38.罠
ザクロ社の建物は、支社であるにも関わらずルーベル社よりも大きかった。
建物内に入ると、入り口で受付をしている女性が駆け寄って来て、ネモが名乗る前からこういった。
「ネモフィラ・ルーベル様ですね、お待ちしておりました。そちらの方は――――」
女性はツツジを見て言葉を止めた。
「ガードです」
「なるほど、ではご一緒にこちらへ」
女性の案内で左側の通路にある昇降機に乗り、十二階まで上がった。
昇降機の扉が開き、ネモとツツジはそこで降りた。
「奥の部屋でザクロ社長が待っています。どうぞあちらへ」
女性の案内は昇降機までで、そこから先はネモたちだけで進むよう促された。
十二階は変わった作りの階だった。
昇降機から降りた部屋は大きなホールになっていて、美術品の展示場のような場所になっていた。
いくつもの絵画や彫刻が部屋中に展示してある。その奥は通路になっていて、左右にそれぞれ別の部屋へと繋がる扉があり、通路の奥には作りの違った、いかにも特別な部屋です、といった感じの扉があった。
ザクロはそこにいるのだろう。
ネモは展示してある美術品を眺めなら進んだ。
どれも素晴らしい品に見えた。
もっと時間があればじっくりと鑑賞したかったのだが、今はザクロ氏との約束が先だろう。
帰りに見る時間があれば良いのだが、と思った。
廊下を歩いている最中、ツツジがぽつりと呟いた。
「見たところ、普通の会社にしか見えないね」
「普通の?」
「いや、ほら、ザクロ社って黒い噂も色々あるじゃないか」
「あるんですか?」
「待って待って、それで危ないと思って僕に声をかけたんじゃないのかい?」
「いえ、ただなんとなく嫌な予感がして、護衛くらいはお願いした方がいいんじゃないかと思って」
「まあ僕としては頼ってもらえるのは嬉しいけどね」
「黒い噂というと、具体的にはどういうものですか?」
「商売に関しちゃ手段を選ばないとか、政治家への賄賂とか、犯罪組織と繋がりがあるとか、まあどれも証拠はないけど、火のない所に煙はとも言うしね」
意外だった。
そんな噂があるならば、ユリは関わろうなどと思わないはずなのに。
それなのに関わろうとしているというのは、ユリはそういった噂が事実ではない確信があるのか、それとも噂を無視するほどの利益が期待できるのか。
昨日のうちにユリから聞いた話から前者な気もしたが、ネモには判断のしようがなかった。
社長室の扉の前まで行くと、そこはちょっとしたスペースになっていて、壁際には休憩できるようなソファーが設置してあった。
「僕はここで待ったほうがいいかな?」
「そうですね、話が終わるまで待っていてください」
「わかった、とりあえず無事送り届けられて良かったよ、これで目的のデートまで半分ってところだ」
ネモはその声を無視した。
両開きの扉を押して開ける。
社長室に入ると、ネモは光の強さに目を細めた。
社長室は、壁面が巨大なガラス張りになっていた。
暗めなところから明るい場所に出たために眩しく感じたが、目が慣れると眩しいというほどなかった。
窓からは空の青がいつもより近く見えた。近くの建物の屋上が見下ろせた。遠く街の外にある平原までが良く見えた。
明らかに実用性よりもデザインを優先した作りではあるが、新鮮さは確かにあった。
「ようこそわざわざ来てくれたな、そこにかけてくれ」
社長室にいたのはザクロひとりだった。
パーティの時と同じような正装をしていた。
記憶よりも太っていて、脂ぎっているように見えた。
その顔に浮かべる笑みは、なんだか嫌な感じがした。客人を招いて歓迎しているというよりも、蜘蛛が巣にかかった獲物に喜んでいるような、そんな笑みだ。
「ワシのコレクションはどうだったかね?」
「どれも素晴らしいものに見えました」
「そうだろうそうだろう、ただここにあるのはコレクションの一部でね、儂にはもっと多くのコレクションがある。見たくないかね?」
「興味はありますが、今日ここに来たのは別のお話があったからでして」
「まあいいじゃないか、時間はいくらでもある。パーティの時と違って時間の縛りもないんだ。お互い親睦を深めようじゃないか」
どうしてこんなにも不快感があるのだろうと、ネモは不思議だった。
容姿のせいではないと思う。ザクロは褒められた容姿ではないが、ネモはそういったものでそこまでの不快感を感じるとは思えないのだ。
強いて言えばやはり気配か。
口では説明できないなにかをネモの本能が拒絶している。
「それも良いのですが、まずは本題から入るべきかと。お互いをもっと良く知ろうというのはそれからでもよろしいかと思います」
「本題、ね」
ザクロはさもどうでも良さそうにそう言った。やはりなにかがおかしいとは思う。
「なにが本題だったかな?」
「流通経路の取引についてです」
「詳しいのかね?」
「どういう意味ですか?」
「こういった取引についてだよ。キミはてっきりお飾りの代表で、商売に関してはなにもわからないかと思っていたが」
見透かされている。
だが、それ以上にネモはその口調に驚いた。
はっきり言って、侮辱にしか聞こえない発言だと思う。商売上の取引とは、お互いが得をするために話し合うことなはずだ。
相手に対して負の感情をぶつけることには意味があるとは思えない。
それともネモがわかっていないだけで、なんらかの戦略に基づいての駆け引きなのだろうか。
「確かに、わたしはユリさんに頼り切りであまり詳しくはないですが」
「正直だな」
「では、なぜわたしをわざわざ呼んだのですか? 代表が顔を出さないことを不快に感じていたとしたら謝罪しますが」
「不快というわけではない。ただ、こうして一対一で話さなければ本題に入れないと思ってな」
違和感のある言い回しだった。
「流通についてですか?」
「その流通についての話し合いもすべて解決する素晴らしい方法さ」
「なんですか?」
「パーティの時でもたしか言ったろう」
ザクロが悪意からでしか作り出せないであろう笑みを浮かべていた。
「ネモフィラ・ルベール。お前はワシの嫁になれ」
意味がわからなすぎて、ネモの思考がそれを理解するまでにだいぶかかった。
悪寒は遅れてやってきた。
本気で言っているのか。
ミューズは、この世界は洗練されているとネモは思っていた。
精神にしてもそうだ。
全体としてみて、プライマの人間よりもミューズの人間は高潔に見えていた。
それがどういうことか。
この中年の、でっぷりとした男が、自分を嫁にしたいと言ってきたのか。
その発想だけで不快だった。今すぐ逃げ出したい気持ちだった。
しかし今すべきなのはそうではなく、なぜそのような発言をしたかを理解することだ。
血迷ったわけではあるまい。断られるとわかっていて単に言っているとも思えない。
ネモがどう返せばいいのか考えていると、
「思ったよりも、落ち着いているな」
「意味を考えているのです」
「面白い娘だ。生きてここにいるだけのことはある」
「ミューズに来れたのは、色々な人たちに助けられたからです」
「それではないのだがね。まあいい。我が社の悪い噂は聞いているかね?」
「詳しくは知りませんが、一応は」
「あれはすべて本当だ」
ますますわからなくなった。
ザクロの言動は、勝ちを確信して自らの手を明かしているようにしか見えない。
ネモは勝ちの根拠がわからなかった。それが不気味であった。
「というと?」
「後ろ暗い組織とも繋がりがあるということさ。ユリ・ヴァレンシアは階段から落ちて怪我をしたそうだね?」
「なぜ階段とわかるのですか?」
ザクロは愉快そうに笑った。
「想像以上に察しがいいな。だんだんキミがわかってきたよ。お望み通り知り合えているかもしれんよ」
ザクロは遠い目をし、過去を思い出すような口調で言う。
「実のところ、ルーベル社はうちにとっての脅威でね。出てきた時から邪魔だったが、最近はもう無視できない存在になっている。食器からなにから陶器といえばもうルーベル社だ。うちの製品はルーベル社に比べて劣るというレッテルが既に貼られているのだよ。どうしてそんなことになっているかと言えばネモフィラ・ルーベルが悪い。その名前が、存在が、製品の価値を考えられぬほど上げている。ならネモフィラ・ルーベルを消してしまうのが早いだろう。知っているかね? 芸術品というのは、その作者が死ぬと価値が跳ね上がるんだ。同種のものがもう出てこないのが確定されるからな。ワシはキミの作品をふたつも落札している。そういう意味でもう好都合だったよ」
ネモフィラにもわかってきた。
自分の中の疑問が氷解していく。
この相手に感じた感覚は正しかったのだ。
勝ち誇ったようなザクロの態度。
「二度ほど狙ったはいいが、驚くべき偶然で失敗してしまってね。さて次に行こうかというところで、報道である映像が流れたわけだ」
ザクロの声には、どこか憧れるような響きがあった。
「キミが映像に映ったんだよ。孤児院のね。正直驚いた。若い女性だとは聞いていたが、直接姿を見てはいなかったからな。本人の目の前で言うのもなんだが、これほど美しい女性をワシは始めて見たよ。本当に女神の化身だと思った。気が変わった。消してしまうよりも、取り込んでしまった方がいいと考えた」
ザクロは鋭い視線をネモに向けた。
「改めて言おう。ワシのものになれ。なに、悪い話じゃない。不自由ない生活を送らせるのは保証する。ザクロ社もルーベル社に併合され発展し続けるだろう」
「断ったらどうなるのですか?」
「急に頭が悪くなったのか?」
「興味があります」
「キミや、その周囲の人間に、偶然の事故が多発するんじゃないかね、ワシは知らんがな」
ネモを狙ったのはまだいい。そんなものはプライマで慣れっこだった。
それよりもユリを狙ったのが許せなかった。親しい友人に怪我をさせたことに、ネモは怒りを感じていた。
「あきらめたまえ、ネモフィラ・ルーベル。ミューズは思っているよりも怖い場所なんだ。ひとりでここに来た時点で罠に嵌っているのだよ」
ネモはふふっ、と笑ってしまった。自然にこぼれ出た笑みであった。
「なにを笑う? 頭がおかしくなったのか?」
「ひとりでここに来た時点で罠に嵌っているのだよ、という部分です」
「なん……」
「最近、わかってきたことがあります」
ネモは言う。
「わたしは、たぶん、ほかの人より他人の感情に敏感なんだと思います。だからプライマにいた頃は、今よりずっと人を怖がっていました。周りの人が、わたしを不気味だって思っているのを感じ取って」
「なんの話をしている?」
「あなたにパーティであった時にも感じました。悪意、敵意、奇妙な優越感、それも今現在手綱を握っていると信じているような優越感を。その答え合わせをしてくれたことには感謝します」
ザクロはネモの言葉に沈黙していた。
「こちらの世界に来て、驚くことばかりでした。あらゆるものが違って、理解するのが大変でした。一番驚かされたのはやっぱりプライマのものとはまるで違う魔道具で、中でも映像機はかなり驚いた記憶があります。すごいですよね、映像を飛ばしてそれを色んな人に見せられるっていうのは。面白くって、わたしは自制しないといつまで経っても見てしまうんですよ。その中でも報道番組ってありますよね? どこでなになにが起きたーっていうのを色んな人に教える」
ザクロは困惑している様子であった。
目の前で繰り広げられるネモの言葉の意味を拾えず、それでもなにか嫌な予感を感じている、そんな表情だ。
「あれには世界の違いを感じさせられました。この世界は平和なんだなって思いました。たまに大きな事故や事件の話もありますけど、ほとんどは楽しい出来事やめでたい出来事、あとはどこかの有名人が問題となる発言をしたとか、不倫をしたーとか、異性に対していやらしい要求をしたーとか、どうでもいいことが多いように思えます」
ザクロの表情が僅かな変化を見せていた。
「でも一番驚いたのは映像機でも使われている情報を送る技術かもしれません。信じられないような距離を隔てて色んな形態の情報を伝えあえるというのは、どういう仕組なんですかね。わたしは魔学の知識はないのでわかりませんがこれほど便利な技術はないと思います」
紫色の瞳が、ザクロの目を見つめていた。
「たぶん、ザクロさんはすごい人なのでしょうね。そうやって手を汚して、失敗せずにその地位まで上り詰めたということは」
ザクロは、救いを求めるような目で、ネモの紫色の瞳を見ていた。
ザクロはバカでも間抜けでもない。ネモがなにをしたのかをもう理解しているに違いない。
間違いを犯したのは、ネモを見くびったからなのだろう。
「もし相手がわたしではなく、もっと経験豊富な相手であれば、ザクロさんももっと慎重だったと思います」
ネモは、右耳に嵌めていた、ある魔道具を取り出した。
「シラユキ、聞こえてる?」
『ええ、すべて。記録もとっております』
その場にいないシラユキの声が部屋に響いた。
「ひとりでここに来た時点で罠に嵌っているのだよ、ですか」
ネモは抑揚のない声で呟いた。
「わたしが無害な相手だと思った時点で、あなたは罠に嵌っていたんです」
ネモを見るザクロの表情から、一切の感情が抜け落ちていた。
「わたしはこの世界の罪について詳しくないですけど、有名な方がさっきみたいなことを言った場合、どうなるんでしょうね?」
ネモは踵を返し、出口に歩きながら言った。
「取引に関しては、後ほどユリさんとじっくり話してください」
そうしてネモは社長室を出ていった。