染み渡った。
やるしかないのだ。
自分の人生なんてこんなものだ。
カタバミは目を開けた。
誰も、立ち上がってはいなかった。
それどころか、妙な音が聞こえていた。
それは、すすり泣きであった。
カタバミの近くにいた、筋骨隆々の男が、膝を抱えて泣いていた。
「お、おい……」
カタバミが声をかけると、その男は消え入りそうな声で言った。
「俺にはできねぇ……」
真っ当な大人が、それもカタバミのように手を汚してきた裏稼業の人間が言うような言葉ではなかった。
「お前、そんなこと言ったって」
「だってよぉ!! あの子は女神様の化身だぞ!! わかるだろう!!」
男は、ぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔を上げて叫んだ。
「わかる。俺も降りさせてもらうぞ」
壁際にいた細身の男が言った。
「俺もだ。俺はあの子の作品を見て、正気を保ってられたんだ」
カタバミは、その流れに乗ることができなかった。
クズの中の、クズの中の、クズであることが証明された。
自分でも嫌になるような自己保身の塊。
出動したのは、僅かに三人だった。
昇降機に乗り、十二階へのボタンをひとりが押した。
身体に微かな浮遊感。
誰も喋らなかった。
いつまでも到着しなければいいのに、と願ったが、三十秒もかからずに昇降機は到着を告げた。
昇降機の扉が開くと、いきなりいた。
見紛いようのない、本物のネモフィラ・ルーベルが。
純粋に美しかった。映像で見るよりも、実物の方が何倍も。
細身の身体、紫色の瞳、それはカタバミの目に、まるで守らねばならぬ芸術品のように映った。
誰かが撃つと思ったが、誰も撃たなかった。
カタバミ以外のふたりは右翼と左翼に展開した。
なぜ撃たないのか、カタバミにはすぐわかった。
全員がババを引かせようとしているのだ。
誰もネモフィラ・ルーベルを手に掛けたいと思っていない。
ここにいる三人が「誰かがやるだろう」といったバカげた考えでここまで来ているのだ。
千載一遇のチャンスは呆気なく失われ、護衛らしき男がネモフィラ・ルーベルの前に出た。
撃つか。
カタバミがそう考えたところで、ネモフィラ・ルーベルは小声でなにか囁き、信じがたいことに男の前に出た。
誰も撃たない。
前に出たネモフィラ・ルーベルが、カタバミたちに話かけてきた。
「取引しませんか?」
計算されつくして設計された楽器が出すような、聞き心地の良い声だった。
カタバミたちはただ魔道銃を構えたまま立ち尽くしていた。
誰も答えない。
カタバミたちは寄せ集めのエージェントであり、誰がリーダーといった概念がなく、ネモフィラ・ルーベルの声に答えられずにいた。
「皆さんはお金で雇われてるんですよね? それなら、わたしがそれ以上のものを差し上げるので、退いていただけないでしょうか?」
意外な言葉にカタバミは内心驚愕していた。女神のような容姿から悪魔のような囁き。
カタバミは、ネモフィラ・ルーベルに半ば魅入られていた。
それ以上のもの、という言い方がカタバミの興味を引いた。
気づけば、自然と声が出ていた。
「いったいなにをくれるというんだ?」
絶好の機会だというのに、誰もネモフィラ・ルーベルを撃たない。
人ならざるものに幻惑されているような、取り返しのつかない道に進んでいる感覚はあるのに、抗う気にはなれない。
「いま、見せます」
ネモフィラ・ルーベルが自分の問いかけに答えてくれたということがカタバミは嬉しく、内容がなんであれ取引とやらに応じるのこそが正しいのではと考え出していた。
ネモフィラ・ルーベルが手を前に出して、見えないなにかを持つような仕草を見せると、唐突にその手が光りだした。
魔法、その気配にカタバミの経験が今すぐ逃げるべきか攻撃するべきか決断しろと叫んでいた。
それとは真逆に、カタバミの魂は、この光景を見届けたいと叫んでいた。
光が収まると、ネモフィラ・ルーベルの手には、ひとつの壺が握られていた。
白と黒の複雑な紋様が刻まれた壺で、見ているとなぜか心がざわめくような感覚があった。
「どれくらいの値がつくかはわかりませんが、ある程度の価値は出てくれるかと思います」
カタバミは知っていた。
ネモフィラ・ルーベル、の作品がどれほどの値で取引されているかを。
仮にここにいる三人で分けたとしても、カタバミが一生汚れ仕事をする以上の金額になるはずだ。
どうすべきか、誰が答えるのか、カタバミたち三人の間で、奇妙な空気が流れた。
そこで、ネモフィラ・ルーベルは信じがたい行動に出た。
投げたのだ。
自らが創り出した壺を。
子供がなにか重いものを投げる時のように、両手で「えいっ!」とでも言うように。
三人が三人とも投げ出された壺に向かって殺到しようとした。
同時にネモフィラの影から躍り出た護衛の男の姿など、誰の目にも入っていなかった。
***
「まったく、無茶苦茶をするなぁ」
三人を気絶させたツツジが、呆れた声で言った。
「争いなんてそもそもが無茶苦茶なものじゃないんですか?」
「それはそうかもしれないけど。それにしてももったいない」
ツツジが粉々に砕けた壺を、名残惜しそうな目で見ていた。
「それはいいんです」
「いい?」
「元々砕く前提でイメージした壺でした。割れた瞬間が完成なんです。上手く出来たと思いますし、貴重な経験になったと思います」
ツツジが首を傾げる。
「芸術家様の言葉は僕にはわからないな。ところで、これからどうするんだい?」
昇降機をそのまま使うのはいくらなんでも危険な気がした。
となると非常階段しか道は残されていなかった。
「あそこの扉、非常階段ですよね?」
「そうだと思うよ」
「ではあそこから」
ネモが金属製の扉を開けると、それはそのまま外に繋がっていた。
高かった。
十二階という高さに、ネモは寒気を感じた。
格子状に組まれた金属製の階段で、地上までを隙間から見ることができた。
手すりも頼りないもので、捕まっていてすら不安を感じた。
飛空艇ではもっとずっと高い位置を飛ぶというのに、それとはまったく違った恐怖があった。
「どうしたの?」
ツツジが後ろから不思議そうに問いかけてくる。
「その、こ、怖くて」
「魔道銃の前に出るのは怖くなくて、高いところは怖いの?」
「しょ、しょうがないじゃないですか!」
怖いものは怖かった。
しばらく進まないでいるとツツジは見かねたように、
「しょうがないな……」
そう言って、ネモをお姫様抱っこした。
怖すぎた。
「なんですなんですなんです!!??」
「急ぐんだろ!!」
ツツジは恐ろしい速度で非常階段を駆け下り始めた。
「うそうそうそうそやだやだやだやだ!!」
「やだじゃないよまったく……」
六階ほどまで降りたところで、ツツジが軽く跳ね、手すりの上へと乗った。
そして、そのまま大跳躍し、隣の建物の屋上目指して跳んだ。
ネモを抱えたまま。
「きゃあああああああああああああああああああああああ!!」
大絶叫であった。
なんの衝撃も感じさせない着地。
そこでようやく、ツツジはネモフィラを下ろした。
「ここまでくれば大丈夫だと思う。それじゃあのんびり降りようか」
当たり前に振る舞うツツジに、ネモは黒い感情をが湧き出るのを感じた。
ともあれ、こうして脱出は無事完了した。
ネモは無事脱出をしたことよりも、パンツを濡らさなかったことに安堵していた。