20.初めてのおでかけ
空を飛ぶ鳥を見て、自分も一度は飛んでみたいと考えたことはあった。
しかし、本当に飛べるようになるとは夢にも思っていなかった。
ネモはユリが庭に停めていた飛空艇に乗った。
四人乗りの小型飛空艇の助手席に座っている。
「いい? 飛ぶよ?」
ユリが動力を起動すると、緩やかな上昇が始まった。
飛空艇は音もなく、ふよふよとまるで風船のように上昇していく。
見る見ると離れていく地面を見ていると原始的な恐怖が湧き上がってくるような気がした。
ある程度の高度まで達したところで飛空艇は上昇をやめ、コオオオオオという音と共に水平方向へと動き出した。
速度が次第に上がり、景色が飛ぶように過ぎていく。
壮観だった。
草原、丘陵、森、山、それらを上から見下ろすのは今までにない体験だった。
来た時ももちろん飛空艇によって移動したのだが、その時は夜であった。
そのため、景色などほとんど見えず、ただ移動だけで景色を楽しむ余裕はなかった。
それが、今は昼だ。
天気も素晴らしい。
飛空艇の上から眺める地上の景色は、ネモの中に言いようのない感動を生んだ。
「すごい……ですね……」
「ん? なにが?」
「この景色がですよ、空からの景色」
「もしかしてネモぴはまだあんまり飛空艇に乗ってない?」
「二度目で、この前は夜でなんの景色も見えませんでした」
「じゃあサービスしちゃう!」
ユリは首都への一直線ではなく、いくつか変わった場所の上を通ってくれた。
特徴的な山、大きな湖、それらの上を通る度に、ユリはその地形について詳細な案内をしてくれた。
素敵な体験だった。
空を飛び回れる、というのがこれほど自由を感じられるものとは思わなかった。
ネモは夢中で景色を楽しんだ。
飛空艇はすごい発明だ。
移動のための魔道具、そうなのかもしれないが、これには夢が溢れているような気がした。
もしこんな魔道具がプライマにあったらどうだろうと夢想してしまう。
もし飛空艇があちらの世界にあって、ネモが乗りこなせるとしたらどうだろう。
世界を飛び回り、伝承でしか聞いたことのないような場所を目にしていく。
それは、とても素晴らしい考えに思えた。
同時に、あちらの世界に未練らしきものがある自分に気付いてネモは驚いた。
「どうしたの? ネモぴ」
「いえ、なんでもありません」
「急に黙っちゃうからさー、景色に見惚れちゃった?」
「はい、とっても綺麗です。この飛空艇って誰でも操縦できるんですか?」
「なになに? ネモぴ操縦してみたいの?」
「えと、その、ちょっと……」
「残念、すぐは無理。勝手に運転させたらウチが捕まっちゃう。でも簡単だよ。ちょっと勉強して資格さえとれば誰でも運転できちゃうよ」
「その資格ってわたしでも取れます?」
「取れる取れる! ネモぴの場合は特に楽かも」
それを聞いて、ネモは不思議な嬉しさに満たされた。
首都までの道中、空中散歩を楽しみながら、ネモは元の世界で自分が飛空艇を操縦している様を思い浮かべていた。
***
首都に辿り着いて飛空艇を停める頃には、時刻はもう昼近くになっていた。
ネモは圧倒される気持ちでリの国の首都であるエターリを目にした。
天に届くのではと思われるほどの高層建築物が立ち並び、道幅も驚くほど広い。
道の設計がそもそもプライマと違うのが大きく感じられる。
まず中央には車が通るための道があり、その左右に人間が歩くための道が設置されているのだ。
そういった区別があるからか、大通りなどでは道幅が驚くほど広いのだ。
道の中央を車が恐ろしい速度で走ることに初めは恐怖を抱いたが、交通に関しては厳格なルールが定められているらしく、それを聞いてからは安心して歩けるようになった。
それ以外に気になったのは街路樹、というものの存在だ。
歩道に一定間隔の木が植えてあるのだ。
石材で舗装された道の一部が土になっていて、そこに木が植えられていた。
これによって人工物だけの堅苦しさが緩和され、景色全体の調和とれている。
他に感じたのは民家の少なさだ。
首都、というだけあって人口が集中しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
立ち並ぶ建物はどれも働く場所であり、生活する場所ではないのだ。
これは移動手段が発達しているため、とサザンカが言っていた。
皆郊外の思い思いの場所に住み、働くために首都に毎日通う。そういった生活形態になっているのだそうだ。
「ネモぴはなにが見たい?」
「そうですね、まず街並みが見られればって思います」
「わかった、じゃあちょっとお昼までお散歩しよっか!」
ふたりはエターリを見てまわった。
歩いていて思うのは、道が完璧に舗装されていてあまりにも歩きやすいという驚きだ。
それに、商業地区を歩いていても騒がしくないのだ。露店はなく、商人の呼びかけもない。これには良し悪しもあった。市場特有の喧騒がないのは、どこか寂しさも感じる。
高層建築の間を歩いていると、まるで異世界に迷い込んだかのようだった。
いや、事実異世界に来ているのだが、こうして街を歩くことでそれが明確な実感を持った。
ネモが興味を持つものは色々あった。
映画館、美術館、遊戯館に超大型の雑貨屋など、サザンカの話で聞いていたものから初めて目にするものまで様々だ。
ネモのこれはなにか? という質問に答えるユリは自慢のコレクションを見せているかのように誇らしげだった。
しばらく移動して、ネモはやけに木の多い区画を見つけた。
周囲が木々に覆われて中の様子は窺えない。
「ここはなんですか?」
「ここは公園」
「こうえん?」
「えっ、プライマってもしかして公園がない? それとも違う名前がついてる?」
「たぶん、ないと思いますけど。街中の森? ですか?」
ネモの言葉を聞いたユリは笑い出した。
「もり! 森て! ネモぴおもろ」
ユリは笑いが収まるのを待ってから口を開いた。
「ごめんね、でも面白くって。公園っていうのはみんなの憩いの場って感じかな? ほら、たぶんミューズってプライマより自然が少ないっしょ? だからこうして街中に森」
ここでユリはぶふふ、と笑いを挟んで、
「みたいなのを作って休憩できる場所にしてるってわけ。ちょっとした広場みたいな場所もあったり、子供用の遊具もあったりね」
「それって無料で入れるんですか?」
「もち、入って休憩する?」
「はい、ぜひ」
公園に足を踏み入れ、ネモは関心した。
たしかに自然を感じる空間だ。むしろ街中だ、ということを忘れてしまいそうなほどだ。
木々は外周部に特に多く、街を隠すように配置されていて、隔離された別空間という趣だ。
道も舗装されずに土そのままでネモはその感触にどこか安心していた。
草木の匂い、緑の匂いを呼吸して活力が満ちてくる気さえする。
行き交う人も街の人間とは雰囲気が違っていて、ゆったりとしたゆとりを感じさせた。
そういえば、とネモは気がついた。
街中を歩いている時から、すれ違う人がネモたちを見ている気がするのだ。
視線の感じが普段と違う。プライマではネモが歩いていても、道行く人がネモに意識を向けているような気配は微塵も感じなかった。
今は違う。すれ違う相手がこちらを見ている気がするのだ。
そこでようやくネモは思い出す。
今のネモは、前髪で目を隠してもいないし、いつもと違った格好をしている。
異世界の街並みに関心ばかりを持って、すっかり忘れていた。
急に恥ずかしくなった。
鏡を見た限りでは、なかなか素敵なのではないかと自惚れたが、実は不相応な格好をしているのではないだろうか。
「あ、あの、わたし変な格好してないですよね?」
「ん? めっちゃかわよだけど? ウチがコーデしたんだし。なんで?」
「いえ、その、さっきからすれ違う人に見られてる気がして」
「そりゃ見ちゃうっしょー。ネモぴかわいいもん。みんなうっわあの子かわよーってなってるよ」
「かっ、からかわないでください!!」
ユリは頭をかいて困ったような顔を浮かべ、
「ホントなんだけどなー」
信用ならなかった。
ネモは自分のことは自分が一番よくわかってるつもりだ。
もしかしたら契約事項なのかもしれない。
ユリは友達になって、と言ったが、一応はネモが雇っている扱いである。
そして、その契約内容はシラユキに一任している。
ネモも一応は雇用契約とやらに目を通したつもりではあるが、膨大過ぎて細かい内容は把握できなかった。
どこかに「ネモのことは可能な限りよいしょすること」みたいなことを難しく書いた文面があったのかもしれない。
ユリの言葉がお世辞ではないと証明される出来事がすぐに起こった。
公園を歩いていると、道行く先にベンチで休んでいる三人が見えたのだ。
中央に男がひとり、その左右にはきらびやかな女性がふたり、楽しげに談笑していた。
ネモの目から見たら、中央の男性が左右の女性をはべらせてるように見えた。
それもそのはず。その男は、驚くほどの美青年だったのだから。
短い髪の美しい茶髪で、瞳は淡いブラウン。優しげな微笑みは余裕を感じさせ、まるで貴族か王族にでも見えた。
そんなネモの視線に気付いたのか、男がネモとユリを見た。
左右の女性と話していた男は突如動きをやめ、ネモと視線が交差した。
惚れ惚れするほどの美青年であった。
ネモは恥ずかしくなって視線をそらし、そのまま通り過ぎてしまおうと思っていた。
が、なんと男の方から立ち上がってネモたちの方へと近づいてきたのだ。
遠くから「ちょっとツツジどこいくの~」という不満げな声が聞こえた。
男はネモたちの進路を進むように歩き、ネモたちの前で立ち止まった。
ここで避けて通り過ぎようとするのはかえっておかしい、と思いネモも立ち止まった。
「初めまして美しいお嬢さんたち」
いきなりだった。
ネモはなにを言われているのかわからなかった。
この男は何者なのか、お嬢さんたち、というのはつまりユリとネモも含まれているということだろうか。
それで頭がいっぱいになってしまった。
男は返事も待たずに言葉を続けた。
「よければ一緒に食事でもいかがでしょうか?」
「なに? ナンパ?」
ユリが不満そうな声を上げる。
男は悪びれずに、
「ナンパです」
と堂々と言い放った。
「あなた方が美しすぎて、声をかけないわけにはいきませんでした」
「ふーん、あなた方と言いつつも、ネモぴが目的なわけだ」
言ってユリはネモに視線を向ける。
ネモはわけがわからず、どうしていいかもわからず、自分が今どんな顔をしているのかもわからなかった。
「バレましたか」
「バレバレよ、ウチの推しだからね」
「どうでしょう? 僕と一緒に食事でも?」
「だってよ? ネモぴどうする?」
今度はふたりに対してではなく明確にネモひとりに対して声をかけていた。
そもそも、この男はすでにふたりの女性と遊んでいる最中なのだ。
それなのにネモたちに声をかけるというのは非常識であるように思えた。
いきなり食事に誘う、というのもわからない。こちらの世界の文化なのかもしれないが、ネモからしたら軽薄としか思えない。
見た目さえ良ければそういうことをしていいとでも思っているのかもしれない。
「お、お連れの人がいるんですよね? そういうのは失礼だと思います」
言ってやった、と思った。
ネモにしては、相当な勇気を振り絞っての言葉だった。
ネモの言葉は、男にとって想像以上の打撃をもたらした。
さきほどまでのこの世のすべては自分のためにあるとでも思っていそうな自信に満ちた表情は打ち砕かれ、死刑宣告を受けた罪人のような顔つきになった。
目は光を失い、道端だというのに膝をつき、慈悲を求めるような目でネモを見つめていた。
「だってよ色男。アンタじゃネモぴと釣り合わないってこと」
ほら行こ、そう言ってユリはネモの手を掴み、男を避けて道を進む。
「ま、待ってくれ、せめて連絡先を」
ユリは、嫁入り前の女性が決してしてはいけないようなあかんべえをした。
ユリはネモの手を引いて道を行く。
ベンチに座ったふたりの女性がネモたちを非難じみた目で見ていた。
今の出来事で、ネモの中に様々な感情が渦巻いていた。
ユリは、なにか良いことでも起きたかのように満足気に笑ってネモの手を引いていた。