14.臆病な救世主
しろくてあかるい。
それが、門の中を表す言葉だった。
門の中はネモの想像とは大きく違っていた。
ネモが想像した門の中というのは、トンネルのように暗かったり、見たこともない抽象的な世界のようなものと考えていたが、実際にはそんなものではなかった。
門の中の道は、白い広大な廊下のようなものだった。
地面も、壁も、天井なのか空なのかわからない上部分も真っ白だった。吹き抜けになっているのか、それとも天井が存在しているのかもわからない。
そのくせ、なぜか明るいのだ。
光源は不明。太陽もなく、地面も壁も発光していなそうなのに真昼のように明るい。
道幅はたっぷり馬車が四台は入れそうな広さがある。
地面の踏み心地は石のようだった。
白く清浄な世界、そう見えなくもないが、ネモが抱いた印象はただひたすらに不気味だ、という思いであった。
「壁は絶対に触れないようにね」
サザンカの声に、ネモは現実に引き戻された。
「壁?」
「そう、壁。真っ白でわからないかもしれないけど、この道の左右には壁がちゃんとあるの」
「触れるとどうなるんですか?」
「次元の狭間に引きずり込まれちゃうの。そのあとは私達の魔学でもわからない」
次元の狭間、というなにやら恐ろしい単語から、ネモはよくわからないまでも絶対に触らないようにしようと心に誓った。
「アタシたちの世界ともだいぶ違うのね」
ルクが関心したようにつぶやいていた。
「行きましょう」
サザンカが歩き出す。ネモも、気後れしながらも後を追った。
しばらく進んだところで、ルクは唐突に声を出した。
「あ」
道の先を見据えるルクは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「敵、だと思う」
ネモは焦ってルクの視線の先を追うが、そこにはただ真っ白な空間が広がっているだけに見える。
「誰もいなそうですけど」
「ここって変な空間で、先は見えてるようで見えてないのよ」
ルクはサザンカの方を向き、
「サザンカ、でいいのかしら」
「いいわ」
「女神の国の人間が迎えに来てる可能性ってある? それもひとりで」
サザンカは少し考え、
「ない、と思うわ」
「じゃあやっぱり敵だと思う。サザンカ、準備して」
「できてる。いつでもいいわよ」
そういうサザンカの目には決意の光が宿っていた。
「ネモ、私が守るから安心してね」
サザンカの言葉は心強かったが、ネモは不安を感じていた。
戦いになる。それは間違いないことであるように思えた。
そうなった場合、やはりどちらかが死ぬのだ。
もし負けたらサザンカは死ぬ。
自分も死ぬだろう。
ルクも死ぬかもしれない。
それは嫌だった。
勝った場合も相手は死ぬだろう。戦いとはそういうものなのだ。
それも嫌だった。
やだやだやだやだ、そう言って駄々をこねて逃げ出したい気分であったが、そうするわけにはいかなかった。
これが、自分の決めた道なのだ。
ネモが女神の国に行くことを選んだ。
だから、なにが起こったとしてもそれを受け入れる勇気を振り絞る必要があった。
ネモたちが進み、ある地点にまで進んだところで、その相手は突然肉眼で観測できるようになった。
撃った。
なんの予備動作もなく、相手に声をかけることもなく、問答無用の射撃であった。
サザンカの魔導銃から放たれた三つの光球が慈悲なく相手に襲いかかった。
その光球を、相手は当然のように防いだ。目にも止まらぬ俊敏な動きで、両の手を使って。
相手が光球に触れると、まるでシャボン玉であるかのように光球は消え去ってしまった。
「防いだっ!?」
相手はだらりと両腕を垂らしてこちらを見据えていた。
「防ぎますよ、これくらい」
相手は、青年であった。
下手をすればネモよりも若く見える。
その姿は戦いなどまるで向いていない、一日中部屋にこもって読書でもしていそうな、気弱な青年にしか見えなかった。
それでも見た目通りであるはずがなかった。
気弱な文学青年は女神の国の武器を防いだりもしないし、次元の間で待ち構えていたりなどしないのだから。
サザンカは魔導刃を抜き放って構える。
それに対して、青年は浅いため息をつくだけだった。
ネモはその姿を、逃げ出したい気持ちを抑えながら見つめた。
違和感。
どこかおかしかった。
青年はネモたちを見ているはずだが、それには集中していないように見える。
ネモたちを見つつも、本当に意識を割いているのは別であるような妙な感覚。
どうしてそう感じるのか、言葉では説明できなかったが、ネモはなぜかそう感じた。
不思議な青年、それがネモの印象だ。
アーキ密教というのは、要するに戦いに誇りを感じる人間の集まりなはずだ。
それなのに、目の前の青年からはそれが感じられない。
戦いの直前だと言うのに、それが心底嫌なものであるような、そんな雰囲気を感じさせる。
ネモは、口が自然に開いた。
「あの、見逃してくれませんか?」
青年の瞳が、意識しなければわからないほどであったが、一瞬だけ見開かれた。
ルクが「なにいってんのよ」とネモの耳元で呟いた。
それから答えるか迷うような逡巡を見せてから青年は言った。
「それは……ないかな」
「でも……」
「悪いけど僕には時間がないんだ。君たちを片付けたあとも大変だろうしね。そういうわけで」
青年は両腕をだらりとさせたまま体を沈め、突如前傾姿勢のままネモたちに向かって走りだした。
サザンカも負けじと切りかかった。走りながら光の束じみた刃を振りかぶり、青年相手に容赦なく叩きつける。
青年はその刃を、素手で受け止めた。
即座に魔導銃での射撃。青年は飛び退り光球を避ける。
サザンカは魔導銃を乱射し、青年を牽制し続け、青年は人間とは思えない身のこなしでそれを避けながら距離を詰めようとする。
両手を使っての防御と回避を巧みに用いて接近しようと機を窺っている。
戦いは攻めているように見えて、防戦一方であった。
サザンカの武装は相手にとっての有効打にはならない。
魔導刃も魔導銃も素手で止められて相手を傷つけることができない。
反面、相手の攻撃はサザンカにとって致命傷になる可能性がある。
それに相手の本命はネモだ。ネモにとって相手の攻撃が致命的であるのは間違いない。
サザンカは自分を守り、ネモを守り、その上相手を撃退しなければならないのだ。
僅かな時間の攻防でも、ネモにはこちらに有利な要素がなにもないように思えた。
サザンカは魔導銃を中心に、相手を近づかせない動きでなんとか凌いでいた。
堅実なサザンカの守りに、相手も攻めあぐねてはいた。ネモにはただそれを見ていることしかできない。
守ってもらっているというのになにも出来ない自分が恥ずかしかった。
このままじゃいけないと思った。なにかしなければならない。
どんなに些細なことでもいいからネモは自分を守ってくれているサザンカを手伝わなければ。
命が、かかっているのだ。
ここでなにもしなかったら、後悔しながら死にゆく自分が想像できてしまった。
石を投げての援護でもなんでもいい、やらなければならない。そう思ったが、この空間に石など存在しなかった。
天秤が相手側に傾くのは時間の問題、という気もしてはいた。
お互いが攻めあぐねているように見えるが、たぶんサザンカが劣勢だ。
相手はほとんどを単純な体術で躱している。
それに対してサザンカは魔導銃を中心に、魔導具を駆使して戦っている。
無限に撃てる、というわけではないだろう。このまま拮抗を続けた場合、先に折れるのはこちらだ。
やっぱり妙だった。
ネモは戦いのことなど全くわからないが、なにかが妙なのだ。
贔屓目なしで見れば、サザンカよりも相手の方が実力は上に見える。
それなのに、相手はえらく慎重だ。まるでサザンカが切り札を隠しているのを知っていて、それを警戒しているように。
他にも、気になる要素はある。
やはり相手はどこか戦いに、目の前のサザンカに集中していない。
ネモはその正体を知りたくて、相手に意識を集中した。
相手は、ネモには人間ができるとは思えないような動きでサザンカの放つ光球を避け続けている。
ネモよりも若いかもしれない、気の弱そうな青年が、真っ白な空間を駆け回っている。
目。
ネモは、青年の目を見た。
その目はサザンカを見ているが、本当に見ているのはその奥にあるなにかだと感じた。
ネモ、ではない。
それよりももっと奥だ。
その視線の先には、門の入り口がある。
入り口を気にしている?
門が閉じるとでも思っているのだろうか。それとも……
そこで、ネモの中にある閃きが浮かんだ。
ネモはすぐに移動を開始した。
「ちょっと、どうするつもり?」
そう言いながらも、ルクはネモにふわふわと浮きながら着いてきていた。
ネモの足は震えていた。
恐ろしかった。
ネモが動くことで相手が違った動きを見せる可能性があったからだ。
ゆっくりと、断崖絶壁にある細道を渡るような足取りで、少しずつ女神の国側、出口の方へと向かった。
青年の目線が僅かにネモを意識しているのが感じられた。
青年がいきなりサザンカに切り込んだ。
今までの動きはなんだったのか。
嘘みたいな動きでサザンカの光球を潜り、その両腕がサザンカを身体ごと振るうような大きな動きで薙ぎ払った。
青年とサザンカの間で、落雷のような強烈な光が輝いた。
光が収まると、魔導刃を地面に突き刺してうずくまるサザンカ、とネモに向かって動き出した青年が見えた。
怖すぎた。
自分を殺しに青年がやってくる。
青年は自分をどのように殺すつもりなのだろうか。
捩じ切れた首がフラッシュバックする。
全身が震え、無意識に後ろに下がろうとしてしまう。
その場にへたり込んでしまいたい恐怖が襲ってくる。
できることをやるしかなかった。
なんの意味もない可能性はある。
うまくできるかもわからない。
自分でもそんなことをして本当になにか起こるのかが信じられない。
必死に立ち上がろうとしているサザンカが視界に入っている。
ただ死ぬよりはなにかをすべきだとネモは思った。
だから、叫んだ。
誰もいない入り口に向かってただ叫んだ。
「ロイさん!!!!」
その演技がどこまで真に迫っていたか、ネモ自身には判断できなかった。
だが、それがどれだけのものだったかは、青年の強烈な反応で理解することができた。
ネモに襲いかかろうとしたところから反転し、入り口の方に振り返ったのだ。
サザンカは、そこを狙った。
今までの青年にはなかった、決定的な隙がそこにはあった。
追いすがろうとしていたサザンカのタイミングは完璧だった。
身体ごと回しての強烈な蹴りが、青年に刺さった。
人間が蹴りで宙を飛ぶ、というのはネモからしたらかなり不思議な光景に見えた。
青年は放物線を描いて飛び、空中で猫のように体勢を立て直し、なんとか着地をした。
しようとした。
その着地は、完璧には成功しなかった。
戦いはあっけなく決着を迎えた。
青年は壁際ギリギリまで吹き飛ばされ、滑るように着地し、その片足が壁に触れていた。
壁が、波打つように揺れた。
青年の身体が、動く。
壁に吸い込まれるように。
青年は、足から壁に飲み込まれようとしていた。
「あ……あ……」
ネモのところまで、その声は聞こえた。
青年は身体を前に投げ出し、引きずられるのを拒むような体勢で、手で地面をつかもうと必死にもがいていた。
それでもその努力は実を結ばず、ジリジリと壁に吸い込まれようとしていた。
青年の瞳に、絶望色の光が滲んでいた。
自分に起こったことが理解できず、これから自分が辿る末路を想像し、避けられぬ運命を悟って絶望する色が、その瞳にはあった。
「行きましょう」
サザンカはただそれだけ言って、青年に背を向けて先に進もうとした。
ルクも「かわいそ」とだけ言ってサザンカに続こうとした。
青年は叫ぶでもなく、歯を食いしばり、手で地面を掻きむしり、一秒でも長く引きずり込まれる時間を先延ばしにしようとしていた。
壁が意思を持つ生物であるかのように青年を飲み込もうとしていた。
その瞳は、まだ残っていたネモを見ていた。
その瞳には恨みでもなく、怒りでもなく、助けを求めるでもなく、ただ絶望があった。
死にゆくものの瞳だった。
ネモの行動がこの結果を招いたのだ。
青年は、終始門の入り口を気にしていた。
たぶん、それはロイの存在を意識しているのだろうとネモは踏んだ。
アーキ密教で最も強いとされる”声”のひとりをロイは瞬殺してみせた。
青年は、そのロイが助けに来る可能性を強烈に意識していたのだろう。
そして、それは的中していた。
ネモがロイの参戦を匂わせただけで、青年には破滅的な隙ができた。
その結果、青年はどこかへ引きずり込まれようとしている。
間接的にネモが殺したも同然だ。
もう一度、青年を見る。
青年はもがいていた。なりふり構わず。
目には涙が溜まっていたが、泣き言はなにも言っていない。ネモがその立場だったら、惨めに泣きわめいたに違いない。
ネモはそれを見て、決意した。
正気か、と頭のどこかで声がした。
相手は自分を殺そうとしていた相手だ。
近づいたらまだ殺される可能性すらある。
それにネモが動いたからとて助けられるかもわからない。
仮に助けられたとしても、その後なにもなかったように殺されるかもしれない。
冷静に考えれば良い要素は微塵もなかった。
たぶん、本当に正気ではなかったんだと思う。
ネモの身体は、動いた。
もう嫌だった。
自分のために誰かが死ぬのが。
自分のせいで誰かが死ぬのが。
それが味方だろうと敵だろうと関係ない。
自分は、誰かの命がかかるほどの価値はないのだ。
ネモは駆け出して青年に近づいた。
恐怖が襲いかかってきた。
自ら危険に近づこうとしている。
自分は青年に殺されるかもしれない。
相手の目的は自分の殺害であったはずだ。
近づいてきたネモを攻撃すれば、相手の目的は最低限達成されてしまうはずなのだから。
それでも、半ば狂気に侵されるようにネモは走った。
青年の手をつかむ時、自分でも信じられないくらい情けない声が出た。
青年の、信じられないと物語る瞳がネモの視界に入った。
ネモは全身で踏ん張り、壁に引きずり込まれつつある相手を引っ張りだそうとした。
びくともしなかった。
それはまるで壁に固定されたようで、大木に張ったロープを引いているようだった。
それは第一印象でしかなかった。
すぐにそれがどれだけ無意味な行為であったか理解した。
壁は、ネモごと引きずりこもうとしていた。
青年の両手を掴み、後方に全体重をかけて引っ張り出そうとするが、なにも変わらなかった。
それどころか、ネモまで引き寄せて飲み込もうとしていた。
ねじくれた悲鳴が漏れた。
ネモは自分の無力感に泣きわめき、骨の髄まで染み込んでくる恐怖に失禁した。
そこまで恐ろしければ手を放してしまえばいいのに、ネモは手を離さなかった。
ネモがどれだけ引っ張り出そうとしても、青年の体はジリジリと壁に飲み込まれていた。
ネモまで巻き込んで。
ネモは半狂乱で何度も何度も後ろに強く引っ張るが、壁は無慈悲に青年を飲み込み続けた。
「アンタなにしてんのよ!!!!」
いつの間にか近づいてきていたルクに気づきもしない。
耳元で叫ぶルクの声もまともに耳に入っていない。
青年もなにか言っていた気がするのだが、ネモにはもうなにもわからなかった。
ネモは泣きわめき、自分でもなにを言っているのかわからない言葉をむちゃくちゃに叫んでいた。
たぶん、あとで聞いたら死にたくなるような泣き言を口にしていただろう。
腰に、手を回される感覚。
「せーのっ!!!!」
というサザンカの力強い声。
お腹に嘔吐してしまいそうな衝撃を感じたが、それでもネモは手を離さなかった。
青年の身体が、僅かに引き出されたのだ。
そのまま引っ張り続け、二人は協力してなんとか青年を引っ張り出すことに成功した。
青年を引き抜いた衝撃のまま、ネモとサザンカは倒れ込み、ネモは立ち上がることができなかった。
ネモの中にめちゃくちゃな感情が渦巻いていた。
助けた、それはいい。
青年がこの後どういった行動に出るか、それはわからない。
ネモは意識もせず、すすり泣いていた。
嬉しいのか、安堵しているのか。恐怖しているのか、覚悟しているのか。
自分の中の感情がまるでわからず、混線した感情はすすり泣き、という形で表に現れた。
青年はネモを見つめたまましばし動かず、それからなにかを言って、そのまま立ち去った。
ネモは、青年がなにを言ったのか、うまく聞き取れなかった。
危険は、去ったはずである。
それでもネモは泣き止まなかった。
荒れ狂う感情の奔流を洗い出すような涙がとめどなく溢れた。
ネモが泣き止むまで、だいぶ長い時間がかかった。