135話:黒蛇と朱殷の吸血鬼2
重い声と同時に、私の真横に銀色の鋭い剣先がニルヴァルド・メンシス・オルロックに向けられる。
緩められてはいたが、彼にハグされている状態で身動きが取れなかったため、頭を後ろに向けると、そこにはとんでもない憎悪を浮かべたハーヴェの姿があった。
それなりに深い眠りにつくように魔法をかけたのに、なんで起きてるんだ?
「ハ、ハーヴェ、あの」
「聞こえなかったのか。離れろって言ったんだ」
「うわぁおっかねー。トレーフルの知り合いかい?」
「あぁ、えっと……」
「その子の婚約者だ。いいからさっさと離れろ」
耳を塞ぎたくなるような声。とてつもなく怒ってることは目に見えている。
流石にこのままってわけにはいかない。私はニルヴァルド・メンシス・オルロックから離れようとしたが、残念ながら彼は離してくれなかった。
「ちょっ!」
「食事の邪魔」
「おいおいニルヴァルド。流石に空気読めよ。ほら、一旦離れろ」
「いやだ。早く飲みたい」
無自覚なのか、意図的なのか、ハーヴェを煽るような行動を取る彼に、私の背筋はゾッとする。
血は吸わせてあげたいけど、とりあえず現状を落ち着かせないとどうすることもできない。
必死に私も離れようとするが、さすがは1000年以上生きた吸血鬼。びくともしない。
「すまないな人間のオス。こいつに危害を加えるつもりはない。とりあえず、血を吸わせてやってくれねーか」
「僕がそれを許すとでも?」
「本人の了承済みだ。それに、人間のお前がおいらたちをどうにかできるのか?」
トレラ様の瞳が怪しく光る。普通ではあれはその雰囲気に圧倒されてしまうが、今のハーヴェには効かないみたいだった。
「ハーヴェ大丈夫!怒らないで!」
「レーフ!」
「ここで、彼の吸血をお預けして何かあったらいけないでしょ!大丈夫、彼らはアモル様の知り合いなの」
もし私に危害を加えようとしてるなら、アモル様が事前に何か伝えに来るはずだ。そうでなければ、アモル様が大丈夫と判断したってことだ。
それに、敵対心は感じない。本当に彼らは私に害を与えようとしてるわけじゃない。
「だから大丈夫。落ち着いて」
「……」
「殺したりはしないよ」
「それを信じろと?」
「流石に、同じ神獣の友を殺したりしないさ。それに人間は、おいらたちが手を出さなくても勝手に死ぬしさ」
正論ではあるが、なんだか見下されたようで不服に感じてしまう。
納得はしていないのか、少しだけまだ警戒心を抱きながらも、ハーヴェは剣を下ろした。
トレラ様はハーヴェにお礼を言って、ニルヴァルド・メンシス・オルロックにすぐにすませるように言った。
「いただきます」
礼儀正しく、食事前のあいさつをして私の首筋に噛みついた。
吸血される感じは、なんだかむずむずする。
彼の唇が私の肌に触れ、わずかに舌先が開けられた傷跡に触れると体がビクッとなってしまう。
全然いかがわしい感覚はないけど、側から見れば私の反応はとてもいかがわしいかもしれない。
「はぁ……ごちそうさま」
しばらくすれば口が離れ、同時に私は彼から解放された。
と、そのままハーヴェに抱き寄せられ、また彼が剣を構える。
「おぉこわいこわい。とんでもない婚約者がいるんだね」
「あはは……」
「さて、挨拶も済んだしおいらたちはそろそろ……っておい、ニルヴァルド」
少しだけ満足そうに笑みを浮かべていたニルヴァルド・メンシス・オルロックは、不意に表情が変わり、ゆっくりと私たちに近づいてくる。
ハーヴェが警戒して、近づかせないように剣を向けるが、瞬きをした瞬間、目の前から彼が消えた。
「君も、いい匂い」
気がつかけば、ハーヴェの後ろに周り、彼の匂いを嗅いでいた。
え?どういう状況。
「な、なんだ!」
「君もいい匂い。彼女と同じで魔力が高い」
「なんだ、この二人を気に入ったのか?」
「うん。人間も捨てたものじゃないね」
ふわりと笑みを浮かべるその表情は、吸血鬼というよりは天使の笑みのように美しかった。
いや、それよりもさっきの!あの光景はまさにBなLな感じだった。
ハーヴェには悪いけど、最高かよって思ってしまった。すまん。
「さて、帰る前にトレーフルの首を治さないと。アモルとの約束だからね。人間のオス。ちょっとどいてくれるか」
ぬっと体を前に出し、私の首筋に近づいたトレラ様は長い舌をだし、ペロペロと傷口を舐めた。
くすぐったかったけど、しばらくすればチリリとした痛みが消え、ハーヴェに確認してもらうと傷口が塞がっていたそうだ。
「さて、今度こそ本当に帰るぞ。邪魔したなお二人さん」
「あぁいえ、大丈夫です」
「お詫びに、何かあればおいらたちを呼んでくれ。手を貸してあげるよ」
その瞬間、スラリとしていたトレラ様の体の一部がぼこりと膨らみ、それがゆっくりと上へ登っていき、口から黒紫色の石が吐き出された。
「そいつを叩き割れば、その瞬間おいらたちが召喚される」
「そうなんですか」
「レーフ、僕に貸して。布に包むから」
「失礼だな!口から出したからって汚いわけじゃないんだぞ!」
ぷんすこするトレラ様など素知らぬ顔で、ハーヴェは持参していたハンカチに石を包んだ。
ニルヴァルド・メンシス・オルロックはそのまま甲板の端に行くと、ふわりと体を浮かせ、初めてみた時と同じように月夜の海をバックにし、私たちを見下ろした。
「じゃあなトレーフル。またどこかで会おうな」
「……またね」
雫が落ちる音がした。
そう思った時には、すでに目の前から彼らの姿がなくなっていた。
まるで嵐のような出来事だった。
さっきまでの騒々しさは消え、十数分前と同じような静寂が甲板を包み込んだ。
それにしても、あの古の吸血鬼とアーテルスネークに出会うなんて思ってもなかった。
ぼんやりと彼らがさっきまでいたところを眺めていると、後ろから強く、ハーヴェが私を抱きしめた。