2.きっかけとなったもの
女神の国は「もし」ではなく本当に実在した。
ネモが住んでいた田舎にまで伝わって来なかったが、今帝国が最も力を入れているのは、女神の国との外交であった。
アーキ教の伝承では、女神の国の成り立ちは、力のない者のために女神が新しい世界を作ったとされている。
が、実際のところはそうではない。
今から千年ほど前、たまたまこの世界に、違った世界へと繋がる門が開いたのだ。
その世界に一部の人間が移り住み、数百年後、開いたのと同じ唐突さで門は消えてしまった。
それが女神の国の伝承の元になった話だ。
そうして今、帝国歴1348年、再び何の前触れもなく女神の国への門が開いたのだ。
帝国はすぐに門へ調査隊を派遣した。
調査隊によると、門の先にはこことは全く違った世界が広がっていて、しかも自分たちと同じ人間がいたというのだ。
千年前にこの世界から移り住んだ者たちの子孫だ。
調査隊は歓迎され、十分なもてなしを受けて元の世界へと帰ってきた。
千年という時間は、もともと同じ世界の住人だったとは思えないほどの文化的な隔たりを生んでいた。
調査隊が語るところによると、女神の国はこちらの世界に比べて遥かに魔学が発展していて、空を飛ぶ魔道具や馬のない馬車など、信じられないようなものが当たり前に存在してるらしい。
魔物はおらず、戦争もなく、人々は穏やかに暮らし、まさしく伝承に語られる女神の国さながらの平和な世界がそこにはあったそうだ。
現皇帝であるリベリウス四世は、この世界の技術を是非とも手に入れたいと考えた。
そして、ひいては女神の国を自分のものにできないかと目論んでいた。
女神の国の人間たちはといえば、帝国とは逆に、積極的な国交には消極的であった。
帝国と交流して得られる利益が女神の国にはあまりないのだ。
技術的には帝国の遥か先を行っており、肥沃な大地に豊富な資源、必要としているものはあまりなかった。
女神の国にないものを強いて言えば魔物の素材くらいだろうか。女神の国には魔物が存在しないのだ。
しかしそれも必要性はほとんどなく、あえて違う世界と交流を図る理由は探し出せなかった。
それに、女神の国の人間が国交に消極的な理由はもうひとつあった。
危険であるからだ。
女神の国の人間は、帝国の人間に比べて魔力的に劣るのだ。
女神の国の歴史にももちろん人間同士の戦争はあったが、それも遥か昔の話で、今はもう争いはほとんどなかった。
加えて女神の国には魔物が存在せず、魔学も発展して大きな魔力を必要としなくなったため、徐々に人間の魔力が衰えているのだ。
それに対して帝国はついこの間まで血みどろの戦争を繰り返し、リベリウス三世の手でようやく大陸が統一されたばかりだ。
しかもこの世界では戦争が終わっても魔物が蔓延り戦いは絶えない。
一見劣悪な環境が、この世界の人間という種を強くしていた。
この差は千年という時を経て、もはや両世界の人間に別種といえるほどの違いをもたらしていた。
見た目はほとんど変わらず、言語も変わらず、しかしその中にある魔力の差は大きい。
もし帝国と女神の国が戦争にでもなったら、ただでは済まない。
外交によって生まれる利益は少なく、危険があるかもしれない。
そうした理由から、女神の国の人間の多くが積極的な交流に反対していた。
しかし帝国側もあきらめなかった。
帝国は女神の国に使節団を送り、粘り強く交渉を続けた。
その結果、なんとか正式な挨拶だけでも、ということになったのである。
両世界交流を記念しての式典は、門が存在する小高い丘で開かれることになった。
青空の下で、急造の舞台に来賓席と最低限式典を行える環境が作られた。
式典の当日、門が存在する丘はいつも以上の物々しい雰囲気に包まれていた。
丘を囲むように物騒な兵が配置され、猫の子一匹通れない体制だ。
ものものしい周囲とは違って、丘の上は落ち着いていた。
帝国側からの出席者は皇帝を始め、国の重要人物に上級貴族と錚々たる面々が出席していた。
女神の国側からは三十人ほどの使節団が参加していた。
来賓席の最前列には女神の国の使節団が、その後ろには王国側の上級貴族たちが座っていた。
始めに皇帝の挨拶が行われた。
遥か昔に分かれた兄弟との再開を喜び、再び門が開いたのは神の意思によるものだとし、こうして再び隣人となったなら、お互いが分かち合えるものが数多くあるだろうと未来への希望を語って演説を終えた。
女神の国側は使節団の大使が壇上に登って短い挨拶をした。
内容は簡潔なもので、かつて祖先が暮らしていた世界を訪れることができて感無量である。この再会が良きものになることを期待していると述べた。
お互いの挨拶が終わり、帝国の作法の則って贈り物を渡し合う儀式が行われた。
帝国の流儀で、国同士の親交を深めるためにお互いが三つずつ贈り物を贈るという儀式があるのだ。
まず、来訪者である女神の国側から贈り物の贈呈が行われた。
最初の品は金属製の板であった。
両手で持つのにちょうど良い大きさで、重量もかなり軽い。表面はガラス張りになっており、見た限りではそれが何に使うものなのかわからなかった。
大使側が使い方の説明をする。
なんでもこれは『本』であるらしい。
金属板の内部には様々な書物が記録されており、操作によってそれを自由に呼び出せるそうだ。
この金属板に記録されている書物の量は千を超え、女神の国で作られた様々な物語が入っている。
大使が魔力を込めるとガラス張りの面がまるで書物を開いたようになり、めくる素振りをするとガラスに映ったページがめくられる。
大使は掲げた金属板を下ろして皇帝に渡した。皇帝は恭しくそれを受け取った。
来賓席にいる貴族たちに説明がなされると、貴族たちの間にどよめきが走った。
次の贈り物はふたつの縦長の小さな箱だった。
大きさは手のひらほどでかなり小さい。
これは『念話機』であると大使は説明した。
その名の通り、念話を補助する魔道具だ。
これは対で一組になっており、魔力があるものであるなら誰でも、もう片方の念話機に念話が伝えられるという。
念話が可能な距離は大陸の端から端まで届くという。専門の術師でもなくそのようなことができるなど、にわかに信じられるものではなかった。
再び来賓席に説明が行われ、帝国側の人間がざわめく。
最後の贈り物は、説明されずとも理解できるものだった。
道具箱だ。
大使が近くにいた衛兵に声をかけ、道具箱に持っていた槍を入れさせると、見た目上は入るはずのない槍がするりと飲まれ、引き出すと元通りの槍が出てきた。
この道具箱は実際の大きさよりも四十倍程度の容量が収容できるらしい。
皇帝は、女神の国側の贈りものを受け取り、来賓席に笑顔を向けていた。
浮かべている表情とは裏腹に、その内心は笑顔を浮かべる心情とは程遠かった。
魔学における技術に圧倒的な差があるとは聞いていたが、これほどとは考えていなかったのだ。
使節団の報告から女神の国側の技術について様々な憶測をしていたが、その差を改めて思い知らされた。
しかもこれは帝国に渡しても問題ないと判断されている代物でしかないのだ。
これらが氷山の一角でしかないのは間違いなく、女神の国は今の帝国では想像すらできない魔道具を大量に、あらゆる分野で開発しているのだろう。
もらったどれもが皇帝にはなんの原理も理解できなかった。
おそらく帝国の魔学者でもそれほど変わらないだろう。
『本』は携帯できる書庫のようなものだった。
『本』に入っているのは物語と言っていたので、歴史書や技術書の類は記録されていないのだろう。
だからここから女神の国について学べるものは少ないはずだ。
それでも、その技術には大いに関心を持った。
帝国側はようやく紙が安定して生産できるようになりつつある段階だ。
書物は非常に高価なものであり、貴族間では書庫を持っていることがある種のステイタスだと考えているような有様だ。
女神の国では、すべての民がこうした『本』を持っているのだろう。
信じられないことだ。
そんなことになれば、国全体の知識のレベルはいったいどうなるのか。
魔学が発展した理由の一部であることは間違いないだろう。
念話機はあまりにも壊れている。
そもそも念話ができる魔術師は極めて貴重だ。
しかも、かなり高位の術師であろうと街の端から端までの念話ができれば上等なものだ。それも大気の魔力状態が良く、妨害がない前提でだ。
大陸の端から端までの距離、それも誰でも念話ができる魔道具など、神話級の魔道具としか思えない。
これ一つで戦争が変わるような代物だ。
そんなものを贈り物として惜しまず渡せるというのはどれほどの技術なのだろうか。
最後の道具箱はこの世界にもいくつか存在する。
だから見たことのない魔導具というわけではない。
問題はそれが女神の国では量産体制にあるというところだろう。
この国では道具箱は極めて珍しい。
なぜ存在するのかもわかっていない。古の錬金術師が偶然作ってしまったのか、神からの贈り物なのか。
存在するのだから存在するというインチキ哲学じみた答えが出てくるだけで、何一つ解明できてないものであった。
なんにせよ道具箱というのはほぼ存在しないに等しい伝説級の魔導具なのだ。
それを安定して作れてしまう。
それが意味するところはつまり、魔学で次元構造を理解しているということになる。
どんなに希望的観測をしたとしても、帝国と女神の国には赤子と大人以上の技術差があるのは明白であった。
皇帝はその事実に戦慄したが、臆してはいなかった。
いずれ女神の国を自分のものとする、その考えはむしろ強くなったと言える。
今すぐ侵略しようとするのは、紙をまるめた剣で竜に挑むようなものかもしれないが、それならばこの技術を盗んでしまえばよい。
帝国側には技術で大きく劣っているのに対して、肉体面での優位性があった。
技術は盗める。そうしていずれ同等の技術を持つようになれば、兵が強い分こちらが勝つ。
そのためには絶対に交流を続けねばならなかった。
次に、帝国側の贈り物に移った。
一つ目の贈り物は武器であった。
名だたる名工たちが生み出した武器。曲刀、長弓、槌に矛槍。
冒険者が見れば涎を垂らすような名器が惜しげもなく贈られることになった。
それを贈られた女神の国側の反応は、皇帝が期待したものではなかった。
それぞれの武器を見てひとつ頷いたあと、大使は「美しい武器ですね」と社交辞令的な笑みを浮かべただけだった。
次の贈り物は、魔物の素材だった。
黒竜の牙、不死鳥の羽、海神の鱗といった貴重な素材だ。
錬金術師ならば命を捨ててでも手に入れたいと考えるであろうそれらを見ても、大使は「貴重な品をありがとうございます」としか言わず、驚愕の表情は少しも見せなかった。
だが、最も皇帝の予想に反した反応が返ってきたのは、三つ目の贈り物であった。
帝国側の三つ目の贈り物は、美術品だ。
特別な素材を使った魔道具ではなく、絵画、装飾品、陶器類といった、質は高いにしろ、ごくごく普通の美術品である。
これらを贈ることに決めたのは、女神の国に派遣した調査隊の進言からだった。
女神の国の住民は芸術に強い関心を示しているので、できれば美術品をと言われたために用意したものだ。
これに関しては帝国側の人間は半信半疑であったが、実際に女神の国を見たのは調査隊の人間だけであり、その意見は採用すべきであるという皇帝の判断から採用される運びとなった。
大使の反応は今までと違った。
美術品を目にした大使は真剣な眼差しに変わり、それぞれを品定めするように見つめては頷いていく。
そうしてひとつひとつを眺め、大使がある陶器を見た瞬間、まるで電撃にでもうたれたかのようにぶるりと震えたのだ。
大使はその美しい陶器を直接手にして、しばらくそれを眺めたあと、あろうことか涙を流し始めたのだ。
大使は陶器を自分のものにしたい誘惑に抗っているかのようにそのまま固まり、ようやく皇帝に向き直り、感に耐えないと言った様子で、
「素晴らしい贈り物をありがとうございます。これはきっと、我が国の宝になることでしょう!」
そう言ったのだった。
***
信じがたいことだが、その陶器が両世界の交流を続ける決め手になった。
交流に消極的だった女神の国だったが、その陶器を持ち帰り、国の美術館に展示したことで世論の風向きは一気に変わった。
時間をかけた討議の末、帝国と女神の国、双方が互いの世界に使節団を派遣し、交流は互いの世界を知ることから始めることになった。
両世界の繋がりを確たるものにしたのは、まさかの陶器であった。
その陶器を作ったのは、ベース・プラギットという陶器職人であるとされた。
千の作風を持つと言われ、型にはまらない様々な陶器を世に送り出した名工だ。
この陶器を作ったとされるベース・プラギットは、つい最近亡くなっていた。
皇帝は苛立ちを抑えずにはいられなかった。
もしベース・プラギットが存命ならば、外交を優位に進める大きな力になっただろうに、と。
女神の国の人間は、ベース・プラギットが存命でないことを大変に悲しんだ。
それでも、これだけ素晴らしい作品を作った世界への関心を弱めるものではなく、女神の国の世論は積極的な交流を望んでいた。
ここで、ある問題が起きた。
皇帝が、国のお抱えの遠見であるヴェザンティ老に陶器の出自を確認させたのである。
念のためであり、それほど何かを期待して、というわけではなかった。
すると、驚くべき事実が発覚した。
千の作風を持つベース・プラギットは、実際は千の作風など持ってはいなかったのだ。
女神の世界との門が開かなければ、墓まで持っていかれたこの事実は、いつまでも暴かれることはなかっただろう。
ベース・プラギットが持っていたのは千の作風などではなく、確かな審美眼だった。
ベース・プラギットは弟子が作った作品の中で、自分の目に適うものを自分の作品として帝都で発表していたのだった。
問題の陶器も、ベース・プラギット自身が作った物ではなく、その弟子がつくったものであった。
しかも、その弟子はつい先日、ベース工房を破門になっていた。
ヴェザンティ老の遠見によればその陶器は、年若い少女の作品であるらしい。
その少女の名は、ネモフィラ・ルーベルという。