37.囁く予感
控えめなノック音に、ネモは読んでいた本から顔を上げた。
「失礼します」とシラユキが部屋に入ってきた。
「ネモ様、念話です」
「誰から?」
「ユリ様からです、どうなさいますか?」
「出るよ、もちろん」
ネモの端末が光り、ユリからの念話が来ているということを告げた。
「あ、ネモぴ? ごめんね夜遅くに」
ユリの声はいつもより疲れてるように感じた。
「いえ、ユリさんこそお疲れ様です。どうしたんですか?」
「それがちょっと困ったことになってて、ザクロ社って覚えてる? パーティの時にもいたんだけど」
ザクロ社。
ネモは覚えていた。
忘れもしない、パーティにいた中で唯一嫌な感じのした相手だったからだ。
「覚えてます、あの、なんていうか豪快な感じの人ですよね」
「たぶんあってるかな? そことちょっと揉めててさ。グの国の流通に関してかなり話は進んでるんだけど、先方がグの国で販売する分に関してはザクロ社が値段を取り決めて、売上の一部を寄付金とする表記はしないって言ってるの。でね、ウチはそれならやめちゃってもいいかなーって思ったんだけど、向こうはネモぴが出てくれば考え直すって仄めかしてるの」
ネモは察した。
これは一緒に来てくれないか、という話なのだろう。
そして同行する覚悟も既に出来ていた。
そういった場に出るのに抵抗がなくなっていたし、なぜだかネモが行くべきだという気がしていた。
だからすぐに返事ができた。
「嫌だったらいいんだけど、明後日ウチと一緒にザクロ社に行ってもらえないかな?」
「いいですよ」
「ホント!? 助かる!」
「いつもユリさんにばかり動いてもらってますし、本当に必要な時に出るのは当たり前じゃないですか」
「でも事業関係はウチが半分勝手にやってることだし、ネモぴにあんま迷惑かけられないからね。でもありがと。そこ以外は話がついてるから、一緒に来てくれれば契約するかしないかすぐにはっきりすると思う」
「明後日ですよね?」
「うん、ウチが朝からネモぴんち行くから、そこで色々打ち合わせて昼前に出発って感じになると思う」
「わかりました」
「じゃあまた明後日ね、おやすみー!」
「はい、ユリさんもおやすみなさい」
***
翌日の昼過ぎだった。
ネモはひとり工房で、ああでもこうでもないと自分の手での作品作りに勤しんでいた。
ネモは固有能力で作品を作る前には実際にその手で近しいものを作ってイメージをふくらませるようにしていた。
今回はちょっとしたスランプで、もう一ヶ月ほどなんの作品も発表していないというところにきてしまいそうだった。
そんなところに、シラユキが来た。
「ネモ様、お仕事中にすいません!」
シラユキはいつになく慌てているように見えた。
人形故にその顔が示す感情は大きくはないが、それでもはっきりと良くないことが起こっているのを告げていた。
「どうしたの?」
「ユリ様が、怪我をなさいました」
「え?」
「階段から落ちたそうで、今は近くの病院に運び込まれたところです」
「それって、大丈夫ってこと?」
「だと思います」
「シラユキ、その病院に連れて行ってくれる?」
「準備はできております」
シラユキの用意の良さに感謝した。
ネモはすぐに準備をして、シラユキの駆る飛空艇で病院に向かった。
***
病室に入ると、のんきな顔をしたユリが出迎えてくれた。
「あ、ネモぴ! 来てくれたの? うれしー」
心配して駆けつけたネモは、それなりにがっくしきた。
ユリは個室のベッドで横になり端末をいじっている。
「ユリさん、大丈夫なんですか?」
「だいじょぶだいじょぶ、ちょっと派手に腰やっちゃってたけど、治癒魔法でどうにかなる範囲だったからね。数日は絶対安静らしいけど、すぐに動けるようになるみたい」
「良かった……」
怪我は怪我でもユリの怪我と聞けばネモは気が気でなかった。
ユリは有能な商人かもしれないが、魔法は使えない一般人である。
ちょっとした事故でも致命的になりかねないからだ。
「階段から、落ちたんですか?」
「そうそう、ウチったらドジ~」
とユリはいつもの笑みを見せている。
ネモはそれを見てちょっとだけ安心する。
「でも変なんだよねー」
「変?」
「ウチだいぶ疲れてたから気の所為かもしれないけど、なんか後ろから押されたような気もしたんだよね」
嫌な予感がした。
「それって、大変なことじゃないんですか?」
「けどこうして無事だったし、気の所為かもせいれないし?」
「なにかないんですか? 映像が監視できるみたいな」
「ないないそんなのどこにでもあるわけじゃないよー。ネモぴどうしたの?」
「いえ、その、なんだかよくない予感がして」
「ネモぴって心配症だもんねー」
とユリはケラケラ笑っている。
「けど明日のザクロ社行きはナシになっちゃうかなー。それともネモぴがひとりで行く?」
ユリは冗談めかして言った。
「行きます」
ザクロ社。その名前が気になった。
代表のザクロ氏を、ネモはよく覚えていた。
縦にも横にもでかい大男で、五十前後の色んな意味で脂の乗った男。
そして、おかしな気配を感じた男だった。
「え、ネモぴ、冗談だよ?」
「値段を勝手につけないようにと、売上の一部をちゃんと寄付にまわすようにしてもらうんですよね? 他は全部決まってるって」
「そうだけど、ネモぴ細かいことはわからないでしょ?」
「それは後からユリさんがなんとかしてくれます」
「ウチがなんとかするって……まあするけど……」
「それに、明日会うって約束してるんですよね?」
「ウチが怪我しちゃったんだからしょうがないよ」
「けど、突然断ったら不可抗力にしてもこちらの弱みになりますよね?」
頭の芯が冷たくなっているような感覚があった。
ネモはろくに考えずに頭に浮かんだ言葉を口に出していた。
何度か感じたことのある感覚だった。
とくに危険が迫っている時には。
なぜ今それを感じているのかは、ネモにもわからなかった。
「ならなくはないけど、しょうがないものはしょうがないじゃない?」
「もしユリさんが行けずに、わたしひとりだけでも姿を見せれば、向こうに対して誠意を示すことになりませんか?」
「それはまあ、なるかもしれないけど、ザクロ氏えらくネモぴに会いたがってたし。でもね、ここだけの話、あのおじさんなんだかちょっと危ない感じがするし、ザクロ社って良くない噂もあるから、ネモぴひとりで行くのは反対」
その言葉がネモのひとりで行こうという意思をより強くした。
「じゃあ行きます」
「どうしてそうなるの!」
「わからないですけど、わたしが行けば簡単に解決する気がするんです」
「気がするって」
「わたしは気がするに従って生き延びて、この世界に来ました。だからこういう時はそれに従うことにしているんです」
ユリはネモの瞳をじっと見ていた。
それから諦めたように息を吐いて、
「わかったわかった。ネモぴの会社だしね。どうしてそんなに強情になるのかわからないけど。じゃあ最低限必要なことだけみっちり叩き込むからね」
「ありがとうございます」
ネモは自分が行けることに安堵していた。
いつもならばそんな場所に行きたいなどとは思わないはずなのに。
どうしてそんなに強情になるのかは、自分でもわからなかったのだ。
***
「シラユキ、ロイさんに連絡取ってくれる?」
「サザンカ様ではなくロイ・ヒューリーに直にですか?」
「そう」
「わかりました」
シラユキが目をつぶって念話をかけているのがわかった。
シラユキの中には複数の魔道具が内蔵されていて、それを利用する時は決まってこういう動作を見せるのだった。
「繋がりません」
「もう一度お願いできる?」
シラユキがもう一度念話をかけたが、やはり繋がらないようであった。
困った。
そんな気はしていたが、思った通り繋がりすらしなかった。
「どうしてロイ・ヒューリーなのですか?」
シラユキは不満そうだ。未だにおチビちゃんと呼ばれたことを根に持っているらしい。
「護衛としては、あの人ほど信頼できる人はたぶんいないからね」
「護衛?」
シラユキの疑問の声を耳にして、ネモは心配し過ぎではないかと不安になってくる。
「その、なにが起こるかわからないし?」
シラユキは主の考えに訝しげではあったが、
「それなら、ツツジ様はどうなのですか?」
「ツツジさん?」
「あの肩は名の通ったガードです。不測の事態に備えてには十分では?」
迷った。
シラユキに勘違いされそうで嫌だったし、連絡がつくかもわからなかったし、明日すぐに、では予定がつかないかもしれない。
色々と考えた挙げ句、ネモは端末を取り出しツツジの連絡先を呼び出して、念話をかけた。
ツツジは二秒で出た。
「こんばんは! こんな夜にどうしたの?」
元気な明るい声が端末から響く。
あまりにも早く念話に出たので考えがまとまっておらず、どう話すべきか考えているうちにもツツジは話し続けた。
「ネモからかけてくれたのは始めてだよね? もしかしてデートのお誘い? そうだったら今日は僕が生まれてから最高の一日になるんだけど」
「いえ、その、ツツジさんの仕事はガードなんですよね?」
「そうだよ? どうしたの、あらためて?」
「仕事のお願いがしたいんです?」
「僕に直接? 喜んでだけど、いつどういった仕事だい?」
「明日、護衛をお願いしたいんです」
「わかった」
「いいんですか?」
「なにが?」
「だって、仕事の内容も、報酬も、まだなにも伝えてないですけど」
「ああ、そんな話か。関係ないよ。ネモのためなら無報酬でプライマまで行っても構わないからね」
相変わらずのお調子者ぶりに、ネモは緊張がほぐれるのを感じた。
「一応話させてください。明日わたしはザクロ社に仕事の話をしに行くので、その身辺警護をお願いしたいです」
「要人警護だね、任せてよ」
「報酬はそちらの言い値でいいです。相場以下にはしないでください」
「じゃあ報酬はデート一回で」
「ふざけないでください」
「え、もしかして二回でもいいのかい?」
「真面目な話をしてるんです」
「僕も真面目な話をしてるんだ」
端末からではツツジがどんな顔をしてるのかわからなかったが、その声からふざけている気配は感じられない。
「わかりました」
「ホントかい!?」
「ただ金銭での報酬もちゃんと受け取ってください。仕事として」
「友達価格でいいよ?」
「真面目な仕事をお願いしたいんです。それには正当な対価を払いたいんです」
「デート一回で正当以上の報酬だと僕は思うんだけど。ネモフィラ・ルーベルとデート一回1000万、賭けてもいいけどそんなことしたら世の男が殺到するよ?」
「真面目に受けてくれる気はないみたいですね。やっぱり他をあたります」
「ごめんごめんごめん! ほんとにごめん!! わかったよ、金額は今伝えておく? それともルーベル社宛に請求すればいいのかな?」
端末から聞こえるツツジの声聞き、どんな表情をしているのか容易に想像できた。
ネモは自然と口元が綻んでいた。
「ルーベル社にお願いします」
「わかった、しかしなんで前日に、しかも僕に護衛の依頼なんだい?」
「それは――――」
どう説明すべきか迷った。
ネモは結局、
「なんだか嫌な予感がするからです」
ツツジは考え深げな息を漏らした。
「まあ、ネモといられるならなんでもいいかな。仕事なのが残念だけど嬉しい話だ」
「デートのお誘いじゃなくて仕事なんですからね! もしもの時は働いてくださいよ!」
「そこは安心してよ。これでも経験豊富だからね」
実際のところ、ネモはツツジの腕を知らない。
サザンカからも、今しがたシラユキからも仕事ぶりを評価されているのはわかるが、それはミューズの基準だ。
不安はあったが、他に宛はなかった。
「飛空艇の運転は出来ますか?」
「もちろんできるよ」
「では後ほどシラユキから座標を伝えるので、明日の朝迎えに来てください」
「りょーかい、楽しみだね」
「ではまた明日、おやすみなさい」
「おやすみー」
念話を終えて、ネモはため息をつく。
本当に大丈夫かとても不安だ。
まあなにかが起こると決まったわけではないし、ネモの取り越し苦労かもしれない。
それでも、心配しすぎて後悔するよりも、しないで後悔する可能性の方がずっと高いのをネモは知っていた。
部屋の入り口で控えていたシラユキが、どこか心配そうにネモを見ていた。
「シラユキ? どうしたの?」
「いえ、その……」
「ネモ様の雰囲気が、いつもと違って、驚いています」
「雰囲気?」
「ヒイラギ様の時と同じで、なんだかネモ様ではないみたいで」
ネモは笑って見せた。
「たぶんユリさんが怪我しちゃって、ちょっと興奮しちゃってるのかもしれないね」
ネモはシラユキを安心させたくてそう言った。
そこで、ネモはシラユキの姿を見てふと思いついた。
「そうだ、シラユキにちょっとお願いがあるんだけど――」