36.話してみなければわからない
エターリまでは、シラユキに送ってもらった。
ちんまりとした身体で飛空艇を操縦する姿を見ていると、ネモでも簡単に出来てしまいそうな気がする。
取ろうと思いつつも、飛空艇操縦の免許はまだ取っていなかった。
エターリで降ろしてもらい、夕方前にまた迎えに来てもらうことにした。
今日はちょっとお茶を、というだけの約束であった。
ネモも話してみるくらいなら良いだろうと話を受けたのだった。
街を歩き、周囲の様子を伺う。
大丈夫、誰も気付いていない。
今のネモは普段と違った装いをしている。
度の入っていない眼鏡をかけて、髪型も変えている。
服装も白いブラウスにスカートといった出で立ちだ。
なぜ普段と違った姿をしているかといえば、単なる気分転換というわけではない。
前回街に出た時に大変なことになったからだ。
なにが起きたかといえば囲まれた。
ネモフィラ・ルーベルだと気づかれた途端人が群がってきた。
ネモは一緒に写真を撮り、サインを書き、握手をして、とまともに過ごすことができず、手近な眼鏡屋で眼鏡を買って変装をしたことで、ようやく気づかれずに過ごせる状態に至った。
今日は最初から念入りに変装している。
今のところ誰もネモに反応することはなく、ネモは安堵に胸をなでおろした。
待ち合わせ場所は、街の広場の鳥の銅像の前と決めていた。
かなり大きな像で、人と同じくらいの大きさがある。
ネモはなんの鳥かはわからないが、勇ましい猛禽類の像だ。こちらの世界にしかいない鳥なのかもしれない。
ツツジに聞いたところでは、この場所は待ち合わせの定番になっているらしかった。
ネモは人通りの多い道を進む。
感じたことのない緊張感が胸中に渦巻いていた。
不安だったし、恐ろしくもあった。
本来は楽しむべきものであるだろうに、なにか戦場にでも進軍しているような気分でいた。
待ち合わせの時間の、十五分前には銅像のある広場に着いた。
早く来すぎてしまったかもしれない、とネモは思ったが、そこにはツツジの姿があった。
変装しているにも関わらずネモに気づき、にこやかに手を振ってくる。
ネモは覚悟を決めてツツジの元まで進んだ。
「やあ、来てくれて嬉しいよ。眼鏡の姿も似合っててかわいいね」
「こ、これは、変装のためです」
「ああ、有名人は辛いってやつかな。そうだね。ネモフィラさんが素顔で歩いてたら、僕みたいな良からぬ輩が寄ってくるかもしれないしね」
ツツジは冗談めかして行った。
「じゃあ行こうか。僕のおすすめのお店。落ち着けるところだよ」
二人は歩き出した。
道中ツツジは前回のパーティについて話していた。
ネモのスピーチ、問題のあった客、軍にいた元同僚に出くわしたことなどだ。
ネモはそれを心ここにあらずといった様子で聞くともなしに聞いていた。
奇妙な感覚だった。
自分が男の人と一緒に歩いている。
お茶をするために。
ツツジの歩みは緩く、ネモに歩調を合わせてくれているのを感じた。
会話もネモが話すのが苦手であるのを察してか、それとも元々そうなのか、自分が中心になって話しながらも、時折ネモに質問をしてくる形だった。
緊張感は少しづつ薄れていた。
看板には『ドレーダの店』とあった。
ネモも知っている店だった。
過去にユリと一度行ったことがある。ケーキが絶品で、ピークタイムは予約していないとなかなか入れないとユリから聞かされた覚えがある。
「ここ、知ってます」
「もしかして行ったこともある?」
「はい」
「ありゃ、あまり出かけないって言ってたから大丈夫かと思ってたけど、そっか、行ったことあったか」
「けど、美味しかったのでわたしはここでいいですよ」
「そう言ってくれると助かるな」
言ってから、ネモは来たことがないフリをすればよかったのでは、と思った。
人付き合いのうまい人間ならば、知らないフリをして驚くのかもしれない、と。
しかしそれは嘘をつくことになる。ネモには正解がわからなかったが、いずれにせよツツジ相手にそこまで気を使うのはちょっと違う気がした。
気にせずに任せてしまえばいいのだ。
これはあくまで人付き合いの練習だ。
ツツジが自分にとって好ましくない相手だと思ったらもう会わなくてもいいのだ。ユリもそう言っていた。
だから、今日はできるだけ素の自分を出せるように努力してみようと思った。
店内に入って予約してあることを告げると、隅の窓際の席に通された。
ドレーダの店の内装は、木製で統一されている。
机も椅子も、完全な木製だ。ミューズでは珍しいことだった。
ネモは前回と変わらぬ雰囲気に心が和んだ。
故郷を思い出す、というわけでもないが、魔道工学で作られた素材で満たされた部屋よりも、こういった素朴な素材で作られた部屋のほうが好みであった。
「どうする? 僕は無難にケーキセットがいいかな」
「わたしもそれで」
給仕が来て注文をして、ようやく落ち着いた時間がやってきた。
ツツジを見る。
モテそうな顔、というのはネモにもわかる。
緊張しているのか緊張していないのか自分でもよくわからず、なにか言わなければならないのか迷ったところでツツジが口を開いた。
「今日は誘いを受けてくれてありがとう。嬉しいよ。けど、どうして急にそんな気になってくれたんだい? 今までは本当に忙しかった?」
「色々と気になったからです。聞いてみたいと思って」
「色々? 僕に答えられることならなんでも答えるけど」
お茶とケーキが運ばれてきた。
お茶に砂糖とミルクを入れて口に運ぶ。美味しい。ケーキに口をつけようか迷ったが、食べ始める前に聞いた方が格好がつくと思った。
「どうしてわたしなんかに声をかけたんですか?」
「なんか、ってなんだい? キミだから声をかけたんだけど」
どうしてこの人はこう恥ずかしげもなく堂々と話すのだろう、とネモは思う。
「じゃあなぜわたしに?」
「顔がいいから」
やはりこいつはろくでもない男だ。ネモが帰ることを視野に入れるとそれに気付いたのかツツジは慌てて、
「まあ待ってよ。美しい、と思った相手に声をかけるのは当然じゃないかな?」
「相手は嫌がるかもしれません」
「それは――ネモフィラさんは嫌だった?」
「わかりません」
「真面目な話、この人と知り合いたいな、話してみたいな、って思った相手に声をかけるって変なことかな?」
「それは……」
変でもないかもしれない。
むしろそう話されると当然のことのように思え、ネモの感覚がおかしいような気さえしてくる。
「初めは誰だってそうじゃないかな? この人のことが気になる、この人はすごい人だから知り合いたい、出会いなんてそんなくだらない理由で十分なんじゃないかな?」
「そういう考え方はしたことはありません」
「じゃあネモフィラさんはどう考えるの?」
言われて、ネモは人付き合いに対して自分が意見など持たぬことに気付いた。
もし話しかけて相手を不快な気分にさせてしまったら怖いし、相手に拒絶されるのも怖い。
それなら話しかけない方がマシであり、マシであるからこそネモは今までそう生きてきた。
「……わかりません」
「最初はやっぱり見た目から入るのが多いんじゃないかな。この人は素敵だな、知り合いたいなって思って声をかける。だって、完全にゼロから知り合うってなったらそれっきゃないだろ? そこから話してどういう相手か知って、そうやって友達になったり、合わない人なのがわかったりがようやくわかる。ネモフィラさんの場合は、公園の時がそれで、パーティの時はもっと複雑だったけどね。とんでもなく可憐で、新進気鋭の企業の代表で、プライマからの来訪者で、稀代の芸術家と言われ、女神の化身ではないかと噂される。知り合いになりたくないと考えるほうがおかしいと思うよ」
ネモは過度に持ち上げられ、顔がぼうっと熱くなるのを感じた。
それはすぐツツジにバレた。
「そうやって照れるのもかわいいね」
「茶化さないでください」
「本気だけど」
ネモは怒り半分にお茶を多めに飲んだ。
「ごめんごめん。気に触ったなら謝るよ。それでなんの話だっけ?」
「知り合いになりたくないほうがおかしい、まで話しました」
「そうそう。そういうわけだよ。けどそういう背景があったからといって、その人の本質がわかるわけじゃないだろう? あるいは人の本質なんていつまで経ってもわからないのかもしれないけど。まあそういう話しは置いておいて、この人は素敵だな、どういう人なんだろうって感じたら、会ってみるしかないんだよ。本当にそうするしかない。だから僕はがんばって声をかけて、こうしてめでたくネモフィラさんとお話することができるわけさ。ケーキを食べようか?」
勧められてケーキを口にする。
クリームたっぷりのイチゴが乗ったケーキで、イチゴの酸味とクリームの甘さが絶妙だった。
舌が喜んでいるのを感じ、自然と頬が綻んでしまう。
「そういえばプライマとミューズの食べ物の差ってどうなの?」
「こっちの方が遥かに美味しいですよ。こっちに無くて向こうにあるものと言ったら怪物の肉くらいだと思います。中には高級品ですごく美味しいって言われるものもありますけど、わたしは食べたことがないので本当に美味しいかはわかりません」
「怪物か。ちょっと憧れるな」
「憧れる?」
「うん。こっちの世界でも子供の頃に読む英雄譚って、英雄が怪物を倒すものが多いんだ。架空の娯楽作品でもよく見る。だから男の子なら自然とそういうものに憧れるものなのさ」
「そういうものなんですか」
そうやってしばらくふたりはとりとめのない話をしていた。
ツツジの話しぶりは自然で、ネモも不思議と違和感なく話すことができた。
話しながらも、ネモは先程言っていたツツジの話についてぐるぐると考えていた。
直接話さなければなにも始まらない。
そうかもしれない。
それは、非の打ち所がない理屈に思えた。
ただ、それを万人が実行に移せるかはまた別の話だと感じていた。
ツツジがこの間のパーティで偶然出会った元同僚の話を終えて、会話に区切りが出来たところで、ネモは言った。
「さっきの話してみないと始まらないという話、確かにそうかもしれません。けど、どうしてそんなことができるんですか?」
「うん?」
「その、話かけて失敗しちゃったら、とか、そういうのは気にしないんですか?」
ツツジはネモの様子を伺いながら、少し考えているようだった。
「ネモフィラさんは、誰かと付き合い始めるのは苦手かな?」
ネモは一瞬躊躇した。その質問にはいと答えるのは、自分の欠点をさらけ出すように思えたからだ。
それでも、ネモは言ってみようと思った。どうせ今日限りの相手かもしれないし、そうでもないと嘘をついたところでなにかが始まるわけでもないのだ。
「はい、だからどうしてそんな風に振る舞えるのかは気になります」
「なるほどね。わかるよ」
「なにがですか?」
「その、失敗したらどうしようってやつさ。僕だって同じだよ」
「そうは見えないですけど」
「じゃあ恥ずかしい話をしようか?」
「恥ずかしい話?」
なんだか卑猥な話をされるような気がしてネモは警戒したが、ツツジにそんなつもりは全くなかったらしく、ネモは逆に恥ずかしい思いをしてしまった。
「僕だって失敗はもちろん怖いよ。例えば、ネモフィラさんに声をかけた時だってそうさ。二年近く前だけど、あの公園でのことは今でもしっかり覚えてるよ。あの時僕はその……」
そこでツツジは言い淀み、
「とにかくロケーションは最悪で、それでも逃したら二度と会えないかもしれない相手を目にして、イチかバチか賭けたわけさ。結果は知っての通り。めちゃくちゃに落ち込んだよ、潜在一隅のチャンスを逃したって。けどそれからしばらく経って、まさかの二度目のチャンスが巡ってきた。この時だって緊張したし、怖かったし、イチかバチかだったよ。一度は拒否された履歴があって、しかもイメージが最悪かそれに近いのはわかりきっていたからね。それで恥ずかしいところも見せたけど、なんとか先に繋がる糸口ができた」
いつの間にかツツジの口調は自嘲するような色を帯びていた。
「念話をかける時だってそうだよ。出てくれないかもしれない、出てくれたとしても断られるかもしれない。そう思って念話をかけるのを迷って、迷って、迷って、勇気を振り絞ってやっとかけるんだ。今日だって待ち合わせをして、来てくれない可能性だってあった。最後まで怖かったし、来てくれたのは本当に嬉しかったよ。だから来てくれてありがとうなんだ。社交辞令で言っているわけじゃなくね」
「どうしてそこまでできるんですか?」
「それはキミがとんでもなく魅力的だからだよってごめんごめんごめんそんな顔しないで!」
ネモは思い切り睨んでやった。
「本当なのに。まあネモフィラさんが聞きたそうな話をするなら、別にリスクがないからさ。知り合おうとして失敗したところで、最初となにも変わりはしないのさ。その人とは知り合いじゃない。それだけ。失敗しても気持ちがちょっと傷つくだけで、気の持ちようによっては無視できるし、そうでなくても時間が解決してくれる。それを知ってるから僕は迷わず進むんだ。そうやって生きてきて、こうしてネモフィラさんと一緒にお茶ができてるわけさ」
ツツジはにこやかに笑った。
「結構時間が経っちゃったけど、時間大丈夫かい?」
ネモは言われて時計を見ると、時刻は既に十六時の半ばをまわっていた。
「あ、そろそろシラユキが迎えに来る時間です」
「じゃあ今日はここまでかな? ネモフィラさんの聞きたいことは聞けたかな?」
「それは、はい」
「良かった。それで次はあるのかな?」
そう言ったツツジは、穏やかに微笑んでいるだけだった。その表情からなにも読み取れない。
ネモはそれを見て、この表情の裏にも勇気と恐怖がせめぎ合っているのだろうかと思った。
たぶんそうなのだろう。次があるのか、と聞いたということはツツジはまだネモと付き合いたいと考えてるわけだ。
それを拒絶されればもちろん悲しい気分になるのだろう。
今日話してみて、ツツジは思っていた人物とはだいぶ違っていた。
もっとなにも考えていなくて、女の尻ばかり追いかけているような、そんな人間だと思っていた。
そういう一面はもしかしたらあるのかもしれない。それでも、それだけの人間ではないというのは感じさせられた。
話してみなければなにもわからない、といったツツジの言葉が早くも証明されていた。
「それはわかりません」
「そっか……」
ツツジは肩を落とし、仕方ないといった笑いを浮かべていた。
「あと、今後呼ぶ時はネモでいいです。ネモフィラさんって呼ばれるのは変な感じがします。ツツジさんの方が年上ですし」
「今後ってことは……」
顔を上げたツツジは、本当に嬉しそうだった。
***
帰りの飛空艇の中で、操縦中のシラユキから声をかけられた。
「ネモさま、どうかなさったんですか?
「どうかって?」
「だってネモさま、さっきからなんだかニヤけているように見えますが」
ネモは、慌てて顔を背けた。