16.穏やかなる生活
ネモは風呂の中で大きな伸びをした。
お湯の暖かさが身体の芯まで染み込む。
家付きの風呂である。
それも、足が伸ばせるどころか少しは泳いでしまえそうなくらい広さのある。
ネモが今いる家は、一部屋まるごと風呂場となっている場所があるのだ。
ネモが女神の国に来てから、一ヶ月が経っていた。
激動の一ヶ月であった。
女神の国、というのはネモがいた世界での通称だ。
この世界の名前はミューズ、というらしい。
このミューズでは三つの国がある。
サザンカが属し、今ネモが滞在しているのはリの国だ。
ネモはこの世界に来るなりリの国の首長―――ミューズでは、市民の投票によって指導者が決まるらしい―――に内密な招待を受けることになった。
ネモの訪問は熱烈な歓迎を受け、リの国の首長は引いてしまうくらいにネモの作品を褒め称え、あなたがこの世界に来てくれたことを喜ばしく思うと言ってくれた。
首長はネモが滞在するための家に、付き人まで用意してくれ、ネモは一夜にして元の世界―――ミューズの人間はプライマと呼んでいるらしい―――のお姫様でも体験できないような生活を手に入れてしまった。
ミューズがどんな場所かをネモの印象で言葉にするならば『未来都市』である。
ミューズは想像できないほどプライマと違った世界、というわけではなかった。
住んでいる人間はプライマとほとんど同じで違いなど見分けがつかないし、不老不死だったりもせずなんら変わるところがない。
ただ、生活はまるで違った。
まず、生活全般があまりにも便利で圧倒的な差を感じた。
この世界では、魔道具が非常に安価に手に入り、広く普及しているのだ。
例えば今ネモが入っている風呂に関してもそうだ。
水が各々の家に引かれているだけで驚きであるが、それはまだ序の口だった。
風呂のお湯は程よい温度を保って実に心地よい。これは魔道具による恩恵なのだ。
火を使わずに水をお湯にする、これを魔道具で実現しているのだ。
このため、火の気配を一切見せずに室内でのお風呂が楽しめる、というわけだ。
他にも驚くべき技術は山程あった。
魔導ランプにしてもそうで、空気中の魔素を循環させて明かりを生成するランプは生活模様を一変させていた。これに慣れると、日の出と共に起きて日没と一緒に寝る生活が恥ずかしくなる。
プライマの日常で不便と感じていたすべてが高いレベルで改善されていた。
その恩恵で料理が非常に美味しかったりといたれり尽くせりである。
その技術の多くが、想像できる範疇であったが、ネモの想像を超えた技術もあった。
それが通信関連だ。
魔力の波に情報を乗せて発信する、という技術が存在するのだ。
文字のやりとりができるのは当然で、写真や声も乗せることができ、それどころか本物そっくりに動く「映像」といったものまで送ることができるのだ。
これによってプライマとミューズが全く違う世界になっていると言っても過言ではない。
魔学技術においてミューズがプライマよりも遥かに発展しているのは、どうもこれが一番大きな理由らしい。
早期の段階で念話による通信技術の発達が、世界に差をつけたのだ。
魔物がいない平和な世界であるというのはもちろん一因でこそあるが、それは大きな要素ではない。
技術者の情報共有というのは、それほどに大きなものらしい。
とネモはミューズの歴史で学んだ。
この技術はあらゆるところで活躍していて、一般市民にとっては、特に日常生活においての娯楽方面で活用されているのが顕著だ。
受信機には常になにかしらのショーが流れているのだ。
劇であったり、有名人がおもしろおかしいことをする番組だったりと色々ある。
これらはミューズの人々の価値観を知るためには大いに役に立った。
ミューズの人間はなにを尊び、なにを卑下するのか。
やはり同じ人間だとは思ったが、意外だと思うものもあった。
それは、地位ある人間や有名人の失敗がどうやら人気だというものだ。
誰々が不倫しただの、女性に強制的に関係を迫っただの、そういうものだ。
こればかりはネモにもわからなかった。
どこか遠くの誰かがなにをしたところで、見ている側にとってはどうでもいいと思うのだが、とにかく人気らしい。番組に割かれる時間から判断するに、ミューズの人間は政治などよりもこういった話に興味をもつようであった。
そうして、問題を起こした人間は、ネモが思っている以上に評判を落とすのだ。
ネモの価値感からすると、英雄色を好むというか、権力者や富豪がそういった事をするのはごく当たり前なことだと思うのだが、ミューズの価値観からすると、重罪らしい。
このあたりは高潔なのか下劣なのかわからない部分でネモを困惑させた。
最初、ネモは暇な時間を映像機に流れる番組を見ていてすごした。
ミューズという世界を理解する、そういった建前で。
しばらくそういった日々を過ごし、ネモはこれは良くないものだと思った。
なにせ、面白すぎるのだ。
ぼーっとしながら流し見していると一日中でも見れてしまう。
今はネモ自ら縛りをかけ、ショーを見るのは一日一時間まで、と決めている。
ネモは湯船から出た。
泡立つ石鹸を使ってネモは鼻歌混じりに身体を洗う。
泡を流す時、シャワーから出るお湯にありがたみを噛みしめる。
こうやって温かいお湯で身体を洗えるのはなんとありがたいことか。
これだけ快適な生活を送っていたサザンカがプライマに来ていた時は、日常生活がかなり辛かったのではないかと思う。
首長との挨拶を終えて住居を手に入れてから大変だったのは、訪問者が多かったことだった。
サザンカと一緒に、使節団としてミューズに行っていた面々が一目ネモに会いたいと来るのだ。
皆が皆、ネモに感謝してくれていた。
自分たちに危機を知らせてくれたことを感謝し、ネモがミューズに来てくれたことを喜んでくれていた。
隊員は誰もが気さくでネモに優しく、土産と称して様々な贈り物までくれた。
隊員たちの第一目的はネモに感謝を伝えることであったが、そのほかにもどうやら目的があったらしい。
ネモの作品を見たかったのだ。
ネモは、この世界に来てからふたつほど固有能力で作品を作っていた。
その時はまだひとつしか出来ていなかったが、初めに使節団の隊長と副隊長がネモの家に訪れたときに、それを見せたのだ。
隊長は素直な賛美の言葉をくれて、ネモはとても嬉しかった。
それ以上の反応を示したのは副隊長の方だ。
ネモに対して、なんとか作品を売ってくれないかと懇願してきたのだ。
ネモとしては譲っても構わなかったのだが、サザンカに怒られてしまった。
副隊長の方も隊長にこってりと絞られていた。
それから噂が広がったのか、ネモの家には連日、感謝を伝えつつもネモの作品を拝みたい隊員が訪れていたのである。
あともう十分だけ、と決めてネモは湯船に戻った。
ここの生活の欠点は誘惑が多すぎることかもしれない。
なにもかも快適故に、それを続けすぎてしまう。
最近はようやく隊員の来訪も落ち着き、ネモもミューズでの暮らしに慣れてきた。
この一ヶ月はあまり外には出なかったが、近いうちにサザンカが休暇をとって色々なところを案内してくれる約束をしていた。
楽しみである。
サザンカはいつでもネモに親身になってくれて、お姉さんみたいな存在だった。
ミューズで孤独感を感じないのはサザンカのおかげも大きいと思う。
そういえばロイはといえば、どこかに行ってしまった。
この世界を見てくる。そう行って。
まさかネモと一緒に暮らすとは思っていなかったが、完全に別行動をするとは思ってもみなかった。
ロイはロイなりにこの世界での活動を許されたらしい。
あの人のことだ。たぶん、そう遠くないうちになにをしているかの噂が流れてくるのではないかと思う。
温かいお湯の誘惑を断ち切ってネモは立ち上がった。
随分と長湯をしてしまった。
浴場から出たところで、そこには一人の少女が待ち構えていた。
シラユキだ。
少女というよりも童女といった方が相応しいかもしれない風貌をしているが、人間ではない。
人形だ。
シラユキは世界有数の超高性能人形で、ネモの世話係兼護衛としてネモの元にいるのだ。
「ネモ様、どうぞお召し物を」
「うん、ありがとう」
下着と寝間着を受け取りネモは着替える。
呼び名には困らされた。ご主人様もマスターも主様もネモの趣味ではなかった。ネモフィラ様、もネモはそんなに偉くないと思ってしまう。
かと言ってシラユキは呼び捨てを断固拒否し、結局はネモ様に落ち着いたという経緯がある。
「ネモ様、サザンカ様からご連絡があります」
「サザンカさんから?」
「はい、明日こちらに来たいそうですがよろしいでしょうか?」
「うん、伝えておいて」
「わかりました、ではメッセージを送っておきます」
シラユキは風呂上がりのお茶まで入れてくれていた。
良い香りのハーブティーだ。
リビングで受信機のショーをしばらく見て、その日は寝ることにした。
新しい環境はなにもかも面食らうようなものであったが、ネモにとっては新鮮で、刺激的な生活だった。
それに、この世界の人間は―――ネモが会った範囲では―――誰もがネモのことを認めてくれていた。
正直な話、それが嬉しくないわけがなかった。
この世界でのネモは、使節団の隊員全員を救った英雄であり、極めて高い評価を受ける職人なのだ。
調子に乗るなと自分を諫めるが、ふかふかのベッドの中で、ネモはどうしてもニヤけてしまう。
ミューズでの新生活は、なんの不満もない、幸せな滑り出しから始まっていた。