61話:名前も知らない初恋2(アンジュ視点)
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
トレーフル様が部屋を出て行き、テーブルを挟んでお互い向かい合って腰を下ろした。
だけど、私は相手の顔を見ることができなかった。
だって、彼は私がずっと会いたいと……好きだった相手なのだから。
「そういえば、自己紹介をしていませんでしたね。自分は、キリク・プラテリアと言います」
「え……あの辺境伯の、シルビア様の従弟の!?」
「おや、知っていただけてましたか」
うっ!その微笑みをずるい!!
キリク・プラテリア。小説ではルーヴィフィルド様の側近の一人でシルビア様の従弟。学園では、シルビア様の行いに何度もやめるように声をかけていた。登場回数自体は少なかったけど、まさか彼がキリクだったなんて。
「貴女のお名前は?」
「え、あ……アンジュと言います」
「アンジュ……素敵な名前ですね」
あぁまたその微笑み。どうしよう、胸がドキドキして落ちつかない。
何度も何度も紅茶を口に運ぶが、目が合うたびに彼が微笑むので、動機が止まらない。
「改めて、あの時は助けてくれてありがとうございます。アンジュ様」
「様だなんてやめてください!自分は平民です」
「いえ。平民など関係ありません。貴女があの時助けてくださったから、自分は今ここにいるのです。ずっと、お礼が言いたかった」
彼は、深々と頭を下げて、深く、重く、一言「ありがとう」と口にされた。
記憶を取り戻す前の私は正義感が強かった。
彼を助けたのもその正義感からだった。でも、彼の顔を見て、一言お礼を言われただけで胸を打たれた。
記憶を取り戻しても感情は消えず、ずっとまた会いたいと思っていた。
まさか、再会できるなんて思ってもみなかった。
「きっと、トレーフル様は自分の話を聞いてこの場を設けてくださったのかもしれません」
「話、というのは?」
「昔、殿下の何度目かの誕生日にお話をしたんです。貴女と出会ったことを。それを覚えててくださったのでしょう」
そうか。だから彼がこんな朝早くに屋敷に尋ねてきたんだ。
すごいなトレーフル様。確かに、昨日言われてた。「作者として、私はキャラクターたちには幸せになって欲しい」と。キリク様も、トレーフル様にとっては大事なキャラクターだから。
「だからトレーフル様には感謝しかありません。ずっと貴女にお会いしたかったので」
「っ……わ、私もキリク様にお会いしたかったです」
あの時の服装で、彼が今の自分よりも随分高い身分だってことはわかってた。だから、あれは私にとっての思い出にしようとずっと思ってた。でも、やっぱり彼への気持ちを消すことはできなくて、ずっと彼以外の男性を好きになることができなかった。
「ありがとうございます、とても嬉しいです」
私も、とても嬉しい。
もし原作通りになれば、私はキリク様とは結ばれない。それでも、今この瞬間はとても幸せだ。
私も、トレーフル様には感謝しかない。
「せっかくです。時間まで、アンジュ様の話をお聞かせください」
「あ、私も!キリク様の話を聞きたいです」
「では、交互に話しましょう」
あぁ、もしこれが夢だったのなら、醒めないで欲しいな……




