172話:大事な婚約者
聞き覚えのある声。
ここにいるはずのない声。
私が大好きな声。
「ハー……ヴェ?」
「……待たせてごめね。ちょっと授業が長引いて」
そばにやってきた彼は、そっと私の手を握って笑みを浮かべてくれた。
その顔を見た瞬間、昂っていた感情がスッと沈んで、口から弱々しい声が溢れた。
「もうお昼は食べた?」
「……まだ」
「そっか。じゃあ今日は天気もいいし、サンドイッチ買って中庭で食べよう。よかったらミセリアもどうかな?」
「あ、えっと……はい」
握られている手がすごく熱い。そして、すっごく落ち着く。
離したくないな。もっと、もっと繋いでいたい。
「ちょっと何お前。邪魔しないでくれる」
「……お初にお目にかかります、クロイツ殿下。トレーフルの婚約者の ハーヴェンク・カルシストと申します。噂は聞き及んでおります」
「……へぇーお前が噂の婚約者ね。ふーん」
値踏みするように、クロイツ殿下の視線が上から下へと何度も多複される。
そして、すぐに嘲笑うような声をあげて、ハーヴェのことを見つめる。
「白い肌に艶やかな黒髪。物腰柔らかな言葉や仕草。物語に出てくるような王子様って感じだな。トレーフルちゃんって、意外とロマンチスト?」
「僕の婚約者に馴れ馴れしくしないでください。いくら他国の王子とはいえ、度を超えた行動をされている自覚はないのですか?」
「何を言ってるんだ?好きになった相手を口説いて何が悪いんだ?」
「婚約者がいるのに、ですか?」
「そんなもの、家同士が勝手に決めてのことだろう?それに、いたところで一人じゃないといけないってこともないだろ?現にトレーフルちゃんはそいつとも仲良くやってるみたいだし」
「……そうですか。残念ながら、貴方には言葉が通じないようですね。行こうか、二人とも」
これ以上話しても無駄だと判断したのか。
ハーヴェは私の手を握り、ミセリアの背中を押して、歩き始めた。
「おい!まだ話は終わってない!勝手に彼女を連れて行くなよ!」
クロイツ殿下はガッとハーヴェの肩を掴んで止めようとした。
指先に力が込められており、まるで指が肩に食い込んでいるように見えた。
「殿下。ここは自国ではないのです。国際問題になるようなことはお控えください」
「国際問題?王弟の娘とはいえ、今は公爵家の令嬢だ。手を出したところで問題はないはずだ」
「えぇ、普通ならです。でも、手をだす相手のことはしっかり調べた方がいい。そういうの、得意でしょ?」
不意に空間が砕け、そこから大きな手が伸びてきた。
その手はそのままクロイツ殿下を掴み、ぎゅっと握りつぶそうとした。
何が起きたのかわからない彼は、現状を必死に理解しようと頭をフル回転させているようだった。
「アモル様……」
『人間。貴様のことはずっと見ていた。ずいぶん我の友にちょっかいをかけているようだな』
「んっー!んー!」
『二度と我が友に関わるな。次またこの子を不快な気持ちをさせれば、その時はその命ないものと思え』
アモル様はそのまま殿下を離し、ゆっくりと亀裂の中に戻っていった。
最後に指先で優しく私の頭を撫でてくれて、そのまま空間に戻っていった。
「な、なんだ今のは……」
「クロイツ殿下。彼女は神獣と契約を結んでいる、我が国の大事な人間です。次期王妃であるシルビア様に手をだすことはもちろんですが、トレーフルに手をだすことも国際問題になるので、金輪際、関わらないでください。行こうか、二人とも」
先ほどと同じように、私はハーヴェに手を握られ、ミセリアは背中を押され、私たちはその場を後にした。